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 気まぐれ紀行の先頭
自凝島神社と
ハモ料理の旅



淡路・国生みの島紀行  2016.6.28
≪おのころ島神社とハモ料理≫

  7:00      加古川駅出発
  8:30      明石海峡大橋 (小雨パラつく)
  9:20 ~ 11:50 おのころ島神社 (参拝・奉納謡会)
 12:30 ~ 14:15 若潮旅館 (昼食・ハモ料理満喫)
 15:05 ~ 16:00 伊弉諾神宮 (小雨・コンシェルジュ参拝)
 16:10 ~ 16:30 赤い屋根 (土産物購入)
 17:00 ~ 17:20 絵島
 18:20      加古川駅帰着



 謡友のMさんからは、以前から淡路島に渡り、謡会を開催して“ハモ料理”に舌つづみ打ちたいという相談を持ち掛けられていました。幸いなことに淡路島には私たちの同学同好であるNさんが在住されており、彼の案内で謡蹟めぐりやハモ料理を満喫するという計画が実現されかかったことがありましたが、都合が折り合わず実現には至りませんでした。
 その再挑戦という訳ではありませんが、今回Mさん主宰の「徒然謡倶楽部」による謡曲行脚で、淡路島のしかるべき神社で謡曲を奉納し、昼食にハモを食べようという計画を立案、Nさんに事前調査を依頼し、3月にMさんと淡路島を訪問、Nさんと合流して下見を開始しました。
 淡路島にある代表的な神社としては、淡路国一ノ宮の伊弉諾(いざなぎ)神宮、同二ノ宮の大和大国魂(やまとおおくにたま)神社およびおのころ島神社などが挙げられます。Nさんに、事前にこれら三社に奉納謡会の可否を尋ねてもらったところ、いずれも可能であるということでした。
 淡路島に所縁の曲である『淡路』の舞台は、二ノ宮である大和大国魂神社なのですが、この社はやや小高い処に鎮座しており、バスでの参拝は不可。麓にバスを留めて歩いて参拝することになりそうです。どうも二ノ宮は足の便が悪く好ましくありません。それよりは、『淡路』の舞台である二ノ宮に近く、国生み伝説の中心とされ、かつ謡の章句にある“天の浮橋”がすぐ近くにある「おのころ島神社」で謡会を開催するのがよろしかろうという結論になりました。またオノコロ島伝承のある沼島(ぬしま)行きも検討しましたが、時間の関係で断念せざるを得ませんでした。
 この日はNさんの案内で、おのころ島神社、大和大国魂神社に参拝し、謡曲関連の地である淳仁(じゅんにん)天皇の御陵や天皇の母君山背の御陵、平通盛の妻である小宰相局(こさいしようのつぼね)の塚を訪問、謡会当日の昼食予定地である若潮旅館で昼食を兼ねて当日の打ち合わせを済ませ、午後に一ノ宮・伊弉諾神宮に参拝、帰路、岩屋漁港の絵島を訪れ、謡会の下見を終えました。
(淡路島に関する記述は、本サイトの「謡曲の統計学・謡蹟めぐり・〈淡路島・大和大国魂神社〉」と一部重複しています。)


淡路島訪問地図



 さて、6月28日を迎えました。このところ関西はぐずついた天候が続いています。予報では昨日夕刻からの雨は、早朝には一時治まるものの、昼頃からまた降り出すかも知れぬというもので、要は今日一日いつ降ってもおかしくないという空模様のようです。

 今回の淡路紀行の参加者は、加古川の高齢者大学である“いなみ野学園のみなさんを中心として、総勢33名という大人数となりました。
 当日はJR加古川駅北口のロータリーに7時45分の集合となっています。7時半が近づくと皆さんがパラパラと集まり始めました。
 空は今にも降り出しそうなどんよりとした暗い雲に覆われています。午前8時、予定通りバスは発車しました。加古川バイパスから第二神明に入り、8時30分頃に明石海峡大橋に差しかかりました。バス正面のフロントガラスでは、時おりワイパーが作動して、かすかにくっつく雨粒を拭き取つています。この程度であれば、なんとかもちそうな空模様です。


明石海峡大橋と五色塚
古墳を描く垂水局風景印



加古川駅からバスに乗り込む

明石海峡大橋

 9時過ぎに西淡三原ICで高速道を降り、朱塗りの大鳥居を目指します。



《おのころ島神社》

 “自凝島”と書いて“おのころじま”と訓むそうで、『大辞林』によれば「自(おの)づから凝(こ)り固まってできた島」の意とのことですが難読の社名ですね。“おのころじま”は『古事記』では淤能碁呂島、『日本書紀』では磤馭慮島と表記されています。
 おのころ島神社のご祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)および伊弉冉命(いざなみのみこと)。菊理媛命(きくりひめのみこと)を合祀しています。菊理媛命は、2015年に訪れた能郷白山神社の祭神(白山比咩(しらやまひめ)神)でした。黄泉を訪ずれた伊奘諾が黄泉比良坂(よみのひらさか)で伊弉冉に追いつかれ口論になりますが、そこで菊理媛が何か言うと伊弉冉はそれを褒めて帰って行きました。伊奘諾と伊弉冉を仲直りさせたということから、菊理媛は縁結びの神とされているそうです。
 以下、当社のパンフレットに記載されている縁起です。

 当神社は、古代の御原入江の中にあって、伊弉諾・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古くからおのころ島と親しまれ、崇敬されてきた。古事記・日本書紀によれば、神代の昔、国土創世の時に二神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛(ぬぼこ)を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮が、おのずと凝り固まって島となる。これが自凝島である。
 二神はその島に降って、天之御柱(あまのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの)を造り、男神は左から女神は右から御柱をめぐって、女神は「あなにやしゑをとこ」、男神は「あなにやしゑをとめ」とのたまい、国産みをされたが、はじめ女神の方が男神を誘ったので成功しなかった。我が国の控え目な女性観が物語られている。二神はそこで天神(あまつかみ)の命を請い、太占(ふとまに)に従って、今度は男神が女神を誘い、ふたたび御柱をめぐって国産みに成功することが出来た。

