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日向宮崎・景清廟 〈景清〉


 2022年7月21日、宮崎市内にある景清廟に参拝いたしました。景清廟は平家の侍・悪七兵衛景清終焉の地との伝承があります。
 7月21日の昼過ぎに宮崎駅に到着、駅構内にある観光協会でレンタサイクルを借用、郵便局廻りを兼ねて、謡蹟訪問へとスタートいたしました。景清廟は宮崎駅から約数キロの地点、ただこの日はきびしい真夏日でありました。



宮崎駅から景清廟に至る



 まず、悪七兵衛景清とはどのような人物であったか。以下 Wikipedia によります。

 平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。
 平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。
 実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

 壇ノ浦の合戦で敗れた後に捕らえられ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれいますが、異説もあるようです。実在したとはいえ生涯に謎の多い人物で、各地に様々な伝説が残されています。
 景清を主人公とした曲に『大仏供養』があります。平家滅亡後頼朝の奈良詣での折、頼朝暗殺を図るものの果たせず、逃れ去るというストーリーとなっています。
 『平家物語』においては、景清について上記のように〈巻十一「弓流」〉にその活躍が記されています。それ以外には〈巻四「端合戦」〉および〈巻十一「内侍所の都入〉で名前だけ散見する程度で、活躍の記録はなく、いささか寂しいかぎりです。
 以下に、『平家物語』における景清関連の記事をたどってみます。(佐藤謙三校注『平家物語』角川文庫、1959)
 先ず〈巻四「端合戦」〉、ここでは侍大将の一人として名前が挙げられているだけです。

 さる程に、宮は、宇治と寺との間にて、六度まで御落馬ありけり。これは去んぬる夜、御寝ぎよしんならざりし故なりとて、宇治橋三間引きはなし、平等院びやうどうゐんに入れ奉り、暫くご休息ありけり。六波羅には、「すはや、宮こそ南都へ落ちさせ給ふなれ。追つかけて討ち奉れや」とて、大将軍には、左兵衛督知盛・頭中将重衡しげひら・薩摩守忠度、さぶらひ大将には、上總守忠清・その子上總太郎判官忠嗣・飛騨守ひだのかみ景家・その子飛騨太郎判官景高・高橋判官長綱・河内判官秀國・武蔵三郎左衛門有國・越中次郎兵衛盛綱もりつな・上總五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清を先として、都合その勢二萬八千餘騎、木幡山こばたやまうち越えて、宇治橋のつめにぞおし寄せたる。

 続いて〈巻十一「弓流」〉、有名な「錣引き」の一節です。

 先づ楯の陰より、塗箆ぬりのに黑ほろいだる大の矢を持つて、眞先まつさきに進んだる美尾みおのやの十郎が、馬の左の鞅盡むながいづくしを、はずの隱るる程にぞ、射籠いこうだる。屏風を返すやうに、馬はどうと倒るれば、ぬし左手ゆんでの足を越え、馬手めての方へ下立おりたつて、やがて太刀をぞ抜いたりける。又、楯の陰より、長刀うち振つてかゝりければ、美尾屋十郎、小太刀、大長刀に叶はじとや思ひけん、かいふいて逃げければ、やがて續いて追つかけたり。長刀にてがんずるかと見る所に、さはなくして、長刀をば弓手ゆんでの脇にかい挟み、馬手めての手をさし延べて、美尾屋十郎が甲のしころつかまうとす。摑まれじと逃ぐる。三度摑みはづいて、四度しどたび゛むずと摑む。しばしばたまつて見えし。鉢附はちつけの板より、ふつと引き切つてぞ逃げたりける。殘り四期は、馬をしうで駈けず、見物してぞ居たりける。美尾屋十郎は、御方みかたの馬の陰に逃げ入つて、息續いきつぎ目たり。かたきは追うても來ず。その後甲のしころをば、長刀のさきにつらぬき、高く差し上げ、大音聲を揚げて、「遠からん物は音にも聞け、近くは目にも見給へ。これこそ京童きやうわらんべ呼ぶなる、上總かづさの悪七兵衛景清よ」と名のり捨てゝ、御方の陰へぞ退きにける。

