2021年10月29日、『賀茂』の謡蹟である上賀茂神社・下鴨神社、および『班女』の後場、『水無月祓』、『加茂物狂』の舞台となる糺の森を訪れました。ただし『加茂物狂』は観世流にはなく、宝生・金剛・喜多三流の現行曲です。 |
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《上賀茂神社(賀茂別雷神社)》 京都市北区上賀茂本山339 |
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上賀茂神社に到着しましたが、何か様子が異なります。そこには朱の大鳥居がそびえており、その傍らに「賀茂神社」と刻まれた石柱がたたずんでいました。確か以前参拝した時にはこのような鳥居は存在していなかった、と怪訝に思いなから境内を進み一の鳥居に到達しました。 |
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新たに建立された大鳥居と賀茂神社の社号標 |
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上賀茂神社境内図 |
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一の鳥居からは、正面に二の鳥居が望まれます。参道の両側には芝生の馬場が拡がり、開放的な感があります。 |
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一の鳥居 |
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二の鳥居に向かう参道 |
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外幣殿 |
神馬舎 |
参道の右手にある外幣殿は御所殿とも呼ばれ、法皇や上皇の御幸の時に使われました。現在は葵祭(賀茂祭)の時に使用されます。 |
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二の鳥居 |
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謡曲史蹟保存会の駒札 |
細殿 |
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楼門 |
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中門より参拝 |
御朱印 |
楼門をくぐると国宝である本殿や式年遷宮の際に仮の本殿となる権殿(ごんでん)がありますが、通常は非公開となっています。本殿の手前の中門から参拝いたします。 |
神紋 |
参拝を終え、境内を散策いたします。 |
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橋殿付近で合流する「ならの小川」 |
紅葉に映える「ならの小川」 |
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庭園散策 |
庭園散策 |
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紫式部歌碑 |
藤原家隆歌碑 |
藤原家隆の「ならの小川」の歌は、『百人一首一夕話』によれば、『新勅撰集』の夏の部に「寛喜元年女御入内の御屏風」の詞書で出ています。女御は前関白光明峰寺摂政藤原道家公の女(むすめ)で、後堀川天皇の后となり藻壁門院(そうへきもんいん)といわれています。 |
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〈語〉では当社の祭神である別雷神生誕の由来が明らかにされています。前述しましたが賀茂神社の伝承によれば、祭神である賀茂別雷神は、川上より流れて来た丹塗りの矢により、玉依姫が解任して産んだとされており、一説によればこの矢が大山咋神(おおやまぐいのかみ)であるとする話も流布しているようです。大山咋神は秦氏の信奉する松尾大社の祭神です。さすれば別雷神は秦氏の神を父として生まれたということになりそうです。 |
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出雲市橋西詰に建つ賀茂御祖神社の社号標 |
《下鴨神社(賀茂御祖神社)》 京都市左京区下鴨泉川町59 |
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西参道の入口に、世界遺産の碑と昭和62年に文部省により記された「史蹟 賀茂御祖神社境内」の案内板があります。以下はその転載です。 |
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賀茂御祖神社(通称下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、玉依媛命(たまよりひめのみこと)の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭のこと、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また玉依媛命の御子神は賀茂別雷神社に祀られている。 |
境内案内と世界文化遺産の碑 |
平安京遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国の一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。弘仁元年( 810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約 400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の北西に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。 |
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西参道の鳥居 |
中門 |
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拝殿 |
御朱印 |
中門を出たところで御朱印を頂戴しましたが、当社は 500円と他の社寺よりもいささか高めでありました。 |
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御手洗川と輪橋 |
御手洗社 |
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橋殿 |
舞殿 |
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下鴨神社楼門 |
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相生社と御神木「賢木」 |
さざれ石 |
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糺の森へ続く鳥居 |
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当社近辺の郵便局の風景印に、葵祭の風景を描いたものがあります。 |
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京都上賀茂郵便局 |
京都出雲路郵便局 |
京都田中郵便局 |
京都大学病院内郵便局 |
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糺の森 |
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神木として祭られている古木 |
瀬見の小川 |
それでは糺の森を舞台とした謡曲『班女』『水無月祓』『加茂物狂』について眺めてみましょう。 |
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主人公花子の綽名であり、また本曲の曲名である“班女”について。 |
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玉牕螢影度 玉窓 蛍影(けいえい)度(わた)り |
班婕妤(中国一百仕女図) |
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さて謡曲『班女』が班婕妤の故事と深くかかわっていることは、周知の事実ですが、謡曲『班女』のストーリーの中心的存在である“班女の扇”と班婕妤がどのようにかかわっているのか…。 |
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なお余談ですが、謡曲『隅田川』に登場するシテの狂女は、『班女』のシテ・花子であるという巷談があります。 |
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水無月祓は夏越(なごし)の祓ともいい、6月の晦日(みそか)の行事です。大晦日に行われる「年越しの祓」とならび、大祓(おおはらえ)と呼ばれています。大祓は平安期には6月と12月の晦日に朱雀門において,中臣が祝詞を読んで祭事を行っていましたが,後世になって6月の祓だけが残ったものとのこと。 |
茅の輪(石清水八幡宮) |
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この『水無月祓』は観世流のみ現行曲であるためか、比較的“遠い”曲というイメージがあります。その故でしょうか、お恥ずかしいことですが、私はこの『水無月祓』を観たことも聞いたことも、当然のことながら謡ったこともありませんでした。今回この項を執筆するに際して、初めて謡本に接したありさまです。 |
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本曲の構成は以下のようになっています。(野上豊一郎『能二百四十番』能楽書林、1951) |
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糺の森の南口 |
賀茂御祖神社の社号標 |
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(令和 3年10月29日・探訪) (令和 4年 1月15日・記述) |
観世流復曲『賀茂物狂』 |
『賀茂物狂』チラシ |
時は移り、都人が三年の東国滞在を経て都の私宅に立ち還ったところ、妻が行方知れずになっていると聞き、再開を祈ろうと賀茂社へと急ぎます。その日は賀茂の祭、境内が大勢の人で賑わう中、夫への想いゆえに物狂いとなった女が顕れ、都人の促しにしたがい神に舞歌を手向けます。 |
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『復曲・賀茂物狂』全文 |
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復曲された能では、賀茂の神職と都人が二人ともワキとなっています。かつてはいづれかが(おそらく賀茂の神職が)、ワキツレとされていたのではないかと思いますが、役割の重要性から、両者をワキとしたものでしょう。 |
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