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肥前・松浦潟 〈松浦佐用姫、籠太鼓〉


 2022年7月24日、福岡県久留米市在住の娘夫婦の誘いで佐賀県の呼子町に出向き、イカ料理を満喫、その帰路唐津市の鏡山の展望台までドライブ。思いがけなく『松浦佐用姫』の謡蹟を訪れる機会に恵まれました。ついでに『籠太鼓』にゆかりの「関清次の五輪塔」も探し当て、2曲の謡蹟を探訪することができました。ただ、にわかに訪れたため、十分な下調べや準備ができておらず、若干残念な結果となったことは否めませんでした。



松浦の里探訪地図


 娘たちは、鏡山には以前には何度か訪れたことがあったようで、国道202号線の唐津市赤水の信号付近から朱塗りの大鳥居をくぐって、つづらおりの山道を登ること20分ばかり、山頂の駐車場に車を止めて鏡山展望台に向かいました。山の名は神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれているそうです。


蛇池


さよひめ茶屋


 展望台への途中に大きな池がありました。佐用姫の涙が溢れ流れ溜まって池になったとの伝承があるようです。池の名は蛇池と言うそうですが、何かしらそぐわない…。
 お茶屋の名も、さよひめ茶屋。


鏡山のモニュメント


展望台


 展望台には「玄海国定公園・鏡山」の石のモニュメント、刀剣を象ったものでしょうか。正面の突出したところに展望台があり、観光客でにぎわっています。


虹ノ松原(西方)

虹ノ松原(東方)


 展望台から見下ろすと、眼下に拡がる「虹の松原」が一望されます。西方の中央部の木立に囲まれているのは唐津城でしょう。
 虹の松原は、国の特別名勝で、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原のひとつに数えられる景勝地です。17世紀初め、初代唐津藩主寺沢広高が防風・防潮のため、海岸線の砂丘にクロマツを植林したのがはじまりとされています。


松浦佐用姫像


 展望台の後方に、海を望んで松浦佐用姫像が建てられています。唐津レインボーライオンズクラブの寄贈になるものです。

 日本の三大悲恋物語といわれる松浦地方に伝わる伝説が「松浦佐用姫」の物語です。古代、朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された青年武将大伴狭手彦は、停泊地である松浦の地で土地の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちます。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駈け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化したというものです。
 この物語は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれるものとなり、以後詩歌や能などの文学や演劇の題材にもなりました。
 鏡山はこの故事から「領巾振山」と呼ばれるようになったといいます。


 『十訓抄』には、夫との別離を山頂で見送った妻が、悲しみのあまり石と化した“望夫石”の説話が、松浦佐用姫伝説の一環として説かれています。後半の佐用姫に関する部分を以下に。


 吾國の松浦佐用姫と云は、大伴狹手麿が妻なり。夫御門の御使に唐へわたるに、既に船に乘じて行時、その別をおしみて、高山のみねにてはなれゆくをみるに、かなしびにたへずして領巾をしてまねく。みるものなみだをながしけり。是より其山を領巾麾峯と云。肥前國に有。松浦の明神とて、いまにおはします。このさよひめのなれるといひつたへり。このさよひめのなれるといひつたへり。此山をまつら山ともいひ、磯をば松浦がたとも云也。万葉集に此うたの心あり。
   とをつ人松浦さよ姫つまごひに
   ひれふりしよりおへる山の名




昭和天皇歌碑

山上憶良歌碑


 一角に昭和天皇御製の歌碑と山上憶良の歌碑がありました。御製の歌は昭和36年4月、陛下が唐津市を訪ねられた際に詠まれたもの。

 遙かなる壱岐は霞みて見えねども渚美しこの松浦潟

 次いで山上憶良の歌碑。

 行く船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫

 上記の歌は『万葉集』巻五 875の歌〈作者については後述〉。これ以外にも、万葉集には松浦佐用姫を詠んだ歌が数首残されています。(以下、岩波日本古典文學大系『万葉集』による)