 当社の地は、現在では陸地の小高い丘になっていますが、おのころ島の西部山裾に塩砂があり、数千年前の縄文時代には、三原平野の低い所が入江であったとされていることから、また水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたことからも、むかしは、海の中に浮かぶ小島であったが、三原・大日両川のもたらす泥土が堆積して現在の地勢となり、三原平野の中央に位するようになったと考えられているようです。そして当社のすぐ近くには、国生み神話に関連する天の浮橋や葦原国もあり、最もおのころ島として相応しいとも思われます。


古代淡路島の図

 “おのころ島”は、伊弉諾・伊弉冉二神が我が国の島々を作られたとき、最初に生れた島として重要視されており、それだけにその所在地をめぐっては、当社の地以外にも諸説があるようです。
 淡路島の南西に浮かぶ沼島にも自凝(おのころ)神社があり、おのころ島の発祥地だとする考えがあるようです。また午後に参拝する一ノ宮・伊弉諾神宮の本殿の下には、伊弉諾尊が葬られた古墳があるとも伝えられ、おのころ島であるといわれているそうです。さらに本日最後の訪問地である絵島にもおのころ島伝承があるようです。そして播磨灘に浮かぶ家島もおのころ島に相応しいといわれているそうですが、一体どこがおのころ島なのでしょうか。
 ただ『古事記』によれば、おのころ島を生んだ後に“淡道之穗之狹別島(あはぢのほのさわけのしま)”すなわち淡路島を生んだと記されており、当社や伊弉諾神宮など、淡路島の地をおのころ島であるとする説は矛盾を含んでいるのではないかとも考えられます。


おのころ島神社の大鳥居


 西淡三原ICで高速道を降りてから、朱塗りの大鳥居に向かってバスは左折を繰り返し、榎列(えなみ)小学校の手前で右折、朱塗りの橋を渡り大鳥居に到着しました。見上げるとさすがにでっかい。あまりにも大き過ぎてカメラに収めるのが一苦労でした。この鳥居、昭和57年3月に建立されたもので、高さは21.7メートルあり、平安神宮および厳島神社とならんで「日本三大鳥居」の一つに数えられるそうです。


「あわじ花へんろ」の札所

おのころ島神社境内


 駐車場に「あわじ花へんろ」の標識が建てられており、ちょっと調べてみました。

 「あわじ花へんろ」は、淡路島が誇る花の名所・景勝地・観光施設等を巡っていただき、みなさまに花の島・淡路島の魅力と、島民とのふれあいにより、安らぎを満喫していただくことをめざしています。
 淡路島くにうみ協会では、淡路島の花の見どころを「花の札所」に指定しています。花の札所を巡る「あわじ花へんろ」への、みなさまのお越しを心よりお待ちしています。

 四国や西国の霊場や花の寺のように寺社のみを対象としたものではなく、公園や通常の施設などをも包括したもので、札所は68番まで設定されていました。当社はサザンカ、梅、桜、モミジなどの名所となっているようです。「花へんろ」とか「花の札所」などという表現が、四国や西国の霊場を想像して、ちょっと誤解を招きそうですが…。
 それはともかく、駐車場で地元の丹羽さんが参加、総勢33名が勢揃いしました。我々の日ごろの精進に天も感じたものか、幸いなことに体感できるような雨は降っておりません。こののち社殿にて参拝の後、奉納謡会が開催されますが、その前に境内を拝観いたしましょう


社務所

手水舎


 大鳥居をくぐり、階段を登った正面に正殿があります。正殿の付近は厳かな空気が漂っているかのようでした。当社の正殿は伊勢神宮と同じ神明造となっており、また伊勢神宮の内宮の鰹木(かつおぎ)(屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材)は10本、外宮は9本あり、当社は8本となっています。
 なお、ご朱印は下見で参拝した際に頂戴したものです。



おのころ島神社正殿

御朱印


 正殿の右に御神木が祀られていましたが、すでに枯れ果てた古木があるのみでした。
 正殿左の奥に摂社の八百萬(やおよろづ)神社が祀られています。その由緒書きによれば、

 八百萬神社は、おのころ島神社の摂社にて、本社の御祭神は国生み神生みをなされた。親神様の御神徳をたたえ、ここにその御子等の神々を、八百萬神としてお祀りしております。



御神木

八百萬神社


 階段を上ったすぐ右手にあるのが鶺鴒(せきれい)石です。

 伊弉諾命・伊弉冉命は、この石の上につがいの鶺鴒が止まり、夫婦の契りを交わしている姿を見て夫婦の道を開かれ、国産みをされたと言われています。その鶺鴒のしぐさが、現在も神前結婚式の三・三・九度に受け継がれています。縁結びの起源としても有名です。ぜひ、良縁をお結びください。

 新たな出会いを授かりたい場合、現在の絆をより深めたい場合、さらに一人でお参りするとき、二人でお参りするときなどにより、赤い縄と白い縄の握り方や、お祈りの作法が異なるようでした。
 正殿前の社号標の右手に中田光風氏の歌碑が建てられています。

  産土(うぶすな)の我が親神よとこしへに國の鎮めとおわすこの神

 中田光風氏は、地元の出身で大阪の阪急十三(じゅうそう)駅前に喜八洲(きやす)総本舗を設立し、酒饅頭の販売で成功、神社の大鳥居を寄贈した方です。


鈴木啓也歌碑

服部嵐雪句碑


 正殿への階段を上った、鶺鴒石の正面に鈴木哲也氏の歌碑が建てられています。

  おのころの社に詣うで日の本の眞の民となれし思いに

 鈴木哲也氏は日本大学芸術学部出身のテノール歌手。平成元年より当社春の例大祭で、当社賛歌「自凝島(おのころじま)」を奉納されています。後ほど当社を去るに際し、宮司さんより、鈴木哲也「自凝島」のCDを頂戴しました。宮司さんの言によればこの歌は一風変わっており、あまり一般受けはしないのだが、謡曲の愛好者である皆さんならばお気に召すかも知れないとのことで、後日拝聴しましたが、結構変わった曲ではありました。
 正殿への階段の左手に、服部嵐雪の句碑があります。

