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摂津・湊川神社 〈菊水〉


 桜井の駅で一子正行と別れた楠木正成は、死を覚悟して湊川へと赴きます。正成討死の跡を訪うべく、正成を祀る湊川神社に参拝いたしましょう。
 湊川神社は高速神戸駅の東北側出口を上がったところに鎮座しています。2016年4月10日この地を訪れました。



湊川神社境内案内図



《湊川神社》  神戸市中央区多聞通3-1-1

 楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。慶応3年(1867)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7232坪(現在約7680坪)を境内地と定め、明治5年5月24日、湊川神社が創建された。(Wikipediaによる)


湊川神社
  

 高速神戸駅の東北側出口を上がると、湊川神社前の広場に出ます。神社の表門を入ると正殿まで石畳の参道が延びています。右手には「従是楠公石碑道」の碑が建てられているのですが、弘化3年(1846)に再建されたもののようです。「楠公石碑」というのは、後述しますが徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑へのみちしるべという意味なのでしょうか。


参道

従是楠公石碑道


 宝物殿は、昭和38年(1963)に竣工しました。段威腹巻(だんおどしはらまき)、大楠公御真筆「法華経奥書」などの国指定重要文化財や貴重な資料の数々を展示しています。余談ながら、拝観料は300円ですが、御朱印を頂戴すると100円割引のカードを貰えます。
 手水舎の奥、東門のところに神能殿があります。当社「神能殿」は、昭和47年の湊川神社鎮座百年祭を機会に、東京・大曲の、観世流の由緒ある舞台を移築して建てられたものですが、設備老朽化のため、平成21年1月にやむなく休館していました。
 平成26年に再開することとなり、これを記念して12月16日に記念勧進能が開催されました。この年は、能楽の祖である観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年にあたっていました。


宝物殿

神能殿

 参道の正面が社殿です。現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年10月24日に復興新築されたもので、様式は権現造(ごんげんづくり)に似た八棟造り(はちむねづくり)とされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物といわれています。


拝殿

御朱印


 社殿の左奥、境内西北隅に、正成の戦没地(殉節地)があります。延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季卿以下御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられ、国指の文化財史蹟に指定されています。


楠木正成戦没地


 それではここで『太平記』により正成の最後をながめてみましょう。


 左馬頭さまのかみ(足利直義)、楠に追つ立てられて引き退くを、将軍(尊氏)見たまひて、「新手を入れ替へて、直義討たすな」と下知せられければ、吉良・ 石塔いしだふかう・上杉の人々六千余騎にて、湊川の東へ懸け出でて、後を切らんとぞ取り巻きける。正成・正季まさすゑまた取つて返してこの勢にかかり、懸けては打ち違へて殺し、懸け入つては組んで落ち、三時みときが間に十六度まで戦ひけるに、その勢次第次第に滅びて、後はわづかに七十三騎にぞりにける。この勢にても打ち破って落ちば落つべかりけるを、くすのき京を出でしより、世の中の事今はこれまでと思ふ所存有りけれ ば、一足ひとあしも引かず戦ひて、機すでに疲れければ、湊川の北に当たつて在家ざいけ一村ひとむら有りける中へ走り入つて、腹を切らんために、鎧を脱いでわが身を見るに、り傷十一箇所までぞ負うたりける。この外七十二人の者どもも、みな五箇所・三箇所の傷をかうむらぬ者は無かりけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間むまの客殿に二行に並び居て、念仏十返ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。正成座上に居つつ、舎弟の正季まさすゑに向つて、「そもそも最後の一念に依つて、善悪のしやうを引くといへり。九界くかいの間に何か御辺の願ひなる」と問ひければ、正季からからとうち笑うて、「七生しちしやうまでたた同じ人間に生れて、朝敵てうてきを滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よに嬉しげなる気色けしきにて、「罪業ざいごふ深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じくしやうを替へてこの本懐ほんくわいを達せん」と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕にしにけり。


 正成以下その一族等の墓所は境内東南隅に祀られており、国の文化財史蹟に指定されています。
 元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を、この地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を、岡村元春(おかむらもとはる)に書かせて、これに刻ませました。


