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勢州・阿漕塚 〈阿漕〉


 2022年10月21日、津市にある阿漕塚を訪れました。阿漕塚は町並みのなかにあり、所在が分かりにくかったのですが、近くの津柳山郵便局で詳しい道順を教えていただき、迷うことなく到着することができました。



阿漕塚周辺地図



 阿漕塚は住宅街の中にありますが、木々に囲まれたなり広い敷地があり、塚の後方には記念館が設置されています。訪れた際には記念館は閉ざされており、詳しい情報を得ることはできませんでした。


阿漕塚全景

 塚の前方には、観光協会と教育委員会の説明書き、および謡曲史跡保存会の駒札が建てられています。以下は観光協会による「阿漕塚の由来」です。

 阿漕塚の伝説として広く知られております孝子阿漕平治の物語は、昔阿漕浦が神宮御用の禁漁区で、魚をとることができない場所でありました頃、平治という親孝行な漁夫が、阿漕浦の矢柄(やがら)という魚が母の病気の妙薬と聞いて、禁制を犯して夜な夜な矢柄をとり母に食べさせて、病気の治って行くのを楽しみにしておりましたが、ある風の強い日に、平治と印のある笠を浜に置き忘れたために捕らえられ、法により簀巻(すまき)にされて阿漕浦の沖深く沈められたのが八月十六日でありました。
 その後、この恨みが沖で網を引く音となって聞こえるので、人々はその霊を慰め、平治の孝心を讃えて塚を建て、その名を阿漕塚として、毎年命日には盛大な供養と盆おどりを行うようになったというものであります。この塚は天明2年(1782)棉内町吉朗兵衛ほか2名の発起により建てられたものであります。
 芭蕉の句碑
 月の夜の何を阿古木に啼く千鳥
は俳人村田雁路建之によるものです。


 この説明によると、伝承の主人公「阿漕平治」は孝子であり、母親の病を癒やすために禁を犯して漁をし、そのために捕らえられ処罰されたことになっています。
 普通「あこぎ」といえば、「たび重なること。また、たび重なって広く知れわたること。」の意から転じて「どこまでもむさぼること。しつこくずうずうしいこと。押しつけがましいこと。」として一般に通用していると思われます。これは謡曲『阿漕』などの、神宮御領地を犯す悪行として描いた作品によって、「図々しい」「強引だ」というマイナスの意味が派生しし、それが定着していったものと思われます。
 私も「あこぎ」といえば悪いイメージとして理解していましたが、ここに来て“孝子”であったという伝承を知り、意外に思われた次第です。

 

芭蕉句碑

阿漕塚


謡曲史跡保存会の駒札と津市教育委員会理説明書き

 阿漕塚の左手には観光協会の説明にもありました芭蕉の句碑が建てられています。かなり大きく立派なもので、碑面情報には、
   「阿 漕 塚
 その下に芭蕉の句、
 月の夜の何を阿古木に啼く千鳥
が刻されています。
 また句碑の前方には、津市教育委員会による説明坂と謡曲史蹟保存会の駒札が立てられています。
 教育委員会の「阿漕塚」の説明書きは、観光協会の説明と異なり、より科学的(?)に分析されている感があります。

 阿漕塚のある阿漕浦は、古くから歌枕として知られ、文芸作品の舞台であった。『源平盛衰記』には「伊勢の国阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ」とあり、和歌の世界では南北朝時代に「伊勢の国」の名所として「阿漕が浦」が定着している。
 能楽では、室町時代に謡曲「阿漕」として取り上げられる。その内容は、伊勢参宮の旅の僧が年老いた漁夫に会い、阿漕という漁夫が密漁のため沖に沈められた物語を聞くのだが、実はこの老人こそ阿漕の亡霊であり、僧に供養と救済を頼むというものであった。
 江戸時代になると、古浄瑠璃「あこぎ平治」をはじめとして浄瑠璃や歌舞伎などの題材として取り上げられた。その中で様々に改編・脚色・創作された結果、親孝行の漁夫「阿漕平治」の物語ができあがり、いつしか阿漕塚は平治の霊を慰める塚と言われるようになった。
 阿漕塚が築かれた年代は明らかでないが、『伊勢路見取絵図』に描かれるなと参宮街道沿いの名所として知られていた。