  梅一里む /\ 保ど農阿多多可さ  嵐雪
  (梅一輪いちりんほどのあたたかさ)
 服部嵐雪は蕉門十哲の一人で、承応3年(1654)榎列に生れ、宝永4年(1707)54才で没した。この碑は昭和31年(1956)嵐雪250年祭記念建立である。
 (出生地については江戸湯島説もある。)


 境内の拝観を終え、いよいよ奉納謡会の開催です。
 謡会は正殿の神楽殿で奉納します。

 神楽殿には事前に椅子が準備されています。我らがメンバーはかなり高齢者が多く、椅子席はおおいに助かります。ただ神楽殿はそれほど広くないため、さすがに33名が並びますと立錐の余地なしといった有様です。
 一同、神楽殿に入場し、奉納謡会の番組を掲示いたしました。この番組は謡会の会員の手になるもの。なかなかの達筆です。


奉納謡会番組

宮司さん入場


 当社の宮司さんは老齢の女性の方です。女性が神職に携わるようになったのは戦後のことで、近年女性の神職は増加傾向にあるようですが、現在13%強といわれています。
 やがて宮司さんが入場、番組をご覧になり「素晴らしい手蹟(て)ですね」と思わずつぶやいておられました。


祝詞奏上


正面の扉が開かれ本殿が重々しく視野に飛び込んできました。そして「掛けまくも畏(かしこ)き、おのころ島御社(みやしろ)の伊弉諾命、伊弉冉命、菊理姫命(きくりひめのみこと)…」宮司さんの奏上される祝詞の声が厳かに神楽殿に響きます。
 お祓いが済みいよいよ謡会の開始です。宮司さんは退場されるものと思っていましたところ「私も聴かせてもらいます」と、この場に遺られました。緊張!

 奉納の曲は当地にちなんだ『淡路』と、本日最後の訪問予定地である“絵島”が謡われている『草子洗小町』の2曲です。これらの局について、簡単に考察してみましょう。
 まず『淡路』について。


   謡曲「淡路」のあらすじ
 観世・金春・金剛三流の現行曲。観阿弥の作。『神皇正統記』その他による。

 当今に仕える臣下が神代の古跡を一見しようと淡路島に渡り、古跡のことを尋ねようと人を待つ。すると尉と若い男が田の水口に幣帛(みてぐら)を立てている。これは御神田なのかと臣下が問う。尉は水口に五十串といって五十の幣帛を立てて神をまつると歌を引いて言い、ここの社は伊弉諾尊・伊弉册尊の二神をまつる、その御神田だと答える。伊弉諾と書いて種蒔く、伊弉册と書いて種を収むと読むと教え、豊かに実る収穫に感謝し神徳を称える。

 尉は我が国の創始について、淡路島を始めとする島々を産んだ国産み、森羅万象、神々を産んだ神産みの有様を物語ると天に姿を消す。
 夜半、月光のもとに伊弉諾尊が姿を現す。尊は勇壮に舞い、御代と国家の安泰と繁栄を言祝ぐのだった。


 『淡路』の舞台は淡路国二ノ宮すなわち大和大国魂神社とされており、ワキの朝臣は参拝した社が一ノ宮ではなく二ノ宮であるとと聞かされ、一ノ宮の所在を「譲葉の権現ではないか」と尋ねます。その答えに「当社は二ノ宮ではあるが、伊弉諾・伊弉册二神を祀っている。神は一きうである」と聞かされます。
 このときシテの老翁は「これは即ち伊弉諾伊弉册の尊の二柱の。神代のまゝに宮居し給ふ…」と述べており、そのうえ後シテは伊弉諾尊なのです。ところが二ノ宮大和大国魂神社の祭神は大和大国魂命であり、いささか不都合が生じています。このような誤りが起こった理由について『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000)によれば「淡路が伊弉諾尊と伊弉冉尊による国生み伝承の地であるため、中世において二ノ宮の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊になっていた。再び祭神が大和大国魂神に戻ったのは明治の神仏分離以後」だと述べられています。本来の祭神からすれば、舞台は伊弉諾命・伊弉冉命を祀る一ノ宮かおのころ島神社とするのが妥当であると思われます。

 続いて『草子洗小町』について。


   謡曲「草子洗小町」のあらすじ
 作者、典拠ともに未詳。
 内裏での歌合の前日、小町の相手と定められた大伴黒主は、下人を伴い小野小町の私宅へ忍び入り、小町がひとり詠ずる歌を立ち聞きする。
 さて内裏では、王をはじめ小町、紀貫之、壬生忠岑、河内躬恒、大伴黒主たちが居並び歌会が始まる。貫之が小町の歌を詠みあげると、黒主はこれを古歌であると訴える。黒主の差し出す草紙を小町が水で洗ううち、黒主により書き入れられた文字は消え、面目を施した小町は一同の勧めで舞(中之舞)を舞う。


 『草子洗小町』に関しては、大角征矢氏が『能・謡ひとくちメモ』の「『草子洗小町』の雑学」において詳述されていますので、ご参照ください。
 小野小町を詠んだ川柳は数多くあります。若干鑑賞してみましょう。

  久米と黒主洗濯で名を汚し

 久米の仙人は洗濯をしている女の白脛を見惚れて神通力を失い、雲から落っこちたといわれています。一方の黒主は、小町に草子を洗われて入れ筆したことが発覚し、帝の御前で大恥をかきました。

