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熊野三山 〈巻絹〉


 2023年3月28日から30日の三日間、南紀新宮を拠点にして熊野三山に参拝しました。熊野三山は謡曲『巻絹』の史蹟でもあります。
 紀伊半島の突端部にほど近いところに鎮座する熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を熊野三山と呼び、古来霊地とされています。また熊野修験の一大拠点となり、三山が主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されるようになりました。熊野三所権現は、家津美御子(けつみみこ)(スサノオ)・速玉(イザナギ)・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)(イザナミ)のみを指しますが、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現とも呼んでいます。


熊野三山周辺地図



 平安時代になると熊野信仰は盛んとなり、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度におよび、身分や老若男女を問わず「蟻の熊野詣」といわれるほど大勢の人々が熊野を訪れました。熊野詣のために通った道が「熊野古道」と呼ばれる参詣道です。





  1日目 熊野速玉大社

 3月28日、大阪府南部の日根野駅発8時25分の特急くろしおに乗車、新宮を目指します。新宮には11時58分の到着です。日根野駅~新宮駅のJRの営業距離は約230キロ、この間を走るのに3時間半を要しております。鈍行に毛の生えたような特急列車ではありました。
 新宮駅前の観光協会でレンタサイクルを借用し、郵便局を回り、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に参拝いたしました。


《熊野速玉大社》  和歌山県新宮市新宮1


熊野速玉大社境内図(学習研究社「神社紀行」)

 熊野速玉大社は、熊野本宮大社・熊野那智大社と共に、熊野三山を構成する一社で、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としている。熊野速玉大神は伊邪那岐神とされ、熊野夫須美大神は伊邪那美神とされています。



社号標と一の鳥居


 神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなったと伝えられています。社伝によると景行天皇58年に現在地に遷座し、速玉之男神の名から社名をとったという。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮(にいみや)と呼ばれ、新宮市の名前の由来となっています。


神門


 神門の右手に稲荷社と手水舎があります。神門をくぐり拝殿へと向かいました。
 当社について若干重複しますが、以下境内の由緒書きによります。

 熊野速玉大社は悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天の磐盾)を御神体とする自然崇拝を源として、この天の磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神)を景行天皇58年(128)の御代、初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。我々の祖先は美し国熊野に坐しますこの真新しい新宮(にいみや)に大自然の恵みを献じて神々を斎(いつ)き祀り、感謝を畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。このように原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮(しんぐう)」と称するゆえんであります。
 この尊称はまさに熊野速玉大社が新宮(あめつち)を経典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有することの証(あかし)といえるでしょう。中世熊野御幸は百四十度を仰ぎ、第46代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。また境内には、熊野信仰の象徴たる「梛(なぎ)の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。



拝殿

ご朱印


 本殿の配置は、第一殿の結宮、第二殿の速玉宮、第三殿から第五殿を相殿とする上三殿、さらに第六殿から十三殿を合わせた八社伝の順に並んでいます。
 旧社殿は明治16年(1883)の火災で焼失し、現在の社殿は昭和28年(1953)に再建されたものです。

 当社の社殿・祭神・本地仏を下表にまとめています。


社殿 祭神 本地仏
上四社 第一殿 結宮  熊野牟須美大神  千手観音
第二殿 速玉宮  熊野速玉大神  薬師如来
第三殿 證証殿  家都美御子大神  阿弥陀如来
第四殿 若宮  天照大神  十一面観音
神倉宮  高倉下命  (本地仏なし)
中四社 第五殿 禅児宮  忍穂耳命  地蔵菩薩
第六殿 聖宮  瓊々杵尊  龍樹菩薩
第七殿 児宮  彦火火出見命  如意輪観音
第八殿 子守宮  鵜葦草葦不合命  聖観音
下四社 第九殿 一万宮  国狭槌命  文殊菩薩
十万宮  豊斟渟命  普賢菩薩
第十殿 勧請宮  泥土煮尊  釈迦如来
第十一殿 飛行宮  大戸道命  不動明王
第十二殿 米持宮  面足尊  多聞天


社殿

熊野御幸の碑


 境内の「熊野御幸の碑」の説明書きです。

 中世、宇多上皇(第59代天皇)の延喜7年(907)から玄輝門院の嘉元元年(1303)までの396年間に、上皇・女院・親王を併せて御33方、140回に及ぶ皇室の御参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
 熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後にご出発になる。白河天皇の天永元年9月の御幸には、総人数814人、一日の食糧16石2斗8升、傅馬185匹と「中右記」に記している。
 御幸の道順は、京都・住吉・和泉・紀伊半島海岸沿いに南下して、田辺・中辺路・本宮・熊野川を下って当大社へ参拝、那智山・雲取・本宮、往路コースを逆行して帰京されるまで、およそ20数日に及ぶ難行苦行の旅であった。
 熊野御幸なよって、熊野信仰は公卿・武士・庶民の間に流布し、熊野水軍を持つ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられるなど、各方面に大きな影響を残している。


 当社の例大祭として著名なものに、2月の御燈祭と10月の御船祭があります。
 御燈祭は摂社の神倉神社の例祭で、勇壮な火祭りとして知られています。「御燈祭は男の祭、山は火の滝下り竜」と謡われ、祭に参加する上り子は男子に限り、山内は女人禁制となります。
 御船祭は夫須美大神の例大祭で、熊野川を2㎞さかのぼったところにある御船島が舞台となります。
 新宮郵便局と新宮横町郵便局の風景印に、両大祭が描かれています。

