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 気まぐれ紀行の先頭
淡路七福神
めぐりの旅


淡路島七福神めぐりの旅  2018.1.7
≪バスで行く国生みの島初詣の旅≫

 南海泉佐野駅出発  7:20
 淡路SA      9:15 ~ 9:35
 七福神めぐり
   護国寺     10:25 ~ 10:55 (布袋
 昼食        11:20 ~ 12:05 (南淡路・みさき荘)
   万福寺     12:25 ~ 12:50 (恵比酒
   覚住寺     13:15 ~ 13:40 (毘沙門天
   長林寺     14:25 ~ 14:50 (福禄寿
   智禅寺     15:10 ~ 15:35 (弁財天
   宝生寺     16:10 ~ 16:35 (寿老人
   八淨寺     17:00 ~ 17:25 (寿老人
 淡路SA      17:55 ~ 18:25
 南海泉佐野駅帰着  20:20



 読売旅行による一日バス旅行です。今回の企画は淡路島の七福神を祀る七ヶ寺を廻る初詣の旅となっています。
 午前7時過ぎに南海泉佐野駅を出発、ここから南海岸和田駅で参加者を拾い、岸和田から高速湾岸線に上がり、明石海峡大橋を渡り淡路SAに9時過ぎに到着、暫時休憩をとり、七福神めぐりの最初の寺である護国寺に向かいました。

淡路島七福神めぐり案内図


 バスの中で、かみさんから「七福神は神様なのか仏様なのか、またその謂れは?」と尋ねられ、どうも自分でもよく分かっておりません。やや遅きに失したかもしれませんが、ちょっと調べてみました。

淡路島七福神めぐり~七福神の図


 困ったときの Wikipedia 頼み。以下は Wikipedia からの転載です。

 インドのヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることは最澄が比叡山で始めたことで、それが徐々に民間に広まったという。これが民間において日本の土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになった歴史的な経緯はよくわかっていない。平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こった(初期の恵比寿は毘沙門天を本地とすると考えられていた)。この三神セットのパターンはかなり後まで一般的であったが、平安末期〜鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えていった。
 室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである。この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代。中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人)。この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神とした。ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかった。
 江戸時代にはほぼ現在の顔ぶれに定まったものの、その後もバリエーションが生み出されることがあった。寿老人と福禄寿はともに南極老人星の化身とされることから、この二者は本来同一のものとみなし、寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩が入れられることがあった。他に宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたことがあった(不動明王と愛染明王、またはお多福とひょっとこはセットで入る場合があった)。

 また七福神といえば、宝船に乗っている絵をよく見かけます。七福神と宝船の関係について、以下「日本の行事を知ろう」(http://www.kyosei-tairyu.jp/)のサイトより。


 江戸時代に、一月二日の夜に見る夢を初夢とする習俗が広がった。そして「初夢を見る日には枕の下に七福神の宝船の絵を敷くと良い」という俗説が生まれた。
 江戸の町では、木版印刷の宝船を売り歩く者の姿が目立った。このことによって私たちは七福神といえば、七柱の神様が「寶」と書いた帆を上げた宝船に乗った図を思い浮かべるようになった。徳川家康が狩野派の画家に描かせたことをきっかけに、宝船に乗った七福神の図が広まったともいわれる。しかし京都の禅寺では、室町時代後半から宝船に乗った七福神の絵が描かれていた。七福神信仰が広まってまもなく「七福神が船に乗って訪れてくる」といわれるようになったのである。

 宝船の図に「なかきよの、とをのねふりの、みなめざめ、なみのりふねの、をとのよきかな(長き夜の遠の眠りの皆目覚め浪乗り船の音の良きかな)」という回文が書かれていることが多い。これは聖徳太子の和歌と伝えられる。この和歌は七福神の船が波の上をやって来て幸福を授けるありさまを詠んだものである。