 最後に〈巻十一「内侍所の都入〉、壇ノ浦から落ち延びた侍大将の一人として描かれています。

 岑中納言知盛の卿は、「見るべき程の事をば見つ。今はたゞ自害をせん」とて、乳母子めのとごの伊賀の平内左衛門家長を召して、「日來ひごろ/rt>の契約をばたがふまじきか」と宣へば、「さる事候」とて、中納言殿にも、鎧二領着せ奉り、我が身も二領着て、手に手を取り組み、一所に海にぞ入り給ふ。これを見て、當座にありれる二十餘人侍ども、續いて海にぞ沈みける。されども、その中に、越中の次郎兵衛・上總の五郎兵衛・惡七兵衛・飛騨の四郎兵衛などは、何としてかは遁れたりけん、そこをもつひに落ちにけり。




史蹟「景清廟」


《景清廟》  宮崎市大字下北方町塚原5836


 猛暑のなかを、自転車を駆って北上しますと、三叉路になっている道の突き当りに、「史蹟 景清廟」と大きく刻された石柱がありました。
 注連縄がめぐらされた門を抜けると、正面に景清を祀る小詞があり、右手には説明書きが設置されています。


景清を祀る小詞と説明版


 以下は、下北方町区会による説明書きからの転載です。

 景清公と娘人丸姫の遺骸をまつる。
 回顧すれば公が壇の浦の渦中より脱して頼朝を亡さんと心膽を砕かれしも果せず遂に畠山重忠に捕らえらる。
 頼朝は公の武勇非凡なるを惜しみ、己に仕えむことを懇望す。公固く辞して直ちに両眼を抉りて曰く、此眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず。然るに今は盲目たり。最早敵対する念なしと。ここに於いて頼朝の仁命により、日向の勾當となり文治2年11月下向あり。時に齢32才なり。
 此の地にあるや深く神仏を信仰し、帝釈寺の再興・岩門寺・正光寺を建立せり。
 建保2年8月15日行年62才にて没す。法名千手院殿景清水艦大居士と称す。

 この説明では、壇ノ浦から逃亡後、畠山重忠に捕らえられ、頼朝を討つことを断念するため、自ら両眼をえぐりだし盲目の身となり、日向に流されたとされています。


 祠の左手には「伝景清公使用御硯石」があります。石の中央が窪み、そこに水が溜まって硯石の間を呈しています。けれども、盲目となった景清がどうやって硯を使ったものか、いささか疑問ではあります。
 その後方に「景清廟改築之碑」が建てられています。銘に“紀元二千六百年記念”とありますので、昭和15年(1940)に建立されたものでしょう。碑には「景清く照らすいき目の水かゝみ末の世までも曇らざりけり」の歌が刻されていました。


景清を祀る小詞の内陣

景清使用の硯石と景清廟改築記念碑


 また祠の左手には墓石群が並んで祀られています。
 「景清公父母之慰霊塔」の看板のある墓石の最右端の墓が景清の墓といわれているそうです。また左端の小詞には「孝女人丸姫…」とした看板が保存されており、かつてこの小祠は景清の娘・人丸姫を祀っていたものと思われます。


景清父母の慰霊塔

景清父子の墓


 墓石群のはずれにひときわ大きな墓があり、景清父子を祀っているようです。当地では人丸についての説明がほとんどなく、人丸がはたしてこの地まで訪れたものか否か、詳しい伝承に巡り合うことができませんでした。
 境内のはずれに弘法大師堂と薬師如来堂があり、当寺は真言のお寺であったようです。ただ景清の清水寺での観音信仰は有名でしたから、薬師堂ではなく観音堂てあってほしかった。


大師堂と薬師如来堂

謡曲史蹟保存会の駒札


 また“謡曲「景清」と父母の慰霊塔”として、謡曲史蹟保存会の駒札が立てられていますが、風化が著しく、文字を識別するのにひと苦労でした。

 謡曲「景清」は、敗戦の老武者の悲しみ、怒り、誇りの起伏する感情を、親子の情愛を軸にして創意された人情物である。
 剛勇の聞こえ高い平家の侍悪七兵衛景清は自ら盲目となって日向の国宮崎に下り、信仰一筋の日々を送っていた。父を慕い遙々の海山を越えて鎌倉に住む娘人丸が尋ねてきた。
 景清は今の我が身を恥じて名乗れずに苦しむが、里人の厚意で引き合わされる。すがりつく我が子に、娘の不名誉を思い対面を拒んだ親心を語る。
 人丸の所望を受けて、三保の谷の四郎と錣引した屋島の合戦での武勇談を語るうちに、名残を惜しみつつ別れて行くという構想である。
 鎌倉に預けられた娘人丸の生涯を、父景清に仕えた孝心が父母を偲ぶ慰霊塔となったのであろう。平家滅亡後の隠れた悲哀ではある。