 
新宮郵便局風景印

新宮横町郵便局風景印




  2日目 熊野那智大社・青岸渡寺・飛瀧神社・補陀落山寺

 3月29日、旅の二日目です。本日は熊野那智大社、青岸渡寺に参拝し、那智勝浦町の郵便局を訪問、帰路那智駅の近くにある補陀洛山寺に参拝する予定にしています。
 新宮駅発7時55分の列車で那智駅に向かい、そこからバスで約20分で那智山へ。途中「大門坂」のバス停を過ぎると、道を行く大勢のハイカーの姿が見受けられました。ここ大門坂入口からバスの終点の熊野那智大社参道の入口まで、短距離の熊野古道ハイキングコースがあるもようです。バスはつづら折りの山餅を進み、終点の「那智山参道入口」に到着。参道入口の隣にある那智山郵便局に立ち寄り、いよいよ見上げるばかりの参道の階段にとりつきました。


熊野那智大社・青岸渡寺・飛瀧神社境内図


《熊野那智大社》  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1


参道の石段


満開の桜


一の鳥居と西国第一番札所の石柱


 那智山郵便局の左手にある「那智山参道入口」の石碑から登頂を開始します。見上げるだけでうんざりするような石段が続いていますが、周辺の桜がいくぶん気持ちを和らげてくれるようです。
 一の鳥居の手前に「右西国第一番札所」の石柱があり、右手に進むと青岸渡寺の仁王門に出るようです。


階段はまだまだ続く

二の鳥居


 長い石段を登り切りやっとのことで二の鳥居をくぐり、拝殿前の広場にたどり着きました。
 以下は境内に掲示されている当社の由緒です。

 熊野という地名には諸説ありますが、紀伊続風土記には「熊野は隈にてコモル義にして」とあり、「奥まった処」「隠れたる処」との意が、また「クマ」と「カミ」とは同じ意があると考えられ、「クマノ」とは「カミの野」で神々が住まう地といえます。
 往古、神武天皇東征のみぎり、この地に上陸された神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)が那智の大瀧を神として祀られたのが那智山信仰の始まりとされ、その後、命は熊野の神使である八咫烏の導きにより大和の地に赴かれ、橿原宮で初代天皇に即位されました。
 当社は仁徳天皇5年(317)、この那智山中腹に社殿が創建され、御瀧本より熊野の神々を遷座してお祀りしたと伝えられています。御祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)と申し上げる我が国の最初の女神『伊弉冉尊(いざなぎのみこと)』を主神として十三所の神々をお祀りし、全国の熊野神社四千余社の御本社である熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)の一社であり、「日本第一大霊験所 根本熊野三所権現」として崇められています。主神の御名「夫須美」は『むすび』と同意であり、所願成就の御神徳があり、かつては『結宮(むすびのみや)』とも称されました。
 熊野信仰は、我が国に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、修験道の隆盛とも相俟って熊野権現として崇められ、平安中期頃より上皇(法皇)が詣でる熊野御幸は百余回に及び、やがて武将や庶民に至るまで大勢の人々が詣でるようになり、『蟻の熊野詣』と称されました。
 那智山信仰の根元である那智の御瀧は、当社の別宮『飛瀧神社(ひろうじんじゃ)』と申し上げ、大己貴神(おおなむちのかみ)をお祀りしています。



拝殿

ご朱印


 当社の社殿・祭神・本地仏を下表にまとめています。本宮大社・速玉大社と異なり、第一殿に瀧宮が加わり上五社となっています。


社殿 祭神 本地仏
上五社 第一殿 瀧宮  大己貴命(飛瀧権現)  千手観音
第二殿 證証殿  家津御子大神  阿弥陀如来
第三殿 中御前  御子速玉大神  薬師如来
第四殿 西御前  熊野牟須美大神  千手観音
第五殿 若宮  天照大神  十一面観音
中四社 第六殿
八社殿
禅児宮  忍穂耳命  地蔵菩薩
聖宮  瓊々杵尊  龍樹菩薩
児宮  彦火火出見命  如意輪観音
子守宮  鵜葦草葦不合命  聖観音
下四社 一万宮  国狭槌尊  文殊菩薩
十万宮  豊斟渟尊  普賢菩薩
米持金剛  泥土煮尊  毘沙門天
飛行夜叉  大戸道尊  不動明王
勧請十五所  面足尊  釈迦如来


八咫烏を祀る御縣彦社

大楠


 拝殿の左手に八咫烏を祀る御縣彦社(みあがたひこしゃ)があります。

 八咫烏は、神倭磐余彦命(神武天皇)を熊野から大和(奈良の橿原)まで道案内をしたといわれる烏であり、熊野の神様のお使いとされています。無事に道案内を終えた八咫烏は熊野に戻り、当社で石に姿を変えて休んでいると伝えられています。(玉垣内の「烏石」)
 日本サッカー協会のシンボルマークに八咫烏が使われていますが、これは日本のサッカーの産みの親である、那智勝浦町出身の中村覚之助氏にちなんで、選定されたといわれています。
 八咫烏は導きの神様として、願事を成就に導くご利益があると崇敬を集めています。

 境内のかたわらに天然記念物の大楠が大きく枝を広げているのが目立ちます。「那智の大楠」と呼ばれているこの楠は、平重盛の御手植えと伝えられ、樹齢は約850年。巨大な根元には人が通りぬけられる程の洞があり、胎内くぐりができるようです。



 那智大社のすぐ隣に、青岸渡寺があります。朱に彩られた那智大社とは異なり、古色蒼然としたたたずまいでありました。


青岸渡寺


 青岸渡寺は西国三十三所第1番札所で、本尊は如意輪観音菩薩。創建の時期等については判然としませんが、伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)に天竺から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音菩薩を本尊として安置したといわれています。中世から近世にかけて隣接する熊野那智大社と一体化し、那智山熊野権現や那智権現と呼ばれる神仏習合の修験道場でした。



