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京都・賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)

〈賀茂・班女・水無月祓・加茂物狂〉


 2021年10月29日、『賀茂』の謡蹟である上賀茂神社・下鴨神社、および『班女』の後場、『水無月祓』、『加茂物狂』の舞台となる糺の森を訪れました。ただし『加茂物狂』は観世流にはなく、宝生・金剛・喜多三流の現行曲です。
 上賀茂・下鴨両社は、11年前の2010年11月30日に参拝したことがあります。今回は紅葉の侯にはやや早かったのですが、前回の参拝時には紅葉が美しく、境内を流れる小川にその影を映しておりました。この訪問記ではその折撮影した写真も併せて掲載しています。
 先ずは上賀茂神社から参拝いたしましょう。


《上賀茂神社(賀茂別雷神社)》  京都市北区上賀茂本山339

 上賀茂神社に到着しましたが、何か様子が異なります。そこには朱の大鳥居がそびえており、その傍らに「賀茂神社」と刻まれた石柱がたたずんでいました。確か以前参拝した時にはこのような鳥居は存在していなかった、と怪訝に思いなから境内を進み一の鳥居に到達しました。


新たに建立された大鳥居と賀茂神社の社号標


 帰宅して調べたところ、この大鳥居は昨年の2020年12月27日に、宮前広場の整備事業の一環として建立されたもので、高さ約8メートル、幅約6メートルのもの。一の鳥居までの境内は目下拡張工事中でした。この大鳥居の建設は、神社の南西の賀茂川に架かる御園橋が拡張され、それにあわせて御園橋から神社が一望できるという配慮で、この大鳥居が建設されたそうです。
 ただ社号標は「上賀茂神社」あるいは「賀茂別雷神社」ではなく、下鴨神社との総称である「賀茂神社」となっています。
 実は謡曲『賀茂』の一番本の前付にある「所」には「山城国京都市賀茂神社」と記されており、本曲の舞台が上賀茂、下鴨いづれの社であるか、明確にしてくれればよいのに、と悩んでおりました。
 賀茂神社の草創に関しての詳細はつまびらかではないようですが、上賀茂神社が先に成立し、その後下鴨神社が創建されたといわれているようです。奈良時代以前、賀茂神社といえば上賀茂神社であり、奈良時代に入って下鴨の地に下鴨神社が分立されてという見方があるようです。



上賀茂神社境内図

 一の鳥居からは、正面に二の鳥居が望まれます。参道の両側には芝生の馬場が拡がり、開放的な感があります。
 一の鳥居の脇に、風化が激しくかなり読みづらくなっていましたが「賀茂季鷹」に関する駒札が立てられています。ちょっと興味があったので、以下に転載します。
 江戸後期の国学者文人で、生山・雲錦などと号した。正四位下阿房守
賀茂別雷神社の創祀以来、祖神の祭祀に携わってきた賀茂県主氏の氏人(社家)の家に、宝暦4年(1754)に生まれる。家号は山本。有栖川宮職仁親王に仕えて寵遇され、堂上派歌人としての素養を身につけた。
十九歳のとき江戸に下り、加藤千蔭、村田春海、三島自寛ら江戸派の歌人と親しんで、学事に励みつつ安永、天明の華やかな雅俗文芸の中に身をおいて、俗文芸界にも通じた。
寛政の初め三十八歳の時、帰京し賀茂社に仕える。帰京後は二条御幸町と上賀茂に居を構え、時々江戸にも下って東西の文人とも交わる。和歌のほか狂歌や書にも秀でて、文人墨客を中心として上下に交友が広く、染筆を請うものが多かった。
堂上派風の技巧が目立つが、知的で明快な歌風が特色で、門下に安田躬弦、齊藤彦麿、賀茂直兄、賀茂重誠らがある。主著に「万葉集類句」「伊勢物語傍注」「正誤仮名遣」「かりの行かひ」「富士日記」などのほか、門下の著した「みあれの百草」「雲錦翁家集」などがある。また文人達への贈品に酸菜を用いて、特産物の普及に途を拓いた逸事も残る
天保十二年(1841)十月九日没、八十八歳。墓は北区西賀茂鎮守庵町の小谷墓地にある。また北区上賀茂竹鼻町には社家屋敷の俤を止める自邸雲錦亭や歌仙堂が残っている。


一の鳥居


二の鳥居に向かう参道


 参道を進むと右手には一叢のしだれ桜が望まれます。斎王桜というそうですが、この時期はやや枯れかけた葉が茂るのみ。春に訪れれば満開の花を観賞することが出来そうです。


外幣殿

神馬舎

 参道の右手にある外幣殿は御所殿とも呼ばれ、法皇や上皇の御幸の時に使われました。現在は葵祭(賀茂祭)の時に使用されます。
 二の鳥居の手前に神馬社があり、日曜、祝日や神事が営まれる際には白馬が参拝者らを迎えてくれるとのことです。賀茂競馬会神事(くらべうまえしんじ)は5月初旬に開催されるもので、五穀成就、天下泰平を願うために宮中武徳殿で執り行われた節会の競馬会式を1093年(寛治7年)に上賀茂神社に移したことが始まりで、年中行事として定着しています。
 京都柊野郵便局の風景印には、賀茂別雷神社の楼門と賀茂競馬会神事の勇姿が描かれています。




二の鳥居


 二の鳥居の右手に、謡曲史蹟保存会の駒札が立てられています。以前参拝した時と駒札の内容が異なっていましたので、両者の内容を転載します。
 以前は「京都謡曲史蹟保存会」による駒札でした。

  上賀茂神社
 上賀茂神社の祭神は、玉依姫が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で川遊びをしていると、川上から白羽の矢一本流れてきた。これを持ち帰って床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を生む。のち男児天にむかって祭をなし屋根を穿って天に昇る。別雷神とたたえ、祀る神社を上賀別雷神社という。
 京都でも最も古い神社の一つで、五穀豊穣の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集めた。謡曲「賀茂」はこの縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃えた曲である。
 弘仁元年(810)には齋院の制が施され歴代皇女が齋院となったこともある。

 今回の参拝時は「謡曲史蹟保存会」の駒札となっていました。

  上賀茂神社と謡曲「賀茂」
 秦氏の妻女の玉依日売が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、解任して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別雷の神となる。この神を祀ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。
 神社は京都でも最も古い神社の一つ。雷神を祀ることから、厄除けのほか、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めた。
 謡曲「賀茂」は、こうした神社の縁起から創作された曲で、五穀豊穣、国土守護の神徳を湛えた「初能物」である。
 平安時代初期から四百年にわたって、伊勢神宮の斎宮と同様に齋院が置かれ、歴代皇女が奉祀してきたこともある。


