謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ

京都御所 〈草子洗小町・雷電・現在鵺〉


 2022年4月20日、京都御所を拝観いたしました。10年以前の2012年4月にも拝観したことがあり、2度目の訪問です。以前は予約制でしたが、現在は予約の必要がなくなり、自由に拝観できるようになっています。ここは謡曲『草子洗小町』や『雷電』『鵺』、また他流曲ですが『現在鵺』などの舞台となった処です。
 2012年4月にも拝観した記録は、「気まぐれ紀行」の「京都御所・二条城を訪ねて」に詳述していますので、この項では“紫宸殿”と“清涼殿”を中心とした訪問記といたします。



京都御所拝観地図



《京都御所》  京都市上京区京都御苑3

 京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(内裏)であり、桓武天皇が奈良の平城京より長岡京を経て、延暦13年(794)に平安京に都を移されたのが始まりである。
 平安京は南北約5.2km、東西約4.5kmの方形で、中央の朱雀大路(現在の千本通)により左京と右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていた。平安京の大内裏の中ほどに内裏があった。内裏は火災に遭うと、貴族の邸宅などが一時的に雁の内裏とされた。これを里内裏という。
 現在の京都御所の場所は土御門東洞院殿といわれた里内裏の一つで、元弘元年(1331)に光厳天皇がここで即位をされて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇のお住まいとして使用された。この間も幾度となく火災に遭い、その都度債権が行われ、当初は現在の敷地の半分以下であったが、豊臣秀吉や徳川幕府による造営により敷地は次第に拡張された。
 現在の京都御所は築地塀に囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万㎡である。敷地内では、古代以来の日本宮殿建築の歴史と文化が見られると同時に、回遊式庭園の御池庭、献上の石や灯籠を配した御内庭など、木々や花など季節の変化も楽しめるものとなっている。(パンフレットよりの抜粋)

 以前は宜秋門から入場しましたが、今回は清所門から入場となっていました。


宜秋門

建礼門


 宜秋門は、内裏外郭の西正面にあり、内郭の陰明門と相対しています。皇族、公卿その他官人の出入りした門で、俗に公卿門というそうです。
 建礼門は、内裏外郭の南正面の位置、内郭の承明門と相対しています。天皇皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、最も格式の高い門とされています。平清盛の娘である徳子が、安徳天皇の生母となったため院号宣下により「建礼門院」を称したことで、謡曲ファンにとっては馴染み深い名となっています。



紫宸殿


「紫宸殿」扁額

高御座と御帳台(絵葉書より)


 内裏の中心となる建物が紫宸殿です。以下はパンフレットの説明書きです。

 紫宸殿は京都御所の正殿で、即位礼や節会等の厳儀を行うところである。即位礼は本来は大極殿で行うのであるが、安元3年(1177)に炎上の後は再建されることがなく、その後は長く太政官で行われてきた。その太政官も土御門天皇(在位1198~1210)の即位礼を最後に、再建されることもなく応仁の乱(応仁元年・1467~文明9年・1477)となる。次の後柏原天皇は踐祚後22年目(1521)に当時の里内裏であった土御門東洞院殿の紫宸殿で即位礼をあげられたが、以来、即位礼は土御門東洞院内裏の紫宸殿で行われるようになった。この内裏こそ、数次の焼失・再建を経て拡張されてきたのが現在の京都御所である。京都御所は安政2年(1855)の御造営で、紫宸殿は檜皮葺き屋根の木造高床式純和風宮殿建築─寝殿造り。母屋とその四方に廂(ひさし)をつけ、内部は拭板(ぬぐいいた)敷きで化粧屋根裏、外周は柱間ごとに一枚あての蔀を嵌め、四囲に低い高欄を持つ簀子縁(すのこえん)をめぐらす。南面し、正面中央に「紫宸殿」の扁額を掲げ、簀子縁から南庭(だんてい)に南階(十八級階段)を架ける。棟までの高さ二十メートル。前面には白砂の南庭が広がり、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられている。
 紫宸殿の母屋中央に高御座(たかみくら)が、その東側に御帳台(みちょうだい)が置かれている。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位礼はこの紫宸殿で行われ、今上陛下の即位礼は高御座と御帳台を東京に搬送して宮殿で行われた。



