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 気まぐれ紀行の先頭
気まぐれ紀行 水海の田楽能舞


水海の田楽能舞 2014.2.14 ~ 15
 ≪花がたみの里と能楽の里池田を訪ねて≫

2月14日(金) 大阪駅 9:12(サンダーバード9号) → 武生駅 11:01(マイクロバス)→
         紫式部公園 →(昼食)→ 味真野神社 → 和紙の里(大瀧神社・紙の文化
         博物館・パピルス館)→(花筐公園)→ 冠荘(謡会・宿泊)
2月15日(土) 冠荘 9:55(マイクロバス)→ 能面美術館 → 11:00頃 鵜甘神社
         (禊・田楽・能舞)→ 16:30(マイクロバス)→ まちの市場 →
         武生駅 18:55(サンダーバード40号・米原経由)→ 大阪駅 21:10 解散



 福井県池田町に伝わる田楽能舞を見に行こうというツアーの案内が、徒然謡倶楽部を主宰している謡友のMさんから届いたのが、昨年の暮でした。早速参加の申し込みを行い、年が明けて1月の中ごろ、最終計画が届けられました。
 参加者は、主催者のMさんを中心に、加古川の高齢者大学である「いなみ野学園」関係者6名、Mさんの大学能楽部OB5名の計12名。ちょうどよさそうな人数となっています。この計画は、同窓のNさんからMさんに話が出たようで、このお二人を中心としてまとめて行かれた模様です。いつものことながら、ついて行くだけで誠に申し訳のないことではあります、Mさんの企画力に“おんぶにだっこ”を決め込み、楽な立場で参加をさせてもらっています。私は5年ほど前に『花筐』の謡蹟探訪でこの地を訪れたことがありましたが、花筐公園や池田町の田楽能舞の奉納は初めての体験です。2年前にMさんと二人で、岐阜県本巣市能鄕の能狂言を拝見したことがありましたが、いく分似通ったところがあるのでは、という程度の理解でした。

 さて出発当日、2月14日になりました。この日は本州南部を低気圧が通過する、いわゆる南岸低気圧の影響で西日本一帯は冷え込みが厳しく、私の住む泉佐野市でも夜半より雪となり、朝6時ころには2、3センチの積雪となっていました。
 大阪駅発サンダーバード9号の発車時間は9時12分ですが、この大雪にては何が起こるか分ったものではないと、7時半頃の電車に乗るべく家を出て、南海泉佐野駅に着いたのが7時20分過ぎ、ホームに上がりましたが電車は一向にやってきません。どうなっとるんやと思っていると、少し前に発生した人身事故のため、全線運転を見合わせているとのこと。雪が舞い散るホームにて、ただ茫然と立ちつくすのみでありました。待つことおよそ30分、やっと特急電車が到着、すし詰め状態ですが、この便を逃すと後の見通しが立ちません。無理やり乗り込み暫しの我慢となりました。
 途中、新今宮駅でJR環状線に乗り換え、大阪駅に着いたのが8時50分頃、急いで11番ホームに駆け上がると、みなさんはすでに到着、どうやら私が最後だった様子でした。やれやれ。


武生駅の花がたみの像

本日の足・マイクロバス


 列車は大阪駅を定刻に発車しましたが、武生駅に少し遅れて11時頃の到着となりました。ふと見ると改札口の手前に、味真野神社の隣にある“味真野苑”に建てられている“花がたみの像”の、男大迹皇子(継体天皇)と照日の前の像が飾られています。みなさん、パチパチとさっそくカメラに収めていました。
 以下は「花がたみ像(継体大王)」とした、越前市による説明書きです。

越前市味真野地区には、継体大王(けいたいだいおう)の伝承が多く、謡曲「花筐」発祥の地として有名です。継体大王伝説を伝えて来た先人の心を大切にし、永く後世に伝えるため、平成13年春、越前の里味真野苑に「はながたみ像」が建立されました。
ここに展示してある像は「花がたみ像」を1/3で再現したものです。
越前の里味真野苑は、千三百年前、味真野に流された中臣宅守(なかとみのやかもり)と奈良の都に残された狭野弟上娘女(さののとがみのおとめ)との間に交された、万葉相聞歌にちなんで造営された万葉のテーマパークです。

 駅を出ますと雪は降り続いています。「徒然能楽倶楽部」として、待ってくれているマイクロバスに乗り込みました。本日の宿泊所である“冠荘”までの案内役をお願いしています。
 ここ越前市は、平成17年に武生市と今立町が合併したものですが、すぐ北部に隣接して「越前町」が、南には「南越前町」が存在しているにも拘わらず「越前市」などと、紛らわしい名前にしています。高知県にも「四万十町」と「四万十市」の例がありますが、なぜこのようなややこしいことをやってくれるのでしょう。武生といえば、かつて越前国の国府が置かれた由緒ある地です。今立町と合併(合併とは名ばかりで実際は併合でしょう)する際に、今立町に気を使ったものなのでしょうが〈あるいは余程の弱みでもあったのか?〉、「越前市」よりもっとよい名を思いつかなかったものか。


紫式部公園から花筐公園へ──武生散策地図


 ここ武生は紫式部が越前国司として赴任した父とともに、多感な青春時代の一年余りを暮らした地でもあり、それを記念して「紫式部公園」が整備されています。昼食まで若干時間がありましたので、公園に向いました。


紫式部公園

釣殿


 幸い雪はそれほど深くはありません。皆さん傘を手に、足元に気をつけながらの散策です。この公園は寝殿造りに設計されており、池の水際には釣殿も建てられています、以下は庭園内の説明書きです。

 源氏物語の作者紫式部は、長徳2年(996)越前守に任じられた父藤原為時とともに多感な青春時代の一ときを武生の国府で過ごした。当時の国守の館は、平安貴族の住宅様式となっていた寝殿造であったと考えられる。
 寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と池や築山(つきやま)などを配した庭園で構成された邸宅である。
 文化財保護審議会専門委員をはじめ、多くの専門家たちの綿密な時代考証と叡智を集めて造られた庭園は、約3千坪、風光明媚な越前海岸の景観をとり入れた石組や州浜(すはま)中島などが配された池には、朱塗の勾欄(こうらん)の橋が架けられ、四季おりおりの移りゆく自然の姿を美しく水面に映し出す。源氏物語や枕草子に、音の涼しげなのを賛美している遣水(やりみず)、ゆるやかな起伏をつくり、草むらにすだく虫の音に耳を澄ます野筋(庭園における山裾の斜面)など、平安時代の作庭精神が随所に生かされている。
 寝殿などの主な建築は、その輪郭を生かし、寝殿の位置には芝を張り、東の対屋(たいのや)渡殿(わたどの)などは四季の花壇とした。消夏のために池を生かし、空間性豊かに建築の工夫をこらした釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所であり、紫式部日記絵巻に描かれているように風雅な舟遊びのための乗降場所でもあった。
 このような寝殿造庭園と釣殿が平安時代の趣のままに再現されたのは、全国でも初めてのことである。


