《昼食は宇治の喜撰茶屋》
読売旅行から配布された今回の旅の栞によれば、昼食は伏見で「茶の葉弁当」となっていました。ところが車内での案内では「喜撰茶屋で昼食にします」とのこと。喜撰茶屋といえば宇治と違うんやろかと、かみさんと話していますと、左手に“三室戸寺”の案内板が見えてきました。やっぱり宇治や、という間もなく、バスは宇治橋を渡り、縣神社の参道を過ぎて、平等院近くの駐車場に到着。バスから降りると、目の前には朱塗りの喜撰橋。そして橋の向こうの十三重の石塔が目に飛び込んできました。喜撰橋のたもとの喜撰茶屋の二階で、本日の昼食となりました。
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宇治川のほとりの喜撰茶屋
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茶の葉弁当
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昼食は予告通りの“茶の葉弁当”です。帰宅してから当茶屋のサイトで調べてみましたところ、1,296円とのこと。3種類ある“茶の葉弁当”では最低の価格でしたが、この程度のバスツァーの昼食としては相応のものでありましょう、
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喜撰橋と十三重石塔
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昼食を済ませ、ここで土産物などを買い込み、近場の散策いたします。茶屋の前にある朱塗りの喜撰橋を渡り、中の島へ渡りますと石造りの十三重の塔があります。
この石塔は、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧叡尊(えいそん)によって、宇治川での殺生のの罪を戒める供養塔として建立されたもので、高さは15メートルもあり、現存する日本最古で最大の石塔であるということです。
12時25分、予定通りバスは出発、府道15号線、国道24号線を経て城陽市にある“青谷梅林”を目指しました。
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城陽市・精華町map
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《青谷梅林》
青谷梅林は、JR奈良線の山城青谷駅から東に、直線距離でおよそ1キロ弱のところにあります。この梅林の由来について、城陽市の「青谷梅林“梅まつり”」のパンフレットによりますと、
青谷梅林は、青谷地区東方の丘陵地帯を占め、天山(てんやま)を中心として北の播磨咲・堂山、南の石神・百間場にわたってあり、さらに青谷川をへだててその南の大谷・白坂に及んでおり、老樹古木をまじえて数万本の梅樹が群生していたと伝えられている。
青谷梅林の起源についてはあきらかではないが、後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王の歌に、
風かよふ綴喜の里の梅が香を 空にへだつる中垣ぞなし
と詠まれてあることから、鎌倉末期ごろはすでに梅林があったことが知られる。江戸時代に淀藩から梅樹栽培の奨励を受け、大いに植樹されたと『青谷村誌』に伝えられている。明治33年(1900)青谷保勝会を設立して、梅林の保護と宣伝につとめてから、花見客は多くなり名勝地となった。
城陽市観光協会のサイトによれば、ここ青谷梅林は京都府一を誇る梅園とのことです。また、当梅園の近くには中天満神社が祀られ、菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌碑が建てられており、絶好の散策コースとなっているそうです。
バスが駐車場に到着しました。この駐車場の周りには、窓やドアのついた、ユニットルームとでもいうのでしょうか、コンテナのようなものが積み上げられています。建築資材の会社の敷地を借りた臨時の駐車場のようです。さて「いざや梅を見ばや!」と張り切ってバスを降りたまではよかったのですが、駐車場から梅林まで石ころ道を十数分ほど延々歩かされ、梅林らしきところに到着した時には歩き疲れ、気合が抜けて腑抜けのような状態になっておりました。
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梅園の風景(パンフレットより)
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青谷梅園では、2月末から“梅まつり”が開催されており、梅園の中心にある会場には、うどんなどの売店も設けられています。つい先ほどまで餅つき大会が行われていた由で、われわれが到着した時には、その余韻だけが漂っておりました。会場周辺はけっこうな人ごみで、みなさん、思い思いに梅の木の下で茣蓙を広げています。
以下に、梅まつりで賑わう梅園の様子を…。
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パンフレットの写真のように、上から眺めるといい景色のようですが、間近に眺める梅の花はどうも冴えません。駐車場まで20分近い時間がかかりますので、早々に会場を立ち去りました。
正直、この梅園鑑賞はいまイチの感が強く、後ろから歩いてきた若い女性の二人連れが、「もうこんなとこ二度と来とうないわ。青谷いうたら絶対に来んからな」と毒づいておりましたが、むべなるかなと、密かにうなづいた次第です。
さて、青谷梅園の見物も終わり、バスはさらに南下して、最後の寄港地である“いちご農園”へと向かいました。
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《“旧花空間けいはんな”でのいちご狩り》
京阪奈自動車道を精華インターで降りてしばらく進むと、山間のようなところに似つかわしくないような建物が現われました。ここがお目当ての“いちご農園”だとのことですが、周りの雰囲気は農場というより研究施設といった感じです。係りの方にここの名称を尋ねたところ“京都フラワーセンター”であるとの回答でした。
帰宅して調べてみますと、昭和61年に学研都市第一号の施設として京都府が開設したもので、当時は“京都フラワーセンター”と呼ばれていたが、その後“花空間けいはんな”と改称されました。“花空間けいはんな”は平成21年3月末に閉園し、京都府農林水産技術センター生物資源研究センター研究圃場および京都府立大学の一部門(精華キャンパス)となっているようでした。当所でのいちご狩りは“花空間けいはんな”時代から行われていたようです。
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研究棟
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一般公開の公園部分
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入場してすぐのところに「山青花欲然」の碑が建てられています。どこかで見たような文句なのですが、すぐにピンと来ず、モヤモヤとすること暫し。ああ、杜甫の「絶句」の一節だったと、やっと思い出しました。中学の時に習い、その後も何度も目にしている詩なのですが、なかなかすぐには思い出せないものです。これも老化のせいかも?
