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 気まぐれ紀行の先頭
山城南部の
一日バスの旅


京都南部山城地区一日バスの旅 2016.3.13
 ≪石清水八幡宮、青谷梅林といちご狩り≫

 南海泉佐野駅出発 7:00
          8:30 ~ 8:50 八尾PA
          9:30 ~ 10:45 石清水八幡宮
          11:20 ~ 12:25 宇治・喜撰茶屋(昼食)
          12:45 ~ 13:45 青谷梅林
          14:15 ~ 15:00 旧・花空間けいはんな(いちご狩り)
          16:30 ~ 17:00 泉大津PA
 南海泉佐野駅帰着 18:00



 おなじみの読売旅行の企画による一日バス旅行です。今回は、国宝に指定された石清水八幡宮から青谷梅林を訪ね、最後に京都府精華町で旬のいちご狩りを楽しもうというものです。我が家もかみさん主導での参加となっております。
 午前7時に南海泉佐野駅を出発、ここからJR熊取駅、南海貝塚駅、岸和田駅と参加者を拾い、岸和田から高速湾岸線に上がります。この間、直進する距離よりも左右にジグザグ行進する距離の方がはるかに上回っているのではないかという、まことに非経済的な動きをするのですが、この動きのために、私たちのように一番南から乗車する者にとっては、1時間近いロスが発生しています。もったいない!
 岸和田駅で20数名が乗り込み、参加者40名が勢揃い、本日の小旅行が始まりました。今回の企画は希望者が多かった様子で、全部で3台のバスツアーで、私たちのバスは2号車、総勢120名を超える参加者となっています。
 岸和田から阪神高速の湾岸線に上り、泉北、阪和道から近畿道と高速を乗り継ぎ、八尾のパーキングエリアで最初のトイレ休憩となりました。


近畿道・八尾PA

われわれの乗る2号車


 このPAはトイレと飲み物の自販機があるだけで、それ以外は何もありません。全員が揃ったところですぐに出発です。
 今回、読売旅行が使用しているのは“野鉄バス”。かみさんが、どこのバスなんやろ、とのたまいます。私も聞きなれないバスなので、しばし黙考。以前和歌山の海南市から東の野上方面を繋ぐ“野上鉄道”があったことを思い出しました。鉄道は平成の初めころ廃止となったが、バス部門が存続しているものでしょう。
 近畿道をさらに北上し、門真のJCから第二京阪道路へと進み、京滋バイパスを経て京阪八幡市駅へは9時半頃の到着となりました。


京阪八幡市駅

男山ケーブル乗り場


《石清水八幡宮》

石清水八幡宮境内map

①一の鳥居
③五輪塔(航海記念塔)
⑤タブの松
⑦影清塚
⑨石清水社・石清水井
⑪青少年文化体育センター
⑬雄徳山(おとこやま)茶園
⑮書院石庭
⑰南総門
⑲築地塀
㉑鬼門封じ
㉓お札・お守授与所

②頓宮
④高良神社
⑥頼朝公ゆかりの松
⑧松花堂跡
⑩一ツ石
⑫都山流尺八中尾都山顕彰碑
⑭エジソン記念碑
⑯カヤの木
⑱楠木正成必勝祈願の大楠
⑳校倉
㉒八幡造りご本殿
㉔男山ケーブル


祭神は、応神天皇、神功皇后、比咩大神(ひめおおかみ)
ここ男山の標高は、本殿付近で124メートル弱に過ぎないが、南は洞ヶ峠を経て生駒山に連なり、北は木津・宇治・桂の三川が合流し、淀川を形成する地に臨んで天王山と対峙し、古来、京都・大坂・奈良を結ぶ水陸交通・政治・経済・軍事上の要衝として重視された。男山の東中腹には霊泉「石清水」が湧出し、その近傍には本宮鎮座以前、行基開創の石清水寺という山寺が存したと伝えられる。
平安時代前期の貞観元年(859)、宇佐八幡宮に参籠した南都大安寺の高僧行教(ぎょうきょう)は、八幡大神より「吾須らく近都に移坐して国家を鎮護せん」とのご託宣を蒙り、石清水男山の峰に八幡三所大神の神霊を鎮めた。
天慶2年(939)に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり、速やかに乱が平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の崇敬は益々厚いものとなり、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟とも称された。

