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洛中・神泉苑 〈鷺〉


 2022年4月20日、京都二条城より押小路通を挟んだすぐ南方の神泉苑に参拝しました。ここは謡曲『鷺』の舞台となった処です。



神泉苑近郊地図



《神泉苑》  京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166

 神泉苑は、平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)で、古代から中世にかけては東寺が管掌する雨乞いの道場となり、江戸時代に東寺真言宗の寺院となった。本尊は聖観世音菩薩。
 桓武天皇の延暦13年(794)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ池(現・法成就池)を中心とした大庭園であった。
 季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝利した。後に真言宗の東寺の管轄下にある雨乞いが行われる道場となった。なお伝承では源義経と静御前が出会った場といわれる。
 慶長7年(1602)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑北側の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模が縮小した。(Wikipediaよりの抜粋)



御池通に面した大鳥居

御朱印

 以下の記事は、神泉苑のサイトおよび同苑のパンフレットを参照しました。
 上記の概要に述べられているように、神泉苑は延暦13年、桓武天皇が平安京を造営された際の禁苑で、大内裏の南東隣りに位置し、北は二条から南は三条、東は大宮から西は壬生までの、南北4町、東西2町の規模を有する苑池で、中国の周の文王の霊🈶(れいゆう)になぞらえて作られたものです。苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの 自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣(けんりんかく)を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。池には竜頭鷁首(りゅうとうげきす)の舟を浮べ、朝廷貴族の行楽の場となっていました。
 遷都から6年後の延暦19年、桓武天皇が初めて神泉苑に行幸されました。その後も平安初期の各帝が神泉苑に行幸されることが多く、桓武帝31回、嵯峨帝43回、淳和帝27回に及んでいます。
 平安京創建時より洛中で現存するのは神泉苑と東寺(教王護国寺)のみで、国指定の最古の史蹟となっています。

 

法成就池


竜頭鷁首の舟を浮べ

法成就橋

 桓武天皇による行幸以来、歴代天皇は神泉苑で宴遊されました。平城上皇の頃から、9月9日の重陽節会(菊の節句)や、7月7日の相撲節会など、 節会行事も恒例として行うようになりました。 嵯峨天皇は43回(記録上)、神泉苑へ行幸され、 弘仁3年(812)には神泉苑で「花宴の節」を初めて行い、桜の花見と詩宴を催しました。以後、釣りや、放隼(隼狩り)、詩会、避暑など 宮中行事や宴遊が盛んに行われていました。
 しかしながら、平安期も時代が下るにつれて、これらの行事は変遷し、特に天長元年(824)の弘法大師による天長の祈雨以後は、神泉苑は主として宗教的な修法の場となっていきました。


 神泉苑の由来および弘法大師による祈雨については、『太平記』巻第十二「神泉苑来由の事」に述べられています。以下は「長谷川端校注『太平記』小学館日本古典文学全集、1996」を参照しました。同書では漢字片仮名まじりの底本を、漢字平かなまじりに改めています。

 かの神泉苑と申すは、大内だいだい始めてなりし時、周の文王の霊🈶れいいうに擬して方八丁に作られたりし園🈶ゑんいうなり。その後桓武天王の御宇に初めて朱雀門の東西に二つの寺を建てられ、左をば東寺とうじ、右をば西寺さいじとぞ名付け給ひける。東寺には弘法大師胎蔵界たいざうかい七百余尊を安んじて、金輪こんりん宝祚ほうそを奉る。西寺には南都の守敏しゆびん僧都金剛界こんがうかい五百余尊をあらはして、玉体ぎよくたいの長久をぞ祈られける。