 以下、謡曲『景清』について。


   謡曲「景清」梗概
 世阿弥の作とも伝えられるが作者は未詳。上述のように『平家物語』には「錣引き」が唯一の武勇壇であり、それ以外は平家の侍大将として名前が挙げられているに過ぎず、『平家物語』に基づくとはいい難く、作者の創造と見るべきであると思われる。
 宮崎における景清と娘人丸との邂逅についての典拠は不明であるが、同じ九州の福岡県にある「人丸神社」には人丸姫が祀られているので、娘の人丸が父景清を訪ねて九州までやってきたという伝承があったのかもしれない。

 平家没落の後、日向国宮崎に流されている悪七兵衛景清を慕って、その娘人丸が鎌倉から宮崎に下って来る。宮崎に着いて、ある藁屋に住む盲目の乞食に景清のことを尋ねるが、知らぬとの答えが返ってくる。そこで里人に尋ねたところ、先ほどの盲人が景清でり、里人の引き合わせで対面することができた・
 景清は娘のためを思って隠そうとした心情を語り、また乞われるままに、屋島の戦いでの武勇譚を語ったのち、父と別れて鎌倉へ帰って行く娘を、見えぬ眼でさびしく見送る。



 本曲は『俊寛』『蝉丸』とともに〈三別離〉の一に数えられるもので、登場人物が、いずれも生き別れで再会のメドがないという悲劇を扱ったものである。
 また『弱法師』『蝉丸』と併せて〈三盲人〉の一つとされている。そして三番とも非常に珍しい「笑い」「笑う」という文字見出すことができる。景清「笑ひて左右へ退きにける」、蝉丸「あれなる童共は何を笑ふぞ」、弱法師「人は笑ひ給ふぞや」。そしてこの「笑」という文字が出てくるのは二百番中僅かに、鉢木「笑ひあへるその中に」、と三笑「手を打ち笑って」、の二番だけあろう。
 ただ、盲人の登場する曲としては『望月』があるが、これはツレ(シテの主人の北の方)を、仇討ちのため偽の盲人にするので、あえて〈四盲人〉に数えなくてもよいと思われる。


 本曲における景清は、単に老残の平家の侍大将としてではなく、平家を語る者として構想されているとする見解があります。香西精氏『謡曲界』昭和11年9月号において、以下のように述べています。(香西精『能楽新孝』檜書店、1980)

 この曲の作者世阿弥の時代には既に当道(盲人の団体)の座が確立していて、盲人といえば平家語りの検校か勾当かだったのだから、作者は盲いたこの老武者をも一個の琵琶法師として取扱ったと見なければならぬ。読者はこの大胆な断定に証左をもとめるかも知れない。
 第一、シテの謡い所とせられている“松門の出”は古くから平家節を多分に加味しているといわれている。これは老琵琶法師がその職業とする音曲によって身の上を述懐している場面と解釈せられてよかろう。
 第二、角帽子、水衣の扮装は、そしてワキの語中に見える通り「髪を下し」ているのは、琵琶法師としての形を整えている。しかも初同の文句には形のみ僧形ではあるが俗法師で、出家入道していない事をなげいている。
 第三、「さすがに我も平家なり。物語はじめて御慰みを申さん」の句についての従来の解釈は、アナクロニズムを避ける用心からか、作者の意を充分汲んでいないように思われる。〈平家〉と〈物語〉との関係は一種の縁語と見るべきもので、即ち『平家物語』という大叙事詩の題名にかけた、又は〈平家〉を〈語る〉という〈当道〉の芸に由来したものと見るべきであろう。即ち〈琵琶法師之物語〉を活かしたものと解する時にこの一句がはっきりと効果あるものとなるのである。『平家』を語って里人の慰みにして扶持を得るという心がよく見える。
 第四、そこで最後の「錏引」の〈語り〉となる。「錏引」は事実『平家物語』に見えるもので、つまりこの一節を琵琶法師として語るのである。たまたま聴衆が我が娘であるというに過ぎないのみで、この盲法師はその職業とする本芸の一端を演じて見せるのである。琵琶の伴奏が伴わぬという事が少し異なるだけである。