 868 松浦縣(がた)佐用比賣(ひめ)の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ
 871 遠つ人松浦佐用比賣夫(つま)戀に領巾振りしより負へる山の名
 872 山の名と言ひ繼げとかも佐用比賣がこの山の上(へ)に領巾を振りけむ
 873 萬代(よろづよ)に語り繼げとしこの嶽(だけ)に領巾振りけらし松浦佐用比賣
 874 海原の沖行く船を歸れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣
 875 行く船を振り留みかね如何ばかり戀(こほ)しくありけむ松浦佐用比賣

 上記の 874の歌は、本曲、シテの〈語リ〉において、「然れば後人。山上憶良が詠みし詠歌にも。海原の沖行く船を帰れとや。領巾振らしけん。松浦佐用姫」と山上憶良の歌とされています。
 871~875の一連の歌は、大伴旅人や山上憶良などの文人の一行が松浦潟に遊んだおり、松浦佐用姫の故事により一人が一首の歌を作り、それに三人の別人が三回唱和の歌を寄せたものです。この一連の歌には作者は一切記載されていませんが、近年の研究では「佐用姫」を、漢字原文で「佐欲比賣」と表記しているのは山上憶良だけであるということなどから、874、875の歌の作者は高い確率で憶良であるとされているようです。
 ところが、世阿弥自筆本によれば「山上憶良の詠みし詠歌」と、明確に作者は山上憶良であると言っているのです。これは大いなる驚きと言わねばならないでしょう。


 鏡山展望台から駐車場への帰路、道の傍らに「神功皇后史蹟」と刻された碑がありましたが、詳細はわかっていません。
 駐車場を出た所に鏡山神社が鎮座しています。山頂を目指す登山道の入口付近に朱塗りの大鳥居がありましたが、当社の一ノ鳥居なのでしょう。
 鏡山神社の主祭神は神功皇后。三韓征伐のおり、この山に鏡を祀って戦勝を祈願したのが開基であるといわれていますから、ずいぶん古いお社ですね。ただこの時は「ひれふり展望台」に気を取られてお参りをせず、素通りしてしまいました。佐用姫にまつわる史跡などもあったようで、事前に調べておれば参拝したものをと、悔やみましたが後の祭りでありました。


神功皇后史蹟の碑

鏡山神社

 鏡山展望台の反対側(東側)にある「ひれふり展望台」に向かいました。こちらの方面を訪れる人はほとんどいない様子で、道の周囲も手入れが行き届いておらず、草も伸び放題、いささか寂しい遊歩道でした。


佐用姫神社


 ひれふり展望台の手前に佐用姫神社が祀られています。ただし、あまり手入れされておらず、周囲は草が伸び放題の状態でありました。前述の伝承と重複しますが、以下は神社前に掲げられた縁起書きです。

 古より今に伝わる佐用姫伝説の舞台は卑弥呼の邪馬台国が滅び、大和朝廷が国を治めた六世紀の古墳時代にあたります。大和朝廷は高句麗と戦い朝鮮の任那に日本府を設けます。その防衛に朝廷より派遣されたのが大伴狭手彦で、537年の朝鮮出兵にこの地に逗留し、そのお世話をした豪族の美しい娘佐用姫と結ばれました。
 万葉集や世阿弥の能などにも謡われ、あまねく語り継がれた二人の愛が如何にすばらしいものだったか、ここに改めてこの深く大きな愛を今に寿ぎ永久に奉ろうと、佐用姫が狭手彦の出陣を領巾を振り続けて見送った、この領巾振山山頂に建立することになりました。
 悠久の歴史とロマン溢れるこの豊穣の地で佐用姫様の清らかな愛に包まれたひと時を過ごしていただければ幸いです。


 佐用姫についての伝承に触れてきました。近年、観世流の現行曲に加えられた『松浦佐用姫』について眺めてみたいと思います。


   謡曲「松浦佐用姫」梗概
 本曲については、応永34年(1427)10月の年記の奥書がある世阿弥自筆本があり、世阿弥作の可能性が高い。室町時代末にはすでに上演されず、明和9年(1772)観世元章により『佐用姫』として復曲されたが、以後ふたたび上演を見ていない。
 昭和28年(1963)6月、「世阿弥生誕六百年記念祭能」において、世阿弥自筆本『松浦之能』をもとに、池田広司監修、観世元正主演により復曲上演された。さらに検討が加えられ、昭和59年(1984)4月「能の会」特別公演にて、世阿弥自筆本により伊藤正義監修、大槻文蔵主演により上演され、ほぼそのかたちに拠って平成12年(2000)、観世流の正式演目に加えられた。