雪の舞う紫式部像


 公園の北西部には、袿(うちき)姿で檜扇(ひおうぎ)を手にした紫式部の像が建てられています。高さ約3メートルの金箔のブロンズ像ですが、降りしきる雪の中、心なしか淋しげではありました。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)によって製作されたもの。像の横には「紫式部像によせて」とする河北倫明(かわきたみちあき)の文が綴られています。


 源氏物語によって不朽の名をとどめる平安朝の女流文学者紫式部が、この越の国で若き日をすごした事実は忘れられない。武生市が市制35周年の記念事業として建立した紫式部像は、そのような歴史と文化の美しい由緒を示すものである。
 彫刻は日本芸術院会員として声価も高い圓鍔勝三氏の鏤骨の苦心になる金色の十二単衣像。背景の平安朝式庭園は、研究家として高名な森蘊(もりおさむ)氏の設計を煩わせたもの。相まって現代に貴重な共作芸術となっている。多くの専門学者たちによる時代考証をも昇華させたこの優作が、紫式部の文学とともに悠久に生きつづけることを願っている。

 武生郵便局の風景印には紫式部像が描かれています。


日野山を背景に万代歩
道橋と紫式部像を描き
菊を配す武生局風景印


 紫式部の像を取り巻くように歌碑が建てられています。ただ雪のため光が奪われて、碑面が暗く刻文が十分に読みとれなかったのが残念です。歌とその説明を以下に。


(その1)紫式部歌碑・円地文子揮毫

(その2)紫式部歌碑・谷崎潤一郎揮毫


 左上の碑は、清水好子撰になる紫式部の歌で円地文子の揮毫。

   身のうさは心のうちにしたひきていま九重に思ひみだるゝ
 紫式部は、夫藤原宣孝に先立たれた後、娘賢子を育てながら物語の創作に明け暮れていたと思われる。やがて物語作者として知られるようになった式部は、一条天皇の中宮彰子のもとに女房として召し出されるが、この歌はそのときに詠んだ歌といわれている。宮中の栄華のさなかに身を置いて、いくえにも思い乱れる内心の憂いを見つめた歌である。
 なおこの揮毫が円地文子の絶筆となったといわれている。

 右上の碑は、山田孝雄撰になる紫式部の歌で谷崎潤一郎の揮毫。

   こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松にけふやまがへる
 日野山は越前富士といわれている。その美しい山の杉林に雪が積もっているのを見ると、京都の小塩山に降り乱れる雪を思い出し、郷愁に浸っている紫式部の姿がしのばれる歌である。
 この石碑は昭和33年に河濯山芳春寺に紫式部顕彰会の手で建立されたものが、紫式部公園完成時に移設されたものである。裏面には、国文学者山田孝雄博士の精密な文章が彫られている。


(その3)紫式部歌碑

(その4)紫式部歌碑建立顕彰碑


 左上の歌碑は、清水好子撰になる紫式部の歌で、歌と詞は実践女子大学本「むらさき式部集」によるものです。

としかへりて、「から人見にゆかむ」といひたりけむ人の、「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」といひたるに
   春なれどしらねのみゆきいやつもりとくべきほどのいつとなきかな
 この歌は、やがて結婚することになる藤原宣孝との贈答歌である。当時、敦賀に来ていた宋国の人々に会うことを口実に、越前に下向してでも結婚を申し込みたいという宣孝に、式部は加賀の白山に積もる雪を詠み込んで、私の心は解けませんと拒絶している。白山が越前市からも眺められることは、地元の人にもあまり知られていないようである。

 右上の碑は、紫式部顕彰碑の建立を祝った「ことほぎの碑」で、吉井勇の歌と佐々木信綱の詞が刻まれています。

紫式部歌碑の建立を祝って『越前の旅空に日野岳の雪を望んで、はるかに京都の小塩山を思った多感な紫式部、彼女の歌が永遠にこの地に残ることを心から祈っている』
   日野嶽の雪を詠みたる紫女の歌ながく残らむことをこそ祈れ
 谷崎潤一郎揮毫の歌碑と同時に、河濯山芳春寺に建立された。歌人吉井勇の歌と、国文学者佐々木信綱の祝詞が刻まれている。佐々木信綱博士が、幼い頃に越前・加賀に遊んだときの思い出に始まる、心温まる文章である。歌碑と同じく、昭和61年の紫式部公園完成時に、河濯山芳春寺から移設された。


 雪の公園をしばし散策したのち、食事処“かねろく”にて昼食といたしました。目の前にデンとおかれたでっかいお椀に、いささか肝を潰した次第です。


昼食風景

でっかいお椀のお膳


 午後の部は、味真野神社から越前和紙の里、花筐(かきょう)公園を廻って、本日の宿りである、池田町の冠荘へと向かいます。

 車は雪景色の中を走って行きます。運転手さんの言によれば今年の雪は少ないとか。味真野神社にかなり近づいたと思われる頃、道の左手に雪に埋もれた小高い丘がありました。小丸城址とのこと。この城は、天正3年(1581)に佐々成政によって築城されたが、数年で廃城となったようです。
 ふと横手を眺めると歌碑らしきものがありました。何ということもなくカメラに収めたのですが、帰宅して写真を拡大して眺めると、万葉仮名で刻された中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の歌碑でした。

 (3744)和伎毛故尓 古布流尓安礼波 多麻吉波流 美自可伎伊能知毛 乎之家久母奈思
       吾妹子(わぎもこ)に戀ふるに吾(あれ)はたまきはる短き命も惜しけくもなし
 (3740)安米都知能 可未奈伎毛能尓 安良婆許曾 安我毛布伊毛尓 安波受思仁世米
       天地の神なきものにあらばこそ吾(あ)が思(も)ふ妹に逢はず死(しに)せめ
 (3745)伊能知安良婆 安布許登母安良牟 和我由惠尓 波太奈於毛比曾 伊能知多尓敞波
       命あらば逢ふこともあらむわが故にはだな思ひそ命だに經ば
 (3750)安米都知乃 曾許比能宇良尓 安我其等久 伎美尓故布良牟 比等波左祢安良自
       天地の極(そこひ)のうらに吾(あ)が如く君に戀ふらむ人は實(さね)あらじ