 一口に「平家」といっても、三つの意味があるようです。第一は苗字~氏族としての平家、第二は文学としての『平家物語』を意味する平家、第三に平家物語を琵琶を弾いて語る~音楽としての平家で、平曲(へいぎょく)と言ったほうが今は一般的でしょうが、世阿弥の頃から単に「平家」といえば琵琶法師の語る音楽としての平家物語であったようです。
 したがって「さすがに我も平家なり。物語はじめて御慰みを申さん」の一句には、「…そうは言っても私も昔は平家の侍、今は日向の勾当~盲目の平家語りの身だ、では物語りを始めよう」といった、いさゝか奥深い意味があるということです。(大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』を参照)
 中世において、景清を『平家物語』の作者であるという説が行われていたようです。以下は、岩波古典文學大系『謡曲集』の補注によります。

 『臥雲日軒録抜尤』の文明2年正月4日の項に、
 「夜ニ入リ平家ヲ聴ク、薫一曰ク、悪七兵衛カゲキヨ、平家一代、武家合戦ノ様尽(ことごと)ク之ヲ記ス。平大納言トキタタ、文官歌詠等ノ事皆之ヲ記ス。其ノ後ニ為長三位ト曰フ者、諸記ヲ捃拾(くんしゆう)シテ之ヲ集メ、玄会(げんゑ)法印、剪裁(せんさい)シテ以テ一書ト為シ、名ヅケテ平家ト曰フ。凡ソ相共ニ評論スル者二十四人、但シ平大納言・悪七兵衛ヲ除ク也。寂(原字はウカンムリに“取”)初性仏ト曰フ者、禁中ニ於テ之ヲ読ム、既ニシテ城一ト曰フ者之ヲ話ス。城一ニ両弟子有リ。一人ハ一ノ字ヲ以テ名ト為シ、一人ハ城ノ字ヲ以テ名ト為ス。此ノ両人ノ弟子、相承ケテ今ニ此ノ如シト云々」
とあり、平家物語の、平家一族の興亡や合戦の部分は景清が書いたという、薫一(平家語りの一人)の説であるが、この説は有力なものとして琵琶法師の間に伝承されていたと見えて、同書文安5年8月15日の条には、景清の名に由来すると思われる「景一」「清一」なる平家語りの名が見えている。そのような景清平家物語創始説に、日向配流説をつないで、本曲は作られているのであろう。

 それでは、謡曲のその部分を以下に転載します。


日向ひうがとは日に向ふ。日向とは日に向ふ向ひたる名をば呼び給はで力なく捨てし梓弓あづさゆみ。昔に歸るおのが名の。惡心あくしんは起さじと。思へどもまた腹立はらたち
シテところに住ながら
「所に住みながら。御扶持ごふちある方々に。にくまれ申すものならば。ひとへめくらの杖を失ふに似たるべし。片輪かたわなる身の癖として。腹しく由なき言ひ事たゞゆるしおはしませ
シテ「目こそくらけれど
「目こそ暗けれども。人の思はく一言いちごんの内に知るものを。山は松風。すは雪よ見ぬ花のむる夢の惜しさよ。さて又浦は荒磯あらいそに寄する波も.聞ゆるは。夕汐いふしほもさすやらん。さすがに我も平家也。物語ものがたり始めて御慰おんなぐさみを申さん


 謡曲では、娘の人丸が鎌倉から父を尋ねて宮崎までやってきたという設定になっています。けれども景清廟では、人丸についての詳しい情報に接することが出来ませんでした。
 ところが、福岡県の新宮町には、景清の娘である人丸を祀る「人丸神社」が鎮座しています。宮崎の景清廟に訪れる前日の7月20日、この地を訪れました。



人丸神社訪問地図


《人丸神社》  福岡県糟屋郡新宮町下府

 人丸神社が鎮座する一帯は“人丸公園”となっており、町民の憩いの場でもあるようです。JR福工大前駅からタクシーに乗車、県道37号湊下府(しものふ)線沿いに一の鳥居があり、案内板がありました。