 旅僧が東国から都を経て西国・博多に着き、松浦を訪れる。雪の降る中、釣竿を持つ女が現れ、僧の尋ねるままあたりの名所を教え、佐用姫が狭手彦との別れを悲しみ、狭手彦が乘る船を慕い、鏡山に登り領巾を振って別れを惜しんだことなどを語る。
 夜になり佐用姫の霊が狭手彦の形見の鏡を手にして現われ、狂乱の体で沖を行く舟に声をかけ、さらに小舟にて狭手彦の跡を追ったが、舟から鏡とともに身を投げたさまを見せる。



 山上憶良の歌碑の項に記したが、『万葉集』巻五には、憶良や大伴旅人たちが松浦佐用姫を詠んだ数首の歌が残されている。これらの歌が本曲の構想のもととなったものであろう。また『十訓抄』にも佐用姫の説話があり、『万葉集』571 の歌が載せられている(前述)。
 なお曲名は「マツラサヨヒメ」である。また余談ながら、本曲および『三山』の一番本の前付には、他曲と異なり“稽古順”が示されていない。


 『観世』平成13年2月号に本曲の特集があり、伊藤正義・観世清和・大槻文蔵三氏による座談会の模様が掲載されています。その中から興味のある記事を以下に要約します。

 世阿弥は松浦佐用姫の悲恋の物語を、“鏡”と“ヒレフリ”という二つの要素を取り入れて作り上げた。それだけに鏡と領巾の両方を扱わねばならないところに難しさがあろう。(伊藤正義)
 先代(観世元正)は「“領巾”と“鏡”の処理が、いろいろやってみたけどなかなか難しい」とのことであった。(大槻文蔵)
 世阿弥自筆本での復曲について、先代は「自分のやった『松浦佐用姫』もあるけれど、世阿弥の作った『松浦之能』もあるわけだから、やってみないとわからない。どちらの方が意義があるかとか、どちらの方がおもしろいか、それはやってから考えればいいことなんだから、是非ともやりなさい」(大槻文蔵)
 私は三度ほど舞ったがそのたびに少しずつ変わっている。最初は領巾を使わなかったが、具合が悪く領巾を使うようになった。鏡も、最初は鏡台を使わず、後シテが持って出て、ワキに渡し、ワキが持っていたが、鏡台を出して、そこへ置くことになった。(大槻文蔵)
 この鏡は、狹手彦の形見であると同時に、鏡宮のご神体であるかも知れぬ重要なものであるので、裏に房を付け、周囲に海馬の文様をつけた。海馬文は大陸からの渡来のもので、狹手彦は大陸の人ではないかと、考えを膨らませた。このようにやっていけばやっていく程、いろいろなイメージが拡がっていく。(観世清和)

 『観世』平成13年4月号に、2月12日名古屋観世会での、村瀬和子氏による「観世清和宗家『松浦佐用姫』公演」の観能記事が掲載されています。

 今回の企画にあたって、観世清和は主題の鏡伝説の〈鏡の能〉の性格を明確にし、鏡を通して舞台が展開するよう、伏線や布石を丁寧に際立たせた。即ち旅僧を佐用姫を祭った鏡の宮へいざない、鏡のいわれを物語り、僧への布施に鏡を見せることを約束する。その前半を背負っての後半、鏡に映る恋慕の妄執を解脱するために懺悔告白し、ヒレフリ伝説の恋慕の領巾を振り、肩身の鏡を抱いて入水する。
 狹手彦形見の鏡は、古代大陸の文化をも彷彿させる海馬文。朱色の房が美しかった。注目の鏡の扱いは、後場正先と脇柱の中間に鏡台を置き、男装の後シテが持って出て掛けた。ワキは鏡を通して狹手彦・佐用姫の二重写しを見る。キリで、シテは鏡台の鏡を取り上げ、〈こがれこがれ〉た鏡の表を見所に見せ、胸に抱いて入水する。すべてが終わって鏡台だけが残るラストシーンは鮮烈であった。