 それでは七福神めぐりを開始いたします。寺院の縁起や福神の説明は「淡路島観光協会」および「日本の行事を知ろう」のサイトや Wikipedia 等を参照しています。



賀集山  護国寺   布袋尊   南あわじ市賀集八幡


 行教上人が開創された由緒ある古刹で、本尊の大日如来坐像は、慈悲にみちたお姿で胎蔵界を表し、千年の歴史が偲ばれます。行教上人は、大和大安寺の僧で三輪宗及び真言宗を学び、後に伝灯大法師に任じ貞観元年(869)、豊前宇佐八幡宮に参詣し2年余りをここに過ごしました。行教上人有縁の史跡と伝えられています。


山門


本堂

ご朱印


本堂前の瓦の布袋像

本地堂前「にこにこのほていさん」


  布袋尊
 「この世の中は五濁悪世」と嘆いてばかりおれはせぬ。清濁も合せ呑みこむハラをもち、背負った袋は宝物、だけど自分のものではありませぬ。困った人への贈りもの。年に一度のサンタクロースどころではありませぬ。左右の大きな耳たぶへ、貯めて大きくなりました。
 布袋尊は仲よく暮らせる人間の理想の姿をあらわされたものです。
 (御真言)おんまいたれいやそわか


 布袋は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。布袋が死の間際に残した偈文が、
  彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
  時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)
と言われる。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。ちなみに布袋の真言は、弥勒菩薩の真言と同じである。




加集山  万福寺   恵比酒神   南あわじ市賀集かじや


 宝亀年間(770~781)、淳仁天皇の御陵と御母当麻夫人の墓守を勤める僧侶の宿坊として創草されたが、時代の変遷とともに、いつしか廃退していった。応永年間(1394~1427)になり、当地に館を構えた加集氏により堂宇を再興し、御陵の安穏と民衆の安泰を祈念する寺院として今日に継承されてきた。本尊の大日如来像二体を合祀とする須弥壇は、非常に貴重な様式である。

 淳仁天皇は第47代天皇(在位758~764)。孝謙上皇の寵を受ける道鏡を廃そうとする藤原仲麻呂の乱の責を問われ淡路に流される。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝または淡路廃帝と呼ばれる。


ぼけ除け観音


本堂

ご朱印


本堂内陣の恵比寿像


境内の恵比寿像


手水場で釣り糸を垂れる恵比寿像

屋根上で釣りあげる恵比寿像


  恵比酒神
 七福神中、唯―純国産の神で、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた蛭子(ひるこ)といわれる。烏帽子に狩衣、釣り竿と魚籠を持ち、立派な鯛を抱えた姿で描かれる。古くは漁民の守護神だったが、後に商いの神に。大黒天と対で福の神として、庶民の信仰を集めた。ご利益は、主に大漁豊作、商売繁盛。
 (御真言)なむえびすだいじん


 えびすは記紀に出てこない神であるため、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきた。蛭子、事代主神、少名比古那神、火々出見命(山幸彦)等の諸説があるが、えびすを祀る全国の神社では蛭子説と事代主神説が圧倒的に多い。
 記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったために流し捨てられたとされる。その神話を受け、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、蛭子命が海からやってくる姿が海の神であるえびすの姿と一致したため、2神は同一視されるようになった。蛭子命の漂着の伝承は各地にあるが、その代表が兵庫県西宮市の西宮神社とされている。西宮神社はえびすという名の神を祀った神社としては現存する記録上で最古であるため、全国のえびす神社の総本宮とされる。また、えびすを事代主神だとする神社の代表格は今宮戎神社である。




南隆山  覚住寺   毘沙門天   南あわじ市神代社家


 推古天皇の頃(592)聖徳太子の勅詔により創建されたと伝えられています。往時七堂伽藍を備えた広大な寺領に塔頭も多くを数え、その威容を誇っていました。当寺は、淡路島でも最古の寺院のひとつと伝えられております。


山門


本堂

ご朱印


隣に鎮座する上田八幡宮

厳島神社


  毘沙門天
 四天王の一神で、財宝の象徴である北方の守護神。ルーツはヒンドゥー教の神で、仏教とともに伝来した。甲冑を着けて矛と宝塔を持ち、邪鬼を踏む姿で描かれる。古くは武運の神として上杉謙信ら戦国武将の信仰を集めた。厄除け。恵方の神であり、財運を授け、大願成就を助けるとされる。
 (御真言)おんべいしらまんだやそわか


