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 気まぐれ紀行の先頭
大 台 ヶ 原
絵日記紀行


紅葉狩りツアー 2008.11.1(土)
 ≪写真で綴る秋の大台ヶ原ハイキング≫

 観光バス 南海泉佐野駅 ⇒ 道の駅万葉の里 ⇒ 道の駅杉の湯川上 ⇒ 大台ヶ原
 散策   駐車場 → 日出ヶ岳 → 正木ヶ原 → 牛石ヶ原 → 大蛇嵒 → 中道 → 駐車場
 観光バス 大台ヶ原 ⇒ 南海泉佐野駅



 49日間の四国八十八ヶ所のお遍路から帰ってきたのが10月8日、しばらくの間、リュックを背負い杖をついて歩いている感触が続いていました。帰宅して2、3日経ったころ、読売旅行で企画している大台ヶ原の1日ハイキングがあるけど、一遍行ってみたいなー、と家内が申します。当方、ひと月半も家を留守にして勝手なことをしてきた手前、下手に反対などできる立場ではありません。大台ヶ原、大いに結構ではないかと賛成いたします。後はかみさん主体で計画は着々と進行し(と言っても、単に電話で申し込、代金を振り込むだけですが)、11月1日の当日を迎えました。
 『紅葉の大台ヶ原ハイキング』と銘打ったこのツアーは、泉州方面からバスで大台ヶ原に行き、約4時間ほど大台ヶ原を散策して帰ってくるというもので、歩く距離は9キロほどです。ちょっと前まで1日20から30キロほど歩いていた我が身にとって、これしきの距離は屁みたいなものよ、と嘯いております。


  《大台ヶ原に向かって》

 簡単な小間物をリュックに詰め、集合時間の7時30分に南海泉佐野駅に参ります。周りをみればそれらしき集団が3組ほど屯しております。泉大津・岸和田と巡回してきたパスが少し遅れて到着、われわれの席は後から2列目、座席は先着順に前から詰めたようなので、かなり早目に申し込みをされた方が多かったものでしょう。
 今日の参加者は、老若男女(ただし若は極く僅か)あわせて28名、添乗員は若いお嬢さん。そういえば、旅行の添乗に若い女性が多く目立つように感じられます。よほどの旅行好き、世話好きでなければ勤まらないように思えるのですが…。
 泉佐野駅を出発したバスは、粉河街道62号線を一路和歌山の打田に向けて進みます。犬鳴山温泉を越えて和歌山県に入ります。JR和歌山線の名手駅の東で国道24号線と合流、紀ノ川沿いにしばらく走り、笠田の近くの道の駅万葉の里で一回目のトイレ休憩となりました。


道の駅万葉の里

花壇の美しい紀ノ川沿いの道の駅


 車中でのおしのぎにと、道の駅で地元の名産干し柿と饅頭を購入します。実は今朝は少し起きるのが遅くなり、充分に朝食を食べておりませんでした。
 休憩が終わり再びバスの旅が始まります。JR高野口駅のあたりから、新しく建設された24号線のバイパスに入ります。モゴモゴと干し柿と饅頭を食べながら、高速道からの景色を楽しんでいるうち、知らぬ間に奈良県に入り、五条北インターから地道に出て、今度は国道370号線を進みます。自分の足で歩かずに旅ができるのは誠に楽なもので、先般までの歩き遍路が一体何だったのだろうと、疑問に思えてくる始末です。
 バスは国道169号線に入り、しばらく近鉄吉野線と並行に進み、そのうち近鉄とも別れて吉野川沿いに山深い道を進んで行きます。大滝ダムを過ぎて、二度目の休憩地である道の駅杉の湯川上に到着しました。


道の駅杉の湯川上

高原トンネル


 時間が少し押して来ているので、道の駅では15分程度のトイレ休憩だけ、そそくさとバスに戻ります。10時半にバスは出発、車内でお昼の弁当が配られます。添乗員嬢より、後1時間くらいで大台ヶ原に到着するであろうから、それまでに昼食を済ませておくようにとの指示があり、乗客一同少し早目の昼ごはんといたします。
 新伯母峰トンネルの手前で国道169号線と別れ、道幅の狭い大台ヶ原ドライブウェイへと進入します。道が狭いため対向車が来ると、お互い譲り譲られで時間がかかります。グニャグニャとした道を登ること暫し、右側の車窓が明るく開けて、紅葉した道の辺の木々越しに、眼下に広がる山並みが見えてきました。知らぬ間にかなりの高所まで登って来たようです。カメラマンになったような気分で窓ガラス越しにシャッターをきりながら、車窓に移り行く秋山の景色を楽しんでおりました。