 さて醍醐天皇の延長8年に、清涼殿に落雷があり、多くの殿上人が死傷する事件があり、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御されました。これは大宰府に左遷されて不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊が、配下の雷神を使い落雷事件を起こしたとの伝説が流布する契機にもなったものです。道真の怨霊に恐れをなした朝廷では、天暦元年(947)に北野社において道真を神として祀られるようになりました。
 この経緯は『太平記』巻十二「大内造営幷びに聖廟の御事」に詳しく述べられており、『太平記』や『北野延喜』を典拠とした曲が『雷電』です。
 『雷電』の前場は比叡山延暦寺が舞台となっており、「(その75)比叡山延暦寺」で取り上げていますが、本項はその後場となっています。


   謡曲「雷電」梗概
 作者は未詳であるが宮増との説もある。『太平記』に典拠する。観世・金剛・喜多流のみの現行曲。宝生流の『来殿』は後場を作り変えた別曲である。

 太宰府に左遷された菅丞相(菅原道真)が怨みを呑んで死ぬと、その怨霊が夜半に、恩師である比叡山延暦寺の座主・法性坊律師僧正のもとへ訪れ、宮廷人に復讐する意思を漏らし、宮廷から要請があっても下山せぬよう依頼する。僧正が、要請が三度に及べば参内せざるを得ぬ由を応えると、丞相は仏壇に供えてあった柘榴をかみ砕き、妻戸に投げかけ火焔となし、姿を消す。
 内裏では黒雲と稲妻に襲われ、丞相の変じた雷神が雷鳴をとどろかせ、紫宸殿・弘徽殿・清涼殿と諸所を飛び廻る。法性坊律師僧正がこれを追って祈り、帝から天魔大自在天神の名を贈られた丞相は、喜び立ち去る。


 後場では、一畳台をワキ座と脇正に出し、紫宸殿、弘毅殿、清涼殿と内裏の其処・彼処を荒れ廻るさまで、シテとワキがそれぞれの一畳台を上がり下りして、怒りをなして内裏の殿舎を飛び回る菅丞相と、これを祈り伏せようとする僧正との激しい攻防を見せる。。


 宝生流でも元来は諸流と同じ『雷電』が演じられていましたが、宝生流の後援者であった加賀藩主前田氏が菅原道真の子孫と称していたことに遠慮して、嘉永4年(1851)の菅公九百五十年忌に際して、前田斉泰が、後場の道真の霊が雷神となって内裏を暴れまわるところを、朝廷を寿いで舞を舞うという筋に改作し、これを『来殿』としました。当座『雷電』と『来殿』の両曲が存在しましたが、明治26年(1893)に宝生流の公定曲として『来殿』を採用し、『雷電』は廃曲となりました。

 以下は、雷に変じた菅丞相と法性坊僧正の攻防を描いた〈キリ〉の場面です。


後シテ「あらおろかや僧正よ。我を見放し給ふ上は。僧正なりとも恐るまじ。我にかりし雲客うんかく
おもひ知らせん人々よ。思ひ知らせん人々とて。小龍せうりうを引き連れて。黒雲くろくもにうち乘りて。内裏の四方しはうを鳴り廻れば。稲光稲妻の。電光でんくわうしきりにひらめき渡り。玉體ぎよくたい危く見えさせ給ふが。不思議や僧正の。おはする所をいかづち恐れて鳴らざりけるこそ危特きどくなれ