謡曲史蹟保存会の駒札

細殿


 二ノ鳥居をくぐると、正面には「細殿」(ほそどの)と、その前に盛られた一対の「立砂」(たてずな、別名・盛砂) が目に入ります。
 細殿は古くから天皇、斎王や上皇の参拝の際の著到殿(ちゃくとうでん・まず入御して装束等を整える御殿)で、重要文化財に指定されています。
 立砂は白砂をきれいな円錐形に盛り上げたもので、賀茂別雷神が降臨したといわれる「神山」(こうやま)をかたどり、神を招く憑代(よりしろ)の役割を果たしています。そのため、立砂の頂点には神が降臨する際の目印として、常緑樹の松葉が立てられています。


楼門


 上賀茂神社について、以下 Wikipedia を参照しています。

 かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。
 創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が降臨したと伝える。
 『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神(おおやまくいのかみ)ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は下鴨神社に祀られている。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。



中門より参拝

御朱印

 楼門をくぐると国宝である本殿や式年遷宮の際に仮の本殿となる権殿(ごんでん)がありますが、通常は非公開となっています。本殿の手前の中門から参拝いたします。
 賀茂神社の神紋は、御朱印にも刻されている「双葉葵」です。上賀茂神社の御朱印には朱色で、下鴨神社のそれは緑色で、それぞれ刻されていました。
 上賀茂神社は下鴨神社とともに賀茂氏の氏神を祀る神社で、当社の祭神は賀茂別雷神です。草創にまつわる伝承は前述しましたが、後ほど謡曲『賀茂』の項でも記したいと思います。


神紋

 参拝を終え、境内を散策いたします。
 本殿を挟んで、西側には御物忌川(おものいがわ)が、東側には御手洗川(みたらしがわ)が流れており、2本の小川は橋殿付近で合流し「ならの小川」と呼ばれて広場の東側から境内の外へと注いでいます。ならの小川は流域の摂社「奈良社」や、傍らに楢の木があったことなどがその名の由来とされています。



橋殿付近で合流する「ならの小川」



紅葉に映える「ならの小川」


 「ならの小川」の傍らに庭園「渉渓園」があります。「渉渓園」は昭和35年(1960)浩宮徳仁親王(現天皇陛下) の生誕の奉祝行事として整備された庭園で、曲水の宴などの神事が行われてきました。
 以下は「庭園渉渓園について」とした神社の説明書きです。

この地は上賀茂神社境内奈良の小川の上流御手洗川の東岸摂社賀茂山口神社の前庭に位置し約五百坪の地で古くは神宮寺の小池が存在した所と伝える。
昭和三十五年皇孫浩宮徳仁親王殿下御生誕の奉祝行事として嘗て当神社に於て催された曲水の宴を復活せんが為それにふさわしい庭園を造ろうとして当時の府文化財保護課技師 中根金作氏に委嘱され平安時代末期頃の庭園として設計され渉渓園と名付けられた。
又この地は北縁の鶴岳の鬱蒼たる翠岳を負い東方には境内林の巨木を帯し南方は広闊なる境内芝生に連なる 園の中央部に南北に曲溝を穿ち御手洗川の分流沢田川より分水して緩流を通した。その曲流を中心に桜楓樹を常盤木に配し躑躅馬酔木や灌木を添え所々に石組みを施して風趣にみちた頗る清楚な姿を現出した。
然れども昭和三十五年に復活された曲水宴も再度中止のやむなきに至り園も荒廃するにまかせた。然るところ京都紫野ロータリークラブが平成五年度社会奉仕事業の一環として園の整備とその保存会結成に努められた。時恰も皇太子徳仁親王殿下御成婚の儀が斎行され、明けて平成六年平安建都一二〇〇年、当社第四十一回式年遷宮斎行の年であり、奉祝記念事業として曲水宴が復活されることになった。
この庭園に展開される曲水宴は平安時代のそれを再現するもので詩歌の吟詠管弦の弾吹奏はさながら楽王の神遊びもかくやとばかりに真に一幅の活画であるといえよう。又御手洗川の流水を隔ててその西方に連なる苑林(朝鮮李朝の庭園を模したと伝える)と相並んで当神苑として永く保存されなければならぬ。


庭園散策

庭園散策


 ならの小川のほとりには、紫式部と藤原家隆の歌碑がありました。
 紫式部歌碑

  ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし

 藤原家隆歌碑

  風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける


紫式部歌碑

藤原家隆歌碑

 藤原家隆の「ならの小川」の歌は、『百人一首一夕話』によれば、『新勅撰集』の夏の部に「寛喜元年女御入内の御屏風」の詞書で出ています。女御は前関白光明峰寺摂政藤原道家公の女(むすめ)で、後堀川天皇の后となり藻壁門院(そうへきもんいん)といわれています。
 屏風歌は、十二ヶ月の風物を描いた屏風絵に、それに因んだ和歌を詠むことをいい、この場合は一月に3枚ずつ、都合36枚という豪華なものであったそうです。(「白洲正子『私の百人一首』新潮文庫、2005」による)

 この歌の心は涼しき風が吹きそよめく楢の木の葉といふ事を、ならの小川といふ名所にかけて、このならの小川の夕暮れの景色を見れば余りに風が涼しさに秋のやうに思はるゝが、この川辺に六月(みなづき)の末にする祓への様子が見ゆる、この夏越(なごし)の祓へぞ、まことに夏のしるしなりけるといふ事なり。ならの小川は山城の名所なり。



   謡曲「賀茂」梗概
 作者は金春禅竹。『矢立鴨』ともいう。
 出典としては「加茂明神縁起」などに拠るようですが、大成版の前付では『秦氏本系帳』にある、以下の説話が載せられています。

 初め秦氏の女子葛野河に出で、衣裳を澣濯(かんたく)す。時に一矢有り。上より流れ下る。女子之を取りて還り来り、戸上に刺し置く。是に於いて女子夫無くして妊む。既にして男子を生むや、父母之を恠(あやし)みて責め問ふ。爰に女子答へて曰く、知らずと。(中略)
 茲に因りて大饗を辨じ供へ、諸人を招き集め、彼の兒をして盃を執らしめ、祖父母命じて云ふ、父と思ふ人に之を献ずべしと、時に此の兒衆人に指さず、仰ぎ觀、行きて戸上の矢に指す。卽ち便ち雷公と爲り、屋の棟を折り破り、天に升りて去る。故に、鴨上社を別雷神と號し、鴨下社を御祖神と號するなり。戸上の矢は松尾大明神是なり。是を以つて秦氏三所大明神を祭り、而して鴨氏の人秦氏の婿と爲る。