青岸渡寺内陣

ご朱印


 青岸渡寺のご朱印です。
 墨書きの「普照殿(ふしょうでん)」は観音経の一説にある「あまねく世間を照らす」の意。中央の朱印は、如意輪観音の種子「キリク」。



仁王門

鐘楼


 青岸渡寺の仁王門。本来ならば階段を下り、入門しなければならないところですが、先ほどから階段には辟易しており、裏側からの写真撮影でお茶を濁してしまいました。


青岸渡寺境内より三重塔と那智の滝を望む


 青岸渡寺の境内からは、三重塔と那智の滝が見下ろせるビュースポットがあります。しばらく絶景に浸りながら三重塔へ道を下りました。


那智児句碑

上田三四二歌碑


 三重塔から那智の滝を目指します。途中には句碑や歌碑が建てられています。
 まず那智児の句碑。

  薄紅葉して神の那智滝の那智

 那智児は本名片山。ホトトギスの同人とのことです。
 ついて上田三四二の歌碑。

  滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す


那智の滝と青岸渡寺を
描く那智山郵便局風景印

 上田三四は小野市の生まれ。

 三重塔から滝への道は裏参道になるのでしょうか、急勾配でごつごつとした石段が続き、おまけに手摺りもありません。巨木に囲まれた薄暗い石段を、恐る恐る一段ずつ下りて行きました。上りの階段は“しんどい”だけで済むのですが、この歳になると下りの階段は正直“怖い”。やっとのことでバス停までたどり着き、ほっと一息。道を隔てて木立に囲まれた「飛瀧神社」の鳥居が、足弱の参拝者を迎えてくれました。



飛瀧神社鳥居

ご朱印

 瀧へは下りの石段が続いていますが、勾配も比較的ゆるやかで手摺りも備わっており、先ほどのような怖い思いもせずに瀧の遥拝所までたどり着くことができました。



那智の滝三景


 


 


 那智の滝は、ほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、その姿は熊野灘からも望見することができるといわれています。
 はじまりは自然崇拝の対象であった滝ですが、やがて国造りの神である大己貴神の御神体とされるようになりました。その本地仏は千手観音とされていましたが、瀑布の豊富な水量が、あらゆる者に救いの手を差し延べる千本の手に擬せられたものかも知れません。



 那智の大瀧の参拝を終え、バスでJR那智駅まで。那智駅の近くにある補陀洛山寺に参拝いたしました。駅前の道路を渡ると、熊野三所大神社(浜の宮王子)の境内が広がっています。
 以下は那智勝浦町による当社の説明書きです。

 熊野三所大神社は、かつては浜の宮王子とも呼ばれ、御神像3体は国の重要文化財に指定されている由緒の古い神社です。隣接する補陀洛山寺と一体のものとして人々に信仰されてきましたが、19世紀後半、神仏分離令によってはっきりと区別され、のちに現在の熊野三所大神社と改称されました。
 1648年の再建と伝えられているこの神社の本殿には、熊野三所権現(熊野夫須美大神、御子速玉大神、家都御子大神)を祀っています。また二社の摂社もあり、これらはそれぞれ本殿の両側に建てられています。右側の社殿は熊野に上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畔を祀っており、左側には食と稲作の神である御食津神(三狐神)を祀っています。
 境内の周りの木立は「渚の森」と呼ばれ、多くの熊野詣の紀行録の中で讃えられており、現在もこの森の一部が残されています。

 説明書きにある「丹敷戸畔(にしきとべ)」は、熊野を統治していた女首長のようですが、詳しい伝承や資料はほとんど現存していないようです。


熊野三所大神社

熊野三所大神社社殿

 『平家物語』によれば、平維盛が浜の宮王子から一艘の舟に乗って入水したという記事があります。維盛は一の谷の合戦の後、高野山に入って出家し、熊野本宮大社に参詣して、船で新宮に下り神の座に参拝、那智大社に参詣した後、船で沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)したとされています。
 以下『平家物語』巻十(佐藤謙三校註、角川文庫、1959)の該当部分です。

 高野をば山伏修行者のやうに出で立つて、同じき国の内山東さんとうへこそ出でられけれ。(中略)
 やうやうさし給ふ程に、岩田いはた河にも着き給ひぬ。(中略)本宮證誠殿の御前にて、静に法施參らせて終夜よもすがら御山の体を眺め給ふに、心もことばも及ばれず、大悲だいひ擁護おうごの霞は、熊野山にたなびき、霊験無双ぶさうの神明は音無河に跡を垂る。(中略)
 明けければ、本宮より舟に乗り、新宮へぞ参られける。かんくらを拝み給ふに、巌松高く聳えて、嵐妄想まうざうの夢を破り、流水清く流れて、浪塵埃ぢんあいの垢をすゝぐらんとも覚えたり。飛鳥の社伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山に参り給ふ。三重にみなぎり落つる瀧の水、数千丈までよぢ上り、観音の霊像は岩の上に現れて、補陀落山ふだらくせんともつつべし。(中略)
 三つの御山みやまの参詣、事故ことゆゑなうとげ給ひしかば、浜の宮と申し奉る王子の御前より、一葉いちえふの船に棹さして、万里の蒼海に浮び給ふ。はるかの沖に、山なりの島と云ふ所ありき。中将、それに船漕ぎ寄せさせ、岸にあがり、大きなる松の木を削りて、泣く泣く名跡めいせきをぞ書き附けられける。「祖父太政大臣平朝臣あそん清盛公法名浄海、親父しんぷ小松の内大臣の左大将重盛公法名浄蓮じやうれん、三位の中将維盛法名浄円じやうえん、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水じゆすゐす」と書き附けて、又舟に乗り、沖へぞ漕出で給ひける。思ひ切りぬる道なれども、今はの時にもなりぬれば、さすが心細う悲しからずと云ふ事なし。

 熊野三所大神社の境内を抜けると補陀洛山寺の境内に続いておりました。
 補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は天台宗の寺院。本尊は三貌十一面千手千眼観音。「補陀落」はサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳です。
 仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝えられています。平安時代から江戸時代にかけて、人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海)」で知られる古刹です。