 延暦二十三年、弘法大師は求法のため渡唐、大師の留守の間に、守敏僧都は加持祈祷を行い、水を湯に変えたり、また火を消すなどの奇跡を起こしたので、天皇は守敏を深く信頼するようになった。
 そうこうするうち大師が唐より帰朝した。天皇から守敏の起こした奇跡についてご下問があり、大師は自分がいる所では、かかる奇跡を起すことは出来ぬと答えたので、両人に法力を示させるこことなった。そこで守敏が奇跡を起こそうとするもののうまくいかず、大師や帝を恨み御前を退出した。
 守敏の怒りは激しく、国中に大旱魃を起して万民を飢饉にあわせようと、竜神たちを捕えて水瓶に閉じ込め、そのため雨が降らず農民は大いに苦しんだ。そこで帝は弘法大師に雨乞いの祈りを仰せつけられた。

 大師勅をうけたまはつて、まづ一七日いちひちにちの間ぢやうに入り、明らかに三千大千世界を御覧ずるに、内海・外海げかいの竜神ども、ことごとく守敏僧都の水瓶に入れられ、雨をらすべき竜さらになかりけり。ここに善女ぜんによ竜王りゆうわう守敏より上位の薩埵さつたなりしかば、かのこひしたがはずして、いまだ天竺無熱池むねつちにありけるを御覧じて、大師ぢやうより出で給ひて、この由を奏聞そうもんありしかば、「さらば、かの善女竜王をしやうじ奉るべし」とて、にはかに大内だいだいの前に池を掘り、清涼の水をたたへて、かの竜王を請じ玉ひけるに、善女竜王小身を顕し七尺のくちなはに変じて、この神泉苑に来たり給ひけり。それより湿雲しつうん油然いうぜんとして雨を降らす事、国土にあまねかりければ、枯れしぼみたる木も草も、四海の民も、ことごとくともに色を直しける。

 守敏はこれに大いに怒り、弘法大師を調伏しようと法力による戦いを挑むが、大師の策に陥り死亡する。かくてこの後、東寺は繁栄し、西寺は衰退した。

 その後大師自らあさぢといふくさを結んで、虚空にげ玉ひしかば、大竜となつて天竺の無熱池むねつちへ飛び帰りにける。誠の善女ぜんによ竜王りゆうわうはこの神泉苑に留まつて、今に至りて風雨は時に応じ、感応誠にしたがふ、奇特きどく無双ぶさうの霊池なり。

 以上が『太平記』にある神泉苑の来歴です。ただし弘法大師が嵯峨天皇より東寺を下賜されたのは、弘仁15年といわれており、入唐前の大師に東寺を賜ったという記載は、時間的にもおかしいのではないかと思われます。

 弘法大師が神泉苑で雨乞いをしたという記事は『今昔物語』巻十四「弘法大師請雨経の法を修して雨を降らす語第四十一」にも述べられています。同書では弘法大師による雨乞いの記事のみで、『太平記』にある守敏僧都との確執についての記事はありません。以下は「小学館日本古典文学全集『今昔物語』1999」を参照しました。同書では漢字片仮名まじりですが、入力の都合で平かなに改めています。

 今は昔、□□天皇の御代に、天下旱魃かんばつして、よろづの物皆焼畢やけはて枯れ尽きたるに、天皇此れを歎き給ふ。大臣以下いげの人民に至まで、此を不嘆なげかずと云ふ事無し。
 其の時に、弘法大師と申す人まします。僧都にてましける時、天皇大師を召て仰せ給ひていはく、「いかにしてか此の旱颰かんばつを止て、雨を降して世を可助たすくべき」と。大師申て云く、「我が法の中に雨を降す法有り」と。天皇、「すみやかに其の法を可修しゆすべし」とて、大師の言ばに随いて、神泉にして請雨経しやううきやうの法を令修しゆせしめ給ふ。
 七日法を修する間、壇の右の上に五尺ばかりの蛇出来いできたり。見れば、五寸許の蛇のこがねの色したるを戴けり。暫許しばしばかり有て、蛇只寄りに寄来て池に入りぬ。而るに、二十人の伴僧ばんそう居並なみゐたりと云へども、其の中に止事やむごと無き伴僧四人よたりにぞ此の蛇を見ける。僧都はたら更也、此れを見給ふに、一人止事やむごと無き伴僧有て、僧都に申して云はく、「此の蛇の現ぜるはいかなるさうぞ」と。僧都、答えてのたまはく、「汝ぢ不知しらずや。此は、天竺に阿耨あのく達智だつち池と云ふ池有り、其の池に住すむ善女竜王、此の池に通ひ給ふ、れば、此の法のしるし有らけとて現ぜる也」と。しかる間、にはかに空くもりて戌亥の方より黒き雲出来いできて、天降る事世界に皆あまねし。此れに依て、旱魃とどまりぬ。
 此れより後、天下てんが旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へる人を以て、神泉しんせんにして此の法を被行おこなはるゝ也。而るに、必ず雨降る。其の時に、阿闍梨あじやり勧賞くゑんしやう被給たまはる事、定れる例也。