  

 男山ケーブルは、八幡市駅と男山山上駅を約3分程度で結んでいます。通常は15分間隔、1時間4本の運行です。待つこと暫し、ケーブルに乗り込み出発しました。車両の定数は145人ですので、われわれの一行は全て乗り込んだ模様です。
 途中トンネルの附近で上下線がすれ違います。


トンネルですれ違い

三川の合流地点


 淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川です。瀬田川として琵琶湖から流れ出て、京都府に入るあたりで宇治川と名を変えます。さらに京都府と大阪府の境界付近、ちょうどここ男山の山裾のあたりで桂川・木津川と合流し、いわゆる淀川となります。
 ケーブルは山頂駅に到着、自由参詣タイムとなりました。山上駅からは社殿を廻り込むように、山道の参道が続きます。本来の参道は、向かって左手の山裾から一の鳥居、二の鳥居を経て山頂の三の鳥居に至り、ここからまっすぐ社殿に導かれるものでしょうか、ケーブルが社殿の裏側に通じるように開通しているため、このような道が造られたものでしょう。


山上駅からの参道

三女神社


 この道筋が本来の参道と交わる地点に「三女神社」が祀られています。祭神は宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たきりびめ)、市寸島比売命(いちきしまひめ)、多岐都比売命(たぎつひめ)の三神を祀っています。
 三女神社のすぐ横で“走井餅”が売られていたので、バスの中でても食べようかと購入します。走井餅は一の鳥居の前に店舗があったはずです。


涌峯塔

ボーイスカウトの像


 石畳の参道に合流、社殿は180度廻れ左の方向になるのですが、目前の広場に何やら奇妙な塔のようなものが建てられています。後ほど調べると「涌峯塔(ゆうほうとう)」というそうで、神刀や神職の使用する笏・冠などをイメージしたものだということです。この塔は単なるモニュメントだけではなく、給水塔の役割を持っており、山上では水圧が低いため、一度ポンプで塔の高いところに上げて、落下する水勢を利用して各所に配水しているそうです。
 またここには「エジソン記念碑」もありますので、参拝の前に立ち寄ることとしました。
 涌峯塔の前にボーイスカウトの半身像が建っています。当社には、ボーイスカウト・ガールスカウトの事務所が置かれ、活動のサポートをしているようです。


エジソン記念碑


 ちょっと奇異な感があるのですが、当社の境内の隣に「エジソン記念碑」が建立されています。エジソンの白熱電球の実用化成功に最も大きな役割を果たした竹が、当地のものであると聞けば、むべなるかなと納得できるものがあります。以下は記念碑前の説明です。

 西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)が、灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明し、この石清水八幡宮境内に生えている竹が、電球の命ともいえるフィラメントの材料として最も適していることを知り、電球発明の翌年から十数年もの長い間、この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り、世界の人々に電灯のありがたさを知らされました。つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。
 そこで1929年に、電灯発明50年を記念して、世界各国で電灯黄金祭が催された時、日本もこれに加わり、記念事業の一つとして電球の発明と切っても切れない関係にあるこの土地に記念碑を建て、エジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。
 最初に建てられたのはこの境内北側に続く場所でしたが、エジソン彰徳会の手で、昭和33年にここに移され、更に昭和59年10月に現在の姿に再建されました。