補陀洛山寺本堂


ご朱印


 境内には「補陀洛渡海発症の地」の碑が建てられ、復元された補陀洛渡海船が展示されています。


補陀洛渡海発症の地の碑

補陀洛渡海船


 補陀洛渡海は、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼です。
 補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされていますが、中世日本では、遥か南洋上に存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称しました。補陀洛渡海はここ南紀以外にも、足摺岬、室戸岬、那珂湊などからも行われたとの記録があります。





  3日目 熊野本宮大社・大斎原

 新宮で三日目の朝を迎えました。この旅の本命ともいうべき那智本宮大社に参拝し、その足で田辺に抜け、紀伊田辺駅から帰阪の途につく予定です。
 新宮駅発7時10分の本宮行きバスに乗車、約1時間で熊野本宮大社に到着しました。


熊野本宮大社境内図(学習研究社「神社紀行」より)


熊野本宮大社門前の賑わい


社号標と一の鳥居


 一の鳥居の手前に前登志夫の歌碑があります。

  那智瀧のひびきをもちて本宮にむかづくわれや生きむとぞする

 前登志夫(1926~2008)は昭和後期から平成時代の歌人。詩人として出発したが、のち前川佐美雄に入門して短歌に転じる。郷里の奈良県吉野で林業をいとなむかたわら、自然を背景とした土俗的な歌をつくりつづけた。

 大鳥居をくぐり、本殿への階段を上ります。途中、左手に祓戸大神(はらえどのおおかみ)が祀られていました。祓戸大神は祓を司どる神ですから、本殿にお参りする前に身を清めておこうということでょうか。


登志夫歌碑


祓戸社

参道の階段


 石段は2百数十段あるようです。やっと長い階段を登りきり、社務所などがある広場にでました。
 神門の手前に後鳥羽上皇御製の歌碑が建てられています。

  はるばるとさかしき峰をわけ過ぎて音無川を今日みつるかな

 その傍らに旧社号標が建っています。以下はそま説明です。

 当社の社号は現在熊野本宮大社であるが、平安時代初期に編纂された延喜式神名帳に「熊野坐神社」と記されている。
 その後「本宮大社」という名称が定着したが、明治四年「熊野坐神社」を正式社号として、登録した。
 この社号標は昭和十五年一月の建立で、時の首相近衛文麿公爵の揮毫によるものである。


後鳥羽上皇歌碑

旧社号標


 神門の前庭には日輪の中に三本足のカラスを配した「八咫烏」の幟が掲げられています。以下は「八咫烏の由来」とする当社の説明書きです。

 熊野では八咫烏を神の使者と言われています。三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表わすとも言われ、当社では主祭神家津美御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、又天・地・人の意をあらわしています。
 烏は一般に不吉の鳥とされいきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の折、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。また歴史の云ったんり触れて述べれば、源平合戦の折那須与一出身地(栃木県)烏山城は烏が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したといわれています。

 『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとの記述はありません。平安時代の中ごろに、八咫烏が中国の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われます。中国の神話では、太陽の中にカラスが棲むと考えられており、陰陽五行説に基づき、二本足の二は陰数であるため、陽数の三の三本足で描かれるようになったと考えられます。


神門

 神門をくぐり抜けて、上四社に参拝いたします。以下は当社の由緒書きです。

 当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。御主神は家都美御子大神(けつみこのおおかみ)すなわち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木ノ国)の語源もここから起こっております。
 大神は植林を御奨励になり、造船の技術を教えられて、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに、生命の育成発展を司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜7年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ、約三百年二わたり法皇・上皇・女院の御幸は百数十回に及びました。これが史上有名な熊野御幸であります。
 これと前後して当時の神仏習合によって、御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに、全国に御分社を祭り、その数は現在五千数社を数えています。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱と様々な変災の渦中にありながら人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して、明治時代に至りました。
 現在の社殿は享和2年、徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝(はるとみ)卿が音無里、現本宮町大斎原(指定文化財)に建立されましたが、明治22年の大出水にあって現在地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は大斎原と呼び、石祠二殿を仮宮として、西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祀しています。


第一殿・第二殿

第三殿・第四殿


 第三殿の證証殿が本宮大社の本殿ともいうべき建物です。證証殿の前に、『平家物語』にある、平重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と嘆く場面の記事が掲げられてありました。その該当部分を以下に。(佐藤謙三校註『平家物語』巻三、角川文庫、1959)

 同じき夏の頃、小松の大臣おとどは、かやうの事どもに、よろづ心細くや思はれけん、その頃熊野参詣の事ありけり。本宮證証殿の御前にて、静に法施ほつせ参らせて、終夜よもすがら>敬白けいびやくせられけるは、「親父しんぷ入道相国のていを見るに、悪逆無道にして、やゞもすれば君を悩まし奉る。そのふるまひを見るに、一期の栄花えいぐわなほ危し。重盛長子として、しきりに諌めを致すといへども、身不肖ふせうの間、彼以て服膺ふくようせず。枝葉連続して、しんを現し名を揚げん事難し。この時に当つて、重盛いやしくも思へり。なまじひに列して世に浮沈せん事、あへて良臣孝子の法にあらず。しかじ、名を遁れ身を退いて、今生こんじやうの名望を投げ捨てて、来世の菩提を求めんに。たゞ凡夫ぼんぷ薄地、是非に惑へるが故に、志をなほほしいまゝにせず。南無権現金剛童子、願はくは、子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくば、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀えいえう又一期を限つて、後昆こうこん恥に及ぶべくば、重盛が運命をつゞめて、来世の苦輪を助け給へ。両箇りやうか求願ぐぐわん、ひとへに<冥助みやうじよを仰ぐ」と、肝胆をくだいて祈念せられければ、燈籠の碑のやうなる者の、大臣の御身より出でて、はつと消ゆるが如くして失せにけり。人あまた身奉りけれども、恐れてこれを申さず。