というものですが、賀茂別雷神の父は松尾明神であり、賀茂氏と秦氏とは姻戚関係であったと述べられています。

 播州室の明神の神職が都・賀茂明神を訪れる。川辺に白羽の矢が建てられた壇が築かれているので、折から水汲みに来た里女に、その謂れを尋ねる。女は賀茂の白羽の矢とこま社の縁起について語り、数々の川の名を挙げつつ水を汲んでいたが、夕暮れに紛れて消え失せる。
 ややあって、女体の御祖の神が現われて舞を舞っていると、別雷の神も出現して、五穀成就、国土守護の誓を示し、その神威を見せる。

 舞台正先に、注連(しめ)を張り巡らせ、一本の白羽の矢を立てた矢立台の作り物を出し、前シテは〈語〉の中で、この矢の由来を語って聞かせる。

 本曲は脇能働物ではあるが、それは後シテについていうことで、前シテは女性であり、他の脇能働物とは異なった曲趣を持っている。〈ロンギ〉は、京を流れる川の名を詠みこんだ川尽くしになっており、爽やかさと品位とを供えた箇所である。


 以下に掲げるのは、ワキの室明神の神職の問いに対して、白羽の矢のいわれを語るところです。


シテそうじて神のの御事おんことを。あざあざしくは申さねども。あらあら一義いちぎあらはすべし。
語 昔この賀茂の里に。はだ氏女うぢによと云ひし人ゝ朝なゆふなこの川辺に出でて水を汲み神に手向たむけけるに。或時川上より白羽の矢ひとつ流れ来たり。この水桶にとまりしを。取りて歸りいほりの軒にす。あるじおもはす懐胎し男子なんしを生めり。この小三歳さんさいと申しゝ時。人々圓居まとゐして父はと問へば。この矢を指して向ひしに。この矢即ち鳴るいかづちとなり。天にあがり神となる。別雷わけいかづちしんこれなり

ツレ「その母御子はわみこかみとなりて。賀茂三所みところ神所しんしよとかや
シテ「さやうに申せばはばかりの。まこと神秘じんぴは愚かなる
シテ・ツレ「身にわきまへ如何にとも。いさ白眞弓しらまゆみやたけの人の。治めん御代みよを告げ白羽の。八百萬代やほよろづよの末までも。弓筆ゆみふでに殘す。心なり



 〈語〉では当社の祭神である別雷神生誕の由来が明らかにされています。前述しましたが賀茂神社の伝承によれば、祭神である賀茂別雷神は、川上より流れて来た丹塗りの矢により、玉依姫が解任して産んだとされており、一説によればこの矢が大山咋神(おおやまぐいのかみ)であるとする話も流布しているようです。大山咋神は秦氏の信奉する松尾大社の祭神です。さすれば別雷神は秦氏の神を父として生まれたということになりそうです。
 さらに謡曲では、別雷神の母は「秦の氏女」であると語っています。父親のみならず、母親までもが秦氏の出であると語っているのです。
 また「その母御子も神となりて、賀茂三所の神所とかや」と述べていますが、大成版の辞解によれば「賀茂三所の神所」とは、上賀茂の別雷神、下鴨の玉依姫命、松尾の大山咋神であるとしています。
 ここで松尾大社が登場するのですが、同社の縁起によりますと、祭神は大山咋神。大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれており、その後も秦氏により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられています。そして興味あることに、松尾社の神紋は賀茂社と同じ「双葉葵」であり、松尾祭は葵祭とも呼ばれています。
 「梗概」の項で『秦氏本系帳』にある説話を記載ていますが、これらのことから推測するに、かつて秦氏と賀茂氏の姻戚関係にあったことは周知の事実であり、謡曲『賀茂』が成立した室町期では、秦氏と賀茂氏は姻戚関係よりもさらに深い、同一氏族のような関係にあったと見られていたのでしょうか? 大成版の前付には、秦氏と賀茂明神の関係を「賀茂の神秘」としているのですが、賀茂氏と秦氏の間に神秘的な関係があったことを指しているのでしょうか?
 ただ「賀茂三所の神所」に関しては、間狂言で末社の神が「…その時の御母御子をも神に祝ひ、賀茂三所の神社と名付け、上賀茂、中賀茂、下賀茂とて、霊験あらたなる御事にて候」と語っており、松尾社ではなく「中賀茂」を入れています。中賀茂は上賀茂・下賀茂の中間の地で、賀茂の末社(半木社など)があった地のようです。(小山弘志・佐藤健一郎校注『日本古典文學全集・謡曲集』小学館、1997)
 なお和田萬吉『謡曲物語』では「賀茂三所の神所」を、「是れ上加茂、中加茂、下加茂三所の神なりとか」としています。


 上賀茂神社の参拝を終え、一路下鴨神社に向かいました。上賀茂神社から賀茂川沿いに下ること約4キロ、川の右岸、出雲路橋西詰に「賀茂御祖神社」の社号標が建てられていました。
 出雲路橋を渡り、下鴨神社へは西の参道から進入いたしました。


出雲市橋西詰に建つ賀茂御祖神社の社号標


《下鴨神社(賀茂御祖神社)》  京都市左京区下鴨泉川町59

  西参道の入口に、世界遺産の碑と昭和62年に文部省により記された「史蹟 賀茂御祖神社境内」の案内板があります。以下はその転載です。

 賀茂御祖神社(通称下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、玉依媛命(たまよりひめのみこと)の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭のこと、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また玉依媛命の御子神は賀茂別雷神社に祀られている。
 境内の糺の森は、鴨川と高野川の合流する三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林で、その美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。
 社殿の造営は「社記」に、天武天皇6年( 677)のこととされ、長元9年(1036)には21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は江戸時代の造替で、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。


境内案内と世界文化遺産の碑

 平安京遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国の一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。弘仁元年( 810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約 400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の北西に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。
 また桓武天皇が延暦13年( 794)平安遷都祈願の御幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。
 さらに、毎年5月15日に賀茂祭〈葵祭〉が行われ、この祭りは「源氏物語」をはじめ王朝の文學、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭と言えばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起源は、欽明天皇5年( 549)にさかのぼる。また、御蔭祭(みかげまつり)騎射〈流鏑馬〉、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。
 このたびこのような賀茂御祖神社の歴史的意義を重視し、境内全域を史跡に指定して保存することとなった。