 3744、3740 は中臣宅守、3745、3750 は狭野弟上娘子の歌。なお、万葉仮名で「尓」で表したのは「ニ」の音の「」文字。


小丸城址

万葉歌碑


 中臣宅守は狭野弟上娘子を娶ったときに天皇の怒りに触れて、ここ越前の味真野に流されたといわれています。一説には重婚の罪に問われたとか。あるいは時の政情にからむとか。万葉集には流される宅守と、宅守を気遣う娘子との相聞の歌が載せられており、上記の歌碑もその一部です。
 小丸城址を過ぎ、やがて本日の目的地のひとつ、謡曲『花筐』前場の舞台である味真野神社に到着しました。社前には「継体天皇御宮跡」と「鞍谷御所址」の碑が並んで建てられています。
 地元の方にとっては大した雪ではないとのことですが、日ごろ慣れていない我々にとっては豪雪です。足元に気をつけながらの参拝となりました。


味真野神社・継体天皇御宮跡の碑

鳥居をくぐり雪中の参拝


 戦国時代、この地は鞍谷氏の館であったようで、以下はその説明です。

 室町末期の鞍谷氏の館(鞍谷御所址)の一部である。現在は味真野神社の境内をコの字に囲むようにして北・西・南面の土塁と、北・西面の空堀を残している。
 いい伝えによれば、古代の男大迹王(継体天皇)の宮居の跡といわれ、中世になっては足利将軍義満の次男義嗣が上杉禅秀の乱(1416)に連座して殺され、その子嗣俊がこの地に住み、鞍谷氏と称して三代栄えたという。
 最近の説では、斯波義俊の館跡といわれる。義俊は応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉(よしかど)の子息で、朝倉氏によって名目上の守護として越前に迎えられ、はじめ一乗谷に在住したが文明18年(1486)にはこの地に移っている。
 子孫は代々鞍谷氏を称し朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係を結んでいった。

 また社前の説明によれば、当社には余川町の他の神社から移されてきたとされる木造の聖観世音菩薩の座像が安置されているようです。平安時代末期の作と推定され、市の文化財に指定されています。かつて神仏混淆の時代に祀られていた神社の本地仏であったものでしょう。


「謡曲花筐発祥之地」の碑と謡曲史跡保存会の駒札


 神社拝殿の正面は工事中のように覆われておりました。後ほど参拝した大瀧神社も同様に覆われていましたので、おそらく防雪のためのものでしょう。その拝殿から向って右前方に「謡曲花筐発祥之地」と刻まれた巨大な碑が横たわっています。これは昭和54年に味真野花筐会によって建てられたもので、傍らに建碑の由来を示した小さな副碑がありました。この由来の碑を撮影しましたが、雪中のこととて光線の具合も悪く判読が困難でした。前回訪問した際に撮影した写真により、以下に転載します。

 ここは人皇第二十六代継体天皇がいまだ男大迹王と申された頃鞍谷御所を営み潜龍されたという聖地伝承の地である。
 謡曲花筐に天皇がこの地を即位のため都に上られた頃の人情味豊かで詩的一○○を遠く鎌倉時代に於いて斯界の巨匠世阿弥によって作曲修辞佳麗世に名作とうたわれている。
 本会は天皇一千四百五十年祭を記念し碑石を美濃の恵那に求め揮毫を時の良二千石中川平太夫先生に仰ぎ聖蹟を千歳に顕彰するものである。

 余談ながら「良二千石」とは県知事のこと。漢書循吏伝に見える。「ニセンゴク」と読むと、昔のむつかしい漢文の先生には「ニセンセキ」と読みなさいと直されたということです。
 また、謡曲史跡保存会の駒札には“謡曲「花筐」と味真野神社”として、以下の記載がありました。

 謡曲「花筐」は、雲の上人と里の女との隔てない恋を美しく描写した狂女物です。
 武烈天皇が崩御され、越前国味真野におられた男大迹皇子が選ばれて皇位を継ぐ事になり、寵愛されていた“照日の前”に、文と花筐を形見として残されました。
 皇子は即位して継体天皇となられ、或る日の御幸の折、狂い歩く女をお見かけになりました。持っている花筐から、皇子を慕う“照日の前”と分かり都に連れて帰られたのです。
 この味真野神社は男大迹皇子の御所跡で、継体天皇をお祀りし、皇子と“照日の前”とのロマンスのあった地として、謡曲「花筐」発祥の地にふさわしい所です。


「花がたみ」の像


 味真野神社に隣接して「万葉館」があり、神社と万葉館の間には池水を配した「味真野苑」があります。これは味真野に流された中臣宅守と奈良の都に残された狭野弟上娘女との間に交された、万葉相聞歌にちなんで造営された万葉のテーマパークということですが、今日は白一色に覆われています。中央には平成13年に建てられた、男大迹皇子と照日の前の像と「花がたみ-継体大王物語」の説明の碑がありました。

 継体天皇と照日の前の像である。室町時代の世阿弥が作った謡曲「花筐」には二人の美しいロマンスが語られている。
 越前の国味真野におられた男大迹皇子はにわかに皇位につくことになり、寵愛する照日の前に花筐と玉章を贈って上京し、継体天皇となられた。
 残された彼女は皇子恋しさのあまり花かごと御手紙を持って大和の玉穂の都へと上り紅葉狩りの行幸に遇う。そこで花筐が縁で再び天皇の愛を回復したという。
 世阿弥には巷間に取材した曲があるが、この「花筐」も当時味真野に伝えられていた継体大王伝説をもとに創作されたものであろう。
 今、新しい世紀を迎えるに当たり、継体大王伝説を伝えて来た先人の心を大切にし、ここに「花がたみ」の像をつくり永く後世に伝えるものである。

 「花がたみ」の像をバックに記念撮影をいたしました。
 味真野神社を後にして、次なる目的地である「越前和紙の里」へと向かいました。


 さて越前和紙について、何ら知識を持ち合わせておりません。困った時の神頼みと、Wikipedia のご厄介になりました。

 越前和紙の始まりについてははっきりしていないが、全国でも例のない紙漉きの紙祖神「川上御前」の伝説(約1500年前)がある。鎌倉時代には大滝寺の保護下に紙座(組合)が設けられた。
 室町時代から江戸時代にかけ、「越前奉書」や「越前鳥の子紙」は公家・武士階級の公用紙として重用され、全国に広まった。 江戸時代に産地を支配した福井藩は越前和紙を藩の専売として利益をあげるとともに、技術の保護や生産の指導を行っていた。 寛文5年(1665年)には越前奉書に「御上天下一」の印を使用することが許可され、正徳2年(1712)の「和漢三才図会」では「越前鳥の子紙が紙の王にふさわしい紙」と評されている。