紫宸殿に僧正あれば。弘徽殿こうきでん神鳴かみなりする。弘徽殿に移り給へば清涼殿にいかづち鳴る。清涼殿に移り給へば梨壺なしつぼ梅壺うめつぼ。晝の夜の御殿おとどを。行きちがひ廻り逢ひて。我劣らじと。祈るは僧正鳴るはいかづちみ合ひ揉み合ひけ追つ駈け互の勢ひ喩へんかたなく恐ろしかりける有様かな。千手せんじゆ陀羅尼だらにて賜へば。かみなりの壷にもこらへず。荒海の障子しやうじを隔て。これまでなりやゆるし給へ。聞法もんぼふ秘密の法味ほふみに預りみかどは天満大自在。天神と贈官ぞうくわんを。菅丞相しようじやうに下されければ。うれしや生きてのうらみ。死しての喜びこれまでなりやこれまでとて。黒雲くろくもにうち乘つて虚空こくうあがらせ給ひけり


 戦前に発行された大成版の五番綴本では、軍部より横槍が入り〈天皇〉に係わる不適切な部分の文句の変更を強要さたことは別項でも述べておりますが。この『雷電』に関しても改竄の痕跡が多く残されています。現在の一番本と戦前に発行された五番綴のものと対比してみました。(一番本の○○丁は現行本の丁目を示しています。)

★5丁目裏
〈現行本〉我に憂かりし雲客を蹴殺すべし。其時僧正を召され候べし。構へて御參り候なよ
(戦前本)君側の奸を蹴殺すべし。その時僧正を召さるゝとも。構へて參り給ふなと
★5丁目裏~6丁目表
〈現行本〉ワキ詞「仮令宣旨は…」から、ワキ詞「…勅使三度に及ぶならば。いかでか参内申さゞらん」まで
(戦前本)削除
★6丁目表
〈現行本〉シテ「其時丞相姿俄に變り鬼の如し ワキ「折節本尊の御前に。柘榴を手向け置きたるを
(戦前本)ワキ「言ふかと見れば丞相の氣色變じて鬼の如し シテ「折節本尊の御前に ワキ「柘榴を手向け置きたるを
★8丁目表
〈現行本〉後シテ「あら愚かや僧正よ。…我に憂かりし雲客に
(戦前本)後シテ「あら愚かや僧正よ。…邪智奸佞の輩に
★8丁目裏
〈現行本〉地「…電光頻りに閃き渡り。玉體危く見えさせ給ふが。
(戦前本)地「…電光頻りに閃き渡り。前後を忘ずる有様なれども。

 “雲客”は殿上人のことですが、殿上人には皇族なども含まれるから不都合とされたのでしょうか。また「一、二度の“宣旨”では参らず、三度に及べば参内する」という態度も赦し難いと考えられたものでしょう。最後の「玉體危く見えさせ」などは、もっての外のことでありましょう。

 『雷電』を題材とした川柳は数多く詠まれています。後場に関係する句を、二三拾ってみました。

  雷になるはづ元は雲の上
  僧正の七尺わきへ壱ツ落ち
  荒事と出ねば神にもなり難し

 初句、菅原道真は左遷されて太宰府に流される前は右大臣に任ぜられていましたから、殿上人すなわち“雲の上人”でした。
 二句目、「七尺去って師の影を踏まず」という故事成語があります。叡山の法性坊僧正は道真の師であり、師である僧正の上には菅公も怨みの雷も落とすわけにはいかず、七尺避けて落したであろう、ということです。
 三句目、天満天神として崇められるには、内裏襲撃という荒業が必要であった、ということでしょうか!?


