謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ

濃州・養老の瀧 〈養老〉


 2022年10月20日、岐阜県養老町の養老の滝を訪れました。JR大垣駅より養老鉄道に乗り換え、養老駅で下車、そこから養老の滝へは約4キロほどの山歩きとなります。



養老の滝探訪地図


 養老駅に降りたちました。駅前の広場には、養老の滝の物語の主人公である「孝子・源丞内」の像が、おおきな瓢箪と並んで建てられています。以下は「孝子源丞内のお話」と題する説明版からの転載です。

 昔、元正天皇の御時、美濃の国に貧しい男がいました。この男は山から薪を取って来て、年をとった父を養っていました。この父は、大へんお酒が好きだったので、男は「ひょうたん」を腰につけていて帰りにお酒を買って来ては父を喜ばせていました。
 ある日、山の中でこけの生えた石にすべって、うつむけにころんでしまいました。するとどこからか酒のにおいがするので、ふしぎに思ってあたりを見まわすと、石の間からお酒ににた水がわいていました。
 汲んでなめてみると、たいへんおいしいお酒の味がします。男は喜んで毎日このお酒を汲んで持ち帰り、父を喜ばせていました。
 このことはやがて元正天皇のお耳に入り、わざわざ養老へおこしになりました。そのお酒の出るところをごらんになって「これはこの感心な親孝行を神さまがおほめになり、お酒をおさずけになったにちがいない」とおほめになりました。そして年号を「養老」とお改めになり「養老の瀧」と名付けられ、この男を「美濃の守」という役人におとりたてになりました。

 この伝承は、この後訪れた養老神社や養老寺でも、ほぼ同様の内容で紹介されていました。
 また『十訓抄』にも「養老の孝子」として同様の挿話が掲載されています。内容が若干重複しますが、以下に転載します。(永積安明校訂『十訓抄』岩波文庫、1942)

 昔、元正天皇御時、美濃國に貧しくいやしき男ありけり。老たる父をもちたりけるを、此男、山の木草をとりて、その價をえて父をやしなひけり。此父朝夕あながちに酒を愛しけり。是によりて、この男ひさごといふものをこしつけて、酒を市の家にのぞみて、つねにこれをこひて父をやしなふ。
 或時、山に入て薪をとらむとするに、こけふかき石にすべりて、うつぶしにまろびたりけるに、さけの香のしければ、おもはずにあやしくて、そのあたりをみるに、石の中より水ながれいづることあり。其色酒ににたりければ、汲てなむるにめでたき酒なり。うれしく覺えて、其後日々にこれをくみて、あくまで父を養。時に、御門此ことをきこしめして、靈龜三年九月に、其所へ行幸ありて御覧じけり。是則至孝のゆへに天神・地祇あはれみて、其徳をあらはすと、かむぜさせたまひて、のちに美濃守になされにけり。その酒出けるをば、養老の瀧と云とぞ。かつはこれによりて、同十一月に年號を養老といへり。


養老駅


孝子の像


 養老の滝を目指して登坂開始。ゆるやかな舗装道路をてくてく歩きますが、すぐに息が上がり足が止まってしまいます。まったくだらしのない始末です。養老公園の中を過ぎ川の右岸に沿って歩を進めていきました。
 途中で数名の散策のグループと出会い、その中に町の観光ガイドをされている方がおり、源丞内や元正天皇の伝承などをお聞きすることを得ました。


大野万木句碑


滝川惟一詩碑


 この登山道(?)の特色として、道際にトイレが整備されていることが挙げられます(これはとてもありがたい)。また句碑や詩碑が道行く人の心を慰めてくれています。
 休憩所のようなあずまやがあり、その傍に大野万木の句碑がありました。

  さりかたき滝の養老夕もみぢ

 大野万木は、政治家大野伴睦(おおの ばんぼく)の俳号。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」の名言(迷言?)は有名であり、また地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされ、政治駅と騒がれました。その岐阜羽島駅前には大野夫妻の銅像が立てられています。
 ここで散策グループの皆さんとお別れし、一人旅となりました。
 しばらく進むと滝川惟一の詩碑がありました。養老六古碑の一つで、笠松郡代滝川小右衛門惟一が、自作の詩を当時有名であった大窪詩佛に書を依頼し、文化9年(1812)に建てられたもので七言律詩です。台風により何度も川底へ転落し破損しており、現在の碑は昭和30年(1955)に建て直したものです。
 なお、詩碑の説明は原文を示さず、すべて読み下し文を記載しています。