 紙漉きの紙祖神「川上御前」の伝説について、以下福井県和紙工業協同組合のサイトによります。

 継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、岡太川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。「この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう」と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、「岡太川の川上に住むもの」と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、里人はこの女神を川上御前(かわかみごぜん)とあがめ奉り、岡太(おかもと)神社を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。

 我々のバスは、まず大瀧神社へと向かいました。



大瀧神社拝殿

本殿・拝殿(当社パンフレットより)


 資料によりますと「紙祖神岡太神社、大瀧神社」と併記されています。当社の奥之院には大瀧神社と紙祖神岡太神社の本殿が並び建っています。麓の、今回参拝した里宮では、岡太神社は大瀧神社の摂社となっているのではないかと想像します。当社のパンフレットに記されている由緒は以下のようです。

 歴史の上では岡太神社が古く、今より1500年ほど前、この里に紙漉きの業を伝えた女神・川上御前を紙祖の神として祀り、「延喜式神名帳」(926)にも記載されている古社である。
 一方、大瀧神社は推古天皇の御代(592~638)、大伴連大瀧の勧請に始まり、ついで養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師は、産土(うぶすな)神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神として十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧児(ちご)権現と称して別当寺大瀧寺を建立した。明治になり神仏分離令により大瀧児権現は大瀧神社と改称、また大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の御分霊が奉祀されて、岡太神社は名実ともに全国紙業界の総鎮守となった。

 大瀧神社から紙の文化博物館へやって来ました。このあたり一帯を「和紙の里」と称しているようで、卯立の工芸館やパピルス館など、和紙に関する施設が連なっていました。
 紙の文化博物館は、越前和紙の長い歴史や製作工程、和紙をとりまく人々の営みなどを、さまざまな資料で紹介しています。
 博物館を出て、和紙の里通りを散策しながらパピルス館へとやって来ました。ここは紙漉きを実際に行える体験型施設となっており、自分だけのオリジナル和紙を作ることができるようです。


紙の文化博物館

和紙の里通り


 和紙の里から花筐公園へと移動します。運転手さんの言によれば、この雪では公園まで行くのが困難ではないかとのこと。徒歩では行けないかと尋ねましたが、歩くのはかなり大変な様子です。近くまで行ってみて無理であればあきらめようと、坂を登って行きましたが、やはり侵入は無理な様子。花筐公園探訪はあきらめて本日の宿泊地、池田町の冠荘へと向かいました。
 訪れることは叶いませんでしたが、花筐公園は春には約千本の桜が咲き誇り桜の名所になっているようです。、また秋には紅葉も美しく、四季を十分に満喫することができるとのことです。
 以下は越前市観光協会のサイトによる説明です。

 継体天皇が皇子の頃、暮らしていたと言われているのが花筐公園周辺です。園内には桜やつつじ、紫陽花、紅葉など四季を通じて美しい自然にふれることができます。また公園内にある福井県天然記念物、薄墨桜(樹齢600年以上)は、継体天皇となった男大迹王が、愛する照日の前に形見として残したものと言い伝えられ、その後、次第に色が薄くなっていったため、薄墨桜と呼ばれるようになったと言われています。


越前和紙の手漉き姿と
重文紙祖神の大瀧神社
を描く岡本局風景印


桜の名所花筐公園を描
き越前和紙の手漉き姿
を配す今立局風景印


 花筐公園の麓にある今立郵便局の風景印には、花筐公園の碑と和紙の手漉き姿が描かれています。また先ほど訪れた和紙の里にある岡本郵便局の風景印にも和紙の手漉き姿と大瀧神社が描かれていますので掲載します。
 余談ですが、以前に岐阜県の能鄕を訪問したおり、本巣市の根尾谷地区にも男大迹皇子の伝承が残されていました。都からの招きに応じて根尾谷を去るに際し、お手植えになった桜が薄墨桜であるというものです。後述しますが、当地と岐阜県の根尾、能鄕地区は能鄕白山を中心にちょうど対象の位置にあります。白山信仰などとの絡みで、同じような伝承や芸能が伝えられてきた可能性があるかもしれないと考えた次第です。



 花筐公園に立ち寄れなかったのはいささか残念ではありましたが、車は県道2号線を経て池田町に入り、国道476号線を経由、途中池田郵便局に寄り道していただき、午後3時半ころ、目指す冠荘に到着いたしました。
 
 ここ池田町は、福井県の東南部、岐阜県境に位置し、総面積の約90%が山林です。人口約3千人、主たる産業は農林業(2/3の世帯が農業を営む)となっています。後刻バスの運転手さんからお聞きしたところによると、町では外部からの人口の流入、次男三男の定着に力を注いでおり、住宅を提供して25年間居住すれば無償で貸与する制度があるそうです。しかしながら定着しようにもそれを支える産業に乏しく、苦慮している現状とのことでした。

 さて、ここ冠荘は民宿に毛の生えた程度の宿かと想像していましたが、なかなか立派な温泉旅館の風格がある宿でした(もしかすると町営かな?)。ロビーではストーブに赤々と火が焚かれて、雪国の風情があります。壁には、明日奉納される田楽「あまじゃんごこ」の絵が飾られて、気分を盛り上げてくれるようでした。


冠荘に到着

ロビーを飾る「あまじゃんごこ」の絵


 一同、まず今宵の宴会場に集合し、休憩する暇もなく謡会の開催です。曲目は『田村』と『花筐』。『花筐』が選ばれたのはうなづけるのですが、『田村』がなぜ取り上げられたのか、よく解りませんでしたが、明日の奉納の曲目にあったから、というのが幹事長Mさんの言。なるほど。
 『田村』については趣向がありました。クセのみ別働隊(写真の向って左側の4人)に謡わせようというものです。ところが『田村』には前場と後場にそれぞれクセがあるのです。別働隊には前場のヨワ吟の易しい方を任せるのかと思いきや、後場のツヨ吟の方を謡わせます。幹事さんもちょっぴり意地悪ですね。


田村

花筐


 『花筐』のクセは三難クセの一つに数えられており、なかなか骨のある難曲です。ちなみに三難クセは、『白鬚』『歌占』『花筐』とされていますが、『白鬚』は観世・金春二流にしかないため、大槻十三師は『白鬚』の代りに『山姥』とされていました。『花筐』のクセはそれ位難物でして、ツヨ吟で甲グリがあります。それも二ヶ所も! 甲グリが二ヶ所もある曲は、これ以外に『淡路』『須磨源氏』『白楽天』『弓八幡』の4曲です。
 このような難曲ですが、今回の謡はよくまとまっており、なかなか立派なものでした。地頭がうまくリードしていたと思います。少しうがった見方をすれば『花筐』は難曲だけに、自信のない方はあまり声を出さなかったのかも知れません。それがよく合った要因だったかも!?
 『田村』の方が若干外れた方がいたようで、これは『花筐』とは逆によく馴染んだ曲だけに、地頭の声をあまり聴かずに勝手に謡った可能性がありますね。