第三殿(証誠殿)

ご朱印


 本宮大社の社殿・祭神・本地仏は以下のようです。


社殿 祭神 本地仏
上四社 第一殿 西御前  熊野牟須美大神  千手観音
第二殿 中御前  熊野速玉大神  薬師如来
第三殿 證証殿  家都美御子大神  阿弥陀如来
第四殿 若宮  天照大神  十一面観音
中四社 第五殿 禅児宮  忍穂耳命  地蔵菩薩
第六殿 聖宮  瓊々杵尊  龍樹菩薩
第七殿 児宮  彦火火出見命  如意輪観音
第八殿 子守宮  鵜葺草葺不合命  聖観音
下四社 第九殿 一万宮  軻遇突智命  文殊菩薩
十万宮  普賢菩薩
第十殿 米持金剛  埴山姫命  毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉  彌都波能賣命  不動明王
第十二殿 勧請十五所  稚産霊命  釈迦如来

 熊野三山の授与品に「牛王宝印(ごおうほういん)」があります。これはカラスと宝珠を使って文字を図案化したもので、カラス文字といわれています。本宮大社と速玉大社は「熊野山宝印」、那智大社は「那智瀧宝印」と記されており、本宮大社は88羽、速玉大社は48羽、那智大社は72羽の烏が描かれています。
 牛王宝印は、厄除けの護符としてだけではなく、裏面に誓約文を書いて相手に渡す誓紙としても使われてきました。牛王宝印を用いるということは、神に誓うということであり、もし誓いを破るときはたちまち神罰を蒙るとされていました。熊野牛王は江戸時代になると、吉原などで遊女と客が取り交わす誓紙として使われ、「愛する人はあなただけ」という誓いをたて、客を繋ぎとめるテクニックとして使われたようです。「誓紙書くたび三羽づつ熊野で烏が死んだげな」と小唄にも歌われ、幕末の志士高杉晋作の作と伝えられる「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という粋な都々逸もあります。
 古典落語に「三枚起請」という演目があります。以下は、興津要編『古典落語』(講談社文庫、1972)を要約しました。

 吉原の花魁にいれこんでいる半ちゃんが、棟梁を訪れ「年期があけたら花魁の喜瀬川と一緒になる」と、自慢話をいたします。棟梁は「本気になるなと」諭しますが、半ちゃんは、その証拠に年期があけたら夫婦になるという起請を貰っていると、得意顔です。棟梁が、半ちゃんの起請を見せてもらうと、自分の持ってい起請と同じもの。なんてことはない二人とも起請の発行主である喜瀬川に騙されていたのでした。そこへおしゃべりの金公がやってきます。二人の話を聞いた金公、自分も同じ起請を持っているではありませんか。三人とも喜瀬川に騙されていたのです。
 三人は復讐しようとお茶屋へ行き、半ちゃんと金公は陰に隠れて棟梁が喜瀬川を呼び出します。棟梁が喜瀬川に「半ちゃんにも同じものをやっただろう」を問いただすと、喜瀬川「半ちゃんみたいな色白のブクブク野郎に起請なんか書くわけないよ」。そこへ隠れていた半ちゃんが登場。「やい喜瀬川、お前は経師屋の金公にも起請をやったろう」。喜瀬川「あんな嫌な奴に起請なんか書くものか」と言っているところへ金公が登場。侘びでも入れるかと思ったが、喜瀬川は開き直るばかりです。棟梁「女郎なんてものは客をだますのが商売だ。けれどおめえのだまし方がしゃくにさわるから、文句を言っているんだ。昔から言うじゃねえか『いやな起請を書くときにゃ、熊野でカラスが三羽死ぬ』ってな」。喜瀬川「あら、三羽死ぬの。それならもっともっと嫌な起請をいっばい書いて、世界中のカラスを皆殺しにしちゃうわ」。棟梁「おめえは、カラスに恨みでもあるのか」。喜瀬川「べつに恨みなんかないけどさ、あたしもつとめの身だもの。世界中のカラスを殺して、ゆっくり朝寝がしてみたい」

 謡曲において起請文をしたためる曲に『正尊』があります。頼朝の命を受け義経を討たんと上京した土佐坊正尊が、義経の御前で熊野参詣のための上洛であると嘘を言い、苦しまぎれに起請文をしたため読み上げるのですが、この時、熊野でははたして何羽のカラスが死んだことでしょう。

シテその事はいかゞ御座候やらん。身に於いては全く緩怠あらざる趣。起請文に書き表し。只今御目にかくべしと
上歌 地當座の席を遁れんと。當座の席を遁れんと。土佐は聞うる文者にて。自筆にこれを書きつけ御前に於いて讀み上ぐる
シテ敬つて白す起請文の事



 ここ本宮大社を舞台に繰り広げられる能が『巻絹』です。音無天神がのりうつった巫女が、捕縛された都の男を助け、神楽を舞うというものです。この曲の典拠は明確ではありませんが、『沙石集』に以下のような説話があり、この話を下敷きとしたものであろうと思われます。
 以下は『沙石集』巻第五末「人の感有る和歌の事」(小島孝之校註『沙石集』小学館日本古典文学全集、2001)によります。