  多度山高くして二州にまたがる
  飛泉百尺崖をつんざきて流る
  一条の縞練かかってさらすが如し
  万点の明珠はくだけておさまらず
  かつて先王の為にこしつを療し
  又孝子をして窮愁をとかしむ
  喜ぶわれすい境に恩を受くること厚し
  千里来って養老の遊びをなす


丁石

養老改元詩碑


 この道は川の側には柵があるのですが、柵に沿って二重に手摺りが設置されています。手摺を手繰りながら歩けるのはありがたい。
 しばらく登ったところに「一丁」と刻された丁石がありました。あと百メートルちょっと。疲れた身にはまことにありがたい丁石ではありました。
 滝まであと一息のところに、江戸時代後期の漢詩人である梁川星巌(やながわせいがん)の養老改元詩碑が建てられています。この碑は、大垣船町の鳴石守屋孫八(なるいしもりやまごはち)氏が星巌晩年の傑作と定評がある書幅を京都の恩賜博物館(現京都国立博物館)へ献納するにあたり、明治43年(1910)にその記念として建立した碑です。碑には養老改元を称える漢詩が刻まれていました。しかし、昭和56年 (1981)の豪雨の際に養老山が崩壊し、碑は埋没してしまったため、平成29年、養老改元から1300年を迎えるにことを記念して再建されたものです。

  養老改元史編を光(てら)
  今に至るまで百丈瀑泉懸(かか)
  寒風珠玉噴(ふ)きて雨と為す
  白日雷霆(らいてい)轟きて天に在り
  萬乗の宸遊(しんゆう)(まこと)にゆえ有り
  四疆(しきょう)の民瘼(みんばく)果して皆痊(い)
  滂沱(ぼうだ)晷<(か)れず大君の澤(たく)
  盥沐(かんもく)何ぞ惟(た)だ千億年ならんや

  元正天皇が養老と改元されたことは、歴史上に輝く有名なことであり
  今でも変わることなく滝はかかっている
  冷気を覚えるほどに、しぶきは雨のようで
  太陽が輝く中、天上に雷が轟くように聞こえる
  天皇がここに再度行幸になったのは、真に理由があることだ
  霊泉により国民が苦しむ病が皆癒えるからだ
  天皇のお恵は雨の細かく降りそそいで尽きることなく
  その霊験の著しいことは、永久に変わることはないのである



養老の滝 二景


 やっとの思いで養老の滝に到着。なかなか雄大な景色が、目前に拡がっています。
 養老の滝は、落差32メートル、幅4メートルで、日本の滝百選に剪定されており、また「養老の滝・菊水泉」として名水百選にも挙げられています。


富永覚夢詩碑

「おたきみち」の案内石


 帰路は養老神社や養老寺に参拝したいと思い、万代橋を渡って川の左岸をゆくことにしました。
 しばらく進むと、富永覚夢の詩碑があります。この詩は養老の滝を詠んだ七言絶句です。
 冨長覚夢(とみなが かくむ)は明治28年(1895)養老町室原の生まれ。明治・大正・昭和にかけて活躍した服部担風の門に入り漢学を修め、内藤湖南や狩野直喜にも師事、さらにその後北京に渡り漢学の研究を深めて帰国し、大谷大学で教壇に立ちました。現代の漢詩壇の第一人者と言われる人物です。この碑は昭和51年(1976)に建てられたもの。

  湯湯(しようしょう)たる大瀑溪山に響く
  神骨洗い来たる雲霧の間
  ひとたび霊泉の変じて酒となりしより
  今に到るも養老は此れ仙かん

 上記の詩の結句は、文字がよく読み取れず、「此れ仙かん」の個所は文字の欠落があるように思われます。
 また道際に「おたきみち、是より四丁」と刻された道標がありました。ということは、左岸のこの道が本来の滝への本街道で、右岸の道は後日整備されたものかも知れませんね。
 紅葉橋のところにお目当ての養老神社の社号標の石柱があり、社殿につながる長く険しい石段が現われました。石段のふもとに「紀州公観博記念碑」と「右・菊水天神宮、左・たきみち」の道標石が建てられていました。