 『雷電』の事件は、菅原道真の霊が雷神となって現れ、内裏を騒がせたのですが、これは道真を神として崇めることにより解決することを得ました。
 ところが内裏はよくよく化け物に狙われやすい処と見えまして、今度は近衛帝の御宇に、夜な夜な化生のものが禁裏を騒がせる事件が起こりました。幸いこの化け物は源三位頼政によって退治されました。
 この事件は『平家物語』巻第四「鵼(ぬえ)の事」に、以下のように記されています。


 近衛帝の仁平の頃、夜になると東三条の森のあたりより黒雲が湧き起こり、内裏の上を覆うので、帝は大そう怯えられた。公卿たちが相談のうえ、源三位頼政に化生のものを退治するよう命ぜられた。頼政は郎等の猪早太を召し連れ、滋藤の弓を携えて、紫宸殿の大床に潜んでおりました。

 案の如く、日來ひごろ人の申すにたがはす、御惱の刻限に及んで、東三條の森の方より、黒雲一むら立ち來て、御殿の上にたなびいたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。射損ずる程ならば、世にあるべしとも覺えず。さりながら、矢取つてつがひ、「南無八幡大菩薩」と、心の中に祈念して、よついて、ひやうと放つ。手答てごたへして、はたとあたる。「得たりや、をう」と、矢叫やさけびをこそしてんげれ。猪早太つと寄り、落つる處を取つて押へ、つかこぶしとほれ透ほれと、續け樣に九刀ここのかたなぞ刺いたりける。その時上下手々てんでに火をともして、これを御覧じ見給ふに、かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎の如くにて、鳴く聲ぬえにぞ似たりける。恐ろしなどもおろかなり。主上しゆしやう御感の餘りに、獅子王と申す御劒ぎよけんを下さる。宇治の左大臣殿これを賜り次いで、頼政にばんとて、御前のきざはしなからばかり下りさせ給ふをりふし、頃は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公くわつこう、二聲三聲おとづれて通りければ、左大臣殿、
  ほとゝぎす名をも雲井くもゐにあぐるかな
と仰せられかけりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をすこし傍目そばめにかけつゝ、
  ゆみはり月のいるにまかせて
つかまつり、御劒を賜はりてまかり出づ。

 さらに、二條帝の応保の頃にも鵼が現れ、御殿を騒がすことがあったが、再び頼政が召されてこれを退治した。


 以上が『平家物語』に語られる頼政の鵺退治の伝承です。そしてこの物語に基づいて作られたのが謡曲『鵺』です。
 『鵺』に関しては、別項の「(その10)鵼大明神」で取り上げていますので、本項では省略して、謡曲の頼政が鵺を退治する場面を以下に転載します。


シテ「さてもわれ悪心あくしん外道げだう變化へんげとなつて。佛法王法わうほふさはりとならんと。王城ちかく遍滿へんまんして。東三條の林頭に暫く飛行ひぎやうし。丑三うしみつばかりのな夜なに。御殿の上に飛びさがれば

「即ち御悩しきりにてて。玉體ぎよくたいを悩まして。おび魂消たまいらせ給ふ事も我がわざよと怒りをなしゝに。思ひも寄らざりし頼政が。矢先やさきに當れば變身失せて。落々らくらく磊々らいらいと。地に倒れて。たちまちにめつせし事。思へば頼政が矢先よりは。君の天罰てんばつを。當りけるよと今こそ思ひ知られたれ。その時主上しゆしやう御感あつて。獅子王と云ふ御劒ぎよけんを。頼政に下されけるを宇治の大臣賜はりて。きざはしを下り給ふに折節郭公くわつこう訪れければ。大臣取りあへず

シテ「ほとゝぎす。名をも雲居くもゐに。ぐるかなと。仰せられければ
「頼政。右のひざをついて。ひだりの袖を廣げ月を少し目にかけて。弓張月ゆみはりづきの。いるにまかせてと。仕り御剱ぎよけんを賜はり。御前を。まかり歸れば。頼政は名をげて。


 『鵺』には主人公である頼政は登場せず、頼政に退治された“鵺”の口から頼政の武勇伝が、回想として語られています。ところが金剛流の現行曲に『現在鵺』という曲があり、こちらはその曲名どおりの「現在能」で、頼政が主役で(役柄はワキですが)登場します。(「現在能」については後述します。)
 それでは『現在鵺』について。