車窓からのパノラマ












 11時半、大台ヶ原の駐車場に到着しました。心配したほどの込み方ではなかったようで、日時によっては駐車場まで入れないこともあるそうです。頂上はかなり冷えているので、レインコートなどを装着するようにとの注意があります。外を眺めると、お日さまポカポカのかなりよい天候ですので、私はポロシャツの上にジャンパー姿で歩くことにしました。


大台ヶ原駐車場

案内図


 トイレを済ませて全員集合、現地案内は自称≪しもやん≫と≪お姉さん≫の二人、≪しもやん≫は、日焼けした、たくましい青年です。≪しもやん≫の第一声「皆さんの今日のお目当ては何ですか。紅葉ですか、紅葉は今真っ盛りと言いたいのですが、完全に終わってしまいました」に一同ドタッ!。それで車も割合少なかったのでしょう。けれど大台ヶ原がこのようによい天気なのは珍しく、ぐずついた空模様のほうが多いようです。紅葉の換わりに好天に恵まれた大台ケ原の散策にテーマを切り替えて、いよいよ大台ヶ原のハイキングへとスタートを切りました。時に11時40分。


東大台散策コース(大台荘・大台山の家のサイトより転載)


@苔みち     A日出ヶ岳    B中道      C正木ヶ原
D牛石      E牛石ヶ原    Fシオカラ吊橋  G大蛇ー


  《日出ヶ岳へ》

 今日のハイキングのコースは、いわゆる東大台地区をおよそ半周することになるようです。すなわち、日出ヶ岳から正木ヶ原、尾鷲辻、牛石ヶ原を経て大蛇ー(だいじゃぐら)に到着、そこから尾鷲辻までお遍路調で言うと打ち戻って、中道を通り駐車場に戻ってくるというもので、歩行距離約9キロ、4時間の予定とのことです。

 先ず日出ヶ岳を目指して行進します。先頭は案内役の≪しもやん≫、中段に≪お姉さん≫、最後尾に落ちこぼれチェックの≪添乗員嬢≫、我々夫婦は中断より後部を進んで行きます。道は二人分くらいの幅、周りは笹の生い茂る針葉樹林。笹はきれいに刈り取られています。何でもボランティアの野生の鹿が、餌として食いつくしてくれるそうで、金網で囲まれた一角だけは、鹿に食べられない分、背が高く茂っているそうです。


 

 

 

 

 紅葉は完全に終わってしまったということですが、針葉樹の間に少しではありますが、色づいた木々が残されています。暗い木々の中にあって、鮮やかな彩どりが視界に飛び込んできました。


 

 

 途中からコンクリートで固められた道がつづら折りになり、前方が明るくなってきました。頂上に近づいた様子です。
 視界が広がり、左手に日出ヶ岳の頂上にある展望台が見えてきました。右手には板囲いの、これも展望台があります。


日出ヶ岳展望台を望む


 日出ヶ岳の麓の展望台からは霞んではいますが熊野灘が望めるようです。尾鷲湾、志摩半島、知多半島、そして条件がよければ富士山も見えることがあるそうです。
 ここで一休みして、日出ヶ岳の登頂開始です。狭い道をわが一個連隊が数珠繋ぎとなって、よちよち登って行きました。


遙か熊野灘を望む

日出ヶ岳への登頂


 日出ヶ岳は1695メートル、東大台の主峰といえるのでしょう。説明書きによると、ここは年間4800ミリの降水量があり、これは大阪市や奈良市の約3倍以上に当たるようです。台風のシーズンには特に多く、1日で1000ミリ以上降った記録もあるとのこと。ここに降った水は3つの川を流れ下り、都市の水道水の一部にもなっているとか。


日出ヶ岳から四方を望む


 

 

 

 


 日出ヶ岳の頂上で一休み。ちょうどお昼過ぎの時間帯となり、バスの皆さん、車中で弁当を食べるより、ここで食べたかったなー、というのが偽らざる気持ちのようでありました。
 ≪しもやん≫の言によれば、この時期、このように上天気の大台ヶ原は珍しいとのこと。よほど精進のよいグループなのでしょうか。四方の景色に堪能した一同、≪しもやん≫の号令一下、下山いたします。

日出ヶ岳を下る


 

 

 

 


  《正木峠から正木ヶ原へ》


 日出ヶ岳を下り、反対側の正木峠へと向かいます。この道は板で出来た階段が頂上まで続いており、登り道ではありますが極めて楽なコースです。この道は奈良県と三重県の県境を通過しているようです。峠の頂上に着いて一同一休み、けれどもここは、枯れて骸骨のようになった樹々がもの寂しく立ち並ぶ死の世界でありました。