 毘沙門天は仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。毘沙門という表記は、梵名のヴァイシュラヴァナを中国で音写したものであるが「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳された。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。また戦国武将の上杉謙信は、自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、旗印に刀八毘沙門の「毘」一文字を使用していたのは有名である。
 京都市左京区の鞍馬寺、奈良県平群町の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)、高槻市の本山寺を日本三大毘沙門天と呼ぶが、本山寺に代わり足利市大岩町の最勝寺をいれることもあるようである。




平栖山  長林寺   福禄寿   洲本市五色町都志万歳


 天平9年(737)、僧行基がこの地に七堂伽藍を創建し、本尊十一面観音菩薩像を安置したのが創まりで、塔頭十二坊を構え仏教弘通の霊場として威容を誇っていました。延喜元年(901)、菅原道真が九州に赴くとき当地にとどまり、長林寺の御堂に参詣されました。


本堂前の福禄寿像


本堂内陣

ご朱印


福禄寿堂

門柱


  福禄寿
 寿老人同様、道教の神で南極星の化身とされる。身長の約半分を占める長い頭と長い白髭が特徴。杖をつき、長寿の象徴である鶴や亀を従えた姿でも描かれる道教の三徳、福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長寿)を備え、人の寿命を知るとされる。ご利益は子孫繁栄、富貴繁栄、健康長寿。
 (御真言)おんまかしりそわか


 福禄寿は宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体異名の神とされることもある。容姿としては、背が低く長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている姿とされる。
 福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神である。中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がある。福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。禄星は「禄」が「緑」と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。寿星は南極老人星(カノープス・りゅうこつ座のα星)とされ、容貌は時期によって諸説あるが、近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人である。




大広山  智禅寺   弁財天   洲本市草香


 本尊は大日如来像を安置し、仏法有縁の修行道場として開かれた霊跡は、脇侍に祭祀する地蔵菩薩像とその御厨子には、太古の歴史が偲ばれます。所蔵されている寺宝の大般若経には、観応2年(1351)の銘があり、又、本堂背後の丘陵に、風雪に耐えた法篋印塔がわびしく佇み、寺院の歴史が秘められています。


境内


本堂

ご朱印


水かけ弁天

鐘楼門


  弁財天
 七福神中、唯―の女神。サラバスティ樫な例と呼ばれるインド古代神話の水神で、ヒンドゥー教では梵天の妃。琵琶を奏でる絶世の美女の姿で描かれることが多い。水の流れる妙音から音楽、弁舌を司るとされ雄弁と智恵を授け、芸能、学問の分野での成功。名誉を与えるとされる。金運、財運をもたらすともされる。
 (御真言)おんそらそばていえいそわか


 弁才天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される事が多い。
 日本三大弁天として、下記のうち上位三社を上げることが多いものの、いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては諸説がある。あるいは全て含めて「五大弁天」とすることもある。
  竹生島・宝厳寺竹生島神社
  宮島・大願寺
  江ノ島・江島神社
  奈良県天川村・天河大弁財天社
  宮城県石巻市・金華山黄金山神社
 弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改め、弁才天は摂社で祀られる。また、竹生島の宝厳寺では、弁才天を祀っていた本殿が市杵嶋姫命を祀る神社として分離され、宮島の厳島神社では、弁才天像が大願寺へと移されている。




十輪山  宝生寺   寿老人   淡路市塩田里


 天平13年(740)、聖武天皇の勅命をうけ、僧行基が淡路島に建立を祈念し、自ら刻まれた地蔵菩薩を安置したのが創まりで、「日限地蔵尊」と崇められ、霊験あらたかな尊像として多くの人々に親しまれて来ました。