   謡曲「現在鵺」梗概
 作者は未詳。『平家物語』『源平盛衰記』に典拠する。金剛流のみの現行曲であり、上演機会の少ない稀曲である。

 近衛天皇の仁平三年に、夜な夜な東三條の森の方より黒雲立ち来り、御殿の上に覆へば、必ず帝怯えさせ給ふ。即ち公卿せん議り、源の義家、後冷泉帝の御悩を弓矢を以て怠らせ參らせし例に倣ひ、源三位頼政に變化を退治せよとの宣旨下れり。頼政其時は兵庫の頭にてありけるが、郎黨には遠江の國の住人、猪の隼太只一人を召し具し、御寝殿の大床に伺候居て、頭は猿、尾は蛇、四足は虎の如くなる鵺といへる變化を退治せしとなり。(金剛流一番本による)


 本曲は前述の『鵺』の事件をワキ(源三位頼政)の側から見せたもので、前場、後場ともにワキが主役といえる行動をする。シテ(鵺)は謡がなく、ただ退治されるためだけの役割となっている。


 本曲のシテは上述したように、ただ退治されるためだけに登場するのですが、いささか気の毒な感があります。
 『能楽大事典』によれば、ワキが一畳台の上のシテに矢を放つと、シテはでんぐり返りをして台上から落ち、ワキツレ〈猪隼太〉との組み合いとなり、一の松で仏倒れとなる型があるようですが、シテとしてはあまり演じたくない役かもしれませんね。
 以下は〈キリ〉の鵺退治の場面です。(金剛流一番本による)


「不思議や更行ふけゆく月影の。不思議や更行く月影の。光をますかと見えつるが。東三條とうさんじやうの林頭より。黒雲一むら飛来り。御殿の上にぞ懸りける
ワキ「其時頼政祈念きねんして
「其時頼政祈念して。南無や八幡大菩薩。化生の眞中まんなか射させてたべと。まなこを開き能々よくよく見れば。頭は猿.尾はくちなは。足手は虎の如くなるが。啼く声鵺にぞ似たりける。とがり矢つがつて。能引よつぴきしぼり化生のまん中へうずばと射通され。おきつまろびつ御殿の上を。走りめぐるがしばしもたまらず逆様さかさまに落けるを。猪隼太つと寄り。とらんとしたれば飛違ひ行くを。追詰おひつ一刀ひとかたなふた刀三刀ここの刀に刺し留めければ。弓矢の家に頼政が勢ひ。誉ぬ人こそなかりけれ



 紫宸殿の拝観を終わり、その裏側にある清涼殿へ向かいました。


清涼殿


清涼殿東廂

母屋(ガイドブックより)