紀州公観瀑記念碑

 紀州藩主養老観瀑詩碑は、紀州第10代藩主徳川治宝(はるとみ)が、高須出身の儒臣川合春川(かわいしゅんせん)の勧めにより、寛政8年(1796)3月に養老観瀑をされた時の、春川の作です。後に春川がこの詩稿を親交の篤かった栗笠の佐藤与三郎宣衡(のりひら)に贈り、寛政10年(1798)2月1日に宣衡が建碑したものです。

 濃之西南一帯山峯連絡す七十余里、伊勢界を距て古これを多度と総称す。白石山麓瀑布あり養老というかたわらに湧泉あり、国史の所載なり、歳之丙辰、我公東武より南紀に帰り、便道此を観る。卑陪駕之士作詞す。臣川衡古体一篇を賦し上す。(以下略)

 「養老神社」の社号標の手前には、「親孝行の昔話」と題して、駅前の孝子像にあった孝子伝説と、「養老の名水」と題した、日本百名水に剪定された記念の説明がありました。以下に「養老の名水」の説明書きを転載します。

 水がお酒になった親孝行の昔話は、鎌倉時代の説話文學「古今著聞集」により、教訓として語り伝えられて来たものですが、お話のもとの「続日本紀」による養老改元の詔では「変若(わかちよう)薬の水」と記されております。又家や国を治めるくくり結ぶ水としての価値と教理を読み取ることが出来るのです。
 養老神社境内の湧水を菊水霊泉と云いますが、菊水とは病に効く水と考えてもよろしいが、この神社は山や水が精霊で、古くは菊理姫(くくりひめ)を祀る明神様です。元正女帝がみそぎを行い、律令国家建設所願の〈まつりごと〉の神水は〈くくり〉の水でありました。
 詔の中に、中国後漢の時代に同じ様な瑞象があったと述べられていますが、中国五大蓮池の万病を癒す奇跡の水のことではなかったか。元正天皇の行幸よりずっと以前から、この美濃の国では、ラドンやゲルマニウムを含む万病に効く水として知られていたものと想はれる。
 養老山地の水は、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウムを含むミネラルウォーターであります。石灰岩層を潜って湧き出て来る水は炭酸水なのです。
 水がお酒になった孝子話は教訓としての説話でありまして、水がお酒になるためしはありません。水はやはり水、良く尽くしてくれる吾が子を慈しみ、ねぎらって思慮深く、ただの水を美酒(うまざけ)として飲み、償めたたえる親心というものを、私共は昔話の中から読み取ることが出来るのです。
 名水が名水たるゆえんであります。

 最後は、いささか説教臭くて如何なものかとは思われますが、霊水のこと、孝子譚のことなど、冷静に分析されていると申せましょう。けれども夢がなくなってしまったきらいはありますが…。


養老神社


 社殿へと続く階段は、高所恐怖症の私にとってはかなり険しく、手摺りの助けを借りてやっとの思いで登りきりました。
 養老神社、祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)、菅原道真、元正天皇、聖武天皇、天照大神。
 菊理媛神は、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみで、 加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされています。
 神社の創建時期は不明。「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降の創建と推測されます。平安時代、美濃国神明帳には“養老明神”と記載されています。永正元年(1504)に菅原道真を合祀し“養老天神”に改称、明治初期近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転して合祀し、養老神社に改称しています。


養老神社社殿

元正天皇行幸の説明書き


 社殿のまえには「元正天皇の行幸と醴泉」として、『続日本紀』の記事が記されています。『続日本紀』の養老元年十一月の記録には、天皇の美濃国への行幸、霊泉、養老改元の記載があります。以下は『続日本紀』の内容です。(稲岡耕二他校注『続日本紀』岩波・新日本古典文學大系)