 謡会を終えてそれぞれの部屋に引き取ります。夕食は6時過ぎより、先ほどの謡を肴に話が尽きません。美味なる食事に楽しい会話、ワイワイガヤガヤと雪国の夜は更けてゆきました。






 二日目の朝を迎えました。予報によれば今日の天気は雪から雨に変わりそうです。ここ池田町は白山の山麓、武生などの海岸線からは山ひとつ内陸に入り込んでいますから、武生は雨でもこちらは雪ではなかろうかと、いささか勝手な想像をしております。


池田町訪問地図


 今日の予定は、10時からすぐ近くにある能面美術館の見学、その足で鵜甘(うかん)神社へ行き田楽の奉納に参加することになっています。道中は冠荘のマイクロバスに送迎をお願いしており、足の心配をしなくてよいのは大助かりであります。


能面美術館

能面研修館「古木庵」


 8時から朝食を済ませ、出発までの時間をのんびりと過ごします。10時少し前に冠荘のマイクロバスで、すぐ近くにある「能面美術館」まで案内していただきました。
 美術館の正面には能舞台が設置されており、見所に相当するところに能面が展示されています。これは「全国新作能面公募展」に応募のあった300点あまりの能面のうち、選考された150点の能面が飾られているのです。私のような門外漢にとっては素人の作品とは思えない見事さではありました。


面打ち・桑田能守師


古木庵にびっしりと飾られた面

ケースに陳列された古面の数々


 能面美術館の隣には、能面研修館「古木庵」があります。ここでは能面教室が開講されており、面打ちの希望者を募っていました。講師は面打ち師である桑田能忍氏。氏は広島県出身で、27歳の時に面打ちを志し、丸10年古面の写しをひたすら繰り返すことで技を磨き、1995年に池田町に移り住み、翌年能面美術館の館長に就任されました。
 我々が訪問したときにも、すでにお弟子さんがひとり見えられていました。ちなみに「写真を写してもよろしいですか」と許可を求めると、「1打1万円」との回答が。ジョークもお好きな様子に、一同大笑いでありました。
 教室入口のケースには古面が展示され、また壁一面に彩色されていない面が陳列されています。これにはちょっと不気味な感がありました。
 ここ越前の地は室町時代から江戸時代にかけて多くの能面師を排出しています。能面師で有名な越前出目家と大野出目家は共に越前の国が発祥の地でした。
 古木庵にお暇したところへ、観光バスが到着します。このバスも我々と同じく、午後の田楽の奉納開始までの時間を、ここ美術館に立ち寄ったものでしょう。観光バスのツアーが組まれているとは、水海の能舞も流石の感があります。神社に早めに行き、場所取りをしないとヤバイかもしれませんね。

 冠荘のマイクロバスに乗車、鵜甘神社へと急ぎます。神社の近く、水海川に架かる宮谷橋のふもとまで参りますと、警備員による車の整理が始まっています。県警のパトカーも停車しており、一大イベントの感を強く受けます。
 我々のマイクロバスは奉納が終りかける午後4時頃に、再びこの場所まで迎えに来てくれることになりました。バスから降りて、道に残る融けかかった雪を踏みしめながら神社への参道をたどりました。



鵜甘神社

 以下は、池田町教育委員会作成の小冊子に記された鵜甘神社の由緒書です。

 祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、武内宿禰。
 美濃峠に源を発し、部子山(へこさん)の麓を流れ足羽川にそそぐ水海川の清流のほとりに、昔から田楽・お能の社として広く知れわたっている社である。この社は雄略天皇の7年(463)に創建とになる社である。鎌倉時代に時の執権北条時頼は、諸国行脚の途中水海の地を訪れ、ここで折柄の振り積む雪に閉じこめられ一冬を越すことになる。時頼は崇敬の念篤く神徳の威大を感じ、毎日当社に参拝し、天下泰平を祈願した。
 時頼は鎌倉に帰館後この地に滞在したことを感謝し、その御礼に神社境内、山林を免租地にすると共に、御供料、別火料を設け白銀を寄進した。水海の地に滞在する冬の間は、村人と親睦を深め田楽や能舞を教えた。継体天皇越前に御潜籠の折は、このお社に崇敬の念篤く、神領1200町歩を下賜された。その後越前国主松平越前守が当地巡視の際、神社所有地を免租とし、白銀を奉納した。このお社は、創建以来数回大火に会い焼失したが、復興して広く崇敬を集め、田楽のお社・お能のお社として参拝者が多い。

 祭神が誉田別尊・気長足姫尊なので、八幡神社であることは明らかでしょう。氏子の裃の紋所が「対い鳩(むかいばと)」でした。八幡宮の神紋は通常は三つ巴のようですが、鳩は軍神とされ八幡大菩薩の神使でもあることから“八”の字を表す対い鳩を神紋とする八幡宮もあるようです。京都の石清水八幡宮の一の鳥居の扁額には「石清水八幡宮」の文字が掲げられていますが、これは三蹟のひとり藤原行成の筆跡を、松花堂弁当の祖とされる松花堂昭乗が書写したものだそうです。そして、この“八”の字が向い合った鳩で表現されています。


 当社の田楽・能舞について、上記の由緒と若干重複しますが、同書による説明です。

 鵜甘神社に伝わる田楽・能舞の由来は非常に古い。第88代後深草院の頃(建長2年正月15日)、時の執権相模守北条時頼は、寺社の向背を恐れ諸国を視察行脚中、当時平泉寺領であった池田の地を訪れた。時はちょうど正月である。折しも北国の雪に閉じこめられて、立往生して水海の地で一冬を越した。
 この地は美濃街道にあたり、尾張から府中(武生)に出る要所である。水海に滞在中は崇敬の念に厚い時頼は鵜甘神社に参籠し、天下泰平、五穀豊穣、国家安穏を祈願するとともに、村人の無聊をなぐさめて、田楽・能舞を教えて一冬を過ごした。時頼鎌倉に帰館後、水海滞在中のことを忘れず、神主及び村人をこの地より呼び寄せ、御供田、蜀紅の錦の装束、猩々の生毛の冠物を奉納し、神殿の修繕まで約した。田楽・能舞はこの時以来鵜甘神社の伝統となり、今日まで伝えられている。