善女龍王堂

御朱印

 『太平記』および『今昔物語』にある神泉苑の記事を参照しましたが、弘法大師が請来した善女竜王が法成就池に住むと伝えられているようです。
 弘法大師が神泉苑を詠んだ七言詩「秋日神泉苑を観る」が『遍照発揮性霊集』に遺されています。(『弘法大師空海全集』筑摩書房、1984)

  彳亍神泉観物候   神泉に彳亍てきちよくして物候ぶつこうを観る
  心神怳惚不能帰   心神 怳惚くわうこつとして帰る能はず
  高台神構非人力   高台は神構しんこうにして人力に非ず
  池鏡泓澄含日暉   池鏡は泓澄わうちようとして日暉につきを含む
  鶴響聞天馴御苑   鶴響かくきやう 天に聞えて御苑に馴れ
  鵠翅且戢幾将飛   鵠翅こくし しばらやすめて ほとんまさに飛ばんとす
  遊魚戯藻数呑鉤   遊魚 藻にたはむれて しばしばはりを呑み
  鹿鳴深草露霑衣   鹿 深草に鳴きて 露 衣をうるほ
  一翔一住感君徳   一翔いつしやう一住 君の徳を感じ
  秋月秋風空入扉   秋月秋風 むなしく扉に入る
  銜草啄粱何不在   草をふくあはついばんでいづくにか在らざらん
  蹌蹌率舞在玄機   蹌蹌さうさうとして率舞そつぶして玄機げんきに在り

  神泉苑を散策して季節の変化を観察すると
  心はうっとりとして帰る気にならない
  鏡のような池は澄みわたり、日の光が包みこむ
  鶴は天にまで聞こえる鳴声をたて御苑に馴れた様子
  鵠(こうのとり)は羽をしばらく休めたあと、今にも飛び立とうとする
  魚は藻草の間を泳ぎまわって時々釣針を呑みこみ
  鹿は草むらの奥で鳴き、衣は露にぬれる
  天(あま)翔ける鳥も苑(その)に住む魚や鹿も、天子の御徳を感じ
  秋の月と秋の風が賞(め)でる人もないのに扉の中に入ってくる
  鳥や獣は草をくわえたり粱(あわ)をついばんだりしてそこら中に居(お)り
  ゆったりとして連れ立って舞い、深遠な道理の中にいる


 神泉苑は禁苑として、また祈雨の道場として栄えていましたが、時代が下ると衰運に向い、応仁の乱より後は、荒れるに任された状態となっていました。ただしまだ神泉苑の大池の東北には、その名の由来となった「神泉」があり、流れ出る水は大池を満たしていました。
 江戸時代になり慶長7年(1602)、徳川家康が二条城を築城するにあたり、神泉苑の湧水を取り込み、城の内濠、外濠を満たすこととなり、神泉苑は境域の北部を失いました。名苑の縮小衰退を悲しんだ板倉勝重、片桐且元や、筑紫の僧・快我上人は、境内の堂舎を整備し、東寺管轄の寺院として再興されました。
 安永9年(1780)刊行の『都名所図会』には、正面に山門と、脇に土塀を築き、善女龍王社、弁天社、不動堂、天満宮などの堂社が描かれています。また図の左上には二条城が描かれています。以下は『都名所図会』とその解説です。