 以下は佐用姫と狹手彦の謂れを描いた〈クリ・サシ・クセ〉の部分てす。


クリ 地「そもそも古き世語よがたりを。語るにつけて身の上に。あふの松原まつばら待つことの。なほあり顔なる世の中かな
サシ シテ地「昔上代じやうだいの事かとよ。狹手彦と云つし遣唐使けんたうし
大君おほきみの勅に従ひて。この松浦潟にくだれり。しばしの旅宿りよしゆくありし時。國の采女うねめの色に染む。花の衣袖ふれて。宿も一夜ひとよの仮枕
シテあだし契りと。思へども
幾夜いくよの数とも知らざりけり
クセ「その名を。佐用姫と聞くからに。小夜さよの寝覚の睦言むつごとも。尽きぬ心のほど見えて。山風け行く松浦潟。心づくしの秋なれや。の月もほのかなる。朝顔あさがほ朝寝あさねがね打ち解くる共寝ともねなりけり。かくて契りも程るや。時節も早く日頃経て。唐土船のともづなを。解くやき日の門出とて。既に旅宿りよしゆくを出で給へば
シテ「佐用姫いつしか後朝きぬぎぬ
「恨みを添へて松浦潟。まへの渚に立つ波の声も惜しまず鳴く田鶴たづの。芦辺あしべに休らひ松が根の。磯枕いそまくら草莚くさむしろ。しきりに伏ししづみつゝ。領巾山れいきんざんにあらねどもこゝも領巾ひれ振る有様を。松浦姫まつらびめと云はれしも。佐用姫が異名いみやうなりげに恥かしき世語よがた


 続いて、本曲の〈キリ〉の部分。佐用姫が狹手彦の船に領巾を振り、鏡とともに入水するシーンです。


シテ「なうその船しばし
「その船しばし留めよ留めよと。白絹しらぎぬ領巾ひれを。あげてはまねき。かざしては招き。がれへかねてひれ伏す姿は。げにも領巾振る。山なるべし
シテ「世の中は。何にたとへん朝ぼらけ。ぎ行く船の。鳥は宿す池中の樹僧は跡の白波しらなみ。そのまゝに狂乱きやうらんとなつて
「そままゝに狂乱となつて領巾山れいきんざんを。下りて磯辺に流離さそらひけるが。形見の鏡を見に添へ持ちて。ちりを払ひ影を映して。見る程に見る程に。思へば恨めし形見こそ。今はあだれこれなくはと。思ひさだめて海士の小舟をぶねに。漕がれがれ出でて。鏡をば胸にいだきて。身をば波間なみまに捨てぶねの。上よりかつぱと身を投げて。千尋ちいろの底に。沈むと見えしが。夜もしらしらとくる松浦まつらの浦風や。夢路ゆめぢを覚ますらん浦風や夢を覚ますらん


 本曲以外にも松浦佐用姫が謡われている曲があります。
 まず『俊寛』、最後の〈ロンギ〉の前の地謡。

 もとの渚にひれ伏して。松浦佐用姫も。我が身にはよも増さじと。

 次いで『江口』、シテの出の地謡。

 佐用姫が松浦潟。片敷く袖の涙の唐土船の名残なり。

 そして『玉鬘』のクセに。

 便となれば早舟に乗り後れじと松浦潟。唐土船を慕ひしに。

 いづれの曲でも“松浦佐用姫”といえば“別れ”の代名詞のように用いられています。そういえば松浦佐用姫伝説は、日本の三大悲恋のひとつに数えられているとか。
 また以前『景清』の項で“三別離(三別れ)”として『景清』『俊寛』『蝉丸』の3曲を挙げましたが。本曲もそれに加えねばならないでしょう。ただ前記の3曲は、いづれも生き別れで再会のメドがない“別れ”ですので、本曲は若干意味合いが異なるかも知れません。