 最明寺時頼の廻国伝説については、謡曲でも『鉢木』に謡われて著名ですが、否定的な見解も多くあるようです。右に掲げたのは、田楽「祝詞」の舞人の口上の一部ですが、「…さ候へは東西鳴り高し最明寺殿の始正月の御祈祷に何をか仕まつらむと各々寄りて撰議し給ふ。何々と申し候へどもこの御田楽にすぎめでたきことのあるまじきと依って各々評定し給ふ。…」と述べられています。
 時頼がこの水海の地までやって来たか否かについての真偽ともかく(私は否定的ですが)、水海では古くから田楽が伝えられており、後に時頼に象徴される他の地域の人から能舞を教えられたということになりましょう。現在行われている『高砂』『田村』『呉服』『羅生門』は世阿弥作ともいわれていますから、これらの能が移入されたのは室町後期以降になるでしょう。


水海・能鄕関連地図


 ここで思い出すのが、以前にMさんと観賞した岐阜県本巣市根尾の「能鄕の能・狂言」です。能鄕で演じられた能も後場のみであり、型付けも非常に似通ったものがありました。福井県と岐阜県の県境にそびえる能鄕白山を中心に、水海と能鄕はほぼ対象の位置にあり、両者ともに白山信仰を基盤として相通じるものがあるのではないかと想像しています。地図を眺めますと、現在では国道157号線によって福井県と岐阜県が結ばれていますので、恐らく過去においてもこの交通路は存在し、越前~美濃間の交流ルートであったと考えられます。また前述したように両者ともに継体天皇や薄墨桜の伝承を有しているのです。ですから越前の今立や池田地区と美濃の根尾や能鄕地区には、共通した伝統や文化、民族芸能などが存在する可能性が高いのではないかと思われるのです。どなたかご存じありませんか。



幕で覆われた拝殿

田楽の奉納される舞台


 まだ時間は大分早いですが、参拝を済ませ社殿に上り坐る場所を確保いたします。本殿に向って右側に囃子方が座り、正先と左手に地謡の席があります。舞人からすれば左側が正面となるようで、地謡席のすぐ後方に席を確保いたしました。


簡易食堂~ちょっぴり高かった

簡易みやげもの店


 社殿の下にはテントが張られて、氏子の経営になる簡易食堂や売店が並んでいます。われわれ一同、このテントを借りて、事前に準備された巻き寿司やいなり寿司で昼食といたしました。
 これらのテントの左手奥に建物があり、今日使用される面や装束等が準備されています。



本日使用される面や装束


 水海の田楽能舞は、その名の通り「田楽と能の両者を合わせ持つ舞であり、古い型が現在も生きた形で継承されていて、芸能発達史上高い価値を持っている」と評価され、昭和51年5月4日に重要無形民俗文化財に指定されています。
 毎年2月15日に田楽能舞が奉納されますが、奉納されるまでの神事は以下のようになっているとのことです。

●役割
 2月3日に関係者が一堂に集い、舞人、囃子等の役割が決められ奉納神事の陣容が整うことになる。
●本稽古
 翌2月4日から本稽古が始まる。13日までの10日間(実質8日間)、謡・舞・囃子の稽古が続けられる。
●場均(なら)
 14日には、田楽、能舞の最初から最後まで通しの仕上稽古が行われる。
●別火(べっか)
 翁(祝詞)、三番叟、高砂を舞う3人は神格化のため、13日午前零時を期して「他人の火を使わない」ということで、家人との共同炊事を避け、各自それぞれの火器・食器を用い、社務所に寝泊まりして、奉納当日まで精進潔斎の生活を送る。
●朝戸開き
 奉納当日の15日、午前5時の夜明けとともに、集落内の特殊な家の人たちによって神殿から神面が取り出され、拝殿内の神前に並べられる。
●禊(みそぎ)
 13日から別火に入っていた3人の舞人は、白装束に身を包み水海川の清流に心身を浄め、神に仕える誓いを新たにする。

 禊は12時より、水海川にて行われます。まだ時間は1時間近くありましたが、一同水海川へとまいりました。
 水海川にかかる宮谷橋のたもとから川の右岸の堤防を伝って禊の式場まで行けるようです。川岸には紙垂(しで)を垂らした竹が立てられ聖域であることを示しています。その近くにはすでにカメラが取り付けられ、禊の始まりを待っています。
 宮谷橋からでも禊の模様は十分に見えそうなのですが、川の左岸にも2人はど人影があります。そちらの方が人影に妨げられずに写真が撮れそうなので、橋を渡り対岸に向いました。


禊を待つ水海川


カメラを据えて待つ

宮谷橋にも大勢が


 待つ間にも観光バスが到着します。朝、能面美術館で出会ったバスなのでしょう。この神事を目指したツァーでもあるのでしょうか。
 左岸は見物人も少なく、道は踏み固められておりません。積もった雪は膝のあたりまであり、式場となる堰の近くまで行くのは大変です。仕方なく道の途中で足場を固めておりました。寒さに震えながら待つこと暫し、やっと正午になり、白装束を身にまとった3人の舞人が現れました。
 三人は川岸の竹の所で白衣を脱ぎ、褌だけの姿で水海川に入ります。堰のところで拝礼を行い、川水に首まで身を浸します。見ているだけで震えそうな有様です。川から上った三人は、白衣をまとって社へと帰って行きました。


三人の舞人登場


褌ひとつで水海川へ


水海川に身を浸す

社へ帰還


 “禊”の儀式を見終えて、我々も3人の後から鵜甘神社へと帰って参りました。拝殿の見所は満杯状態になっています。よくぞ早めに席取りをしておいたものです。
 地謡方は裃姿に威儀を正して着座し、「水海の田楽能舞」保存会の会長のご挨拶で、本日の田楽・能舞の奉納が始まりました。神社本殿の神座から見て、正面と右手(我々が座っている方)に地謡座になっています。真正面の、ちょうど賽銭箱があるあたりが地頭席のようで、保存会の会長が地頭を勤められる模様です。
 左側は囃子方の席で、太鼓・大鼓・小鼓2人・笛2人の構成となっています。


保存会会長の挨拶

着座した地謡


 田楽は農民の間から興り、五穀の豊かな実りを願い、また豊かな実りを神に謝すことからおこった舞楽です。現在、水海では「烏とび」「祝詞」「あまじゃんごこ」「阿満」の4番が奉納されています。以下「水海の田楽能舞」保存会刊行の『能楽の里』により、それぞれの田楽の特徴を紹介します。


烏飛び(その1)

烏飛び(その2)