人丸神社一の鳥居

 人丸神社は源平合戦の哀史にまつわるお宮です。平景清は源頼朝に対する謀反の罪で日向の国へ流されました。その景清の娘である人丸姫は父を慕い京の都から九州まで来ました。しかし、長旅の疲れからこの地で病にかかりそのまま亡くなってしまいました。人丸姫の遺言は「父に会えず死ぬことは心残りなので日向に向けて葬ってほしい」というもので、それに従って飛山に葬りました。
 このように父を慕う姫の心情から、この人丸神社は子どもの無事成長の祈願参拝の場となっています。


拝殿に至る参道

桜の並木が続く


 一の鳥居から拝殿へは300メートルほどの参道になっていますが、桜の並木が続いています。4月1日、2日が当社の大祭とのことですので、そのころは満開の桜が楽しめることでしょう。
 拝殿前には石段があり、そこに二の鳥居が建ち、右手には再び案内板がありました。


人丸神社二の鳥居

 人丸神社は源平合戦の哀史にまつわるお宮で、平景清の娘「人丸姫」を祭神とします。
 景清の妻は子供がないことを悲しみ神仏に祈り続けました。治承2年(1178)3月15日、朝日(旭)が上るとき懐妊を覚え女の子を出産しました。「旭」という字は「日」と「丸」と書くことから「人丸」と名付けたと言われています。
 その後平家は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、景清は源頼朝暗殺を計画しましたが、事前に発覚し捕らわれ両目をつぶされて九州(日向の国)に流罪の身となりました。後に景清はこの地で亡くなりました。
 人丸姫は幼くして母と死別し、京都北嵯峨の叔父の家で育てられました。13歳の時、父景清に会いたい一心から乳母とともに京の都を旅立ち遙か西国の日向の国を目指しました。その旅の途中筑前院内村(立花口)独鈷寺の末院(下府にあった)に父の旧友である僧を訪ねました。そこで父景清の噂を聞き一日でも早く会いたいと思いましたが、僧が思い止るように言い聞かせているうちに長旅の疲れから病気になり床に伏せるようになりました。周りの人々はいろいろと手を尽くしましたが、建久3年(1192)11月9日に人丸姫は亡くなりました。
 死ぬ間際に人丸姫は「父に会えずに死ぬことは心残りなので、私が死んだら塚を築いて印に松を植え、日向に向けて葬ってください」と頼みました。その遺言に従い、飛山(神社がある丘陵の小字名)に葬りました。
 幼少の頃、父を慕ってはるばる京都から下府まで来て病没の身となった姫の心情から、この人丸神社は世の親として子供の無事成長の祈願参拝の場となっています。


拝殿

手水舎、社務所


 石段を上ると左手に手水舎、その奥に社務所があります。参拝を済ませて周りを散策しましたが、他に参拝に訪れる人とてもありません。おそらく大祭などの行事のおり、または春の桜の季節などには、この人丸公園一帯が賑わうことでしょう。
 帰路はJR福工大駅までの2キロ弱の炎天下を歩く破目となりましたが、酷しい暑さに音を上げた次第です。



 以上、宮崎の景清廟と福岡県の人丸神社を訪れました。わたしの調査不足によるものかもしれませんが、これらの地には古くから伝わる景清についての伝承に接することが出来ませんでした。
 謡曲はその地方に伝わる故事などを典拠として作成されることが通常であると思われますが、いささか大胆な想像が許されるのであれば、宮崎の景清廟は、謡曲『景清』にもとづいて、後日建立されたものであり、人丸神社についても同様のことがいえるのではないでしょうか。


 最後に本曲に関連する川柳を拾ってみました。

  千の手で引くに三保谷気がつかず
  景清はしり餅四郎つんのめり
  景清はむきみのやうな義理を立て

 初句、景清は清水の観世音を信仰して、度々御利益にあずかっています。このときも千手観音が、千の御手を景清に添えられて錣を引かれたのだが、三保の谷は気がつかなかったであろう、ということです。
 二句目、景清は三保の谷が逃げるのを追っかけ、兜の錣をつかみ、互いに引き合ったため錣が引きちぎられてしまった、その瞬間の光景を詠んだもの。逃げる三保の谷は前のめり、引っ張っていた景清は尻もちをついたことでしょう。
 三句目、平家滅亡の後、頼朝暗殺に失敗した景清は、頼朝暗殺をあきらめることを誓い、その証左として自らの両眼をくりぬき、日向に流されたとも言われています。その義理立てしてえぐり出した目玉は、貝のむき身のようであったということでしょう。




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  (令和 4年 7月20、21日・探訪)
(令和 4年 9月 1日・記述)


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