 横道にそれてしまいました。本来の目的である八幡宮に参拝いたしましょう。


南総門

謡曲『弓八幡』の説明


 手水舎で手を清め、社殿前にそびえる壮大な南総門をくぐり拝殿へと向かいます。南総門から社殿を見ると、社殿が少し西側を向いているそうで、御神前にて参拝したのち帰る際に、八幡大神に対して真正面に背を向けないよう、中心を外しているとのことです。
 南総門に上る石段の右手に「謡曲『弓八幡(ゆみやわた)』と石清水八幡宮」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 謡曲『弓八幡』は男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
 この謡を「弓八幡」と名付ける事は、「八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓八幡と名付けたのである」とある。
 直ぐな御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。
 「作者世阿弥は平和論者である。武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。これが一能役者の見識であり情熱であったのである」と謡曲大観は論じている。
 本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡宮に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。


八幡宮拝殿


 社殿は、貞観元年(859)に木工寮権允・橘良基が清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り」の社殿が完成、楼門から奥へと舞殿・幣殿・本殿が続き、いずれも国宝に指定されています。
 いわゆる“三大八幡宮”は、本宮たる宇佐神宮、都への勧請以来本宮の扱いを受けた石清水八幡宮、そして古い由緒を持つ筥崎宮の三社をいいますが、現在では筥崎宮に換えて、後世になって知名度が高くなった鎌倉の鶴岡八幡宮を入れる場合もあるようです。

 もう少し時間があれば、松花堂の跡地なども見たかったのですが、時間の制約があり、そそくさと参拝を済ませて、再びケーブルで地上に降り立ちます。このような団体旅行には付きものなのですが、点呼をとると大抵数が合わず、人数あわせに時間がとられるのはご愛敬というべきでしょう。


一の鳥居

放生川に架かる安居橋

 
 到着時は京阪八幡市駅のすぐ近くでバスから降ろしてくれたのですが、乗車は二の鳥居前の駐車場になります。一の鳥居を過ぎ、放生川に架かる安居橋を左に見て、再びバスに乗り込みました。八幡宮の放生会では、ここ安居橋の上で華麗な舞楽が舞われるとか。一度拝見したいものです。


《昼食は宇治の喜撰茶屋》
 読売旅行から配布された今回の旅の栞によれば、昼食は伏見で「茶の葉弁当」となっていました。ところが車内での案内では「喜撰茶屋で昼食にします」とのこと。喜撰茶屋といえば宇治と違うんやろかと、かみさんと話していますと、左手に“三室戸寺”の案内板が見えてきました。やっぱり宇治や、という間もなく、バスは宇治橋を渡り、縣神社の参道を過ぎて、平等院近くの駐車場に到着。バスから降りると、目の前には朱塗りの喜撰橋。そして橋の向こうの十三重の石塔が目に飛び込んできました。喜撰橋のたもとの喜撰茶屋の二階で、本日の昼食となりました。


宇治川のほとりの喜撰茶屋

茶の葉弁当


 昼食は予告通りの“茶の葉弁当”です。帰宅してから当茶屋のサイトで調べてみましたところ、1,296円とのこと。3種類ある“茶の葉弁当”では最低の価格でしたが、この程度のバスツァーの昼食としては相応のものでありましょう、


喜撰橋と十三重石塔


 昼食を済ませ、ここで土産物などを買い込み、近場の散策いたします。茶屋の前にある朱塗りの喜撰橋を渡り、中の島へ渡りますと石造りの十三重の塔があります。
 この石塔は、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧叡尊(えいそん)によって、宇治川での殺生のの罪を戒める供養塔として建立されたもので、高さは15メートルもあり、現存する日本最古で最大の石塔であるということです。
 12時25分、予定通りバスは出発、府道15号線、国道24号線を経て城陽市にある“青谷梅林”を目指しました。

城陽市・精華町map



《青谷梅林》
 青谷梅林は、JR奈良線の山城青谷駅から東に、直線距離でおよそ1キロ弱のところにあります。この梅林の由来について、城陽市の「青谷梅林“梅まつり”」のパンフレットによりますと、