 内裏の中心となる建物が紫宸殿です。以下はパンフレットの説明書きです。

 紫宸殿を過ぎ、参観順路に従って露台を潜り白砂敷きの東庭に入ると、南側に漢竹(からたけ)、ほぼ中央に呉竹(くれたけ)が籬で囲んで植えてある御殿が清涼殿である。古来よく紫清両殿と呼び慣わされたように紫宸殿とともに由緒ある建物で、枕草子など王朝女流文学と密着した親しみがある。当初は日常のお住まいとして紫宸殿の背後に仁寿殿(しじゅうでん)があったが、宇多天皇のころから清涼殿が日常の御殿になったといわれる。さらに時代がさかせり御常御殿が別に構えられるようになって、清涼殿も儀式用の御殿となる。しかし形式的には日常の御殿たる性格は保持されて現在にいたっている。母屋の四方にも廂をもち、東廂にはさらに弘廂がつく。紫宸殿と同様に寝殿造りであるが、日常の御殿であるため内部は襖などでの間仕切りが多くなっている。
 清涼殿の南廂を「殿上の間」といい、ここに蔵人、公卿などが伺候し、御用を奉仕した。殿上人というのは、ここに昇殿できる者のことである。
 清涼殿は南北に九間(柱間)ある。北四間は蔀が下ろされているが、中央額の間から五間は内部を見ることができる。奥は母屋で、御帳台があり、内部は御倚子(ごいし)を立て、左右に劔璽案(けんじあん)を置いている。御帳台の南に大床子(だいしょうじ)二脚、台盤(だいばん)一脚を置くが、昔はここで晴の御膳(おもの)をお召しあがりになった。
 母屋の手前が東廂で、御帳台の前、厚疊二枚を並べて上に褥を載せた平敷きの御座を昼御座という。右手の屏風前の漆喰で固めたところは石灰壇(いしばいだん)といい、地面になぞらえてここから神宮や賢所を遥拝された。屏風が内側を向いているのは、もとより奥の方、母屋が重要であったからで、延喜(醍醐天皇)天暦(村上天皇)寛平(宇多天皇)三代の日記を納めた厨子その他楽器などが置かれていた。



 この清涼殿を舞台にして繰り広げられた、王朝絵巻を髣髴とさせる曲が、謡曲『草子洗小町』です。


   謡曲「草子洗小町」梗概
 作者は世阿弥もしくは観阿弥とされていたが、近年の研究によればが未詳。典拠も未詳。
 本曲は観世流では『草子洗小町(そうしあらいこまち)』、宝生流は『草紙洗』、金春流は『草紙洗小町(そうしあらいこまち)』、金剛流は『双紙洗』、喜多流は『草紙洗小町(そうしあらいごまち)』と五流で呼称がそれぞれ異なっている。

 内裏で歌合が開かれることとなり、大伴黒主の相手には小野小町と定められた。歌合の前夜、黒主は小町の私宅に忍び入り小町が詠ずる歌を盗み聞き、それを万葉集に入れ筆して、古歌であると訴えようとした。
 翌日の歌合の関で、紀貫之が小町の歌を詠みあげると、黒主は、その歌は万葉の古歌であると訴えた。小町はそれを入れ筆であると見破り、勅許を得てこの草子を洗うと、黒主により書き入れられた文字は消える。面目を失った黒主は自害をしようとするが、小町がとりなし、一同の勧めで舞を舞う。

 
 小野小町を扱った作品には、ほかに老女物の『関寺小町』『鸚鵡小町』『卒都婆小町』およびツレとして登場する『通小町』があるが、本曲は小町の若いころの活躍を描いた現行曲では唯一の作品である。