神泉苑は御池通大宮の西にあり(真言宗にして東寺法菩提院ぼだいゐんに属す)。善女ぜんによ龍王りうわう社は池の中島にあり(例祭は八月朔日なり)。二重塔は大日如来を本尊とす。池をはふ成就じやうじゆ池といふ。
むかし大内裏の時は、封境広大にして天子遊覧の地なり(拾芥抄いふがいせうに曰、二条の南大宮の西八町、三条の北壬生の東云々)。池辺には乾臨閣けんりんかくを営で、近衛次将を別当職とし、庭中には巨勢こせ金岡かなおか石を畳て風光を貯ふ。
守敏しゆびんは諸龍を咒して瓶中に入。弘法大師は天竺無熱むねつち池の善女龍神を請じ、天下旱魃の愁ひを扶て、叡感を蒙り、小野小町も和歌を詠じて雨を降し、鷺は宣旨をうけて羽を伏蹲れば、官人これを安々と捕しむ、帝御咸のあまり五位の爵を賜りしも此所なり。
白河院しらかはのゐん御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、鵜此池中に入て金覆輪の太刀を喰ふて上りけり、是より銘を鵜丸といふ。崇徳院しゆとくゐんに伝り、六条判官為義ためよしに此御剣を賜りける。祇園會もこゝに始り。弘仁三年には嵯峨帝此苑中に於て花の宴あり、是花宴の始なり。本朝ほんてう文粋もんずいみなもとのしたがふが曰、神泉苑は禁苑の其一なり。紅林地広うして楚夢を胸中に呑、緑地水固うして呉江ごかうを眼下に縮むと書り。
清掃漸又かさなり、遂に建保の頃より荒廃に及ぶ、承久の乱後には武州ぶしうの禅門築地を高うし門を堅で修造ある、其後又あれて旧跡幽なりしを、元和の頃筑紫の僧覚雅かくがといふ人、官に申で再興し、真言の霊場となす。北野右近馬場うこんのばば此神泉苑等は、わずかなりといへども是大内裏の遺跡なり。



 それでは神泉苑の境内を一巡して参拝いたします。
 本堂は利生殿(りしょうでん)と呼ばれ、境内にあった護摩堂の跡地に、弘化4年(1847)東寺から移築されたものです。
 本尊は聖観世音菩薩。明歴2年(1656)、崩御された後光明天皇の供養のため、父君の後水尾法皇により造立されたものです。


本堂

御朱印

 本堂の前方には鯉塚・亀塚があり、池に泳ぐ鯉や亀にとどまらず、すべての生き物への感謝のため建立されたものとのことです。
 本堂右手には、蕪村の句碑が建てられています。

    雨のいのりのむかしをおもひて
   名月や神仙苑の魚おどる

 蕪村が、雨乞いの地としての神泉苑を詠んだものでしょう。句碑は平成15年5月1日に建てられたようです。


鯉塚・亀塚

蕪村句碑


 善女龍王社の右手には弁天社が祀られています。都名所図会では、池中に多宝塔と並んでおり、橋を渡って参拝していたようです。
 明治時代に境内の法成就池が縮小され、池畔に祀られるようになったそうですが、多宝塔はそれまでに取り壊されてしまったのでしょうか。
 弁天社の右奥に稲荷社があります。矢剱大明神を祀っているとのこと。


弁財天社

稲荷社


 神泉苑には五位鷺の伝承があり、それに基づいて作成されたのが、謡曲『鷺』です。

 御池通に面した鳥居の右手に「神泉苑と謡曲『鷺』の由来」として、謡曲史蹟保存会の駒札が立てられています。

 京都の地形は北高西南低で、昔この辺は湿地帯なっていたが、それをうまく利用して禁苑としたのが神泉苑である。かつては広大な地を占め、天皇御遊の庭園として、四季折々に華麗な行事が催されていた。また苑池には水鳥も多く、野鳥観察に好適の地ともされていた。
 「源平盛衰記」には醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたゝんで、かしこまった話がのせられており、謡曲『鷺』は、これをもとにつくられている。俗に“五位鷺”というのは、このとき天皇から五位の位を賜ったことから、このように呼ばれるようになったといわれている。