 西の参道から入場すると、木陰から朱塗りの大鳥居が出現、鳥居をくぐり境内に入りました。以前、多くの鳥居が朱色に塗られているのは何故だろうとの問いかけがあり、朱色を表わす「丹」の字が鳥居を象っているではないか、との答えに一同大笑いしたことがありました。鳥居の色が朱色なのは何か謂れがあるのでしょうか。


西参道の鳥居

中門


 戯れごとはさておき、中門をくぐり拝殿にすすみます。
 当社の祭神は二体あり、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、東殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られており、東西の本殿は国宝に指定されています。
 玉依媛命は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母神で、丹塗りの矢の伝承が有名です。賀茂建角身命は玉依媛命の父神。山城の賀茂氏の始祖で、古代の京都を開き、京都の守護神とされています。神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献したといわれています。



拝殿

御朱印

 中門を出たところで御朱印を頂戴しましたが、当社は 500円と他の社寺よりもいささか高めでありました。
 本殿の東側を流れる小川が御手洗川、朱塗りの輪橋(そりばし)が美しい。以下はその説明書きです。

  君がため御手洗川を若水にむすぶや千代の初めなるらむ (後撰和歌集)
 土用の丑の日に、この御手洗川に足を浸し疫病や病い封じを祈願して賑わう「足つけ神事」や、立秋の前夜の「矢取りの神事」、葵祭の「斎王代の禊ぎの儀」をはじめ、祓の神事が執り行われるところである。また、常は水が流れていないが、土用が近づくとこんこんと湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、そま様をかたちどったと云われるみたらし団子の発祥のところでもある。

 なお、輪橋にかかる梅は、尾形光琳(1658~1716)がこのあたりの景色を描いた「描いた紅白梅図屏風」により「光琳の梅」と呼ばれているとのことです。


御手洗川と輪橋

御手洗社


 輪橋の奥にあるのが井上社(御手洗社)です。以下はその説明書きによります。

 祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。例祭は土用の丑の日。
 この社の前身は「三大実録」元慶3年( 879)9月25日の条をはじめ、諸書に見える唐崎社である。
 賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂詣での解除に参拝になった社である。
 元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により文明2年(1470)6月14日焼亡したため、文禄年間(1592~96)にこの所に再興になり、寛永6年度(1629)式年遷宮より官営神社となった。また、井戸の井筒の上に祀られたところから、井上社と呼ばれるようになった。
 賀茂祭〈葵祭〉に先立つ斎王代の御禊の儀は、この社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩、土用の丑の日の足つけ神事、立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。土用になれば御手洗池から清水が湧き出ることで、七不思議のひとつにも挙げられ、池底から自然に吹きあがる水泡をかたどったのが、みたらし団子の発祥と伝えられている。


橋殿

舞殿


 御手洗川の少し下流、川にかかる社殿が橋殿です。

 御蔭祭(みかげまつり)のとき、御髪宝を奉安する御殿。
 古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が行われていた。また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は、明月管弦祭、正月神事等年中祭事のときに、神事芸能が奉納される社殿。
 式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、21年ごとに解体修理が行われる。

 中門と楼門の中間に舞殿があります。

 賀茂祭〈葵祭〉のとき、勅使が御祭文を奏上それ、東遊が奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所と定められている。式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、21年目ごとに解体修理が行われる。


下鴨神社楼門


 当社の楼門は、高さ30メートル、東西に古代様式の回廊が続いています。21年ごとの式年遷宮で造替されてきましたが、寛永度以降は解体修理をして保存されています。上賀茂神社の楼門と同じ造りなのでしょうか。


相生社と御神木「賢木」

さざれ石


 楼門を抜けた右手に相生社があります。相生社の左手には「連理の賢木」があり、縁結びの御神木とされ、京の七不思議の一つに数えられています。この賢木は、相生社の神威により、二本の木が一本にむすばれたものと云い伝えられているそうです。
 国歌「君が代」に歌われた「さざれ石」があります。

 「刺され石」とは、小さな石という意味です。火山の噴火により石灰岩が分離集積して凝固した岩石で、長野県の天然記念物になっています。
 日本各地には、子持ち石とか赤子石など、石を神として祀る信仰がたくさんあります。「さざれ石」は年とともに成長し、岩となると信じられている神霊の宿る石です。「古今和歌集」には私たちの遠い祖先から信仰してきた生石(いきいし)伝説の「さざれ石」が詠まれており、国歌の原典となっています。
 当神社にも「鴨の七不思議」のなかに「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」という伝承と、式年遷宮の祭事に「石拾い」という神事があります。いずれも永遠の生命力と不思議な力を顕しています。


糺の森へ続く鳥居


 相生社から下がると朱の大鳥居があり、ここが境内と糺の森の境界になっているようです。
 今回は見当たりませんでしたが、以前訪れたときには「下鴨神社と糺の森」として、謡曲史蹟保存会の駒札が立てられていました。

 下鴨神社は「風土記」や「日本書紀」に見える八咫烏・金鴉として建国に貢献された賀茂建角身命及びその御子の玉依媛命との二柱を祀り、正式には賀茂御祖神社と申す。多くの社殿が国宝・重要文化財に指定され、境内「糺の森」は3~4千年前の山背原野の植生が現存し、その林泉と幽邃の美は数々の物語・日記類・詩歌管弦にうたわれている。
 從って「賀茂・水無月祓・班女・白楽天・正尊・是我意・代主・生田敦盛・賀茂物狂・室君・夕顔・定家・鉄輪」など数多くの謡曲に謡われて来たところである。


 当社近辺の郵便局の風景印に、葵祭の風景を描いたものがあります。


京都上賀茂郵便局

京都出雲路郵便局

京都田中郵便局

京都大学病院内郵便局


 朱色に彩られた境内と別れ、うっそうと生い茂る樹々に囲まれた糺の森の参道に歩を進めました。



糺の森


 さて、いよいよ糺の森に足を踏み入れ、京阪出町柳を目指して参道を南下します。
 糺の森はこの一帯が山城国と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林で、かつて京都に平安京が置かれた時代には約 495万平方メートルの広さがありましたが、応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の約12万平方メートルまで面積が減少しています。特に文明2年(1470)の応仁の乱の兵火で i9l総面積の7割を焼失したそうです。
 参道に平行して西側に馬場が設けられており、葵祭の際には流鏑馬神事がおこなわれています。
 境内地図を眺めていますと、井上社(御手洗社)の社前の御手洗池から流れる小川は、御手洗川・奈良の小川・瀬見の小川と名を変え、糺の森をながれているのは瀬見の小川と呼ばれています。
 ただ上賀茂神社にも、御手洗川や奈良の小川など同名の川が流れており、川の名だけではどちらの社のものなのか分かりづらく、ちょっとややこしい。