楠木正成墓碑

水戸光圀公銅像


 正成の墓所には徳川光圀公の銅像があります。光圀は、水戸藩主を辞して西山荘に隠居した後も、大日本史の編纂を行うなど活躍され、正成公をひたすら慕い、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立しました。これらの事蹟は天下に顕彰され、偉大な功績を残しました。この功績を追慕して昭和30年7月に銅像の建設が完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑は、徳富蘇峰の文によるものです。



「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑

御朱印

 正成の墓地は、東屋風建物の中に石で作った亀があり、亀の上に 徳川光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑が乗っています。
 以下に碑の拓本、および碑文を掲げます。

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相
尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大
抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是
以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復
王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移
鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能
立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言
不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門
盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者
惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
  右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字
  魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽

忠孝天下に著はれ、日月天に麗(つ)く。天地に日月無ければ、則ち晦蒙(かいもう)否塞(ひそく)し、人心に忠孝を廢すれば、則ち亂賊相尋(あひつ)ぎ、乾坤反覆す。余聞く、楠公諱(いみな)正成は、忠勇節烈にして、國士無雙なり、と。其の行事を蒐(けみ)するに、概見すべからず。


碑文拓本

大抵、公の兵を用ふる、強弱の勢ひを幾先に審(つまび)らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體して誠を推(お)す。是を以て、謀(はかりごと)中(あた)らざるなくして、戰(たたかひ)克(か)たざるなし。心を天地に誓つて、金石渝(かは)らず。利の爲に囘(かへ)らず、害の爲に怵(おそ)れず。故に能く王室を興復し、舊都に還(かへ)せり。諺に云ふ、前門に狼を拒(ふせ)いで、後門に虎を進む、と。廟謨(べうぼ)臧(よ)からず。元兇踵(きびす)を接し、國儲を構殺し、鐘簴(しようきよ)を傾移す。功成るに垂(なんなん)として、主を震(おどろ)かす。策善しと雖も、庸(もち)ひられず。古(いにしへ)より未だ、元帥前を妒(ねた)み庸臣(ようしん)斷を專らにして、大將能く功を外に立つる者あらず。之(これ)を卒ふるに、身を以て國に許し、死に之(ゆ)いて佗(た)なし。其の終りに臨み、子に訓(をし)ふるを觀るに、從容として義に就き、孤に託し命を寄せ、言(げん)私に及ばず。精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是(か)くの如く整ふに暇あらんや。父子兄弟、世々に忠貞を篤くし、節孝一門に萃(あつ)まる。盛んなる哉。今に至りて、王公大人、以て里巷の士に及ぶまで、口を交へて之を誦説して衰へず。其れ必ず大いに人に過ぐる者あらん。惜しいかな、筆を載する者、信を考ふる所なく、其の盛美大德を發揚すること能はざるのみ。
  右は、故(もと)河・攝・泉三州の守、贈正三位近衛中將楠公の贊、明の徴士、舜水朱之瑜(しゆ)、字魯璵(ろよ)の撰する所、勒(ろく)して碑文に代へ、以て不朽に垂る。
(読み下し文は「小さな資料室朱舜水〈楠公碑陰記〉」を参照しています。)



 湊川神社のサイトによれば、水戸光圀による墓碑の建立によって、楠木正成の盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したといわれています。

 楠木正成は、足利尊氏が大挙九州より押し寄せたと聞き、京都から撤退して戦うべしとの献策をするものの、これを退けられ、兵庫に赴き新田義貞を援けて尊氏と戦うべしとの、戦略も戦術もない命を承けます。考えてみますと新田義貞の勝ち戦さといえば、鎌倉へ攻め込んだときくらいで、官軍の総大将に担がれたものの、あとは負け戦さばっかり。その上女にうつつを抜かすなど、情けないことこの上ない。そのような義貞を援けに行くよう命ぜられ、死を覚悟して兵庫に赴いた正成が哀れに思われてなりません。


 水戸光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑について前述しましたが、これに因んで、光圀をワキとし、楠木正成をシテとした新作能『菊水』を紹介します。
 本曲は、平成7年5月に檜書店より謡本が発行されており、その前附によれば「大楠公六百五十年祭に際し、湊川神社並びに奉賛会の要望により、観世宗家に対し、御祭神の湊川殉節を能に作り、御神前に上奏致度との要望有り。宗家は神戸観世会に一切を委任され、神戸観世会はこれを謹作せり」と記されています。『能楽大事典』には、『菊水』の初演は昭和60年5月、作者・藤井久雄、演者・観世元正と記載されています。