 この教育委員会の説明は、前述の観光協会のものとは異なり、阿漕が孝子とされた経緯に納得できるものがあります。謡曲に描かれた阿漕には孝子のイメージはまったくありません。恐らく室町期以前の「阿漕伝説」は、「阿漕が自らの“業(技)”のため密漁を行っていた」ものであり、その伝承に基づいて謡曲が作られたものでしょう。江戸期になってから、それに“孝子”のイメージが付加されて、現在の「阿漕孝子伝説」が出来上がったものと考えられます。
 さらに「謡曲『阿漕』と阿漕塚」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が立てられていますが、札面は風化が著しく判読不可能でした。以下は「謡跡ひとり旅」のサイトから転載させていただきました。

 「謡曲『阿漕』は、伊勢神宮への御膳調達の漁場での禁漁を犯し、沖に沈められた漁夫阿漕の亡霊が、漁をする殺生の罪と、禁を破った二重の罪による地獄の責めに『あら熱いや、堪えがたや』と苦しみ、罪の回向を願う有様を謡っています。
 この阿漕塚は、親孝行な漁夫阿漕平治が病母のために禁を犯して命を落とした、悲しくも哀れな物語を伝えています。又、阿漕の浦では今もなお、平治が沖で網を引く音が、親への孝心がともすれば失なわれゆく近代の世情に、強く警鐘を鳴らしているかのように聞こえます」


 それでは謡曲『阿漕』について考察いたします。


   謡曲「阿漕」梗概
 世阿弥の作とも伝えられるが、作者は未詳。『古今和歌六帖』や『源平盛衰記』によったもの。


 日向国の男が伊勢神宮参詣を思い立ち、伊勢の阿漕が浦に来ると釣竿を肩にした老人に出会った。地名の由来を尋ねると、老人は、この浦が伊勢大神宮に調達の網場で、禁漁の場所であるのに、阿漕という漁師がたびたひ密漁をしたため、ついに捕らえられ、この沖に沈められた顛末を語る。そしてこような昔話をするのも恥ずかしいことであると言うので、旅人はこの老人が阿漕の幽霊であることを知る。日暮れとなり老人は網の綱を手繰っていたが、にわかに吹き来った疾風とともん、波間に消え失せた。


 旅人が阿漕を弔っていると阿漕の霊が現れ、密漁の様子や焦熱地獄に苦しむ有様を示し、回向を願いつつ、再び波の底に消えていった。

 ハッピーエンドで終わることが多い能のなかで、本曲は救いのない作品のひとつである。殺生の罪により呵責の責めを受ける〈執心物〉のとして、同工の作品として『善知鳥』がある。『善知鳥』では〈カケリ〉の中で鳥を捕る有様を見せ、本曲では魚を捕る有様を見せろ。いづれも殺生の報いで地獄に堕ちることとなる原因の見せ場である。また本曲と同じく、密漁が顕れて捕らえられ、水中に沈められる曲に『鵜飼』がある。『阿漕』『善知鳥』『鵜飼』の3曲は、“三殺生”または“三卑賎”と呼ばれている。
 本曲のワキは、観世流では日向国の旅の男となっているが、他流では旅僧であり、一番本の「曲趣」でも旅僧と記されている。〈待謡〉の内容からも旅僧の方がよいと思われる。


 梗概に述べましたが、本曲は最後まで救いのない曲です。漁師の亡霊は、地獄の苦しみを語り、救いを求める声だけを残して、海底に沈んでいきます。次の旅人が来れば、再び浮かび出でて助けを求めるのでしょうか。
 “三殺生”または“三卑賎”と呼ばれる曲の中で、本曲と『善知鳥』は最後まで救いを求めるのに対して、『鵜飼』のみは後場に登場する閻魔大王により、法華経の功徳で救われることが告げられます。『鵜飼』が他の2曲と大きく異なる点でしょう。