神木として祭られている古木

瀬見の小川


 それでは糺の森を舞台とした謡曲『班女』『水無月祓』『加茂物狂』について眺めてみましょう。
 最初は『班女』について。本曲の前場は美濃国野上の宿ですが、物語の中心となる後場は、ここ糺の森が舞台となっています。k


   謡曲「班女」梗概
 世阿弥作。世阿弥の『五音』に「ゲニヤイノリツヽ」の一句を曲附者名なしに掲出するほか、『申楽談義』に謡い方についての外科灸があり、作詞作曲とも世阿弥作であると信じられる。
 典拠は未詳であるが、主人公である花子の綽名が由来する“班女”の故事は、『漢書』外戚伝や『続列女伝』にみえる班婕妤(はんしょうよ)の物語が古来有名で、文芸の世界にとりあげられているうちに、“班女の扇”という一種の常套的なたとえ話──捨てられた女から、不要になったものをさす「秋の扇」「班女の扇」というような言葉ができ、このような俗説から本曲が作られたとも想像される。(班婕妤については後述)


 美濃国野上の宿の遊女花子が、春都から下ってきた吉田少将と深く契り、取り交わした形見の扇を肌身離さず、部屋に籠っているため、立腹した宿の長は花子を追い出してしまう。やがて東国から帰還した吉田少将は野上の宿に立ち寄り、約束通り花子を尋ねるが、花子の行方が判らぬまま、都に帰り糺の宮に参拝する。
 糺の森では狂乱の体の花子が、神前に祈りを捧げていたが、少将の従者が言葉をかけ、花子が大事に抱えている扇のことを尋ねる。花子は班女の故事をひき、男に棄てられた心を延べるが、この様子をみた少将が、肩身の扇を見せ、互いに再開を喜ぶのであった。

 後場で、少将の従者のワキツレが、花子に「いかに狂女。何とて今日は狂はぬぞ」と声を掛けたり、さらに「さて例の班女の扇は候」と尋ねていますが、これは狂女のことをよく知っている者でなければならず、東国から帰ってきたばかりの少将の言であるのは不自然と言わざるを得ない。古い演出では、吉田少将をツレまたはワキツレとして、別に花子に声をかける都の男をワキとしていたのではないであろうか。
 本曲は狂乱物にきまりの〈カケリ〉の外に〈中之舞〉が舞われる。〈中之舞〉を舞う狂乱物としては『雲雀山』『水無月祓』があるが、本曲が最も幽玄の情趣にとんでおり、しばしば三番目として鬘物に代用される所以である。


 主人公花子の綽名であり、また本曲の曲名である“班女”について。
 概要で述べたように、“班女”は班婕妤の故事に由来します。班婕妤は淑やかな女性で、漢の成帝(在位前32~ 7年)に非常に寵愛されましたが、趙飛燕にその愛を奪われ、身に害の及ぶのを惧れてみずから身を引き、皇太后つきの女官となりました。この薄倖の佳人は、後の詩人たちの恰好の詩材となり、多くのすぐれた閨怨の詩が作られています。以下は班婕妤を詠じた代表的な詩です。

 まず、王維の「班婕妤三首」(都留春雄『中国詩人選集』岩波書店、1958)

  玉牕螢影度   玉窓 蛍影(けいえい)(わた)
  金殿人聲絶   金殿 人声絶ゆ
  秋夜守羅幃   秋夜 羅幃(らい)を守り
  孤燈耿不滅   孤灯 耿(こう)として滅せず
 玉をちりばめた窓を、蛍の火が横切る
 こがね作りの御殿は、ひっそりと寝静まり、人声がしない
 この長い秋の夜を、絹のとばりの中でひとり起きている
 その部屋の灯だけが、ひとつかがやいて何時までも消えようとしない

  宮殿生秋草   宮殿 秋草(しゆうそう)生じ
  君王恩幸踈   君王 恩幸踈(そ)なり
  那堪聞鳳吹   那(な)ぞ鳳吹(ほうすい)を聞くに堪えん
  門外度金輿   門外 金輿(きんよ)(わた)
 宮殿には、秋の草が生い茂り
 君王の愛のおとずれは、とだえてしまった
 その身が、どうして笙の響きを聞いていられよう
 いま門の外を、天子のくるまが通りすぎる


班婕妤(中国一百仕女図)


  怪來妝閣閉   怪しみ來る妝閣(しようかく)の閉じ
  朝下不相迎   朝(あした)より下って相い迎えざる
  總向春園裏   総(す)べて春園(しゆんえん)の甫に向う
  花間笑語聲   花間(かかん) 笑語(しようご)の声
 春だというのに、彼女たちの艶(いき)な、たかどのが閉じられ
 また宮中からかえっても、迎えに来てくれないのをおかしいと思っていたら
 みんなそろって春の園に出
 咲き乱れる花にまじって、楽し気に笑いさざめいている
(その声を、寵を失った班婕妤が、寂しく部屋に籠って聞いている)

 続いて、李白と並び称される七言絶句の名手である、王昌齢の「西宮春恨怨」(一海知義『漢詩一日一首』平凡社、1976)

  西宮夜静百花香   西宮 夜静かにして 百花香(かんば)
  欲捲珠簾春恨長   珠簾(しゆれん)を捲かんと欲して 春恨長し
  斜抱雲和深見月   斜めに雲和(うんわ)を抱きて 深く月を見れば
  濛朧樹色隱昭陽   濛朧(もうろう)たる樹色 昭陽(しようよう)を隠す
 西宮の夜は静かにふけて、百花の香りが庭いっぱいにただよう
 その香りにさそわれて、真珠のすだれをまきあげようとしたが、その手はふととまった。春の恨み、なやましい春に、すてられた女のなげきはつきぬ
 ななめに琵琶を抱きかかえて、すだれの奥深く、しみじみと月を眺める。おぼろにかすむ庭の樹樹、そのもやのようなしげみが、にくい女、趙姉妹のいる昭陽殿のすがたをかくす。おそらく帝は今宵もあの宮殿を訪れていることであろう──
 木立にかくされたそのたたずまいが、かえって怨情をかきたてる