  歌を詠むたびに小町は名がふえる

 小町は詠んだ歌やエピソードに応じて、数々の異名があります。
  ◎千早ふる神も見まさば立ちさわぎ天の戸川の樋口あけたまへ(雨乞小町)
  ◎蒔かなくになにを種とて浮草の波のうねうね生ひ茂るらん(草子洗小町)
  ◎みちのくの玉造り江にこぐ舟のほにこそ出でね君を恋れど(玉造小町)
  ◎雲の上はありし昔に変らねど見し玉垂れの内ぞ床しき(鸚鵡小町)

 本曲でワキとして登場している大伴黒主は、極めて不名誉な役割になっています。彼は六歌仙のひとりに数えられているにもかかわらず、百人一首に選ばれていません。『古今和歌集』の仮名序にも「大友のくろぬしはそのさまいやし。いはば、たきぎおへる山人の花のかげにやすめるがごとし」と、あまり良く言われておりません。“黒主”という名のイメージが良くないからなのでしょうか。
 これでは黒主が気の毒に思われますので、彼の名誉回復を図りたいと思います。
 少し馴染みが薄いのですが『志賀』という曲があり、シテは大伴黒主なのです。しかも志賀明神、すなわち神として登場するのです。大津市の南滋賀駅西方に大伴黒主を祭神とする社があり、大阪府富田林市にも黒主神社が祀られています。六歌仙でも神として祀られているのは黒主だけではないでしょうか。


 謡会は無事終了、宮司さんも長時間お聴きいただきありがとうございました。


奉納謡会風景

宮司さん、最後までお聴きになりました


 おのころ島神社での予定を終え、一同バスに乗り込みます。宮司さんより参拝の記念として、前述の鈴木哲也氏のCDと、開運厄除のお箸を頂戴しました。この箸は「家族で召し(飯)ませ健康作り、幸運を招く長寿のお箸」というもので、なんとなくありがたみが感じられます。


神社で頂戴しました

宮司さんのお見送り

 バスが出発しますと、宮司さんは手を振って見送ってくださいました。


 謡曲『淡路』には、一ノ宮・二ノ宮・譲葉権現などが登場しています。本曲の舞台である二ノ宮・大和大国魂神社と譲葉権現と呼ばれていた譲鶴羽神社、および天の浮橋などを巡ってみましょう。

おのころ島神社周辺地図




《大和大国魂神社》

 主祭神は大和大国魂神。八千戈命(やちほこのみこと)、御年命(みとしのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、土御祖神(つちのみおやのかみ)を配祀しています。境内入口には平成10年再建された鳥居が立ち、広く長い境内の突き当りに、社殿があります。
 自動車道の西淡三原ICから東へ3キロほど。自動車道のすぐ北にある丘の上に鎮座、おのころ島神社とは自動車道を挟んだ逆の位置にあります。


大和大国魂神社


 当神社の創建年代は詳しく分かっていませんが、大和朝廷の勢力が淡路に及んだとき、その支配の安泰を願って大和国山辺郡の大和坐大国魂(おおやまとにますおおくにたま)神社(現在の大和神社)を勧請した、と考えられています。
 9世紀にはすでに官社に列し、延喜式では名神大社(みょうじんたいしや)に列した古社。近世には阿波藩主である蜂須賀家の崇敬を受け社殿を再興、明治になって県社となりました。往古は桜の名所で、桜祭が開催されていたそうです。拝殿の屋根に桜紋が付けられていました。


拝殿

芭蕉句碑


 社殿の左手の繁みに芭蕉の句碑が建てられています。

  花左可李山八必古呂の安作保良希  はせを
  (花ざかり山は日頃の朝ぼらけ  芭蕉)
 別名「花塚」としても有名で、俳聖松尾芭蕉の句。弘化5年(1848)建立。

 当社での謡会も検討しましたが、バスでの参詣が不可能なこと、拝殿がやや狭いことなどから断念し、おのころ島神社での奉納に決定しました。



《天の浮橋》

 天の浮橋はおのころ島神社より西に300メートルほど、榎列(えなみ)小学校の南方すぐのところの民家のはずれにあります。
 記紀の国生み神話のなかで、伊弉諾尊・伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天の沼矛を持って海原をかき回すことにより、その矛より滴る潮が固まって島となった。これが「おのころ島」であると言われています。
 近くの榎列郵便局の風景印に天の浮橋が描かれています。


タマネギの輪郭に淡路人形
浄瑠璃の頭と天の浮橋の石
碑を描く榎列郵便局風景印


天の浮橋全景

磐座かな?

 以下は『古事記』における「天の浮橋」の記述です。


ここあま神諸もろもろみことちて、伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみこと、二柱の神に、「是の多陀用弊流ただよへる國ををさつくり固め成せ。」とりて、あめ沼矛ぬぼこ を賜ひて、ことさし賜ひき。かれ、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛をし下ろしてきたまへば、しほ許々袁々呂々邇こをろこをろに畫きして引き上げたまふ時、其の矛のさきよりしただりり落つる鹽、かさなり積もりて島と成りき。是れ淤能碁呂おのごろじまなり。
                  (『古事記・祝詞 』岩波・日本古典文學大系、1958)




天の浮橋の碑


 かなり遠い曲ですが『逆矛』のクセやキリに「天の浮橋」での国生みの様子が描かれています。

 最後に「譲鶴羽(ゆづるは)神社」について。



《譲鶴羽神社》

 謡曲に「譲葉権現」として紹介されるのが「譲鶴羽神社」です。
 南あわじ市南部にそびえる淡路島の最高峰である譲鶴羽山(ゆづるはさん)、平安時代より諭鶴羽参りが盛んで、修験道の聖地として信仰を集めたこの山の頂き付近には、元熊野宮としての諭鶴羽神社が鎮座しています。創建は開化天皇の治世と伝えられる古社で、祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのをのみこと)、事解男(ことさかのをのみこと)
 当社の祭神として伊弉冉尊が祀られています。通常は一ノ宮伊弉諾神宮やおのころ島神社、多賀大社などのように、伊弉諾・伊弉冉二神を併せてお祀りしているケースが多いと思うのですが、伊弉冉尊のみをお祀りしているのは、当社のほか三重県熊野市有馬町の花窟神社なと、その数は少ないようです。
 伊弉諾神宮の項で述べましたが、当社が伊弉冉尊を祀り、伊弉諾神宮が本来は伊弉諾尊のみを祀り、二社一対の存在ではなかったかと愚考した次第です。