 後嵯峨法皇の、御熊野詣ありける時、伊勢国のの中に、本宮の音無河おとなしがはと云ふ所に、梅の花の盛りなりけるを見て、よみける。
   音なしに咲き始めける梅の花にほはざりせばいかで知らまし
 が歌には、いみじき秀歌なるべし。
 この事、御下向の時、道にて自然じねん聞食きこしめして、北面の下﨟げらふに仰せて召されにけり。北面の者、馬にてあちこち打ちめぐりて、「本宮にて、歌よみたりけるは、いづれぞ」と問ふに、「これこそ、くだんにて候へ」と、そばにて人申しければ、「仰せなり。参るべし」と云ひける、返事かへりごと
   花ならば折りてぞ人の問ふべきになり下がりたるみこそつらけれ
 さて、返事にも及ばで、おめおめと馬より下りて、して参りぬ。事の子細聞こしめされて、御感ぎよかんありて、「何事にても所望しよまう申せ」と仰せ下さる。「云ひ甲斐なき身にて候へば、何事の所望か候ふへき」と、申し上げけれども、「なに分にしたがふ所望なかるべき」と仰せければ、「母にて候ふ者を、養ふほどの御恩ごおんこそ、所望に候へ」と申しければ、百姓なりけるを、かの所帯しよたい公事くじ一向いつかう御免ありて、永代えいたいを限りて、違乱ゐらんあるまじき由の御下文おんくだしぶみ給はりて、下りけるとぞ。わりなき勧賞けんじやうにこそ、百姓が子なりけれども、ちごだちにて、和歌の道心得たりけるとぞ、人申しはんべりし。

 後嵯峨法皇が御熊野詣でをなさった時、伊勢国の夫(労役奉仕に挑発された人夫)の中に、本宮の音無河という所で梅の花が盛りであるのを見て歌を詠んだ者がいた。
  (音なしに…)音無河のほとりで音もせずに咲き始めた梅の花よ。匂わなければどうして知ることが出来ようか
夫の歌にしては大変素晴らしい秀歌であろう。
 このことを、御下向の時に、道すがらお聞きになられて、北面の下﨟に仰せてお召しになられた。北面の者は馬に乗ってあちこちを巡り、「本宮で歌を詠んだ夫はどこか」と問うと、「これこそ例の夫でございます」と側で人が申したので。「仰せである。参れ」と言った。返事に、
  (花ならば…)花であれば折ってから人が問うべきであるのに、成り下がった実はつらいものだ。馬から下りて問うべきところでであるのに、そうはされない成り下がったこの身が辛いことだ。
 使者は返事をすることもできず、おめおめ馬からお、連れて参った。事の子細をお聞きになられて、御感があり、「何でも所望を申せ」と仰せがあった。「不甲斐ない身でございますので、何の所望がございましょうか」と申し上げたけれども、「どうして身の程に応じた所望がないことがあろうか」と仰せられたので、「母でございます者を養う程の御恩を所望いたしたく存じます」と申したので、百姓であったのを、その所帯の公事をすべて免除し、子々孫々に至るまで間違いのない旨を書いた御下文を下賜されて、夫は伊勢国へ下って行ったという。考えられない程の褒美である。百姓の子であるけれども、児(稚児)として育てられ、和歌の道を心得たのだとある人が申していました。

 それでは『巻絹』について考察いたします。


   謡曲「巻絹」梗概
 本曲の作者は未詳であるが、自家伝抄などは観阿弥の作としている。典拠は未詳であるが、前記の『沙石集』の説話を参考に脚色したものであろう。


 千疋の巻絹を三熊野に納めよとの宣旨を受けた臣下が、熊野に詣り、諸国からの絹を納めさせる中に、都からの荷が未着であった。いっぽう巻絹を運ぶ都の男は、途中音無の天神に詣り、梅の匂いに誘われて手向けの和歌を詠んだりしていたため、日限に遅れて到着したので、遅参の科で縄をかけられる。
 そこへ音無の天神が巫女に乗り移って現れ、この男は歌を詠んで私に手向けた者であるから縄を解くように頼み、男に歌の上の句「音無にかつ咲き初むる梅の花」を言わせ、自ら下の句の「匂はざりせば誰か知るべき」を述べ、証拠を示して男の縄を解く。さらに勅使の求めに応じて、祝詞を上げ、神楽を舞っている間に狂態を示し、物狂おしく舞いながら、熊野権現のことを神語りしていたが、やがて神霊は離れ、巫女は本性に立ち還るのであった。


 本曲は巫女の舞と和歌の徳との二本柱で成り立っているが、脇能ないし三番目物にも代用され、多様な要素を持つことを示している。とくに神がひとにのりうつるという主題は、数少ない例である。


 天神の乗り移った巫女が熊野権現のことを物語る、本曲のキリの詞章です。上四社のうち第一殿の西御前だけは、何故か謡われていません。西御前の本地仏は十一面観音ですが、謡うには語呂が悪かったのでしょうか?


 地「不思議や祝詞のつとの巫女物狂ものぐるひ不思議や祝詞の巫女物狂のさもあらたなる。飛行ひぎやういだして。神語かみがたりするこそ恐ろしけれ 〈イロエ〉
シテ證誠殿しようじやうでんな。阿彌陀如来
 地十悪じふあくを導き
シテ五逆ごぎやくを憐む
 地「中の御前ごぜん
シテ薬師やくし如来によらい
 地くすりとなつて
シテ二世ふたよたす
 地「一萬文殊もんじゆ
シテ三世さんぜ覺母かくぼたり
 地「十萬普賢ふげん
シテ満山まんさん護法ごほふ
 地數々かずかずの神々かのかんなぎに。九十九つくも髪の。御幣ごへいも乱れて。空に飛ぶ鳥の。かけり翔りて地に又をどり。數珠をみ袖を振り。擧足こそく下足の舞の手をつくし。これまでなりや。神はあがらせ給ふと言ひつる。聲のうちより狂ひ覚めてまた本性ほんしやうにぞ。なりにける