 この詩については、吉川幸次郎博士『唐代の詩と散文』(『吉川幸次郎全集』所収)に詳しい解説があります。

 さて謡曲『班女』が班婕妤の故事と深くかかわっていることは、周知の事実ですが、謡曲『班女』のストーリーの中心的存在である“班女の扇”と班婕妤がどのようにかかわっているのか…。
 『文選』には、班婕妤が棄てられた我が身を秋の扇に喩て詠んだとされる「怨歌行」が納められていますが、この詩が婕妤の自作とすることは疑問視されています。(内田泉之助・網祐次『文選・詩篇下』明治書院・新釈漢文大系、1964)

  新裂齊紈素   新たに斉の紈素(かんそ)を裂けば
  皎潔如霜雪   皎潔(こうけつ)にして霜雪(そうせつ)の如し
  裁爲合歡扇   裁ちて合歓(ごうかん)の扇と為せば
  團團似明月   團團として明月に似たり
  出入君懐袖   君が懐袖(かいしゆう)に出入(しゆつにゆう)
  動搖微風發   動揺して微風発す
  常恐秋節至   常に恐る秋節(しゆうせつ)の至りて
  涼風奪炎熱   涼風 炎熱を奪い
  弃捐篋笥中   篋笥(きようし)の中に棄捐(きえん)せられ
  恩情中道絶   恩情 中道に絶えんことを
 新しく斉国産の白絹を裂くと、それは潔白でさながら雪や霜のようだ。
 それをたちきって合わせ貼りの円扇を作ったら、まんまるでまんげつのようである。
 この扇は君のそでや懐に出入りして、動かすたびにそよ風が起る。
 けれど心配なのは、やがて秋の季節が訪れて、涼風が暑さを吹き去ると、
 同時にわが身も秋の扇としてはこの中になげこまれ、君のなさけも中途で断ちきられることです。

 後世において、この「怨歌行」によって班婕妤のイメージ~すなわち「秋の扇のように棄てられた女」「班婕妤の秋の扇」を詠んだ作品が数多く生まれています。
 本朝において、その代表的なものとして『和漢朗詠集』に掲載され、謡曲『班女』に引用された「怨歌行」関連の詩句が2首あります。(菅野禮行『和漢朗詠集』小学館・日本古典文学全集、1999)
 その一は、「冬、雪」橘在列(たちばなのありつら・尊敬)

  班女閨中秋扇色  班女の閨の中の秋の扇の色
  楚王台上夜越声  楚王の台(うてな)の上の夜の琴(きん)の声
 雪の白さは、班婕妤の寝室に秋になって無用のものとして捨てられた扇の白さのようであり、
 風に舞いつつ静かに積る雪の音は、楚の襄王が蘭台のほとりで奏でた、夜の琴のかそけき調べにも似ている。

 そのニは、「夏、納涼」大江匡衡(おおえのまさひら)

  班婕妤団雪之扇 代岸風兮長忘  班婕妤が団雪の扇 岸風に代へて長く忘れたり
  燕昭王招涼之珠 当沙月兮自得  燕の昭王の招涼の珠 沙月に当つて自ら得たり
 班婕妤が自分のことを秋になって捨てられる団雪の扇と詠ったが、水辺の風がすずしいのでそのような扇を使うのをとっくに忘れていたことだ。
 燕の昭王が懐中で涼を求めたという珠の話は有名だが、砂石に映る月影が涼しく円いので、まるでその珠を手に入れたような気がする。

というものです。これらは班婕妤の故事を詠んだもので、そこから謡曲に引用されています。
 ここでちょっと気が付いたのですが、後場で登場した花子に対して、吉田少将の従者(本来は地元の人)が「さて例の班女の扇は候」と尋ねます。班婕妤の故事は『文選』あたりに目を通さないと分かりませんから、たかが従者ごときが知っている筈はありません。少々不思議にに思われるシーンではあります。

 世阿弥をはじめとする能作者が、いかに古典に通じていたか、その知識にはただただ驚嘆するばかりです。就中『和漢朗詠集』記載の詩句などは、すべて記憶されていたのではないかと思われます。私は以前、謡曲に引用された『和漢朗詠集』の詩句について調査したことがありましたが、現行曲 210曲の70%にあたる 140曲が『和漢朗詠集』から1首以上の詩句を引用しておりました。失礼を顧りみずに申せば『朗詠集』さえあれば他の漢籍などは必要なかった…と思われるくらいです。
 本曲の作者(世阿弥)が、前述の班婕妤の故事にまつわる『朗詠集』記載の詩句 の“班女の扇”から、捨てられたと思われた女が、班婕妤の故事を逆か手にとって、扇によって再会を果たすという、扇を要とした物語に発展さたのではないか、と想像しています。
 以下は『朗詠集』記載の班婕妤の故事にまつわる詩句を引用した、本曲の白眉ともいえる、クリ・サシ・クセの詞章です。


シテ「班女がねやうちには秋の扇の色。楚王そわううてなの上には夜のきんの聲
下歌 地「夏はつる。扇と秋の白露と。いづれか先に起臥おきふしとこ。すさましや獨寝ひとりねの。淋しき枕して閨の月を眺めん
クリ「月重山ちやうざんに隠れぬれば。扇をげてこれをたと
シテ「花巾上きんしやうに散りぬれば
「雪を集めて春をしむ
サシ シテ「夕べの嵐あしたの雲。いづれか思ひのつまならぬ
「淋しき夜半よは鐘の音。鷄籠けいらうの山に響きつゝ。けなんとして別れを催し
シテ「せめて閨る月だにも
しばし枕に殘らずして。また獨寝ひとりねになりぬるぞや

クセ翠帳すいちやう紅閨こうけいに。枕ならぶるゆかの上。馴れしふすますがらも同穴とうけつの跡夢もなし。よしそれも同じ世の。命のみをさりともと。壁生草いつまでぐさの露の間も。比翼ひよく連理れんりの語らひその驪山宮りさんきう私語ささめごとも。誰か聞き傳へて今の世まで洩らすらん
さるにても我がつまの。秋よりさきに必ずと。夕べの數は重なれど。あだし言葉の人心。賴めて来ぬは積もれども。欄干らんかんに建つつくして。其方そなたの空よと眺むれば。夕暮れの秋風嵐山颪野分のわきもあの松をこそは訪るれ。我が待つ人よりの音信おとづれを何時聞かまし