 鏡山を去るにあたって、佐用姫に関連する川柳を拾ってみました。

  佐用姫はあきらめのない女なり
  舟は出る姫は足からかたくなる
  彦さまあ我がつまなふと石に成り
  振つてゐた手が領巾になり石になり
  巖と成つて苔の蒸す松浦潟

 いづれも佐用姫の石化伝説を詠んだものです。
 初句の「諦めが悪い」とは、現代式に割り切った女性と比較したものでしょう。
 最後の句は「君が代」の文句取り。



 佐用姫に別れ、続いて『籠太鼓』の謡蹟探訪です。
 謡曲『籠太鼓』には直接登場しませんが、女主人公(シテ)の夫の名を“関清次”といい、罪を犯した清次が身を隠したために女主人公が捕えられるというのが、謡曲のストーリーです。
 その関清次を祀る五輪塔が玉島神社の近くにあるという、わたしのおぼろげな記憶を頼りの探訪ですので、果たして探し出すことができるかどうか…。おぼつかないことおびただしい次第でした。
 とりあえず、記憶の中枢ともいうべき玉島神社を目指しました。玉島川に沿って国道323号線を南下、道が右手にカーブする手前で玉島神社に到着しました。神社の主祭神は神宮皇后、三韓征伐の際、戦勝を占った場所とされています。神社への急な石段に鳥居が建てられていますが、扁額には「神功皇后宮」と記されていました。
 神社の境内を探索しましたが、関清次にまつわるものを見出すことは出来ませんでした。


玉島川

玉島神社


 玉島神社の近くに万葉垂綸石公園があり、万葉の歌碑が建てられています。


万葉垂綸石公園


 唐津市による「垂綸石の伝説」とする説明書きです。

この石は垂綸石(すいりんせき・御立たしの石とか紫台石)といわれ、古典である記紀(古事記・日本書紀)、万葉集、風土記等にも記されています。
記紀によれば、神功皇后9年夏4月、火前国松浦県玉島里の小河のほとりで神功皇后が、食事をなされた時、この岩の下に群がる鮎をごらんになり、針をまげて釣り針をつくり、飯粒を餌とし、着物の裾の糸を抜いて、釣り糸にし、河中の石の上にあがって、吉凶を占われたとろが、糸を投げられると鮎がかかったので、皇后は「これはめずらしい」と仰せられた。そこで梅豆羅国(めづらのくに)といったが、今はなまって松浦という。
その時お立ちになってお釣りになった岩が垂綸石であるとされています。
又、つり竿として使われた時の竹を挿して根づいた竹群が今も玉島神社、社域に残っています。


垂綸石

憶良歌碑「たらし姫…」


 公園には3基の歌碑が建てられています。いずれも『万葉集』巻五に所収の歌です。

 869 たらし姫神の尊の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰見き


旅人歌碑「松浦川…」

旅人歌碑「玉島の…」


 863 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
 854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥しみ顕さずありき

 さて「玉島川」といえば『鵜飼』の〈鵜之段〉が有名です。

 みなぎる水の淀ならば。生簀の鯉や上らん玉島川にあらねども。小鮎さばしるせゞらぎに。かだみて魚はよもためじ。

 いま一曲、『国栖』の〈鮎之段〉の直前のシテの詞に、

 神功皇后新羅を從へ給ひし占方に。玉島川の鮎を釣らせ給ふ。

 『鵜飼』や『国栖』に謡われた玉島川にやってきたという感慨に、ちょっぴりひたっておりました。

 ただ残念なことに万葉垂綸石公園周辺には、関清次関連の史蹟は見当たりません。玉島川を渡り、大村神社を訪ねましたが成果なし。ほとほと困っておりましたところ、娘婿がこのあたりに若干の土地勘があるとみえて、「そういえば、あれじゃないかな」と川の少し下流の新岡口端を渡ったところに案内してくれました。何とそこに“関清次の五輪塔”が祀られておりました。