山門


本堂

ご朱印


本堂内陣

修行大師像

隣接して鎮守の春日神社

神鹿の像


  寿老人
 中国の道教の神で南極星の化身。白髪に頭巾、自く長い髭をたくわえ、経典をつけた杖と桃を持つ姿で描かれる。鹿を伴って描かれることも多い。桃も鹿も長寿の象徴とされ、健康、長寿を授ける仙人だ。ご利益は長寿延命、諸病平癒、富貴繁栄、子孫繁栄など。「元気で長生き」という現代に求められるテーマにぴったりの神。
 (御真言)おんばざらゆせいそわか


 寿老人は道教の神仙。中国の伝説上の人物で南極老人星(カノープス)の化身とされる。
 酒を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。
 寿老人の真言は、普賢菩薩の延命呪と同じである。


 当寺の説明では、春日神社の鹿の像は寿老人に従っている鹿である、とのことであった。しかし隣接する社が春日神社であるからには、この鹿の像は春日社ゆかりの鹿でありましょう。すなわち、春日大社の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、常陸国の鹿島神宮(鹿島神宮の神の使者といえば鹿です)から鹿に乗り、中臣時風・秀行の二人を従えて春日山に移ってきました。したがって、春日神社の鹿の像は寿老人とは無関係であると思われます。




蓮台山  八淨寺   大黒天   淡路市佐野

 応永年間(1394~1427)、心了法師による阿弥陀如来造立に創まり、延宝年間(1673~81)に盛奝上人が円融山浄満寺を中興されて後、八幡神社別当寺の平松山八幡寺と合併して、八浄寺と改称されました。秘佛開運大黒天は、不動明王の霊示により示現なし、霊威広大にして、多大の奇瑞をあらわし、身・心の裕福を授けるみ寺として賑っています。
 殊に七福神霊場の総本山として我国唯一の瑜祇七福之塔が聳え、宇宙の霊妙なるパワーが体感できます。


瑜祇七福寶塔

山門


本堂内陣



本堂

ご朱印


  大黒天
 もともとは、マハーカーラと呼ばれるヒンドゥー教の神で、創造と破壊を司るシヴァ神の化身。仏法守護の神として伝来したが、後に日本神話の大国主命と結びつき、福の神として信仰された。打ち出の小槌と大きな袋を持ち、米俵と白鼠を従えた姿で描かれる。ご利益は五穀豊穣、家産増進、子孫繁栄。
 (御真言)おんまかぎゃらやそわか


 ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。日本で大黒天といえば一般的には神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。
 日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に真言宗や天台宗で信仰された。インドでも厨房・食堂の神ともされていたが、日本においては最澄が毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。後に大国主神と習合した。




 八淨寺にて本日の参拝は終了いたしました。この7ヶ寺を廻って感じたことですが、すべての寺で説明の際、2拍手して般若心経が太鼓に合わせて唱えられていました。そして宗派は高野山真言宗でありました。なんとなく真言密教の世界に導びき入れられている感があります。淡路島には高野山真言宗のお寺が多くあるのか、あるいは7ヶ寺を選抜するにあたって、そのような寺を選んだのでしょうか。また御本尊が大日如来のお寺が多かったと思います。
 今回は1月初旬の巡拝であったためか、お寺の周辺は参拝のバスや乗用車であふれかえっている状態でした。さぞかし近隣の居住者の方は迷惑に感じているのではないでしょうか。新年以外は参拝者も減少するのかもしれませんが、それでもかなりの交通量になるのではないかと想像します。七福神めぐりが地元全体を潤せばよいのですが、7ヶ寺のみの一人勝ちになっているのではないかと、他人ごとながらちょっと気にかかった次第です。

 さすがに7ヶ寺を巡拝しますと午後5時を回り、あたりには夜の気配が押し寄せてまいります。
 帰路、淡路島最後の休憩地である淡路SAに立ち寄ったのが午後6時、すっかり暗くなって、ライトアップされた明石海峡大橋が夜空に鮮やかに浮かんでいました。
 今日は鳴門海峡を見下ろす淡路島最南端の地で昼食を摂りましたので、淡路島と本土・四国を結ぶ二つの橋を眺めることができました。その写真を以下に掲載して、七福神めぐりの旅を終えることといたします。


鳴門の渦潮を見下ろす大鳴門橋


夜空に映える明石海峡大橋



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  (2018.1.11 記録)



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