《淳仁帝淡路陵と小宰相局の塚》

 おのころ島神社を出発したバスは、志知の交差点を直進して、県道477号線(うずしおライン)を西に進み、阿那賀(あなが)の若潮旅館を目指します。今回は訪問できませんでしたが、志知の交差点を左折して、4キロほど南下しますと、淳仁(じゅんにん)天皇淡路陵が、さらにその数百メートル南方に天皇の母・山背の淡路陵があります。


淳仁天皇淡路陵

淳仁天皇御母山背淡路陵


 淳仁天皇は天武天皇の皇子である舎人親王の七男、母は当麻老の娘の当麻山背。藤原仲麻呂(後に恵美押勝(えみのおしかつ)に改名)の推挙により、天平宝字2年(758)に孝謙天皇から譲位を受け践祚します。天平宝字8年(764)9月、上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は廃位を宣告され、淡路国に流されます。そして上皇は重祚して称徳天皇となりました。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていました。
 明治の王政復古の際、孝明天皇と明治天皇が思い浮かべ恐怖したのが、保元の乱で讃岐に流され、その地で亡くなった崇徳上皇と、ここ淡路で不遇の死を遂げた淳仁天皇の怨霊でした。そこで讃岐から崇徳院の霊を京都に迎え「白峯神社」を作り、そこに淳仁天皇の霊を合祀し、その霊を慰めようとしました。天皇家や貴族たちは、近代に至るまで政争に敗れて流罪となり、その地で果てるという、きわめて珍しい悲運をたどった崇徳院や淳仁天皇などの怨霊の発現を恐れ続けていたものでしょう。
 さて、この淳仁天皇ですが『当麻』に登場しています。

クリ 地そもそもこの當麻の曼荼羅と申すは。人皇(にんわう)四十七代の帝(みかど)。廢帝(はいたい)天皇の御宇かとよ。横佩(よこはぎ)の右大臣豊成と申しゝ人

 上記の『当麻』のクリに関して、昭和15年に発刊された大成版五番綴では「廃帝天皇」の呼称が好ましくないとされ、以下のように改められておりました。

クリ 地そもそもこの當麻の曼荼羅と申すは。人皇四十七代の御宇かとよ。横佩の右大臣豊成と申しゝ人

 「淳仁天皇御母山背淡路陵」は「当麻夫人の墓」とも呼ばれているようですが、淳仁天皇がその御母の名である『当麻』に謡われているのは、因縁めいたものを感じざるを得ませんでした。

 うずしおラインに沿って南下を続けます。途中、伊加利(いかり)交差点付近に「お局塚入口」の標識がありました。ここから北上して多摩山の山中へと分け入りますと、小宰相局(こさいしようのつぼね)を祀る「お局(つぼね)塚」があります。


小宰相局を祀る「お局塚」


 小宰相局は頭刑部卿(とうぎょうぶきょう)藤原範方の女で、宮廷に仕え、禁中第一の美人と謳われました。平清盛の弟教盛の嫡男、通盛に見そめられ、3年ごしの純愛のロマンスの末に二人は結ばれますが、間もなく平家没落により西へと追われる身となりました。
 通盛は、1184年、一の谷の戦いで討死、小宰相局は屋島に落ちる途中の船上でその悲報を受け、鳴門海峡付近の海に身を投げて19歳の命を絶ちました。遺体は近くの海岸に打ち上げられ、従者がここ伊加利の多摩山に塚を建てて弔ったと言い伝えられています。


鳴門市土佐泊の小宰相局の墓

神戸市湊川願成寺の小宰相局の墓
(中央の小さい墓が小宰相局の墓)


 多摩山には、局ら平家一門七人自決の墓と伝えられている「平家七塚」があります。写真の供養塔は、これら七塚の上に建てられたものです。
 小宰相局の墓所は、当所以外に鳴門の土佐泊と神戸市湊川の願成寺(がんじょうじ)にあります。



《若潮旅館─ハモ料理》


 12時30分、若潮旅館に到着しました。
 若潮旅館は淡路島の南側、鳴門海峡のすぐそばに位置しており、部屋の窓からは大鳴門橋が眼下に眺められます。
 同行のNさんが当所のご主人と同級生であることから、Nさんの紹介によりここを昼食会場とすることになりました。今回は“ハモ料理”ですが、“フグ料理”や季節を通しての“まるごと鯛コース”など贅沢な海の幸を堪能できるそうです。
 近くにある阿那賀郵便局の風景印に大鳴門橋が描かれています。


大鳴門橋と渦潮、沖ノ島を
描く 阿那賀局風景印



若潮旅館

眺めやる大鳴門橋


 大広間で食事会の開催です。くじ引きで決められた席に着きますと、幹事長のMさんに続いてNさんの挨拶があり、待ちに待った昼食が始まりました。本音を申せば、奉納謡会よりこの昼食が本命であったという、不心得者も多かった様子でした。


ハモ料理一式


 テーブルに料理が並びました。
 刺身に始まり、湯引き、鍋、天麩羅…、すべてハモづくしです。その上最後の赤だしにもハモが…。


食事風景(その1)

食事風景(その2)


 もう、食べ切れんというのが正直な感想で、最後のご飯をパスした方も少なからずいらした模様でした。
 美味なる料理に楽しい会話が弾み、知らぬうちに時間が過ぎて行きます。次の訪問地である伊弉諾神宮の予定時間も迫っており、残念ながら昼食を切り上げ、若潮旅館を出発しました。
 淡路島南ICから高速道に乗り、津名一宮ICで一般道へ、淡路国一ノ宮の伊弉諾神宮に到着したのは3時を過ぎておりました。




