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2022年7月21日、宮崎市内にある景清廟に参拝いたしました。景清廟は平家の侍・悪七兵衛景清終焉の地との伝承があります。 |
宮崎駅から景清廟に至る |
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まず、悪七兵衛景清とはどのような人物であったか。以下 Wikipedia によります。 |
史蹟「景清廟」 |
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景清を祀る小詞と説明版 |
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祠の左手には「伝景清公使用御硯石」があります。石の中央が窪み、そこに水が溜まって硯石の間を呈しています。けれども、盲目となった景清がどうやって硯を使ったものか、いささか疑問ではあります。 |
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景清を祀る小詞の内陣 |
景清使用の硯石と景清廟改築記念碑 |
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景清父母の慰霊塔 |
景清父子の墓 |
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大師堂と薬師如来堂 |
謡曲史蹟保存会の駒札 |
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本曲における景清は、単に老残の平家の侍大将としてではなく、平家を語る者として構想されているとする見解があります。香西精氏『謡曲界』昭和11年9月号において、以下のように述べています。(香西精『能楽新孝』檜書店、1980) |
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謡曲では、娘の人丸が鎌倉から父を尋ねて宮崎までやってきたという設定になっています。けれども景清廟では、人丸についての詳しい情報に接することが出来ませんでした。 |
人丸神社訪問地図 |
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《人丸神社》 福岡県糟屋郡新宮町下府 |
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人丸神社一の鳥居 |
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人丸神社は源平合戦の哀史にまつわるお宮です。平景清は源頼朝に対する謀反の罪で日向の国へ流されました。その景清の娘である人丸姫は父を慕い京の都から九州まで来ました。しかし、長旅の疲れからこの地で病にかかりそのまま亡くなってしまいました。人丸姫の遺言は「父に会えず死ぬことは心残りなので日向に向けて葬ってほしい」というもので、それに従って飛山に葬りました。 |
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拝殿に至る参道 |
桜の並木が続く |
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人丸神社二の鳥居 |
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人丸神社は源平合戦の哀史にまつわるお宮で、平景清の娘「人丸姫」を祭神とします。 |
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拝殿 |
手水舎、社務所 |
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以上、宮崎の景清廟と福岡県の人丸神社を訪れました。わたしの調査不足によるものかもしれませんが、これらの地には古くから伝わる景清についての伝承に接することが出来ませんでした。 |
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(令和 4年 7月20、21日・探訪) (令和 4年 9月 1日・記述) |