●烏飛び
 舞人は1人で、黒の衣装に黒のほおかむりをし、手には中啓(扇の一種)を持つ。腰を曲げかがみながら、中啓を左右に振り上げ、肩にかつぐようにしながら、太鼓の「インヤーハー」の掛け声に合わせて片足ずつ交互に跳びながら舞台を一回りするだけの舞である。
 この舞は、大八洲の国造りを示し、土地の区画を定める意味を持つともいわれる。単調でありながら、力強い太鼓の音と掛け声、生命の始動を思わせる舞人の所作は、万物の生命を呼びおこし、天地の邪気を払う感じを与える舞である。


祝詞(その1)

祝詞(その2)


●祝詞(のっと)
 舞人は1人。この舞は代々鵜甘神社の神主が務める慣わしになっている。狩衣を着て大口をつけ、烏帽子をかぶり「翁」の面をつける。手には中啓とチリ(幣)という奉書紙を竹に挟んだものを持つ。
 この舞には囃子も謡もない。舞人は、今日の田楽能舞を奉納する意味を語りながら舞う。最後に五穀豊穣、国家安穏、息災延命、人民慶楽を祈願して舞い納める。


あまじゃんごこ(その1)


●あまじゃんごこ
 変わった名の舞である。「あま田楽」が訛ったものとも言われるが、確かなことはわかっていない。
 舞人は3人。それぞれ白・黒・赤の「しゃぐま」をかぶり、顔をつつみ、素襖(すおう)に大口をはき、手には「びんぞそら」を持つ。この舞には謡とか口上(詞)はなく、太鼓の囃子のみで「ヤァー、アンハー」という掛け声に合わせて、腰をかがめ、びんざさをすり合わせながら舞台を右に三廻りし、中央に寄って次は反対に一廻りする。この間、聞こえるのはバシン、バシンという太鼓と「ヤァー、アンハー」という掛け声と、ザザッ、ザザッというびんざさらの音だけである。この単調な響きの連続は、聞く者をして初めも終りもない悠久の時の流れの中に引き入れてしまう感がある。単調な音の連続の中に奇妙な深い味わいを持つ舞である。
 この舞は、国中の荒ぶる神々を鎮め、この舞台を含むすべての世界を祓い清める意味を持つものといわれている。


あまじゃんごこ(その2)

あまじゃんごこ(その3)


 「あまじゃんごこ」は、その名もさることなながら、舞(?)も一風変わったものでした。3人の舞人はうつむいたまま舞台を廻るだけ。擦り合わせるササラの音のみが不気味に聞こえてきます。「ヤァー、アンハー」という太鼓の掛け声も、全く変化することなく同じ調子で続きます。まるで3匹の怪物が舞台にいる感がありました。なお、上記の説明では「舞台を右に3回、中央に寄って次は反対に1回」となっていますが、実際には「右に2回、左に2回」でした。


阿満(その1)

阿満(その2)


●阿満(あま)
 舞人は1人。祝詞と同じように中啓とチリを持つ。千早、大口を着て、真っ黒な極めて素朴な感じの面をつける。この面はくり抜いたような目と小さな口、ほほを丸く彫り出した、まさに「土の神樣」といった感じの強い面である。初めは中啓とチリを持って、田打ちから刈り入れまでを語る詞を述べ、後段ではチリを鈴に持ち替えて豊作を祝って舞う。鈴は魂を鎮める鎮魂の役割を果たすといわれるが、静かな舞台に響く鈴の音は、大地の精霊を呼び起こし、種々の邪悪なものを鎮めるような感じを与える。
 この舞には笛が2人と小鼓2人、および太鼓の囃子が加わる。



 田楽4番が終了し「式三番」の開始です。翁役の大夫を始め囃子方が入場し、千歳と三番叟は神前に着座、シテはワキ柱のところに着座します。シテの前には鵜甘神社の御三面である父尉・翁・三番叟の面が置かれています。
 『式三番』は現行五流では『翁』の名で上演している曲目の古称。「能にして能にあらず」といわれ、神前で最初に行う儀式の舞です。天下泰平、国土安穏の祈禱として、めでたい舞を舞うのが眼目であり、同時に長久円満、息災延命の祝福が君に対しても人に対しても与えられるものです。


鵜甘神社の御三面


式三番開始


千歳と三番叟は神前に


千歳の舞(その1)

千歳の舞(その2)


 翁の賀詞があり、千歳の舞が続きます。千歳はいずこの地でも幼い子供の役どころとなっているようです。千歳の舞の間に翁は面箱の中の翁面をかけます。そして翁の舞、右手の扇を面に当て、左袖の頭上に返す翁特有の型があります。


翁面を附ける


翁の舞(その1)


翁の舞(その2)


 最後は三番叟の舞です。これは前段の“揉(もみ)の段”と後段の“鈴の段”に別れて舞われます。“揉の段”で舞台を踏み歩くのは、地固めともいわれ大変賑やかな雰囲気を醸し出します。“鈴の段”では、千歳から渡された鈴を右手に、扇を左手に持って舞います。農耕をかたちどったもので、俗に種蒔きともいわれるようです。喜びを所作に表す、飄逸な感じの舞です。


三番叟の舞(前段)


千歳が鈴を手渡す


三番叟の舞(後段その1)

三番叟の舞(後段その2)


 さて『式三番』が終りますと、古川柳で、
   笛の音がやむと友成旅に立ち
と詠まれていますように、続いて『高砂』が始まるのが普通ですが、ここで休憩となりました。
 水海の能舞の奉納は、毎年『高砂』『田村』『呉服』『羅生門』の4曲に限定されています。すべて後場のみの半能形式で演じられ、シテのみが登場し、待謠は地が謡います(『羅生門』はワキの渡辺綱も登場します)。
 謡の詞章は、観世流の現行曲(他流は定かではありません)とほぼ同じで、下に示したような字体で記されています。一見、江戸期かもっと古いものかと思いましたが、池田町在住で能筆家としても著名な川口忠次郎氏の手になるものでした。


高砂(その1)


高砂(その2)


『高砂』の詞章(待謡・後シテ出)


 『高砂』に続いて『田村』が奉納されます。当然これもワキの待謡から始まります。
 シテの田村麻呂は腰を落した、しゃがんだような姿勢が多く、『高砂』もそうであったのですが、同じ形が繰り返えされている、という感がありました。囃子についても同様で、同一手順が繰り返えされているようでした。もっとも、専門でない素人による舞楽ですから、複雑な形や囃子であれば、何百年も継承されるのは無理でありましょう。出端や神舞に相当する囃子も、よく分らなかったというのが、正直な感想です。
 それと腰帯がなかったように感じられました。


田村(その1)

田村(その2)

 『田村』に続いて『呉服』『羅生門』が奉納されますが、時間の都合で退場いたしました。
 この2曲とも、現行五流ではあまりお目にかかれない曲です。観世流の演能記録では、昭和25年~平成21年の60年間に、『呉服』は18回、『羅生門』は13回しか演じられておらず、ほぼ稀曲の部類に入るでしょう。簡単にこの曲の概要を紹介いたしましょう。