日出ヶ岳から見た正木峠遠望


正木峠への階段を上る


 「昔はこのような森でした」という説明板によれば、この死の世界も昭和38年頃までは鬱蒼とした苔むす森であったということです。それが昭和30年代の伊勢湾台風などによって、たくさんの樹木が倒れ、それらを搬出したことがきっかけとなり、林床が乾燥化してコケ類が大幅に減少した。代わってミヤコザサが林床を覆うようになり、樹木の発芽・生育条件が悪化したそうです。またササを主食とするニホンジカが増加し、下層植生が食べられたり、樹木の皮がはがされるようになり、森林の衰退が進行していったということです。
 ≪しもやん≫の説明によれば、針葉樹は幹の樹皮を剥がされると生命を絶たれるようで、さらに悪いことに鹿は好んで針葉樹の樹皮を食べる、とのことでした。


立ち枯れのトウヒの墓場──正木峠


 

 

 

 

 


 この立ち枯れた樹木は、トウヒ(唐檜)といいエゾマツの変種で、ここ大台ヶ原がその分布の南限になっているということです。正木峠はまさにトウヒの墓場と言っても過言ではないでしょう。
 先ほどの説明書きにあったように、要は人間が介在したことによる自然破壊の一例ではないかと思われます。台風による倒木の除去に端を発し、コケの減少とササの増加、それに伴う鹿の繁殖、樹皮を食べられたトウヒの立ち枯れという連鎖が引き起こされたわけです。
 これに対応するため、道々の樹木の幹を金網で覆ったり、柵で囲ったりして保護をしていましたが、増えすぎた鹿を捕獲(殺害でしょう)する動きもあるようです。それ以前に、根本的な原因は、ここ大台ヶ原に愚かで罪深い人間が入山したことにあるのではないかと思います。ドライブウェイを設け、排気ガスをまき散らす車の侵入を許し、観光地としてしまったことが、トウヒの墓場を招いた根底にある原因ではないでしょうか。
 昨今、何でもかでも「世界遺産」に、という愚かな動きがあるようです。自然環境が「世界遺産」に指定されることにより、観光客が増加し、それに伴って惹き起こされる環境破壊という悪影響に対して、「世界遺産」指定推進派はどのように考えているのでしょう。金儲け第一義ではないかと危惧されるのですが…。


正木峠から三重県側の山々を望む


正木峠を下り正木ヶ原へ


鹿から幼木を守る

獣たちの〈ぬた場〉


 正木峠は登りも下りも木でできた通路があり、人間はこの道を通行することになっています。周りは立ち枯れのトウヒ林。枯木を組み合わせて囲いを造り、鹿の食害から幼木を守っていました。
 峠を下り平地に来ると、鹿たちの「ヌタ場」があります。通常よく鹿の姿を見ることがあるのですが…とは≪しもやん≫の言。今日の客は鹿に嫌われているのかも知れません。
 正木ヶ原を過ぎ尾鷲辻に向かう道の辺に鮮やかな苔が残されていました。昔はこうした苔類が地表を覆っていたのでしょうか…。


正木ヶ原


 

 


  《尾鷲辻から牛石ヶ原へ》

 正木ヶ原からは道を下り、1時半ころに尾鷲辻に到着しました。ここには休憩小屋があり、また駐車場に帰る中道との分岐点となっています。われわれは牛石ヶ原、大蛇ーに行き、折り返しここに帰り、中道を経て駐車場に帰る予定になっています。6月ころのしゃくなげの季節であれば、シオカラ谷を通って帰るのがよいようです。この季節では何もないのと、もう一点、シオカラ谷経由はアップ・ダウンがあり、ツアー参加者の足腰を考慮してのことではないでしょうか。


尾鷲辻の休憩所でひと休み

 尾鷲辻で十数分休憩をとり出発します。尾鷲辻は木々に囲まれて少しほの暗いところでしたが、木立を抜けると一面の笹の原っぱが広がりました。ここが牛石ヶ原で、右手を見上げると、弓に金鵄を留まらせた神武天皇の像が我々を見下ろしています。
 神武天皇の東征の進路は、熊野から吉野山に入り宇陀に向かったようであるが、ここ大台ヶ原を通過したのでしょうか。そのあたりの穿鑿は専門家に任せるとして、神武天皇像は昭和3年(1928)8月19日、大台ヶ原開山の祖といわれ大台教会を興した古川嵩(ふるかわかさむ)により建設されたそうです。当時この像は、山麓からすべて人力でここまで持ち上げられたということで、大変な苦労があったようです。


神武天皇像

 神武天皇像の反対側の笹原に「牛石」なる岩がロープで囲まれてあります。昔このあたりにいた牛鬼という怪物を、高僧がとらえてこの石の下に封じ込めたそうで、この牛石を叩くと大雨になるといわれているようです。
 牛石ヶ原は一面にイトザサの絨毯を敷き詰めたような原っぱですが、笹原には無数の割れ目が通路のようにつけられています。そう、これは鹿の通路─けものみちで、鹿はいつもの歩きなれた道を通行するようです。