 本曲については、大角征矢氏が『能謡ひとくちメモ』の第9話「『草子洗小町』の雑学」および第27話「『草子洗小町』の雑学 補遺」において、詳述されています。その中から興味のあるものを二三取り上げてみます。
◎登場人物の生存時代
 大成版一番本の前付〈資材〉には「曲中の人物は、何れも時代を異にしていた人々であるが、…」と述べられ、また〈曲趣〉では「もとより同時代人ではない小町と黒主を競争者として対立させたり、更に貫之・躬恒・忠岑などをも列座させるのは年代を無視した行き方ではあるが、…」と述べられています。さらに『能楽大事典』の「草紙洗」の項では「なお登場人物の生存時代は一致せず、話柄としては荒唐無稽に近いが、…」と記されています。
 これに関して大角氏は諸例を引いて反論されています。私も安易な方法ではありますが Wikipedia などで小町・黒主・貫之などの生存期間を調べてみました。生没年が定かではなく、確たる生存期間は限定できないものの、大まかな期間は以下のようではないかと思われます。
    小野小町   830年~900年
    大伴黒主   850年~900年
    紀貫之    870年~940年
    凡河内躬恒  860年~920年
    壬生忠岑   860年~920年
 上記はあくまでも推測の域を出ませんが、一番本前付にある「何れも時代を異にしていた人々」とは言い難く、『能楽大事典』の「話柄としては荒唐無稽に近い」とは、まったく当を得ていないと言わざるを得ません。
◎万葉集の歌の数
 謡曲で小町は万葉集について「歌の数は七千首に及んで。皆わらわが知らぬ歌はさむらはず」と博学ぶりを披露していますが、万葉集の実際の歌は、4516首です。いくら何でもこれではおかしいというわけで、金剛流や喜多流では〈四千三百余首〉としていますが、宝生流・金春流は観世流と同じく〈七千首〉となっています。
◎万葉集の編集順
 万葉集の歌は、雑歌、相聞、挽歌、雑歌、譬喩歌、挽歌、相聞、…、という並びに編集されています。ところが本曲で「さらば證歌を出せ」との宣旨に応えて、黒主は「始めは立春の題なれば。花も盡きぬと引き披く。夏は涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。既に讀まんとさし上ぐれば」と入れ筆した歌を示して読み上げようとします。「春歌」には該当がなく、続く「夏歌」の部に「ありました!」というわけですが、この歌の編集順、すなわち、春歌、夏歌、秋歌、… と続くのは、紀貫之たちが中心となって編纂した『古今和歌集』の編集順なのです。
 謡曲作者はそのあたりのことは当然分かっておって、ニヤニヤしながら書いたのでしょうね。

 大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』では、さらに詳細に解説されていますので、ぜひご一読ください。

 それでは以下に少し長くなりますが、本曲のハイライト、小町が草子を洗うシーンです。


次第 地「和歌の浦曲うらわ藻塩草もしほぐさ和歌の浦曲の藻塩草波せかけて洗はん
一セイ シテあまの川瀬に洗ひしは
地 「秋の七日なぬかの衣なり
シテ「花色ぎぬの袂には
地 「梅のにほひや。まじるらん
ロンギ 地かりがねの。翼は文字の數なれどあと定めねばあらはれず潁川えいせんに耳を洗ひしは
シテ「にごれる世をましけり
地 舊苔きうたいひげを洗ひしは
シテ川原かはらに解くる薄氷うすごほり
地 「春の歌を洗ひてはかすみの袖を解かうよ
シテふゆの歌を洗へば.冬の歌を洗へば
地 たもとも寒き水鳥の。上毛うはげの霜二洗はん。上毛の霜に洗はん。こひの歌の文字なればしのび草の墨消え
シテ「涙は袖にりくれて。しのぐさも乱るゝ.忘れぐさも乱るゝ


地 釋敎しやくきやうの歌の數々は
シテはちすの糸ぞ乱るゝ
地 神祇じんぎの歌は榊葉さかきば
シテ紅葉もみぢの錦なりけり
地 庭燎にはびに袖ぞかはける
シテ紅葉もみぢの錦なりけり
地 住吉すみよしの。住吉の。ひさしき松を洗ひては岸に寄する白波しらなみをさつとかけて洗はん。洗ひ洗ひて取り上げて。見れば不思議やこは如何いかに。數々かずかずのその歌の。作者も題も。文字もじの形も少しも乱るゝ事もなく。入筆いれふでなれば浮草うきくさの。文字は一字いちじも殘らで消えにけり。蟻型やありがたや。出雲いづも住吉玉津島たまつしま人丸ひとまる赤人の。御惠おんめぐみかと伏し拜み。喜びて龍顔りようがんにそし上げたりや


 本曲の名場面を鑑賞いたしましたが、黒主が提示した万葉の草子は、小町が一見して「行の次第もしどろ」で「文字の墨つき」も違っていると見破りました。その場には貫之をはじめ、躬恒、忠岑などの歌の名手が並んでいたのですから、敢えて草子を洗わずとも「入れ筆」であることは容易に判明したと思われるのですが…。でもそれでは作者の折角のアイデアが無になってしまいますね。