シテ「せめてもの。形見かたみの扇手にふれて
「風の便たよりと思へども。夏もはや杉の窓の。秋風ひややかに吹き落ちて團雪だんせつの。扇も雪なれば。名を聞くもすさましくて。秋風しうふう怨みあり。よしや思へばこれもげにふは別れなるべしそのむくいなれば今さら。世をも人をもうらむまじたゞ思はれぬ身の程を。思ひつゞけて獨居ひとりゐの。班女がねやぞ淋しき


 なお余談ですが、謡曲『隅田川』に登場するシテの狂女は、『班女』のシテ・花子であるという巷談があります。
 『隅田川』で、梅若丸が死ぬ間際の「父の名字は、吉田の何某」という言葉と、シテの狂女が、下鴨神社に近い都の北白川に住んでいたということから類推されたことによるものだと思われますが、なかなか興味のあるはなしではないかと思われます。花子にしてみれば、糺の森で吉田少将と巡り合え、やっと落ち着いた暮らしになったというのに、人商人に子供を誘拐されて、ふたたび狂女となって東国をさまようなんて、たまったものではありませんよね。


 『班女』の挿話が長くなりました。続いて糺の森が舞台となった『水無月祓』について。


   謡曲「水無月祓」梗概
 世阿弥の作とも伝えられるが作者は未詳。典拠らしきものもない。観世流のみの現行曲で現行大成版謡本では「ミナヅキバラエ」と読む。昭和25年~令和元年の70年間における演能回数は 144回で、全 210曲中 127位となっている。


 都下京に住む男が、播州室の津でなじんだ女と夫婦になる約束をて都に戻り、のちに女に使いを出したが、女はすでに室の津を去っていた。夏越の祓いの日に、男は賀茂明神に参拝し女との再会を祈っていると、茅の輪を手女が現れ、御志の祓いの謂れを語り、今日の祓いをした人は長生きが出来るという。今度は面白う舞ってみせよと烏帽子を与えると、女は舞い狂うが、御手洗川に映る自分の姿を恥じて泣き崩れる。男がよく見ると、この狂女こそ自分の尋ねる女であることが分かり、西海を喜び打ち連れて帰っていった。


 本曲は現行では一場者であるが、元来、室の津で男と女の別離を取り扱った前場があり、二場ものであったと考えられる。賀茂の水無月祓いを取り扱うのが主な元的であり、前場にはまほど重要性が認められないとして、後場のみに改作されたもののようである。主人公を室の津の女としたのは、室の明神(室の賀茂神社)と賀茂の明神とが御一体であることによったものであろう。
 四番目狂女物の一つで、『班女』『雲雀山』に同じく、カケリの外に中之舞があるのが特色である。


 水無月祓は夏越(なごし)の祓ともいい、6月の晦日(みそか)の行事です。大晦日に行われる「年越しの祓」とならび、大祓(おおはらえ)と呼ばれています。大祓は平安期には6月と12月の晦日に朱雀門において,中臣が祝詞を読んで祭事を行っていましたが,後世になって6月の祓だけが残ったものとのこと。
 この日、神社の鳥居の下や境内には茅で作られた大きな輪が用意され、参拝者が「水無月の夏越の祓いをする人は、千歳の命のぶというなり」などと唱えながらくぐると、夏の疫病や災厄から免れるといわれています。


茅の輪(石清水八幡宮)


 以下はシテの狂女が茅輪を付けた麻枝を持って、茅の輪を越える様子を舞う場面です。


「水無月の。水無月の。夏越なごしはらえする人は。千年ちとせの命。延ぶとこそ聞け。輪は越えたり御祓みそぎの。この輪をば超えたり。真如しんによの月の輪のはれを知らで人な笑ひそよ。もし悪しき友あらばはらけて交へじ身に祓ひ除けて交へじ。輪越えさせ給へやこの輪越えさせ給へや。名を得て此處ここぞ賀茂の宮。名を得て此處ぞ賀茂の宮に。參らせ給はゞ御祓川みそぎがはの波よりも。この輪を先づ越えて。身を清めおはしませ。ちはやぶる。神の忌垣いがきも越えつべし。もとし方の。道を尋ねて。迷ふ事はなくとも異方ことかたな通り給ひそ。今日は夏越なごしの輪を越えて参り給へや

シテ神山かみやまの。双葉ふたばのあふひ年ふりて
「雲こそかゝれ木綿鬘ゆふかづらの。神代かみよ今の代おし並めて。今日は夏越の祓ひなごめけ靜めて。心ぞ清き御祓川みそぎがはの。波の白和幣しらにぎて。麻の葉の青和幣あをにぎて。いづれも流し捨て衣の。身を清め心すぐに。本性ほんしやうになりすましていざや神に参らんこの賀茂の神に参らん


 この『水無月祓』は観世流のみ現行曲であるためか、比較的“遠い”曲というイメージがあります。その故でしょうか、お恥ずかしいことですが、私はこの『水無月祓』を観たことも聞いたことも、当然のことながら謡ったこともありませんでした。今回この項を執筆するに際して、初めて謡本に接したありさまです。
 謡本に目を通しておりますと、なかなかの名調子で、上掲の「水無月の~」以下は、一種の〈変形クセ〉だと思われますが、謡ってみたい、また仕舞で舞ってみたいと感じさせる一段でした。


 最後は観世流の現行曲ではありませんが『加茂物狂』について。なお本曲については、主に宝生流の謡本に基づき、金剛流および喜多流の謡本を補助的に参照しています。


   謡曲「加茂物狂」梗概
 作者は未詳であるが金春禅竹の可能性が高い。典拠は未詳である。四番目狂女物。宝生、金剛、喜多三流の現行曲。観世流では本曲の〈サシ・クセ〉の部分が「乱曲」に残されている。前述の『水無月祓』と同じ趣向の曲である。以下の要約は宝生流によっている。


シテの出「面白や今日は~」


 ある都の男はある女と別れて東国に旅立ち、三か年を経過した。男は懐かしの都に立ち返って、賀茂の社に参詣する。
 ここに一人の狂女があって群集に乱れているのに逢い、今日はこの社のご神事だから、心を静めてよく結縁せよとすする。そして何かと語らううち、男はこの狂女が自分の妻であることを知り、それとなく神前に舞を手向けるならば、思う祈りを納受されるといって舞を舞わせる。
 そのうち、狂女はこの男が夫であることに気づくが、互いに人目を恥じて何事も口に出さず、ひそかに示し合わせてその場を去り、同じ家に行きあい、再び深い契りをこめて睦まじく暮らしたのである。