絶句 杜甫
江碧鳥逾白 江は碧(みどり)にして鳥は逾(いよい)よ白く
山靑花欲然 山は青くして花は然(も)えんと欲す
今春看又過 今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぎなんとす
何日是歸年 何(いづ)れの日か是れ帰る年ぞ
(吉川幸次郎『新唐詩選』岩波新書、1952)
揮毫は昭和53~61年の間京都府知事であった林田悠紀夫。1965年、参院選に京都地方区から出馬し初当選。当選3回を数えたのち、府知事を2期8年務め、その後参院選に再度出馬。参議院議員として1998年に2期12年で引退するまで、竹下内閣の法務大臣などを歴任しています。この詩碑は京都フラワーセンター設置時に建てられたものでしょう。
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杜甫「絶句」の一節
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それにしてもこんなところで杜甫の詩にお目にかかるとは驚きでした。
杜甫の詩に「江南にて李亀年に逢う」という七言絶句があります。晩年、洞庭湖のあたりを漂泊していた杜甫が、かつて都で玄宗皇帝の寵を得ていた李亀年に遭遇して詠んだ詩ですが(この年に杜甫は客死します)、杜甫の詩碑に遭遇して、李亀年に出会った杜甫の感慨を、ふと想いやった次第です。
江南逢李龜年 杜甫
岐王宅裏尋常見 岐王(ぎおう)の宅裏(たくり) 尋常に見
崔九堂前幾度聞 崔九(さいきゅう)の堂前(どうぜん) 幾度か聞く
正是江南好風景 正(まさ)に是れ江南の好風景
落花時節又逢君 落花の時節 又君に逢う
(松枝茂夫『中国名詩選』岩波文庫、1984)
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白雪姫と七人のこびと
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歓迎のゴリラさん
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研究棟に沿って広い構内を進みます。芝生の公園が広がり、近くの子供でしょうか、ボール遊びに興じています。築山があり、展望台もあるようです。また休憩用のあずまやも設けられ、そぞろ歩きには絶好の施設といえましょう。かわいい白雪姫とこびとや、いかついゴリラの歓迎に、みなさん童心に還って大喜びでした。
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いちご狩り風景
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数棟の温室が立ち並ぶエリアに到着。いちごの取り方や食し方の説明があり、プラスチックの小さな容器を手に、一斉に温室に突入いたします。なかなか大粒のいちごがぎっしりと実っています。器に数個のいちごを摘み取って、水でさっと洗いモグモグパクパクと余念がありません。気が付けばこれを数回ばかり繰り返していたようで、すっかり満腹になっておりました。
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最後のバスに乗車
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泉大津パーキングエリア
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最後の行程を終えて、後は一路帰るのみ、いちごで膨れ上がったお腹は、睡魔を招き寄せます。バスの振動に合わせて、うつらうつらとしているうちに湾岸線に入り、泉大津のパーキングエリアで最後の休憩をとり、往路とは逆に、岸和田、貝塚、熊取の順に参加者を降ろし、最終泉佐野に帰着したのは午後6時となっておりました。
今回の小旅行は、メインである石清水八幡宮はやや時間不足、青谷梅園はいまイチであったため、全体の印象がぼやけたものになり、今まで参加した読売旅行のツアーの中では、最も芳しからざるものでした。それぞけの訪問地での時間がもう少しあれば、違った印象となったかもしれません(私にとっては“花空間けいはんな”で出会った杜甫の詩碑が最も印象的であったという、ちょっぴり皮肉な結果でありました)。ただ一日だけの気軽に参加できるツアーなので、次回以降も食指が動きそうな企画があれば、これに懲りずに参加してみようかと、かみさんと話し合った次第です。
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