   謡曲「菊水」梗概
 上記謡本の前付〈作者〉によれば「大楠公六百五十年祭に際し、湊川神社並びに奉賛会の要望により、観世宗家に対し、御祭神の湊川殉節を能に作り、御神前に上奏致度との要望有り。宗家は神戸観世会に一切を委任され、神戸観世会はこれを謹作せり」と記されています。『能楽大事典』には、『菊水』の初演は昭和60年5月、作者・藤井久雄、演者・観世元正と記載されています。
 また〈資材〉には「本曲は、水戸黄門の「嗚呼忠臣楠子之墓」の建碑の仔細、明治天皇の「仇波を防ぎし人は湊川 神となりてぞ世を守るらむ」との御製をはじめ「太平記湊川正成討死のこと」の個所などを骨子として脚色して造られたものである」と記されており、前述の水戸光圀の建碑を踏まえた作品となっている。
 ワキとして水戸黄門が登場するが、ワキツレ二人のうち、一人は“佐々木の何某”と名乗っているので、介さんこと佐々木介三郎であり、もう一人は格さんこと渥美格之進と想像することができる。



 徳川光圀(水戸黄門)は勤王の志篤く、大日本史の編纂を行い、楠木正成の誠忠に胸を打たれ、その跡を弔おうと、元禄五年、家臣二人を伴い兵庫の津を訪れた。あたりの景色を眺めていると一人の老人が現われた。老人は光圀の問いに答え、路傍の石塔を指し、これが延元のむかし、足利尊氏を迎え打ち、討死した正成の墓であると押絵、自分は正成ゆかりの者であると告げ、姿を消した。
 光圀は、このような忠臣の墓所を、荒れ果てたままにしては如何と思い、「嗚呼忠臣楠子之墓」の建碑を命じる。
 時は移り明治の御代となり、正成を神と祀り、鎮座奉告の祭が執り行われた夜に、凛々しく武装した正成の例が現れ、この湊川で討死したが、この度思いもよらず神と祀られた聖恩を喜び、万代までもよき御代なれやと寿ぎ舞を舞う。

 また後場は、一気に明治時代となり、時空を超越した局面となっているのは、ちょっと思いも及ばない、予想外で面白い設定です。
 本曲の前場では、ワキとして水戸光圀が登場しますが、従者が二人になっているのは、テレビなどの影響によるものでしょうか。


 近年上演された『菊水』の記録です。いづれも湊川神社神能殿における、能楽協会神戸支部による「楠公祭奉祝能楽鑑賞会」の公演です。
 左は平成15年5月18日、前シテ・藤井完治、後シテ上田貴弘
 中央は平成18年5月22日、舞囃子・吉井基晴
 右は平成20年5月20日、前シテ・藤井完治、後シテ上田貴弘


平成15年(2003)

平成18年(2006)

平成20年(2008)


 今から13年後の2035年には、大楠公七百年祭が催されるものと思われますが、おそらく、この『菊水』や正成にちなんだ『楠露』が、湊川神社神能殿で上演されることでしょう。
 以下に『菊水』の全文を転載します。


    菊  水

次第 

ワキ 
ワキツレ

「菊の薫りのとこしへに。菊の薫りの長しへに。高き誠忠まことたたへん

名ノリ 

ワキ 

「これはさきの中納言水戸光圀みつくににて候。さてもこの程諸氏しよし百家ひやつかを集め。大日本史をみ候處に。楠木正成公の忠節にいたく心をかれ候。さる間の御跡を弔ひ。國々の名所舊後をも尋ねばやと存じ。二人ににんの者を伴ひ。この度西國へと思ひ立ちて候

道行 

ワキ 
ワキツレ

「頃は春。筑波つくばおろしに送られて。筑波おろしにおくられて。草木も靡く武蔵野を。あとに見捨てゝ富士の雪。千代に八千代の末かけて君が御稜威みいつぞ有難き。都の空を伏し拝み。浪速の甫もいつしかに。兵庫ひやうごの津にぞ着きにける兵庫の津にぞ着きにける

サシ 

ワキ 

にや聞き及びにし兵庫の津。前は海うしろは山。淡路繪島えじまや須磨明石。の海までも目の前に。今見ることの面白さよ。しばらくこのあたりに休らひ。所の名所舊蹟きうせきをも尋ねばやと思ひ 

