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2022年4月20日、京都御所を拝観いたしました。10年以前の2012年4月にも拝観したことがあり、2度目の訪問です。以前は予約制でしたが、現在は予約の必要がなくなり、自由に拝観できるようになっています。ここは謡曲『草子洗小町』や『雷電』『鵺』、また他流曲ですが『現在鵺』などの舞台となった処です。 |
京都御所拝観地図 |
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《京都御所》 京都市上京区京都御苑3 |
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宜秋門 |
建礼門 |
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紫宸殿 |
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「紫宸殿」扁額 |
高御座と御帳台(絵葉書より) |
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さて醍醐天皇の延長8年に、清涼殿に落雷があり、多くの殿上人が死傷する事件があり、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御されました。これは大宰府に左遷されて不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊が、配下の雷神を使い落雷事件を起こしたとの伝説が流布する契機にもなったものです。道真の怨霊に恐れをなした朝廷では、天暦元年(947)に北野社において道真を神として祀られるようになりました。 |
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宝生流でも元来は諸流と同じ『雷電』が演じられていましたが、宝生流の後援者であった加賀藩主前田氏が菅原道真の子孫と称していたことに遠慮して、嘉永4年(1851)の菅公九百五十年忌に際して、前田斉泰が、後場の道真の霊が雷神となって内裏を暴れまわるところを、朝廷を寿いで舞を舞うという筋に改作し、これを『来殿』としました。当座『雷電』と『来殿』の両曲が存在しましたが、明治26年(1893)に宝生流の公定曲として『来殿』を採用し、『雷電』は廃曲となりました。 |
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戦前に発行された大成版の五番綴本では、軍部より横槍が入り〈天皇〉に係わる不適切な部分の文句の変更を強要さたことは別項でも述べておりますが。この『雷電』に関しても改竄の痕跡が多く残されています。現在の一番本と戦前に発行された五番綴のものと対比してみました。(一番本の○○丁は現行本の丁目を示しています。) |
近衛帝の仁平の頃、夜になると東三条の森のあたりより黒雲が湧き起こり、内裏の上を覆うので、帝は大そう怯えられた。公卿たちが相談のうえ、源三位頼政に化生のものを退治するよう命ぜられた。頼政は郎等の猪早太を召し連れ、滋藤の弓を携えて、紫宸殿の大床に潜んでおりました。 |
以上が『平家物語』に語られる頼政の鵺退治の伝承です。そしてこの物語に基づいて作られたのが謡曲『鵺』です。 |
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『鵺』には主人公である頼政は登場せず、頼政に退治された“鵺”の口から頼政の武勇伝が、回想として語られています。ところが金剛流の現行曲に『現在鵺』という曲があり、こちらはその曲名どおりの「現在能」で、頼政が主役で(役柄はワキですが)登場します。(「現在能」については後述します。) |
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本曲のシテは上述したように、ただ退治されるためだけに登場するのですが、いささか気の毒な感があります。 |
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紫宸殿の拝観を終わり、その裏側にある清涼殿へ向かいました。 |
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清涼殿 |
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清涼殿東廂 |
母屋(ガイドブックより) |
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この清涼殿を舞台にして繰り広げられた、王朝絵巻を髣髴とさせる曲が、謡曲『草子洗小町』です。 |
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本曲については、大角征矢氏が『能謡ひとくちメモ』の第9話「『草子洗小町』の雑学」および第27話「『草子洗小町』の雑学 補遺」において、詳述されています。その中から興味のあるものを二三取り上げてみます。 |
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本曲の名場面を鑑賞いたしましたが、黒主が提示した万葉の草子は、小町が一見して「行の次第もしどろ」で「文字の墨つき」も違っていると見破りました。その場には貫之をはじめ、躬恒、忠岑などの歌の名手が並んでいたのですから、敢えて草子を洗わずとも「入れ筆」であることは容易に判明したと思われるのですが…。でもそれでは作者の折角のアイデアが無になってしまいますね。 |
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(令和 4年 4月20日・探訪) (令和 4年 6月19日・記述) |