 青谷梅林は、青谷地区東方の丘陵地帯を占め、天山(てんやま)を中心として北の播磨咲・堂山、南の石神・百間場にわたってあり、さらに青谷川をへだててその南の大谷・白坂に及んでおり、老樹古木をまじえて数万本の梅樹が群生していたと伝えられている。
 青谷梅林の起源についてはあきらかではないが、後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王の歌に、
   風かよふ綴喜の里の梅が香を 空にへだつる中垣ぞなし
と詠まれてあることから、鎌倉末期ごろはすでに梅林があったことが知られる。江戸時代に淀藩から梅樹栽培の奨励を受け、大いに植樹されたと『青谷村誌』に伝えられている。明治33年(1900)青谷保勝会を設立して、梅林の保護と宣伝につとめてから、花見客は多くなり名勝地となった。

 城陽市観光協会のサイトによれば、ここ青谷梅林は京都府一を誇る梅園とのことです。また、当梅園の近くには中天満神社が祀られ、菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌碑が建てられており、絶好の散策コースとなっているそうです。
 バスが駐車場に到着しました。この駐車場の周りには、窓やドアのついた、ユニットルームとでもいうのでしょうか、コンテナのようなものが積み上げられています。建築資材の会社の敷地を借りた臨時の駐車場のようです。さて「いざや梅を見ばや!」と張り切ってバスを降りたまではよかったのですが、駐車場から梅林まで石ころ道を十数分ほど延々歩かされ、梅林らしきところに到着した時には歩き疲れ、気合が抜けて腑抜けのような状態になっておりました。


梅園の風景(パンフレットより)


 青谷梅園では、2月末から“梅まつり”が開催されており、梅園の中心にある会場には、うどんなどの売店も設けられています。つい先ほどまで餅つき大会が行われていた由で、われわれが到着した時には、その余韻だけが漂っておりました。会場周辺はけっこうな人ごみで、みなさん、思い思いに梅の木の下で茣蓙を広げています。
 以下に、梅まつりで賑わう梅園の様子を…。

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 パンフレットの写真のように、上から眺めるといい景色のようですが、間近に眺める梅の花はどうも冴えません。駐車場まで20分近い時間がかかりますので、早々に会場を立ち去りました。
 正直、この梅園鑑賞はいまイチの感が強く、後ろから歩いてきた若い女性の二人連れが、「もうこんなとこ二度と来とうないわ。青谷いうたら絶対に来んからな」と毒づいておりましたが、むべなるかなと、密かにうなづいた次第です。
 さて、青谷梅園の見物も終わり、バスはさらに南下して、最後の寄港地である“いちご農園”へと向かいました。


《“旧花空間けいはんな”でのいちご狩り》
 京阪奈自動車道を精華インターで降りてしばらく進むと、山間のようなところに似つかわしくないような建物が現われました。ここがお目当ての“いちご農園”だとのことですが、周りの雰囲気は農場というより研究施設といった感じです。係りの方にここの名称を尋ねたところ“京都フラワーセンター”であるとの回答でした。
 帰宅して調べてみますと、昭和61年に学研都市第一号の施設として京都府が開設したもので、当時は“京都フラワーセンター”と呼ばれていたが、その後“花空間けいはんな”と改称されました。“花空間けいはんな”は平成21年3月末に閉園し、京都府農林水産技術センター生物資源研究センター研究圃場および京都府立大学の一部門(精華キャンパス)となっているようでした。当所でのいちご狩りは“花空間けいはんな”時代から行われていたようです。


研究棟

一般公開の公園部分


 入場してすぐのところに「山青花欲然」の碑が建てられています。どこかで見たような文句なのですが、すぐにピンと来ず、モヤモヤとすること暫し。ああ、杜甫の「絶句」の一節だったと、やっと思い出しました。中学の時に習い、その後も何度も目にしている詩なのですが、なかなかすぐには思い出せないものです。これも老化のせいかも?