《伊弉諾神宮》

 伊弉諾(いざなぎ)神宮は淡路国一ノ宮。祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊。以下、当社の由緒書きです。

 古事記に「故(かれ)、其の伊邪那岐の大神は淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐(ま)すなり」。日本書紀に「伊弉諾尊 (中略) 是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲に構(つく)り、寂然(しづかに)長く隠れましき」とあり、淡路の島は二柱の大神が一番初めに御開拓になった地であり、此の多賀は伊弉諾大神が国土経営の神業を了えられた後、お鎮まり遊ばされた御終焉の地で、大神の御陵がそのまま神社として祀られるようになった、我が国最古の神社である。

 上記「幽宮」についての記述が、書紀は“淡路”ですが、古事記では“淡海”となっています。国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾尊が、御子神なる天照大神に国家統治の大業を委嘱され、余生を過ごされたのが“幽宮”です。その地は最初にお生みになられた淡路島の多賀の地であるのが自然であると思われます。となると古事記の“淡海”は“淡路”の誤りではないかとする説も古くからあるようです。
 滋賀県犬上郡多賀町に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐・伊邪那美尊をお祀りしています。『古事記』の記述より、伊弉諾尊の幽宮であることに基くようです。『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説があります。多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできないようです。
 余談ですが、当社の祭神について少し気になったことがあります。当社の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊二柱となっていますが、当社が幽宮であるということは、伊弉諾尊おひとりがここ幽宮で余生を送られたのであり、したがって祭神は伊弉諾尊一柱であるべきではないかと思うのです。そして伊弉冉尊は当社から真南にある諭鶴羽神社に祀られているのです。本来は当社と諭鶴羽神社とは二社で一対ではなかったのだろうか……などと想像をたくましくしております。


伊弉諾神宮大鳥居(3月3日撮影)

 
 バスが到着した駐車場の奥にお土産所“せきれいの里”があり、そこから異様な風体の(まるで神様のような装束を纏った)男性が出現しました。語り部と呼ぶそうで、伊弉諾神宮を語り部と共に巡る、“コンシェルジュ参拝”というコースがあるようです。この語り部氏、かつては神宮の氏子総代なども務められた由で、職業柄とはいえ面白おかしく当社の来歴などを語ってくださいます。以下、この語り部氏に案内されての“コンシェルジュ参拝”と相成りました。ただ、我々の到着がかなり遅かったようで、30分で廻らなあかんと若干オカンムリでありました。


語り部氏登場

日本遺産に登録

 
 3月の下見の折にはなかったのですが、今回大鳥居に「祝日本遺産登録」の垂れ幕がかかり、境内には幟がはためいていました。以下、日本遺産に関する文化庁のサイトからの転載です。
 日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを、文化庁が認定するものです。

 世界遺産登録や文化財指定は,いずれも登録・指定される文化財(文化遺産)の価値付けを行い,保護を担保することを目的とするものです。一方で日本遺産は,既存の文化財の価値付けや保全のための新たな規制を図ることを目的としたものではなく,地域に点在する遺産を「面」として活用し,発信することで,地域活性化を図ることを目的としている点に違いがあります。
 ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。

 平成27年4月に18件の日本遺産が登録され、本年4月25日に新たに19件が追加認定されました。その31件目の日本遺産に“『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人(あま)の営み~”として淡路島にある31の地点が登録されました。その中には、ここ伊弉諾神宮だけではなく、以下にあげるような本日の訪問地やその関連の地が含まれています。
  21 伊弉諾神宮
  22 大和大国魂神社(二ノ宮)
  25 明石海峡と松帆の浦
  27 鳴門海峡とうずしお
  29 絵島
  30 自凝島神社と国生み神話伝承地
  31 沼島
 以下は日本遺産への申請書のストーリーです。

 わが国最古の歴史書『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」。この壮大な天地創造の神話の中で最初に誕生する“特別な島”が淡路島である。その背景には、新たな時代の幕開けを告げる金属器文化をもたらし、後に塩づくりや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた“海人(あま)”と呼ばれる海の民の存在があった。畿内の前面に浮かぶ瀬戸内最大の島は、古代国家形成期の中枢を支えた“海人”の歴史を今に伝える島である。

 大鳥居を入った右手に“さざれ石”があり、国歌「君が代」の碑があります。語り部氏より「君が代は元々ヘブライ語で書かれたもので、その歌詞に日本語をオーバーラップしたものだ、との説がある」との解説がありました。
 大和民族=ユダヤ人説はよく耳にするものであり、以前訪れた赤穂の大避神社に、そのような伝承があったようです。梅原猛先生の新作能『河勝』にも秦河勝はユダヤ人であるとの伝承が語られておりました。


“さざれ石”にて

中の鳥居に続く参道

 
 そこで“君が代=ヘブライ語”説を調べてみますと、いろいろ出てきました。その代表的なものを下表にまとめてみました。

日本語 ヘブライ語 日本語訳
君が代は クム・ガ・ヨワ 立ち上がり神を讃えよ
千代に チヨニ シオンの民
八千代に ヤ・チヨニ 神の選民
さざれ石の ササレー・イシィノ 喜べ残された民よ 救われよ
巖となりて イワオト・ナリタ 神の印(預言)は成就した
苔のむすまで コ(ル)カノ・ムーシュマッテ 全地に語れ


 すなわち「立ち上がり神を讃えよ、神に選ばれしイスラエルの民よ、喜べ残された人々、救われよ、神の預言は成就した、これを全地に知らしめよ」といったことになるようです。

 中之鳥居を過ぎ、放生池の手前左手に「ひのわかみやと陽の道しるべ」と記された碑と日時計のようなものがありました。
 “ひのわかみや(日之少宮)”は、書紀によれば伊弉諾尊が住まわれていた宮殿のことで、当社の別称です。この碑文には当社の所在地の特殊性が記されています。