関清次五輪塔

 以下は「関の清次と五輪の塔」と題する浜玉町による説明書きです。

 これは、鎌倉時代の話である。
 九州松浦大村の里(五反田)に、関の清次という豪族がいた。ある時、筑前国浜窪の豪族と口論の末、殺害した。清次は捕えられ入牢するが、大力に任せて牢を破って逃走し、行方がわからなかった。
 そこで、領主松浦某は、清次の妻を捕えて入牢させ、夫の所在を言えば赦してやると言うと、妻は「一向に存じません。知りません。もし知っていても偕老同穴を誓った夫です。その夫の所在を知らせて、夫を失うようなことは申しません。それよりも夫の身代わりとなって、この牢に居ることが妾の本望でございます」と言って、責め苦に堪えていたが、ついに狂人となり、牢に掛けてあった太鼓を打って狂い廻り、子は舌を噛み切り、妻子とも息絶えてしまった。これを聞いた清次は自首して出たが、領主は、妻子が死に至るまで清次の所在を白状しなかった貞節と孝行を称えて、その罪をゆるした。清次は愛惜の情にたえず、自ら刃に伏してその跡を追った。
 時人、三基の五輪塔を建ててこれらの霊を祀った。その墓の傍らに、一本の松が生えて、その葉は三つ葉だったので、土地の人は清次殿松と称した。
 この物語は謡曲「籠太鼓」として普ねく世に流布し、三基の五輪塔と「清次殿松」は松浦潟の名勝となった。
 浜玉町、唐津市の謡曲同好有志の発起により、玉島小学校で「籠太鼓祭り」が開かれた折、大村神社の裏山の一隅に移され祭祀されていたが、五輪塔を再び清次の屋敷にほど近い玉島川河畔のこの地に移した。

 この伝承によると、3基の五輪塔のうち、右が清次のもので、左の大小2基が妻と子の五輪塔だと思われます。


 謡曲『籠太鼓』は、上記のような巷談に基づいて作られたものでしょう。


   謡曲「籠太鼓」梗概
 作者、典拠ともに未詳。世話風の題材による作り能と考えてよいであろう。いわゆる狂女物に属するが、本曲は狂女をよそおう「そら物狂い」であり、他の狂女物とは異なっている。
 本曲の〈鼓之段〉は、抒情的かつリズミカルで軽妙である。その中で打つ鼓の数を、六つ・五つ・四つ・九つと数え、それぞれの数にちなむ思いを述べていくのである。

 九州松浦の何某は、家来の関清次が、他郷の者と口論の末、その男を殺してしまったので入牢させておいた。ところが清次は、ある夜牢を破って逃げてしまい、牢番の下人はその旨を何某に告げた。何某は清次の妻を呼びだし、夫の行方を尋ねるが、白状しないので、代りに妻を牢に入れた。
 ところが、この妻が牢内で狂気したので、牢から出してやろうとするが、愛する夫の代りなのだから出ないと言う。何某はその優しい心根に感じて夫婦ともに許す。妻は牢から出て、そこに掛けてあった時の鼓を見て、心を慰めるために鼓を打つうちに、かえって狂乱の態となり、夫を恋い慕って、懐かしいこの牢から出たくないと、再び牢に入ってしまった。
 何某は一層感動して、夫婦の赦免を神明に誓うと、冷静になった妻は夫の在り処を明かし、やがて夫を伴い帰り、睦まじく暮らすのであった。


 本曲の特色の一つには、対話の量の多さが挙げられ、それにはアイ狂言の活躍を見逃いことが出来ない。大成版一番本の前付「曲趣」の項に、興味のある記事があり、以下に転載する。
 対話の多量を知るために、上演の場合の詞章(謡本に省いてあるアイとワキの詞をも補足して)を計算して見ると、
 吟唱の数 23(シテ10、ワキ 3、地10)に対して、
 曲節のない対話の数 53(シテ 9、ワキ 3、アイ21)の多きを示す。
 これはこの曲の構成が、いかに戯曲的発展を示しているかを語るものであるが、同時に、その少量の吟唱の部分にも優雅の情緒を盛ることを怠らない工作を巧みにしており、対話が多いとはいいながら、すべて女主人公の情緒を引き立たせることを忘れないだけの意図が見える。