癸丑、天皇、けんに臨みて、詔して曰く、「われ今年九月を以て美濃国不破の行宮かりみやに到る。留連りうれんすること数日なり。因て当耆たぎ郡多度山の美泉よきいづみを覧て、自ら手面ておもてあらひしに、皮膚滑らかなるが如し。亦、痛き処を洗ひしに、除きえずといふことなし。に在りては、甚だそのしるし有りき。また、きて飲み浴る者、或は白髪黒に反り、或は頽髪たいはつ更に生ひ、或はおぼつかなき目明らかなるが如し。自餘そのほか痼疾やまひことごとく皆平癒せり。昔聞かく、「後漢の光武の時に、醴泉れいせん出でたり。これを飲みしひとは、痼疾皆癒えたり」ときく。符瑞書ふずいしよに曰はく、「醴泉は美泉よきいづみなり。以て老を養ふべし。蓋し水の精なり」といふ。やまひまことおもひみるに、美泉は即ち大瑞にかなへり。朕、庸虚ようこなりと雖も、何ぞ天のたまひものに違はむ。天下に大赦をして、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし」とのたまふ。


菊水泉


 社殿の右手にあるのが百名水に名を連ねている「菊水泉」です。菊水泉という名は、元正女帝が行幸された頃、泉から菊の香りがすると評判になったことが、由来とされています。また「効き目ある水」または世の中を治める「くくり結ぶ水」という意味で「菊水泉」と名付けられたという説もあるようです。
 階段下の説明にあったように、弱アルカリ性の軟水で、カルシウム、マグネシウム、カリウムなど、豊富なミネラル成分が含まれています。
 泉の右手に、謡曲史蹟保存会の駒札と、細川十州翁養老泉碑が建てられています。
 細河十州(1834〜1923)は、本名を細川順次郎といい、明治、大正期の法学者・教育者です。土佐国に生まれ、長崎で蘭学を、中浜万次郎より英語を学びました。

  一脈の甘泉ろくれいに似たり
  誰かまさに至性をもって山霊を動かさん
  学童今日豚犬多し
  樵子なんぞ曽て孝経を読まんや


謡曲史蹟保存会の駒札

山口一易句碑


 謡曲史蹟保存会の駒札の内容は以下のようです。

 霊泉といわれる「菊水泉」の伝説は、古くは奈良時代の続日本紀にみられますが、語り継がれて鎌倉時代の十訓抄などに載っています。
 即ち、元正天皇の御代、美濃国に貧しい男がいて、苦労しながら老いた父を養っていた。ある日、酒の香りがする泉を見つけ、男は喜んで毎日汲んで帰り、なお孝行に励んだ。うわさをお聞きになった天皇は、当地に行幸され、そして、めでたい泉の出現は孝養の徳のたまものとして、年号を「養老」と改められた。
 謡曲「養老」はこの伝説を基に作られたもので、孝養と長寿と平和をたたえた初能物です。謡曲では最後に裏山の山神が現れ、尽きない泉、尽きない平和の御代を願って舞います。

 少し離れて、比較的新しい句碑がありました。養老改元千三百年記念として、小畑蛍川句会が建立した山口一易の句です。

  すめらぎの滝音千と三百年


 それでは以下、謡曲『養老』について。


   謡曲「養老」梗概
 本曲は『老松』『高砂』『放上川』『弓八幡』とともに、世阿弥作とされる脇能の一つである。
 養老霊泉については、上記の『続日本紀』養老元年(霊亀3年)の条にある元正天皇の詔に述べられているが、本曲の典拠となったのは、本項の冒頭に記した『十訓抄』や『古今著聞集』などの伝承によると思われる。


 雄略天皇の御代、美濃国本巣郡に霊泉が湧き出るとの相聞があったので、勅使の一行が下向して養老の滝に到着する。そこへ老若二人の木こりが現れたので、これが話に聞いた養老の親子であろうと思い、その旨を尋ねると果たしてそうであった。そこで養老の滝と称するいわれを問うと、老人は不思議な薬の泉を養老の滝と呼ぶ由来をと、その効用のめでたさを語り、冷水の湧き出るところを教える。そこで勅使がこの由を奏聞しようと帰りかけると、にわかに天上から光がさし、花降り音楽が聞こえ、その間に親子は立ち去ってしまった。
 すると養老の山神が颯爽と姿を現し、嵐や水の音を音楽にして、舞を奏し、太平の御代をたたえるのであった。