 本曲は元来は二場物であったものを、前場を削り一場物としている。また流儀による詞章の異同が少なくない。
 シテは水衣姿で登場し、物着で長絹・前折烏帽子の舞姿となる。小品ではあるが、中之舞のほかにカゲリ・イロエも入り、多彩な能になっている。


 本曲の構成は以下のようになっています。(野上豊一郎『能二百四十番』能楽書林、1951)

 ① ワキ登場、次第、名宣、道行、(着セリフ)
 ② シテ登場御、サシ、一セイ、カケリ
 ③ サシ、下歌(初同)、上歌
 ④ 問答、掛合、上歌
 ⑤ 問答、掛合、地次第、物着
 ⑥ 一セイ、イロエ
 ⑦ (クリ)、サシ、クセ
 ⑧ 中之舞、ワカ、ノリ地
 ⑨ ロンギ、キリ

 上記の()で示した部分は、金剛、喜多二流にはありますが、宝生流では省かれています。
 細かな詞章の異同は数多く見受けられますが、宝生流と金剛・喜多二流との大きな差異は以下のようです。
 (1) 宝生ではワキの道行が終ると、すぐにシテの出となりますが、他の二流では、着セリフがあり、供のワキツレが男の旧家を訪ねるが、女は行方知れずとなっており、賀茂の神事が行われるので、賀茂神社に参拝することとする。
 (2) イロエの後、宝生ではサシからクセとなるが、他の二流はクリが挿入されている。

 流儀間の大きな異同は上記のようですが、細かい詞章の差異も少なくなく、宝生・金剛・喜多三流の謡本を比較して、こんなにも異なるものかと、いささか驚いた次第です。シテ方にとっては何ということもないでしょうが、囃子方、特に大小にとっては大変難儀なことではないか想像します。
 以下に宝生流の〈サシ・クセ〉を転載しますが、一部。謡本では仮名表記になっているところを、判りやすくするため漢字に改めたところがあります。またこの部分は観世流の『乱曲』に収められています。


サシ シテ「げにやそのかみにいのりし事は忘れじを
「哀れはかけよ賀茂の川浪かはなみ。立ち帰り来て年月としつきの誓ひを頼む逢ふ瀬の末
シテ「憐みれて珠すだれ
「かゝる氣色けしきを守り給へ
クセ「我も其の。しでに涙ぞかゝりにき。又いつかもと。思ひ出でしまゝ。涙ながらに立ち別れて。都にも心留めじ。東路あづまぢの末遠く。聞けば其名もなつかしみ思ひ乱れし偲ぶずり。誰ゆゑぞいかにとかこたんとする人もなし。ひなの長路におちぶれて。尋ぬるかひも泣く泣く。其のおもかげの見えざれば。猶行く方のおぼつかなく。三河みかはに渡す八つ橋の。蜘手くもでに物を思ふ身はいづくをそこと知らねども。岸邊に波を掛川かけがは。小夜の中山なかなかに。命のうちは白雲の又越ゆべしと思ひきや
シテ「花紫の藤枝ふぢえだ

幾春いくはるかけて匂ふわん馴れにし旅の友だにも。心岡部の宿とかや。つたの細道分け過ぎて。着なれ衣を。宇津の山うつつや夢になりぬらん。見聞くにつけてき思ひ。猶りずまの心とて。又帰り来る都路の思ひの色や春の日の。光の影も一入ひとしほ
シテ柳櫻やなぎさくらをこきぜて
にしきををさら經緯たてぬきの。霞の衣の匂やかに立ち舞ふ袖も梅が香の。花やかなりし春過ぎて。夏もはや北祭きたまつり。今日又花の都人行き交ふ袖の色々に。貴賤きせん群集くんじゆよそほひもひるがへす袂なりけり


クセの中「宇津の山~」


 以上、上賀茂神社から下鴨神社に参拝し、『賀茂』『班女』『水無月祓』『加茂物狂』4曲の謡蹟を訪れました。


糺の森の南口

賀茂御祖神社の社号標


 糺の森を通り抜け、京阪出町柳駅を目指します。静寂な糺の森の幽玄の世界から、一転して喧騒の巷へと迷い出た感がありました。京阪出町柳駅より帰阪の途に就いた次第です。




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 謡蹟の先頭頁へ
(令和 3年10月29日・探訪)
(令和 4年 1月15日・記述)


 観世流復曲『賀茂物狂』

 2022年7月28日、30日の両日、国立能楽堂の特別企画「能を再発見する」において、『賀茂物狂』が復曲上演されました。
 前述しましたが『賀茂物狂』は現在、宝生、金剛、喜多三流の現行曲です。本来はかなり長い前場のある二場物でしたが、前場を省略した形の一場物となっています。今回の復曲は、観世清和宗家、天野文雄、梅若実桜雪、福王茂十郎各氏の監修のもと、前場のある本来の二場物となっています。
 本曲のストーリーは以下のようです。

 音信の途絶えている夫への恋慕の情を断ちきりたいと、一人の女が賀茂神社へやって来ます。しかし賀茂の神職が伝える神託は、その反対に夫との再会を祈りなさいというものであり、女は夫を捜すべくその場を立ち去りました。


『賀茂物狂』チラシ

 時は移り、都人が三年の東国滞在を経て都の私宅に立ち還ったところ、妻が行方知れずになっていると聞き、再開を祈ろうと賀茂社へと急ぎます。その日は賀茂の祭、境内が大勢の人で賑わう中、夫への想いゆえに物狂いとなった女が顕れ、都人の促しにしたがい神に舞歌を手向けます。
 舞歌によせて、女が孤独な心の中を吐露するうちに、お互いが実は探し求めている相手であることに気づきます。しかし二人とも人目をはばかって名乗り出せず、素知らぬ風を装いながら、それぞれ別の道をたどって家にと向かい、再会を果たすのでした。

 国立能楽堂で上演された復曲を、大成版に則って一番本が製作されています。
 復曲された『賀茂物狂』の一番本の全文を転載しています。下記の“復曲・賀茂物狂”をクリックすると、別窓で開きます。


『復曲・賀茂物狂』全文

 復曲された能では、賀茂の神職と都人が二人ともワキとなっています。かつてはいづれかが(おそらく賀茂の神職が)、ワキツレとされていたのではないかと思いますが、役割の重要性から、両者をワキとしたものでしょう。
 復曲上演時の演者は以下の通りです。


 


(令和 5年 1月17日・追記)



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