謡曲史蹟保存会の駒札


 上記の駒札には『源平盛衰記』の話として記載されていますが、『平家物語』にも同様の伝承が載せられています。
 それでは謡曲『鷺』について。


   謡曲「鷺」梗概
 作者は未詳。『平家物語』『源平盛衰記』に典拠する。謡い物としては特に難しくはないが、能としては、その舞が「鷺乱(さぎのみだれ)」という特殊な型になるので、重い習い物として扱われている。シテの扮装は白一色の型で、清浄かつ品位の高さを表わす。ただし観世流では、宗家以外の者が舞う場合には、扮装の中に一色入れることを常としている。

 ある夏、帝の一行が夕涼みに神泉苑に行幸されたところ、池の汀に鷺が下りているのを御覧になり、あの鷺を捕えて参れと仰せられた。蔵人は仰せを承り、狙い寄って捕えようとするが、鷺は驚いて飛び立った。そこで蔵人が勅諚である旨呼ばわると、鷺は飛び下り、羽を垂れて地に伏した。蔵人は鷺を抱きとり叡覧に叶うと、帝も御感のあまり蔵人と鷺を共に五位に叙せられた。やがて鷺は羽を広げて舞(鷺乱)を舞い、許されて再び飛び去って行った。

 「五位鷺」の名は、本曲の典拠となった『平家物語』などの故事に由来するものといわれている。
 本曲のシテは本来、元服前の少年もしくは還暦を過ぎた老人のみに許され、直面(ひためん)を原則とする。
 白一色の本曲に対し、赤づくめの『猩々』が対照的で、舞も「鷺乱」に対し「猩々乱」の演出がある。


  上記の駒札には『源平盛衰記』の話が記載されていますが、『平家物語』にも同様の故事が載せられています。
 『源平盛衰記』では「蔵人鷺を取る事」として、以下のように記されています。


 延喜帝の御宇ぎよう、神泉苑に行幸あり。池のみぎはに鷺の居たりけるを叡覧有りて、蔵人くらうどを召して、あの鷺取つて參れと仰せければ、蔵人取らんとて近付き寄りければ、鷺羽づくろひしてすでに立たんとしけるを、宣旨せんじぞ、鷺まかりたつなと申しければ、飛び去る事なくして取られて、御前へ參りけり。叡覧ありて仰せけるは、勅に隨ひ飛去らずして參る條神妙しんべう也とて、御宸筆しんぴつにて鷺の羽の上に、汝鳥類の王たるべしと遊ばして、札を付けて放たれければ、宣旨蒙りたる鳥也とて、人手をかくることなし。其鳥備中國に飛び至りて死にけり。鷺森さぎのもりとて今にあり。


 『源平盛衰記』では、鷺が五位の位を授かる記載がありません。また鷺は飛んで行った備中国で亡くなっており、ちょっとかわいそうですね。
 続いて『平家物語』「朝敵揃への事」。


 近頃の事ぞかし。延喜の御門みかど神泉苑へ行幸ぎやうかうなつて、池のみぎはに鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鷺つて參れ」と仰せければ、いかんが捕らるべきとは思へども、綸言りんげんなれば歩み向ふ。鷺羽刷はねづくろひして立たんとす。「宣旨せんじぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。すなはちこれを捕つて參らせたりければ、「汝が、宣旨に隨つて、參りたるこそ神妙しんべうなれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後、鷺の中の王たるべしと云ふ御札を、みづから遊ばいて、首に付けてぞ放たせ給ふ。全くこれは鷺の御料おんれうにはあらず、たゞ王威の程を知ろし召さんが爲なり。