呼掛 

シテ 

「なうなうあれなる人は何事 を仰せ候ぞ

  

ワキ 

「これはこの所初めて一見いつけんの者にて候。この兵庫の津において。名所舊蹟おん教へ候へ

  

シテ 

やす程のおん事にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし

  

ワキ 

「まず東にあたって木深こぶかき森の見えて候は。如何いかなる所にて候ぞ

  

シテ 

「さん候あれこそ生田の森にて候。そのかみ源平げんぺい合戦かせんみぎり。梶原源太景季。えびらに梅の枝をさし。功名を上げたるはれの候

  

ワキ 

「げにげに箙のんめのことは。世上せじやうに聞こえたる物語にて候。又このあたりに。延元えんげんの昔楠木河内守の。討死し給ひし所ある由聞き及びつるが。その御跡おんなとはいづれにて候ぞ

  

シテ 

「さん候これなる待つ梅の木蔭なる。星霜せいぞう古りたる石塔こそ。楠氏なんしを偲ぶその跡にて 

カヽル 

  

「誠に源家げんけ幕府を開きて五百年。中つ頃建武の御代みよはあれど。再び武家の天下てんがとなり。忠誠無双ぶさう武士もののふを。訪ね弔ふ人もなく。あらうたてや

  

 

「夏草茂る布引ぬのびきの。瀧のしづくも玉と散る。丈夫ますらをの跡苔むして。流るゝ水もかれがれにこいしむらがる湊川

  

ワキ 

「さてはこれなるが楠氏なんし一族討死のその御跡おんなとにて候か

カヽル 

  

「傷はしやさしも誠忠せいちう無二の人なれども。跡は消えゆく泡沫うたかたか。道芝みちしばにおく露霜つゆしもか。あらいたはしや候

  

シテ 

「げによく御弔ひ候ものかな。しかもその合戦かせんの月も日も今日に當りて候は如何いか

  

ワキ 

「何とその合戦かせんの月も日も今日に當りたると 

カヽル 

シテ 

「かやうに申せば我ながら。よそにはあらず旅人の。草の枕の露の世に。姿見えんと来たりたり。うつつとな思ひ給ひそとよ

上歌 

 

「夢の浮世の中宿なかやどに。夢の浮世の中宿に。いくよ寝覚ねざめの。須磨の関守せきもり年を経て。おいの波も寄せ来るやあづまの人にもの申す我れ楠木くすのき所縁ゆかりぞと名乘りもあへず.せにけり名のりもあへず せにけり  《中入》


 

シテが中入すると、ワキ、ワキツレ三人は常座まで送って行き、ワキとワキツレ二人のうちの一人は中入する。舞台に残ったワキツレ〈佐々木介三郎〉は間狂言と問答となる。
間語りの所の者が登場し、楠木正成の最期の有様を語り、ワキツレとともに幕に入る。
時移り明治の御代となり、ワキツレの朝臣が登場、楠木正成を神として祀り、御鎮座奉告の祭を執り行う旨を告げる。


カヽル 

ワキツレ 
〈朝臣〉

「夜も更け過ぎて東雲しののめや。しらむ御空の明け しと

  

 

「思ふ雲間のうちよりも。一道いちだうの光ほのかにて。に神さぶる氣色けしきかな

サシ 

後シテ 

「あやにかしこみかどより。下し賜ひし詔勅みことのり。天下泰平の御祈念ごきねんならずや。四海波しづかうたふ太平に。波瀾はらんを立つるは何ものぞ

一セイ 

  

ちよくを受け。かたきに向ふ武士もののふ

  

 

「そのまゝ護國ごこくの。神なるべし

カヽル 

ワキツレ 
〈朝臣〉

「不思議やな夢うつつともかざるに。甲冑をたいせし御姿おんすがた。如何なる にてましますぞ

  

シテ 

「今は何をかつつむべき。これは判官正成。建武けんむの昔を語らんと。これまで現れでたるなり

クリ 

 

「さても笠置かさぎにおはします。後醍醐のみかど御召おめしを受け。赤坂千早ちはやに立て籠り。むらがる敵を打ち平らげ。建武の御代みよをもたらせり

サシ 

シテ 

「然るに高氏たかうじ兄弟叛旗はんきひるがえ

  