 『雷電』同様、『草子洗小町』も数多く川柳に詠まれています。

  洗ッてびつくり篠原に和歌の論
  粂と黒主洗濯で名を汚し

 初句、“篠原”は齊藤別当実盛が篠原の合戦で、白髪頭を黒く染めて戦ったものの討死します。不審に思った木曽義仲が、首を洗わせると白髪頭であり、実盛であることが判明いたします。げにや、洗ってびっくり!ですね。
 二句目、粂の仙人が、洗濯する若い女性の白いふくらはぎを見て、神通力を失い墜落する故事を詠んだものです。


 最後に『現在鵺』で触れました「現在能」について。以下に「現在能」と「現在物」について『能楽大事典』の解説を参照しています。

 「夢幻能」の対義語として横道萬里雄により提唱された呼称で、後述する「現在物」より広義な概念となっている。登場人物は男女を問わず現実の人間で現実世界の出来事が、現実の時間の流れに沿って進行する。「現在」とは仏教用語から出た能の術語で、同じ人物を描く二曲一対の能に『忠度』と『現在忠度』、『鵺』と『現在鵺』があるように、夢幻能でない曲に「現在」の字を冠する習慣があったのに基づく。『安宅』『小袖曽我』『自然居士』『隅田川』『千手』『花筐』『班女』『熊野』『吉野静』など、四番目に集中し、つぎに三番目物の約半数を占める。
 複数の人物の葛藤を描くこと、シテ以外の諸役も活躍すること、夢幻能のように脚本構造が類型化されていないこと、具体的な事件を通して人間の状況を描くことなどが、現在能の特徴といえるが、必ずしもすべての現在能がそうではなく、『景清』『関寺小町』などのように回想形式を用いてシテ一人主義の様相を帯びた現在能もある。

 上記の定義からすれば『草子洗小町』も「現在能」といえましょう。
 次いで「現在物」について。

 シテが現実の男性(多くは武士)の役である能。男舞を舞う『小督』『仲光(満仲)』『盛久』など、武士どうしの戦いを見せる『正尊』『大仏供養』『忠信』『橋弁慶』『夜討曽我』など、芸尽くしを見せる『放下僧』『望月』など、人情物的内容の『安宅』『鉢木』などを総称していう。ほぼ直面物と重なるが、面をつける『俊寛』『景清』なども現在物に含まれる。
 佐成謙太郎などに代表される戦前の研究者が、神仏や幽霊、物の精をシテとする夢幻能に対して用いた命名だったが、近年は夢幻能に対しては広く「現在能」と称するのが一般的となりつつあるので、「現在物」の名称はあまり用いられない。

 「現在物」について、野上豊一郎はその著『能二百四十番』で以下のように述べています。

 能の主人公・女主人公の多くは、神とか鬼とか天狗とか妖精とかいつたやうな超自然的存在であるが、或ひは遠い昔に此の世を去つた貴顕・淑女の類が物語や傳説の中から引き出された者であるか、さういつた仁體の出現が常であるが、それを殊更に現在此の世に生きてゐるかの如くに、過去の英雄たちを登場させるので“現在物”とはいふのである。(中略)
 “現在物”であるためには次の條件が必要である。まづシテの扮する人物は男性であること。それも原則としては史上の有名な人物であること。ワキはシテの扮する人物と同時代人に扮して、事件の上で對立關係を持つこと。事件がある程度まで劇的展開を示すこと。シテは必ず直面(ひためん假面なし)であること。シテは事件の最後に於いて“男舞”を舞ふか、しからざれば“切組(格闘)”の場面を見せること。その他、まだ二三の附随的條件はあるけれども、少くとも上述の條件を具備しなければ“現在物”とは言へないのである。




 謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ
  (令和 4年 4月20日・探訪)
(令和 4年 6月19日・記述)


inserted by FC2 system