 両誌ともにほぼ同様の内容ですが、鷺が五位の位を授かった事は『平家物語』にのみ記載されています。


 『源平盛衰記』と『平家物語』における「鷺」の故事を眺めましたが、謡曲『鷺』に立ち戻りましょう。
 本曲では、シテの謡が極めて少なく、舞の前後の二句のみとなっています。ちなみに、シテの謡が全くない曲としては『室君』と『羅生門』があります。
 本曲は狂言開口で始まり、次いでワキが「一セイ」を謡います。最初に登場して謡うワキ方の謡が「一セイ」であるのは珍しい例で、本曲以外に『羽衣』『国栖』『大江山』があります。

 以下は謡曲『鷺』の、帝に命ぜられた蔵人が鷺を捕えるシーンです。一旦は飛び去ろうとした鷺が勅諚であるといわれ、再び飛び戻り、それに感動した帝より五位の位を授かります。


ワキ蘆間あしまの蔭に
ねらひ寄り覘ひ寄りて。岩間いはまの陰より取らんとすれば。この鷺驚き羽風はかぜを立てゝ。ばつとあがれば力なく。手をむなしうして。仰ぎつゝ走り行きて。なれよ聞け勅諚ちよくぢやうぞや。勅諚ぞと。呼ばはり掛くれば。この鷺たち歸つてもとかたに飛び下り。を垂れ地に伏せば。いだき取り叡覧えいらんに入れ。げにかたじけな王威わうゐの惠み。ありがたや頼もしやと。皆ひと感じけり。げにや佛法ぶつぽふ王法わうぼふの。かしこき時のためしとて。飛ぶ鳥までも地に落ちて叡慮えいりよに叶ふ.ありがたや叡慮に叶ふありがたや。なほなほ君の御惠おんめぐみ。仰ぐ心もいやましに。御酒みきを勧めて諸人もろびとの。舞楽を奏し面々めんめんに。鷺の蔵人くろおど。召し出されて樣々の。御感ぎよかんの餘り爵をび。共になさるゝ五位ごゐの鷺。さも嬉しげに・立ちふや


 神泉苑にまつわる故事で、弘法大師による祈雨について『太平記』『今昔物語』を参照しましたが、それ以外にも以下のような祈雨についての伝承があります。
 その一は、小野小町の祈雨です。国中に日照りが続き、神泉苑で高僧が祈祷をおこなっても効果がありません。そこで勅命により小野小町に雨乞いの歌を奉納することが命ぜられました。
 小町が、
   ことはりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた天が下とは
との歌を詠んだところ、大雨が降ったといわれています。
 その二は、静御前の祈雨。やはり国中が旱魃で人々が苦しんだおり、後白河上皇が雨乞いのために、神泉苑で白拍子百人を集めて舞を舞わせました。99人まで舞うものの雨は降らず、最後の静御前が舞うと黒雲が湧き上がり雨が降ったといいます。『義経記』によれば、この時源義経もその場におり、静御前を見初めたといわれています。
 さらに、以下のような、霊剣「鵜丸(うのまる)」の伝承もあります。
 白河上皇が神泉苑に行幸され、鵜飼をご覧になられたおり、鵜が2、3尺の物を咥えてきた。みると長覆輪の太刀であった。上皇は不思議に思われ「定めて霊剣なり、天下の珍宝たるべし」として、“鵜丸”と名付け秘蔵された。この剣は上皇から鳥羽天皇、崇徳天皇へと伝えられ、保元の乱の前に、源為義に下賜されたという。

 当初、『鷺』の謡蹟探訪という軽い気持ちで訪れた神泉苑でしたが、詳しく調べておりますと、弘法大師と守敏僧都の祈雨にからむ争いなど、興味を惹かれることも多く、貴重な謡蹟探訪となりました。
 神泉苑からは、大宮通を南下し、阪急大宮駅より帰阪の途に着きました。




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  (令和 4年 4月20日・探訪)
(令和 4年 5月28日・記述)


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