 當神宮の創祀は神代に溯り、伊弉諾尊の宮居跡に営まれた神陵を起源とする最古の神社である。また日本書紀に「仍留宅於日之少宮」の記述があり、これは伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ、御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として、御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる。因に全国神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)はこの神域の同緯度上に鎮座し、更にその両宮を結んだ中間點に最古の都「飛鳥宮藤原京」が榮都されてゐるのである。
 専門家の協力を得て當地から太陽軌道の極致にあたる方位を計測すると、夏至・冬至・春秋仲日の日出と日歿の地に、神縁の深い神々が鎮座してゐることを、次の通りに確認することができた。緯度線より北への角度29度30分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)、日没は出雲大社日御碕神社への線上となる。春分秋分は伊勢の神宮から昇り、海神神社(対馬國)に沈む。南への角度28度30分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大瀧)、日没は天孫降臨傳承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。 (後略)


ひのわかみやと陽の道しるべ

 
 上記の碑文を整理すると以下のようになります。
  ◎同緯度上……伊勢皇大神宮(内宮)・飛鳥宮藤原京・対馬国一ノ宮海神神社
  ◎真北……但馬国一ノ宮出石神社
   真南……諭鶴羽神社・沼島
  ◎夏至の日出方向(29°30′)……信濃国一ノ宮諏訪大社
      日没方向(29°30′)……出雲大社
  ◎冬至の日出方向(28°30′)……熊野那智大社
      日没方向(28°30′)……高千穂神社・天岩戸神社
 上記のような極めて特殊な位置に伊弉諾神宮が建っているというわけです。このように古代の遺蹟などを直線で結ぶことを“レイライン”というそうです。これらの要素や、それらを結ぶ線の交点をさらに結ぶと、安倍晴明で有名な五芒星やダビデの星と呼ばれる六芒星が出現します。日本にはこのような事例はたくさんあるようですが、古代の日本人がどうして遠方にある位置を正確に特定できたのか? 単なる偶然にすぎないか、あるいは現在には伝わっていない特殊な方法でもあったのでしょうか。


陽の道しるべ

放生池

 
 正門の手前に放生池があります。古くは放生神事(鳥や魚を放して生命の永続を祈る行事)が行われていました。今でも病気平癒のための命乞に「鯉」を放ち、快癒の感謝に「亀」を放つ信仰習慣があります。この池は、元は本殿後背の森を隔てる「ため池」と連結して、神陵の周囲に巡らされた濠の名残とされています。謡曲にも(かなり遠い曲ですが)『放生川』があります。もっともこの曲は石清水八幡宮の放生会(ほうじょうえ)を主題としたものです。池に架かる太鼓橋は「神橋」というそうです。 

 手水舎で手水を使い身を浄めます。正門の左手に社殿造営のための募金の看板が掲げられており、
  淡路幽宮(あはぢかくりのみや)
  日之少宮(ひのわかみや)
  伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
と大書されています。ここで語り部氏より「幽宮」の説明を受けました。


幽宮

正門

 
日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、神功をはたされた伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲され、最初に生まれた淡路島に帰還され多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごされたと伝えています。この地で終焉の時を迎えられた伊弉諾大神は、その住居の跡に神陵を築いて(現本殿の位置)お祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源だとされています。
 
 余談ですが、当社の祭神について少し気になったことがあります。当社の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊二柱となっていますが、当社が幽宮であるということは、伊弉諾尊おひとりがここ幽宮で余生を送られたのであり、したがって祭神は伊弉諾尊一柱であるべきではないかと思うのです。そして伊弉冉尊は当社から真南にある諭鶴羽神社に祀られているのです。本来は当社と諭鶴羽神社とは二社で一対ではなかったのだろうか……などと想像をたくましくしております。
 社殿の右手に「夫婦大楠(めをとのおおくす)」があります。樹齢九百年を数える古木で、元は二株のものが、結合して一株に成長したという珍樹で、伊弉諾・伊弉冉大神の神霊の宿る御神木として信仰されています。江戸時代の地誌にも「連理の楠」として、その霊験が記され、今でも安産、子宝子授けや夫婦円満の祈願成就の信仰が生きています。


夫婦大楠

大楠の根本


岩楠神社

 
 大楠の根元にある岩楠神社には蛭子(ひるこ)が祀られています。
 蛭子は伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた最初の神。しかし、子作りの際に女神である伊弉冉から先に男神の伊弉諾に声をかけたことが原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されています。
 蛭子の生誕について、『古事記』では以下のように描いています。


ここ伊邪那岐命いざなぎのみことりたまひしく「然らばあれいましと是の天の御柱を行き廻り逢ひて、む。」とのりたまひき。如此かくちぎりて、すなは「汝は右より廻りへ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひ、ちぎへて廻る時、伊邪那美命いざなみのみこと、先に「。」と言ひ、後に伊邪那岐命「。」と言ひ、おのおの言ひ竟へし後、其のいも告曰げたまひしく「女人をんな先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れどもおこして生める子は、。此の子は葦船に入れて流してき。
                  (『古事記・祝詞 』岩波・日本古典文學大系、1958)


 流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っています。『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記しており、日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多くあります。ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説のようですが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むことも多くあります。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られています。
 一同、語り部氏にしたがって、女性は右側から、男性は左側から、この大楠の周りを廻り、子孫繁栄・夫婦円満・延命長寿を祈った次第です。


拝殿

御朱印

 順路が最後になってしまいましたが、拝殿にお参りです。ここでも語り部氏の教えに従い、二礼二拍手一礼のお参りをいたしました。
 本殿の形式は、三間社流造(さんげんしやながれづくり)向拝付(こうはいつき)。“流れ造”は前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるための柱の数が4本のものを三間社というとのことです。屋根の前のほうが長く伸びて向拝をおおい,庇と母屋が同じ流れで葺いてあるのでこの名があるそうです。