牛石

鹿の通路─けものみち


 突然、かみさんが「あっ、鹿が」と叫びました。指さす方には木陰に隠れるようにして一匹の鹿が、われわれの動向を探るかのようにこちらを見つめています。急いでシャッターを切ろうとカメラを向けた瞬間に、モデルになるのはイヤじゃいと言わんばかりに、茂みに逃げ込んでしまいました。



  《大蛇ーへ》

 牛石ヶ原からしばらく歩くと三叉路に出ました。右に進めばシオカラ谷を経由して駐車場へ、左の道は300メートルほどで大蛇ー(だいじゃぐら)に続いています。「大蛇ー」とは断崖絶壁が細長く突き出した地形で、その先端を言うようですが、そこにたどり着くまで大蛇の背中を進むように感じることから名付けられたようです。
 説明板にある「大蛇ー」の英訳は、Daijagura Criff となっており、ちょうど最近封切られた映画“レッド・クリフ”を思い出し、むこうが「赤壁」ならこちらは「へびへき」か、などとつまらぬことを考えながら独り悦に入っています。
 「今から大蛇ーに行きますが、見終わった方はここまで帰って待っていてください。私は大蛇ーからこぼれ落ちた方を拾って、最後に帰りますから」という≪しもやん≫の言葉の意味がよく理解できないまま、大蛇ーへの道を踏み出しました。


大蛇ーのとなりの絶壁

大蛇ーへの道


 この大蛇ー、蛇の頭に近づくにつれて道は細く険しくなり、対面に見える絶壁の切り立ったさまもすさましいものがあります。ちょうど蛇の頭の上にやって来ましたが、頭の上にはかなりの人数がいるらしく、数名ずつ入れ替わりで木の梯子をよじ登って行きます。われわれも荷物を下ろし身軽になって、順番に蛇の頭に向かうことといたしました。
 順番が廻ってきて梯子を伝い蛇の頭にたどり着きましたが、ごつごつとした岩場に大勢が屯し、先端はかなり下の方まで下りている様子。その下は千尋の谷底。自慢じゃないが高所恐怖症の私にとって、とても行き着けるような場所ではありません。かみさんに「カメラあげるから写真を撮って来て」と言いましたが、流石の彼女も御免こうむるとのこと。早々に安全地帯に引き揚げました。「後から押されでもしたらと思ったら、ゾッとする」とは、かみさんの弁でありました。先ほど≪しもやん≫の「こぼれ落ちたのを拾い上げて帰ります」の意味がやっと理解できた次第です。
 蛇の首根っこのところに戻り「荷物の番はするから行っておいで」と、添乗員嬢を焚きつけます。一息いれてもとの集合場所に引き返しました。


大蛇ー─とても先端まで行く勇気は湧かなかった


 皆さん三々五々集合地点の三叉路に帰還します。最後に≪しもやん≫も無事到着し、点呼の後尾鷲辻まで引き返しました。尾鷲辻からは中道を通り駐車場まで2キロほどの道のりとなります。この道はなだらかな登り道ですがよく整備され、所どころは石畳になっており歩きやすい道です。


中道を行く


シオカラ谷への流れ


苔と防鹿の金網


赤茶けた「とりかぶと」

防鹿の柵


 シオカラ谷へと続く流れの源を越えて中道を進みます。谷のほとりで≪しもやん≫が、柵の内にある赤茶けた植物を指さして、これが「とりかぶと」であると教えてくれました。
 黒い金属柵で厳重に囲われた樹木の一群がありました。何かの遺跡かとも思い≪お姉さん≫に尋ねると、単なる防鹿のための柵だそうです。これを見ると防鹿対策としてかなりの経費を投下していると思われます。
 全員無事駐車場に帰還、売店で柿の葉寿司やらお菓子などを買い込んで、午後4時ごろ帰途のバスにと乗り込みました。下界に下りてきたころには周りは暗くなっておりましたが、泉佐野駅には7時45分ころ無事に帰着しました。


 この大台ヶ原のハイキングで、人間の自然との関わりが如何に難しいものか、しみじみと感じさせられました。立ち枯れたトウヒ林について、説明によれば、台風による倒木を除去したことによる生態系の変化が、主たる要因と考えられます。これも、もし人間が介入していなかったなら、このような結果にはなっていなかったと思われます。台風による被害などは過去何千年もの間には何度も発生しているでしょう。それが見えざる神の手によって、自然の掟にしたがって処理されてきたわけです。自然を破壊し、遂には自らも滅びて行くのが人類の背負った運命なのでしょうか。




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  (2008.11.24 記録)
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