 

一度ひとたびは西海へ逃げのびたりしが。新手あらての大軍引き從へ。攻め上るとの聞えあり。急ぎ正成を召し出され。迎へ撃てとの勅諚ちよくぢやうあり

  

シテ 

「正成つつしみ。必勝の計議けいぎを奏しまつれども

  

 

「すでに防戰に定まること。ひとへに天運てんぬんきはまりなり

クセ 

  

「この度の合戦かつせん。味方の勝利覺束おぼつかなし。正成いやしくも。弓箭ゆみやの家に生まれ来て。君に捧げし一命をいつ迠存命ながらへ候べき。勅を奉じて九重ここのへの。都をあとにたつか弓。青葉しげれる櫻井さくらゐの。の下蔭に駒とめてあとを慕ひし正行まさつらに。恩賜のつるぎとりそへて。さとおしへは楠木の。嫩葉ふたばに注ぐ露のたま

  

シテ 

「頃は五月さつきの末つかた

  

 

水嵩みかさまさる湊川。楠木判官正成は非理ひり法権ほふけん天の旗印はたじるし。一族郎黨七百余騎を引き從へ。兵庫へとてぞ馳せ向ひ會下えげ山上さんじやうに。陣を立て菊水の旗をなびかして寄するかたきを待ち居たり

 

シテ 

「さる程に。淡路の瀬戸せとや鳴門の沖。霞の晴間はれまを見渡せば。數萬すまん兵船ひやうせん漕ぎつらね。帆かげに見ゆる山もなし。くがは播磨路須磨の浦。鵯越ひよどりごえかたよりも。ふたき両四つ目ゆい。左巴輪違ひの旗。磯山風に吹き靡かせ。雲霞うんかの如く寄せ來たる。味方は僅か七百しちひやく余騎。蟷螂たうらうが斧に似たれども。滅私めつしの誠あるのみぞ。今こそ正成一期の合戦かせん

  

 

馬上ばしやう遙かに見渡せば。馬上遙かに見渡せば。麓の蓮池はすいけに。天地をゆるがすときの聲。鉦鼓しやうこの響き貝の音。出す征矢せいやは・雨霰あめあられ

  

シテ 

「正成。つはもの下知げぢしていは

  

 

雑兵共ざふひやうどもには目もくれず。目指すは直義ただよし一人いちにんぞと。眞先かけて馳せくだる。後につゞける決死の郎黨。五十萬騎の敵陣へ。阿修羅あしゆらの如くにけ入り駈け入り.おめき叫んで戰うたり

  

 

「須磨の上野のあたりにて。太刀たち風鋭く斬り立てられ。む直義ただよし馬を乘り離し。命危く逃れ去る。されど新手後詰ごづめの限りなし。三刻みときあひだ十六度。追ひつ返しつ息も継がせぬたたかひ

  

シテ 

「刀は折れ矢もきて

  

 

「倒れ傷つく宗徒むねとの者。殘るは僅か七十しちじふ余騎

  

シテ 

「今はこれまでなりと

  

 

正季まさすゑはじめ家の子と。てき重圍かこみのその中を。弓を力にこの湊川邊みなとがはべにたどり来て。都の方にうち向ひ君萬歳ばんぜいと高らかに。七生しちしやう國に報ぜんと。花と散りゆく・湊川みなとがは  《物着》

一セイ 

シテ 

「湊川なる。神のには

ノル 

 

「神慮すずしめの御神能。千代の聲々。うたふとかや  《舞》

ワカ 

シテ 

「あだなみを。ふせぎし人は。湊川

ノル 

 

かみとなりてぞ世を守るらん。世を守るらん菊水きくすい

  

シテ 

「水滔々たうたうとして。波悠々たり。をさまる御代みよの。君は船

  

 

「君は船。臣は水。みづよく船を。浮かめ浮かめて。臣よく君を。仰ぐ御代みよとて幾久いくひさしさも盡きせじや盡きせじ。君に引かるゝ菊水の。かみ澄む時は。しもも濁らぬ湊川の。浮き立つ波の。返す返すも。よき御代みよなれや。よき御代なれや。萬歳ばんぜいの道に歸りなん。萬歳の道に歸りなん




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  (平成26年 4月10日・探訪)
(令和 4年 1月27日・記述)


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