 上記の謡曲の詞章には、本宮大社に祀られている神々の本地仏が登場しています。諸仏の名が謡の名調子に乗って登場します。
 第三殿・證誠殿の祭神は家都美御子大神ですが、本地仏は阿弥陀如来。第二殿・中御前の祭神は熊野速玉大神ですが、本地仏は薬師如来。謡曲には謡われていませんが、第一殿・西御前の祭神は夫須美大神で、本地仏は十一面観音です。なぜ登場しなかったのでしょう。
 次いで第九殿の一万宮の本地仏は文殊菩薩、十万宮の本地仏は普賢菩薩です。また境内社である満山社は「満山護法の神の社」とも呼ばれ、第四殿のわきに八百萬の神々をお祀りしています。満山社も明治22年の水害で流されましたが、その2年後に大斎原から現在の高台に移築された際、満山社だけが建立されず、これまで霊石だけで奉られていましたが平成20年に再建されました。

 本曲は天神が巫女に乗り移り、憑依された巫女が狂乱的に〈神楽〉を舞うところが主題となっています。このような“乗り移り”を見せ場とする能について、里井睦郎氏は以下のように述べています。(里井睦郎『謡曲百選』笠間書院、1982)

 乗り移りを見せ場とする能は沢山ある。観阿弥のものでは『卒都婆小町』、世阿弥では『二人静』が代表的であろう。『卒都婆』の場合は“男”の怨霊が“小町”の上に、『二人静』の場合は“静”の霊が“菜摘女”に、突然としてのりうつるのであるが、乗り移るものと移られるものとの関係でイメージはかなりちがう。この外元雅の『歌占』のように人格の転換そのものを焦点として作劇の能はいろいろあげられるだろうが、この『巻絹』のように、実際にのりうつりという行為又はその模倣を職種として生活の糧とする巫女自身の上に神が乗り移って、まさに巫女物狂そのものが展開するという、そのような構成で書かれた作品は珍しい。作者は分妙でないが、観阿弥の名もあげられている。かなり古作のイメージをのこした作品であることは、このきわめて単純な神事の形式をふまえた作劇の方法によっても推測される。観阿弥の作品には、急激な人格転換形式のバリエーションとおぼしき作劇の方法を持ったものが多いけれども、この昨比かのようにそのものずばりで巫女物狂を演じさせる簡素な芝居づくりは外にない。


 謡曲史跡保存会の駒札を捜しましたが見当たりません。社務所で尋ねましたが分かりませんでした。世界遺産の関係で、駒札を建てることが出来なかったのでしょうか。


 上四社の参拝を終え、大斎原(おおゆのはら)へ向かいました。
 大斎原は現在の本宮大社の旧社地で、下図はその古絵図です。
 果無(はてなし)山脈の東を流れる熊野川に、音無川と岩田川が合流する地点、大きく蛇行する川の中州に旧社地“大斎原”が静謐にたたずんでいます。

 熊野坐神社(現在の熊野本宮大社)は、熊野川・岩田川・音無川、三つの川が合流するここ大斎原の中洲に鎮座していました。熊野の神々は、中洲のイチイの巨木の梢に三体の月の姿で降臨したとも伝えられています。
 1889年(明治22年)、熊野川の大洪水によって建築物が倒壊しましたが、辛うじて倒壊を免れた上四社(三棟)を北西の丘陵に遷し、倒壊した中社・下社と摂末社の神々を二基の石祠それぞれに祀りました。下図の江戸時代に描かれた「熊野本宮幷諸末社図絵」から、かつての一万坪を超える境内の概要がうかがえます。
 一番大きな川が熊野川であり、左方より流れ込んでいるのが岩田川、大きく蛇行した後、街並に並行して流れているのが音無川です。森に囲まれた中洲中央には、横一列に並ぶ十二柱の神々を祀る社殿と上神楽所、その前には大きな礼殿がみえます。礼殿の前の大釜は現存する「伝源頼朝寄進鉄湯釜」(宝物館展示)です。これらを囲む形で門を設えた塀が廻り、その外には幾棟もの摂末社が立ち並び、宝蔵・文庫・神馬舎・能部隊などが散在しています。
 街並から音無川を越えて境内に入る箇所に太鼓橋(高橋)が架かっています。江戸時代までは橋が無かった為に、参詣者は川を渡り足を濡らさなければ境内に入れませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらぐつ)の入堂」といい、すべての参詣者が自然に身を清める禊をしたわけです。
 下流の三川合流点には船着場がみえますが、これが新宮へと向かう「川の参詣道」の出発地点でした。


水害前の大斎原古図


 本宮大社から数百メートル、大斎原の入口に大鳥居がそびえ立っています。平成12年(2000)に建てられたもので、高さは約34メートル、日本一の大鳥居とのことです。鳥居の額束り上部には“八咫烏”が黄金色に輝いていました。
 以下は同所に立てられた「日本第一大鳥居建立の意義」と題する説明書きです。

 人心が神と自然から離れつつある今日、とうしゃ最も危惧するところは「命脈の護持」であり次の世代への日本の心(精神・魂)の復活を祈念することであります。
 神代の時代、素戔嗚尊(家津御子大神)が大地の荒れ果てているのを嘆かれ、自ら木を御手植えになられて「木の国=紀の国」と名づけられました。
 皇紀2661年を迎えた日本国にとって、大なる節目であることは無論の事、この節目の始めに当たり「日本人の精神(心)の蘇り、日本経済の再生、熊野の山々より環境の大切さの再認識、国内は基より世界人類平和」を確固たる事を祈念し、今こそこの熊野の山・川は申すまでもなく、大斎原を発信基地として熊野の大神の広大なる御神徳を得て、新たなる世紀が神と自然と人が共にある様、皇紀2661年、熊野の大神の御神徳が発揚かつ千木高く厳然として鎮まりますよう、熊野本宮大社・熊野信仰の原点となる大斎原に、日本最大の第一大鳥居を建立する運びとなった次第です。八咫烏を掲げた天下一大鳥居であります。竣工は、平成12年5月11日です。