 伝承では、清次の妻は狂気のあまり死に、その子も舌を噛み切り死を遂げています。清次も許されたものの、妻子の死を聞いて、自らの命を絶ってしまいます。
 謡曲『籠太鼓』には、子供は登場しませんが、妻は狂気の態となったものの、最終的に罪を許され、かつ妻の、夫を慕う心に感動した主人は清次の罪をも赦し、夫婦睦まじく暮らしたという、ハッピーエンドのストーリーに切り替えられています。
 伝承のままを戯曲化すると、余りにも酸鼻を極める作品となり、そして折角の名調子である〈鼓之段〉が活かされない結果となりかねません。おそらく作者は〈鼓之段〉の名調子を活かすべく「めでたしめでたし」の結論を選んだのではないかと想像します。

 それでは以下に本曲の白眉とも言うべき〈鼓之段〉を掲載します。


「鼓の聲も時りて。鼓の聲も時旧りて。日も西山せいざんに傾けば。よるの空も近づく六つの鼓を打たうよ。いつつの鼓はいつはりの。契りあだなる妻琴つまごとの。ひき離れ何所いづくにか。我が如く忍びのやはらやはら打たうよやはらやはら打たうよ。四つの鼓は世のなかに。四つの鼓は世の中に。こひと云ふ事も。うらみと云ふ事もなき習ひならばひとり物は思はじ
シテここのつの
「九つの。夜半やはんにもなりたりや。あら戀し我がつまの。面影おもかげに立ちたり。嬉しやせめてげに。身代みがはりに立ちてこそは二世にせのかひもあるべけれ。このろうの松の風一聲の秋を催して出づる事あらじ。なつかしのこの籠や。あらなつかしのこの籠



 最後に本曲に関連する川柳を拾ってみました。

  諌鼓苔蒸して万民腹鼓
  引きぞわづらつて引ヶ四ッ迄あるき

 初句は〈鼓之段〉直前の地謡「諌鼓苔むすこの鼓」に拠ったもの。「諌鼓」は、古代中国の皇帝が「自分の政治に不満があれば城門の脇に置いてある鼓~太鼓~を打って知らせよ」と命じたことにより、次第に善政が敷かれて太平の世となり、ついに太鼓を打つ者がいなくなり、その太鼓~諌めの鼓~諌鼓~には苔がむすようになり、以前は恐れて近寄らなかった鳥さえ、そこにとまるようになった、という故事で、そこにとまる鳥が「諌鼓鳥~かんこどり」なのです。一般には「閑古鳥」と表記されていますが、本来は「諌鼓鳥」なのですね。
 ただし、この「諌鼓」の語句は、『山姥』のクセ前のサシで「諌鼓苔深うして。鳥驚かずとも。云ひつべし」や、『難波』キリのロンギ直前の「諌鼓苔むし難波の鳥も。驚かぬ御代なり」などにもあり、本曲専用というわけではありません。謡曲からひいたものではなく、一般的な「諌鼓」の語句に拠ったものかも知れません。
 二句目はここで取り上げるのは適切ではないかも知れませんが,〈鼓之段〉に「四つの鼓」の句があるので拾ってみました。
 「引きぞわづらふ」とは、鳥羽上皇に仕える“あやめ”の前を、源殘三頼政に賜るとき、三人の美女を並べて、どれが菖蒲かを当てよとの命により、頼政が「さみだれに沢辺の真こも水こえていづれあやめと引きぞわづらふ」と詠んだと『太平記』に述べられています。
 四ッ時は午後10時ですが、吉原では営業時間を延長するために、それを鐘四ッと言い、零時を引け四ッと言ったそうです。句意は、どの女にしようかと、まるで頼政のように迷っているうちに引け四ッになってしまっては、適当に手を打って登楼するか、むなしくそのまま帰るか、いづれかである、ということのようです。




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  (令和 4年 7月24日・探訪)
(令和 4年 9月22日・記述)


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