 以下は、老漁夫が、旅人に阿漕が浦の謂れを語る場面です。


ワキ「この浦を阿漕が浦と申すはれおん物語候へ

シテ 語そうじてこの浦を阿漕が浦と申すは。伊勢大神宮御降臨ごこうりんよりこのかた。御膳調進ちやうしんの網を引く所なり。されば神の御誓ひによるにや。海邊の鱗類うろくづこの所に多く集まるによつて。浮世を渡るあたりの海士人。この所にすなどりを望むといへども。神前の恐れあるにより。かたく戒めてこれを許さぬ處に。阿漕と云ふ海士人。わざに望む心の悲しさは。よる々忍びて網を引く。しばしは人も知らざりしに。度かさなればあらはれて。阿漕をいましめ所をもかへず。この浦の沖に沈めけり。

さなきだに伊勢をの海士の罪深き。身を苦しみの海のおも。重ねておも罪科つみとがを。受くるや冥途めいどの道までも
下歌 地娑婆しやばにての名にし負ふ。今も阿漕が恨めしや。呵責かしやくの責めも隙なくて。苦しみも度重たびかさなる罪とむらはせ給へや


 シテ(老漁夫)のこの〈語り〉でも、阿漕が病める母のために密漁をしたとは話しておらず、孝子であった片鱗をも窺うことはできません。前述の教育委員会の説明のように、謡曲の典拠となった伝承には孝子伝説はなく、謡曲が出来上がった後に孝子伝説が付加されていったものと考えられます。
 そして謡曲の典拠となったものとして『源平盛衰記』があります。ここでは西行と“阿漕”の因縁話が記されています。
 『源平盛衰記』智巻第八、讃岐院の事に、保元の乱に敗れ、讃岐に配流され崩御された崇徳院の霊を慰めんと、西行がその地を訪れる件があります。その末尾で西行の出家の原因について述べていますが、そこに阿漕が登場します。〈本居豊穎他校訂『源平盛衰記』博文館、1914〉

さても西行發心のおこりを尋ぬれば、源は戀故とぞ承る。申すも恐ある上臈じやうらふ女房を思懸おもひがけ進らせたりけるを、あこぎの浦ぞと云ふ仰を蒙りて、思切り、官位つかさくらゐは春の夜見はてぬ夢と思成おもひなし、樂み榮えは秋の夜の月西へとなぞらへて、有爲うゐの世の契を遁れつゝ、無爲むゐの道にぞ入りにける。あこぎの歌の心なり。
  伊勢の海あこぎが浦に引く網も度重たびかさなれば人もこそ知れ
と云ふ心は、かの阿漕の浦には、神のちかひにて、年に一度の外は、網を引かずとかや。此おほせを承りて、西行が讀みける、
  思ひきや富士の高根たかねに一ねて雲の上なる月をみんとは
此歌の心を思ふには、一よの御契は有りけるにや、重ねて聞食きこしめす事の有りければこそ、阿漕とは仰せけめ、情なかりける事共也。かの貫之が御前の簀子すのこの邊に候ひて、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ一首の御製ぎよせいを給ひて、夢にやみるとまどろむぞ君と、申したりけん事までも、おもひやるこそゆかしけれ。

 この『源平盛衰記』で語られている西行の悲恋の物語に関して、白洲正子女史は以下のように述べています。(白洲正子『西行』新潮文庫、1996)