 あわただしい参拝を終えて、せきれいの里に帰着しました。昼食タイムが少し伸びたため、午後のスケジュールが若干押し気味となっていますが、美味しいハモをたらふく食べたのですから、文句はつけられません。


 時間は押していますが、淡路島土産も買わずばなりますまい。津名一宮ICの入口近くにある「産直淡路島・赤い屋根」に短時間ながら立ち寄りました。


赤い屋根

ずらりタマネギ

 
 神社の境内を大分歩かされたせいか結構喉が乾いているようで、ソフトクリームが美味しい。土産物もそこそこに、皆さんソフトクリームにむしゃぶりついていたようでした。
 20分ほどの買い物タイムを終えて再びバスに乗り込み、本日最後の目的地である岩屋漁港の“絵島”に到着したのは5時頃でした。



《絵島》


 秋もやうやうなかばになり行けば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡を忍びつゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路あはぢの瀬戸をおし渡り、繪島が磯の月を見る。或は白良しらら吹上ふきあげ・和歌の浦・住吉・難波・高砂・尾上おのへの月のあけぼのを、ながめて歸る人もあり。舊都に殘る人人は、伏見・廣澤ひろさはの月を見る。
                  (佐藤謙三校注『平家物語 』角川文庫、1959)


 絵島は、その美しさから古くから多くの人々を魅了し、現在でも淡路島の誇る景勝地として知られています。


絵島


 バスは岩屋ポートビルの前に止まりました。ここからは目の前に絵島を望むことができます。けれども時間があまりなく20分程度の見学となりました。
 また、ここから明石港への高速艇が発着しており、15分程度で明石港に到着します。神戸や明石在住の4人が船で出発されました。


裸婦像

西行歌碑


  岩屋ポートビルの前は公園のようになっており、そこに岩に腰かけた少女のブロンズ像が大空に腕を突き上げています。思わずパチリ。
 絵島へ渡る橋のたもとに、西行の歌碑がありました。
 
  千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな  西行(山家集)
 
  千鳥の鳴いている絵島の浦の棲んだ月を、波に映して見ている。今夜の絵島は何と美しいことであろうか。
 西 行 元永元年(1118)~建久元年(1190)
鳥羽上皇の武士で23歳で出家。
山部赤人以来の自然歌人として、宗祇・芭蕉からも範とされた。
『平家物語』の「月見」の巻に「福原の新都に移った人々が、海峡を渡り絵島の月を愛でながら歌会を催した」と記述があり、古来より多くの歌人を魅了してきた美しい砂岩の小島である。


絵島内の岩山

露出した砂岩層


 淡路島には「おのころ島」伝説がつたわる場所はいくつかありますが、ここ絵島もそういったおのころ島伝承地の一つです。
 地質学的に珍しい約3千5百万年前の岩屋累層砂岩層が露出した小島で、岩肌の侵食模様が特徴的です。
 島の中央には小さな岩山がそびえており、頂上には鳥居が建っています。この地は、平清盛がその小姓の松王丸を祀った場所で、以下のような物語が伝えられています。
 
 平清盛が大輪田(おおわだのとまり)。の築造を円滑に行うため、30人の人柱を立てようとした。それを聞いた清盛の小姓・松王丸は自分が代わりに人柱になろうとした。始め反対した清盛も松王丸の熱意に負け、これを許し松王丸は海に沈められた。清盛はかつて絵島の美しさについて松王丸とよく語り合ったことを思い出し、港の見える絵島の上に松王丸を祀ったといわれている。

   謡曲に謡われた「絵島」を拾ってみました。


《玄象》
ツレ南を遥かに眺むれば。雲に續ける紀の路の小島  シテ由良(ゆら)の門(と)渡る早舟も。汐追風の吹上や  ツレ遠浦ながら住吉の。松こそ見ゆれ海越しに  シテ富島(としま)の磯や昆陽(こや)難波  ツレ名には繪島と云ひながら  シテいかでか筆にも及ぶべき  シテ・ツレあら面白の浦の景色や

《知章》
上歌 地おぼろなる。雁の姿や月の影。雁の姿や月の影。うつす繪島の島隠れ。行く船を。惜(を)しとぞ思ふ我が父に。別れし船影の跡白波も懷かしや。

《弱法師》
シテ(なが)めしは月影の  地詠めしは月影の。いまは入日や落ちかゝるらん。日想観(じつさうくわん)なれば曇りも波の。淡路繪。須磨明石。紀の海までも。見えたり見えたり。滿目(ばんぼく)青山は。心にあり  シテおう。見るぞとよ見るぞとよ

《草子洗小町》
上歌 地げに島隱れ入る月の。げに島隠れ入る月の。淡路の繪島國なれや。始めて歌の遊びこそ心和らぐ道となれ。



 岩屋郵便局の風景印に絵島が描かれています。
 5時20分、絵島を出発、高速道路に入り明石大橋に差しかかりました。これにて淡路島ともお別れです。6時20分、無事加古川駅に帰着しました。心配した空模様も傘を使うこともなく、何とか持ちこたえてくれました。これも日頃の精進の賜物でしょうか。国生み伝説の地を廻り、美味しいハモをたらふく食べることができました。それにも増して神社での謡曲奉納は初回の佐渡島以来のことで、貴重な体験ができました。さらに、奉納謡会の会場としておのころ島神社を選んだのが大正解であったと申せましょう。宮司さんのあたたかい人柄に触れることが出来たのも、今回のツアーの収穫でした。


明石海峡大橋と絵島
を描く岩屋局風景印

 幹事長のMさんより、来年は竹生島や白鬚神社など琵琶湖廻りの一泊ツアーを企画したい旨の発表があり、また来年が楽しみです。最後に地元での調整役を務めてくださったNさんに感謝しつつ、この小文を閉じることといたします。




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  (2016.8.14 記録)



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