 全編めでたさに満ちた脇能の代表作の一つであるが、前場にクセを欠き、ワキ方の待謡を欠くなど脇能としては特異な点が見受けられる。また前シテの老翁が後シテの化身ではなく、現実の人間の役であること、さらに後シテが「山神」というだけの、素性のあまり明確でない神というのも、脇能としては珍しい例である。
 本曲は、小書〈水波之伝〉の演出で上演される場合が少なくない。その折はアイが省略され、常には出ない天女が後ツレとして登場し〈天女之舞〉を舞う。


 ワキの勅使の問いに対して、木こりの老人と青年が、養老の滝のいわれ(いわゆる養老孝子伝説)を語るシーンを以下に。


シテ「そん候これに候はこのじようが子にて候が。朝夕あさいふ山に入り薪をり。我等をはごくみ候處に。或時山路さんろの疲れにや。この水を何となくむすびて飲めば。世の常ならず心も涼しくつかれも助かり
ツレ「さながら仙家せんかの薬の水も。かくやと思ひ知られつゝ。やがて家路いへぢに汲み運び。父母ちちはわにこれをあたふれば
シテ「飲む心より何時いつしかにやがて老をも忘れ水の
ツレ朝寝あさいとこ起き憂からず
シテ・ツレ「夜の寝覚ねざめのも寂しからで。勇む心は眞清水ましみづの。絶えずも老いを養ふ故に。養老の瀧とは申すなり


 養老神社の参拝を終え、川沿いの道を下り、孝子源丞内の墓がまつられている養老寺へと向かいました。途中の茶店で伺ったところ、養老寺はかなり衰退しているようで、本堂もなくなっている様子です。
 養老寺にたどり着きましたが、確かにはかなり衰退している模様で、境内にはさしたる堂塔も見当たりません。中央にポツンとひとつ古びたお堂がありましたが、本堂ではなく、後ほど調べたところでは不動堂とのことでした。


孝子源丞内の幟

不動堂


 境内の入口と思しきあたりには「養老孝子源丞内の碑」と記された幟が翩翻と翻っています。幟をたどって行くと「源丞内の碑」と五輪塔が祀られています。この碑は養老改元1300年を記念して建てられたもののようで、五輪塔が源丞内の墓ではないかと思0われます。


五輪塔

養老孝子源丞内の碑


 境内にはおびただしい句碑が見受けられます。碑面の文字が読み取れないものもありますが、説明坂かあり判明できたものを以下に。


高野素十句碑

山田麗眺子句碑


 写真左上の左端の碑は高野素十の句碑。素十は本名高野与巳(よしみ)、医学博士。虚子に師事し、山口誓子、波多野青畝、水原秋櫻子とともにホトトギスの4Sと称される。

  多芸輪中大垣輪中夏に入る

 右上は山田麗眺子の句碑。以下、伊吹俳句会による説明書きです。
 麗眺子先生は明治36年(1903)名古屋市に生まれる。大正9年(1920)臼田亜浪に師事し石楠入会。同門高弟。昭和21年俳誌南風を創刊、主宰。今日に至る。

  瀧壺の水おのづからひとすぢに


戸倉耕月庵句碑

石川桂郎句碑


 左上は戸倉耕月庵の句碑。耕月庵について、以下説明書きによります。
 この碑は養老町大跡の人、戸倉耕月庵の残した句を女婿の六郎が明治10年(1877)に建碑したものです。耕月庵は通称六之丞といい、40歳の時家督を六郎に譲り、もっぱら六墨の道に親しみました。嘉永7年(1854)獅子門再和派十四世の道統を継ぎ、蕉風を広げました。「むすふより…」の芭蕉句碑の建立者ともいわれ、明治4年61歳で没しのした。

  考の徳世々になかれて瀧すゝし

 右上は源丞内の墓と思しき五輪塔の近くの、石川桂郎の句碑。

  瀧の中逆のぼる水のありにけり


 境内にはまだまた多数の句碑などが散見されましたが、碑面の文字が読み取れぬものが多く断念しました。
 養老寺からは養老駅までの2キロほどの道をたどり、次なる『阿漕』の謡跡のある津市を目指しました。




 謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ
  (令和 4年10月20日・探訪)
(令和 4年12月29日・記述)


inserted by FC2 system