 掲示内容をそのまま転載しましたが、失礼ながら何を訴えたいのか、今一つよくわからないというのが正直な感想です。


大鳥居


 かつて本殿が並び建っていた大斎原の跡地には、2基の祠が建てられています。祠にはそれせぞれ熊野十二社権現の中四社(第五殿~第八殿)と下四社(第九殿~第十二殿)が祀られています。
 こんもりと木立に囲まれた境内には桜が咲き誇り、荘厳な趣を和らげてくれるようです。参拝者の影もちらほら。


大斎原

合祀の石祠


 石祠の前方に、一遍上人神勅名号碑が建てられています。伊予国に生まれた一遍上人は、一所不在の遊行の日々を送りましたが、文永11年(1274)高野山を経て熊野に詣でました。本宮の証誠殿で熊野権現の神勅を受け、衆生済度への道を開くことを得ました。
 以下は碑文からの転載です。

一遍上人は伊予の国の豪族河野通広の第二子として、延應元年(紀元一八九九年)道後に誕生し、童にして佛門に入り、幼名松壽丸、ついで随緑、のち智真と改名、苦修練行すること多年、学解進み浄教の奥旨を極めたが、猶意満たざるものあり。諸国の名社、聖佛に巡禮して祈誓し、最後に文永十一年(紀元一九三四年)熊野本宮証誠殿に祈念し、百日の誠を捧げ、大神の霊告を感得してその證成を受け、遂に獨一念佛を開顕し、熊野の本地は弥陀の信仰より、之を弥陀直授の神勅相承と呼ばれる。
之上人成道の聖節にして、名を改めて一遍と稱し、遊行賦算を本宮より始め、南は鹿児島、北は陸中岩手まで四十ヶ国に及び、悩る者を助け、病める者を救ひ、民衆に和と慈愛の心を説き、社会福祉社会教化につとめ、神勅遊行賦算の途、正應二年(紀元一九四九年)齢五十一才にして、神戸兵庫に於て、身に唯衣一つにて往生せらる。わが化導は一期ばかりぞと言はれ、自坊もなく、宗派を形成することもなく遷化され、後世時宗の開祖とならる。時宗獨一念佛開顕の源泉たる熊野本宮の聖地に一遍上人の聖徳を偲び、今日上人直筆の名号碑を建立。
熊野大神の御神意を敬仰し、念佛の衆徒を初め、信、不信を問はず謹みて神勅獨一念佛の功徳を念願するものなり。


一遍上人神勅名号碑


 謡曲『誓願寺』では、一遍上人がワキとして登場します。その〈名ノリ〉で以下のように語っています。

これは念佛の行者一遍と申す聖にて候。我この度三熊野に参り。一七日参籠申し。證誠殿に通夜申して候へば。あらたなる霊夢を蒙りて候。六十萬人決定往生の御札を。遍く國土に弘めよとの霊夢に任せ。まづ都へと志して候

 一遍上人はこの地で神勅を受け、それを全国に広めるべく三熊野から旅立っています。
 三熊野から出発した僧としては、
  『当麻』の念仏の行者。ただしこの僧はおそらく一遍上人であろうと思われます
    ワキ・名ノリ 我この度三熊野に参り。下向道に赴きて候。
  『船橋』の三熊野より出でたる僧。松島、平泉への途次、上野の佐野に立ち寄ります。
    ワキ・名ノリ これは三熊野より出でたる客僧にて候。
  『鵺』の諸国一見の僧。熊野から都への途中、芦屋の里に立ち寄ります。
    ワキ・名ノリ 我この程は三熊野に参りて候。
  『飛雲』の三熊野の山伏。羽黒山に向かう途中、木曽路を通ります。
    ワキ・名ノリ これは本山三熊野の山伏にて候。
  『安達原』那智の山伏。廻国行脚の途次、陸奥の安達原に到着する。
    ワキ・名ノリ これは那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我が事なり
 僧ではありませんが、『難波』の朝臣。三熊野から都への途次、難波の里を通過しています。
    ワキ・名ノリ 我三熊野を信じ。毎年年籠り仕り候
 また『正尊』では弁慶に問い詰められた正尊が、熊野参詣のため上洛したと、偽りを述べています。
    シテ・問答 さん候宿願の子細候ひて。熊野参詣の為にふとまかり登りて候。
    シテ・問答 聊か宿願の事の候間。熊野参詣の為にまかり登りて候

 これ以外に“熊野”が登場する曲としては、
  『熊野』クセ、アゲハの後の地謡。
    大悲擁護の薄霞。熊野権現の移ります。
  『道成寺』ワキの語。
    熊野へ年詣でする山伏のありしが。
  『俊寛』康頼・成経、サシ謡。続く上歌
    この島に三熊野を勧請申し。
    此處とても。同じ宮居と三熊野の。
  『安宅』シテ謡。
    熊野権現の御罰を當らん事
  『正尊』起請文の中。
    伊豆箱根。富士浅間。熊野三所。金峯山。


 本宮大社の近くの本宮郵便局の風景印には本宮大社が描かれていますが、令和3年10月29日に意匠が変更になりました。
 (左側)変更前の意匠は、果無山脈を背景に、熊野川、音無川と岩田川の合流地点にある大斎原を描いています。
 (右側)変更後の意匠は、本宮大社の社殿と大斎原の大鳥居および八咫烏を描いたものです。

 
本宮郵便局旧風景印

本宮郵便局新風景印


 本宮大社からはバスで紀伊田辺駅に向かい、三日間にわたる熊野三山の参詣を終えることができました。バスは風に舞う桜の花びらのなかを進み、晩春の紀州路の旅を満喫いたしました。




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  (令和 5年 3月28日~30日・探訪)
(令和 5年 6月21日・記述)


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