    絶句    杜甫
  江碧鳥逾白  江は碧(みどり)にして鳥は逾(いよい)よ白く
  山靑花欲然  山は青くして花は然(も)えんと欲す
  今春看又過  今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぎなんとす
  何日是歸年  何(いづ)れの日か是れ帰る年ぞ
            (吉川幸次郎『新唐詩選』岩波新書、1952)

 揮毫は昭和53~61年の間京都府知事であった林田悠紀夫。1965年、参院選に京都地方区から出馬し初当選。当選3回を数えたのち、府知事を2期8年務め、その後参院選に再度出馬。参議院議員として1998年に2期12年で引退するまで、竹下内閣の法務大臣などを歴任しています。この詩碑は京都フラワーセンター設置時に建てられたものでしょう。


杜甫「絶句」の一節


 それにしてもこんなところで杜甫の詩にお目にかかるとは驚きでした。
 杜甫の詩に「江南にて李亀年に逢う」という七言絶句があります。晩年、洞庭湖のあたりを漂泊していた杜甫が、かつて都で玄宗皇帝の寵を得ていた李亀年に遭遇して詠んだ詩ですが(この年に杜甫は客死します)、杜甫の詩碑に遭遇して、李亀年に出会った杜甫の感慨を、ふと想いやった次第です。

    江南逢李龜年    杜甫
  岐王宅裏尋常見  岐王(ぎおう)の宅裏(たくり) 尋常に見
  崔九堂前幾度聞  崔九(さいきゅう)の堂前(どうぜん) 幾度か聞く
  正是江南好風景  正(まさ)に是れ江南の好風景
  落花時節又逢君  落花の時節 又君に逢う
            (松枝茂夫『中国名詩選』岩波文庫、1984)


白雪姫と七人のこびと

歓迎のゴリラさん


 研究棟に沿って広い構内を進みます。芝生の公園が広がり、近くの子供でしょうか、ボール遊びに興じています。築山があり、展望台もあるようです。また休憩用のあずまやも設けられ、そぞろ歩きには絶好の施設といえましょう。かわいい白雪姫とこびとや、いかついゴリラの歓迎に、みなさん童心に還って大喜びでした。








いちご狩り風景


 数棟の温室が立ち並ぶエリアに到着。いちごの取り方や食し方の説明があり、プラスチックの小さな容器を手に、一斉に温室に突入いたします。なかなか大粒のいちごがぎっしりと実っています。器に数個のいちごを摘み取って、水でさっと洗いモグモグパクパクと余念がありません。気が付けばこれを数回ばかり繰り返していたようで、すっかり満腹になっておりました。


最後のバスに乗車

泉大津パーキングエリア


 最後の行程を終えて、後は一路帰るのみ、いちごで膨れ上がったお腹は、睡魔を招き寄せます。バスの振動に合わせて、うつらうつらとしているうちに湾岸線に入り、泉大津のパーキングエリアで最後の休憩をとり、往路とは逆に、岸和田、貝塚、熊取の順に参加者を降ろし、最終泉佐野に帰着したのは午後6時となっておりました。

 今回の小旅行は、メインである石清水八幡宮はやや時間不足、青谷梅園はいまイチであったため、全体の印象がぼやけたものになり、今まで参加した読売旅行のツアーの中では、最も芳しからざるものでした。それぞけの訪問地での時間がもう少しあれば、違った印象となったかもしれません(私にとっては“花空間けいはんな”で出会った杜甫の詩碑が最も印象的であったという、ちょっぴり皮肉な結果でありました)。ただ一日だけの気軽に参加できるツアーなので、次回以降も食指が動きそうな企画があれば、これに懲りずに参加してみようかと、かみさんと話し合った次第です。




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 気まぐれ紀行の先頭

  (2016.4.22 記録)



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