呉服

羅生門(パンフレットより)


●呉服(くれは)
 世阿弥の作とも伝えるが、作者未詳。『日本書紀』による。『右近』『西王母』とともに中ノ舞物脇能の一つ。
 住吉神社に参詣した廷臣が、西宮へ向かい呉服の里に着く。あたりに機織りの音が聞こえ、呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)と称する唐人の若い女が出て、その名の由来を語り、機を織るさまを見せる。
 夜に入り、呉織の神が現れ舞を舞い、錦を織って捧げものとし、めでたい世をたたえるのである。
●羅生門(らしょうもん)
 観世信光作。『平家物語剣巻』『今昔物語集』『十訓抄』などによる。
 春雨に閉じ込められた源頼光・平井保昌(ほうしょう)・独武者(ひとりむしゃ)・貞光・公時(きんとき)(以上いずれもワキツレ)・渡辺綱(ワキ)の面々は酒宴を催し話に興ずる。綱は、羅生門に鬼神が住むと発言した保昌と口論となり、その真偽を確かめるため、夜に入り羅生門へと向かう。羅生門に着いた綱は、馬を下り石段に上り、頼光から賜わった金札を壇上に立て、去ろうとするところを、鬼神(シテ)が綱の兜をつかんで引き留める。両者各党の末、綱に腕を斬り落された鬼神は、はるかに立ち去り、綱は勇名を轟かすのであった。
 シテは後場にのみ登場し、しかも一句も謡わない点で他に類を見ない(『室君』のシテも無言居士である)。ワキ方中心の能で、事実上の主役はワキである。それ故にこの能はワキ方に人を得ることが必須条件で、一方シテ方にとっては、短時間の登場で演技がいたって少ないため、上演の機会がまれである。


 『田村』が終了した時点で、約束の午後4時となってしまいました。『呉服』と『羅生門』には大いに興味がありましたが、已むを得ず席を立ちました。参道を下りたところに待ってくれている冠荘のパスに乗車、鵜甘神社とお別れしました。
 武生駅に向いますが時間に余裕があり、近くの道の駅ならぬ「まちの市場~こってコテいけだ」に立ち寄り、軽く小腹に入れようという訳です。ところが、うどん・そばの類いは準備されておりません。一同、仕方なくパンをかじったり、コーヒーを飲んだりで腹の足しにいたしました。ここで土産に買ったせんべいに、田楽・能舞が描かれておりました。


土産のせんべい

 マイクロバスは武生駅に到着、列車の時間までまだ1時間半ほど余裕があります。駅前の居酒屋兼料理屋のような店に入り、本格的な腹ごしらえにいたします。今日の田楽、昨日の謡会、日ごろの練習…などなど、冬だというのに話しに花が咲いて、止まるところを知りません。あっと言う間に列車の時間が近付いておりました。
 18時55分発のサンダーバード40号に乗車、富山の方からの列車なので空席があるかどうか心配でしたが、ばらばらの席ではありますが全員座ることを得て一安心。ただ強風のため湖西線経由から米原経由に変更になり、大阪駅に着いたのは30分ほど遅れた21時10分頃となりました。大阪駅にて解散、それぞれの家路をたどりました。


冠山を背景に田楽能舞
を描きシャクナゲを配
した池田郵便局風景印

 最後になってしまいましたが昨日立ち寄った池田郵便局の風景印に、水海の田楽能舞が描かれておりました。


 以前に佐渡島の能、黒川能そして能鄕の能・狂言を拝見して、あのような僻地に能・狂言という民間芸能が、神事として綿々と継承されていることに驚きを禁じ得ませんでした。そしてこのたび水海での田楽能舞に接し、その感を強くした次第です。
 こうした伝統芸能が今日まで継承されてきた背景について、「水海の田楽能舞」保存会刊行の『能楽の里』では、以下のように述べられています。

 その理由はいくつかあげられるが、まず第一は、この神事に対する村人の崇高な信仰心であろう。今日でこそマスコミにも取り上げられ、拝観する人々も年々増加しているが、それは極めて近年になってからの現象である。それ以前は雪深い山里でひっそりと続けられて来た神事である。それは人に見せるためにするものではなかった。村人の神への祈りの心の現れであった。現在でも基本的にこの精神は変っていない。このような村人の気高い信仰心が、この神事を今日まで伝えた最大の理由であろう。
 第二には、水海という集落がこの地方にしてはまれに見る大きさを持っていたことであろう。現在でも170戸ほどの戸数を有するが、かつては200戸を超えていたといわれる。このようにまれに見る大きい集落であったから、それに相応する経済力と、伝統の神事を支える人材に恵まれていたことになる。池田の他の地域(志津原・月ヶ瀬・稲荷)の能舞が途絶えざるを得なかった背景を考える時、その地域のもつ経済的、人的な豊かさは大きな力であることがうかがえる。

 以上のように、水海の田楽能舞が現在まで継承されてきた理由として、村人の信仰心と経済力が挙げられています。信仰心はさることながら、経済力に関しては、若干の疑義を差し挟まねばならないでしょう。耕地面積わずかに10%の農業と林業に依存している当地の経済力がどれほどのものであったものか。日々の生産活動に従事しながら、芸能を伝えていくことが、容易に行えたとは考えられないのです。そこには最明寺時頼の伝承に代表される、時の権力による保護があったのではないでしょうか。ちなみに、現在謡われている謡曲の詞章は、我々が習っている現行五流のそれとほぼ同じです。多少の危険を顧みずに推論すれば、この地における能舞は一たびは退転したことがあり、それを復活するのに中央の能楽五流の詞章をとり入れた、そのような可能性が考えられないでしょうか。それくらい、伝統が途絶えることなく継承されるのは、大変なことであると思われてなりません。
 少子化、過疎化に悩まされる現在、この神事を支える人的な資源の枯渇、そしてそれに伴う経済力の低下、そうした要因でこの歴史ある伝統芸能が衰退しないことを切に願うものです。


 佐渡・能の里訪問、黒川能の見学、昨年の室津・小五月祭参拝などに次いで、「徒然謡倶楽部」による「水海の田楽能舞」見学の企画も無事終了することができました。今後も、室津の小五月祭への参加や天川弁財天社大祭への参賀など、楽しい企画が計画されています。こうした企画でまた皆さんとお目にかかりたいものと切望しています。
 さらに来年には、水海とは能鄕白山を隔てて反対側にある、岐阜県能鄕の能・狂言と根尾の薄墨桜の見学が企画されんことを大いに期待するものです。




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  (2014.3.13 記録)



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