 (『源平盛衰記』によれば)西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴の女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。
 「あこぎの浦ぞ」というのは、
  伊勢の海あこぎが浦に引く網もたひかさなれば人もこそ知れ
 という古歌によっており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。
 あこぎの浦は、伊勢大神宮へささげる神饌の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を「阿漕が浦」「阿漕が島」ともいい、殺生禁断の地になっていた。そこで夜な夜なひそかに網を引いていた漁師が、発覚して海へ沈められたという哀話が元にあって、この恋歌は生まれたのだと思う。或いは恋歌が先で、話は後からできたという説もあるが、それではあまりにも不自然で、やはり実話が語り伝えられている間に歌が詠まれ、歌枕となって定着したのであろう。
 世阿弥が作曲した『阿漕』の能も、漁夫の亡霊のざんげ物語に脚色してあるが、前シテのクセの部分はこのような歌詞になっている。
恥ずかしやいにしへを、語るもあまりげに、阿漕が浮名もらす身の、亡き世語のいろいろに、錦木の数積り千束の契り忍身の、阿漕がたとへ浮名立つ、義清と聞えしその歌人の忍び妻、阿漕々々といひけんも、責一人に度重なるぞ悲しき
 漁夫のざんげ物語が、いつしか西行の悲恋の告白に変わって行き、「阿漕々々といひけんも、責一人に度重なるぞ悲しき」と、前シテの老人が泣き伏すところなど、まるで西行がのりうつって恨みを述べているかのように見える。
 室町時代になると、「あこぎ」という詞と、西行は、切り離せないものになっていたことを示しているが、もともと“あこぎ”は、厚かましいとか、しつこいという意味があり、今私たちが使っているような、ひどいことをする、残酷である、という詞とは違う。時代を経るにしたがって、ものの見方の立場が変わってきたのである。だから「あこぎの浦ぞ」といわれることは、最大の恥辱であったのだが、では、そんな冷酷な言葉を誰が投げつけたかといえば、ただ「申すも恐ある上臈女房」とあるのみで、相手は誰ともわかってはいない。朝廷に使える女房たちとなら、西行は自由に交際していたし、源平盛衰記も、「申すも恐ある」とはいわなかったであろう。このように高飛車な言が吐けるのは、よほど身分の高い「上臈」に違いないのである。

 そして白洲女史は、西行(佐藤義清)に「阿漕」と言ったのは
 「申すも恐ある上﨟」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。
と述べています。

 上述しましたように『阿漕』は『善知鳥』『鵜飼』と並んで“三殺生”または“三卑賎”と呼ばれていますが、他の2曲と比べると『阿漕』には、ひと味違う何かしら風雅な趣きが底辺に漂っている……そんな感を受けるのです。


 蛇足ながら最後に西行に関連して、落語に『西行』という演目があります。この噺には西行と阿漕が登場するのです。

 西行がまだ北面の武士・佐藤義清であったころのお話です。義清が染殿内侍に恋焦がれ、わりない仲になりました。ひと夜を共にして翌朝、別れに望んて義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕であろう」との一言を残して去っていきました。ところが義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわかりません。
 さて、髪を下ろして諸国行脚の西行は、とある宿場にて馬子が馬に毒づいているのを耳にしました。「さんざん前宿で食らったくせに。本当に阿漕な奴だ」と。これを聞いた西行、はっと思い馬子にその訳を訊ねますと、「この馬は前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがる」とのこと。西行「さては二度目の時が阿漕かしらん」

 「豆」は女性の××の隠語なんですね。地獄の責めに苦しむ阿漕の話から、最後はいささかエッチなオチになり、申し訳ありません。お後がよろしいようで…。



 阿漕浦の景色を眺めようと海岸に出ましたが、素人写真の悲しさ、よいアングルでの撮影が叶いませんでした。なお、かつての津郵便局(現・津中央郵便局)と津柳山郵便局の風景印に阿漕塚が描かれています。


阿漕浦寸描

千鳥に阿漕塚と
津の海岸を描く
旧津郵便局風景印

阿漕浦海岸に阿漕塚、
平治の笠とヨットを描く
津柳山郵便局風景印



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  (令和 4年10月21日・探訪)
(令和 5年 1月 7日・記述)


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