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神戸駒ケ林・腕塚堂 〈忠度〉


 2014年2月20日、『忠度』の謡蹟を訪ねました。謡蹟探訪記に先立って、少し長くなりますが、薩摩守忠度の最期の様子を『平家物語』(佐藤謙三校註・角川文庫)により眺めておきましょう。

 薩摩守さつまのかみ忠度ただのりは、西の手の大將軍にておはしけるが、その日の装束には、紺地こんぢ錦の直垂ひたたれに、くろいとをどしの鎧着て、黒き馬の太うたくましきに、かけの鞍置いて乘り給ひたりけるが、その勢百騎ばかりが中にうちかこまれて、いと騷がず、控へ控へ落ち給ふ所に、こゝに、武蔵の國の住人岡部六彌太忠純たゞずみ、よきかたきと目をかけ、鞭鐙を合せておつかけ奉り、「あれはいかに、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。まさなうも敵にうしろを見せ給ふものかな。返さて給へ」とことばをかけければ、「これはかたぞ」とて、ふり仰ぎ給ふうちかぶとを見入れたれば、漿ぐろなり。「あつぱれ、御方に鐡漿附けたる者はなきものを。いかさまにも、これは平家のきんだちにいこそおはすらめ」とて、おし並べてむずと組む。
 これを見て、百騎ばかりのつはものども、皆國々のかり武者なりければ、一騎も落ち合はず、われ先にとぞ落ち行きける。薩摩守は聞ゆる熊野くまのそだちだいぢからくつきやうの早業にておはしければ、六彌太をつかうで、「につくい奴が、御方ぞと云はば、云はせよかし」とて、六彌太を取つて引き寄せ、馬の上にて二刀ふたかたな、落ちつく所でひと刀、刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲うちかぶとへ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押さへて首を掻かんとし給ふ處に、六彌太がわらは、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、うちかたなを抜いて、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつとうち落す。薩摩守、今はかうとや思はれけん、「しばし退け、最期の十念唱へん」とて、六彌太をつかうで、ゆんだけばかりぞ投げ退けらる。 その後西に向ひ、「くわうみやうへんぜう十方世界、念仏しゆじやうせつしゆしや」と宣ひもはてねば、六彌太うしろより寄り、薩摩守の首を取る。「よい首討ち奉りたり」とは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、えびらに結ひつけられたるふみを取つて見ければ、りよ宿しゆくの花といふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる、
  「行きくれてしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし
忠度」と書かれたりける故にこそ、薩摩守とは りてげれ。やがて、首をば太刀の先に貫き、高くさと上げ、大音聲を上げて、「このごろ日本國に鬼神と聞こえさせ給ひたる薩摩守殿をば、武蔵國の住人、岡部六彌太が討ち奉つたるぞや」と、名のりたりければ、かたきかたもこれを聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にもすぐれて、よく大将軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖をぞぬらしける。


 『平家物語』の記述は、底本の違いにより若干の差はありますが、おおむね同じような内容になっています。続いて、謡曲『忠度』に描かれている忠度の最期です。


「さる程に一の谷の合戦。いまはかうよと見えし程に。皆々船に取り乘つて海上かいしやうに浮かむ  シテ「我も船に乘らんとて。みぎはかたにうち出でしに。うしろを見れば。武蔵の國の住人に。岡部の六彌太ただずみと名のつて。六七騎にて追つ駈けたり。これこそ望む所よと思ひ。駒の手綱を引つ返せば。六彌太やがてむずと組み。兩馬があいにどうと落ち。かの六彌太を取つておさへ。既に刀に手をけしに
「六彌太がらうとうおんうしろより立ち廻り。上にまします忠度の。右のかいなを打ち落せば。左の御手にて六彌太を取つて投げけ今はかなはじと思し召して。退き給へ人々よ。西拜まんとのたまひて。くわうみやうへんぜう十方世界念仏しゆじやうせつしゆしやとのたまひし。おんこゑの下よりも。いたはしやあへなくも。六彌太太刀を抜き持ち終に御首を打ち落す

シテ「六彌太。心に思ふやう  地いたはしやかの人の。おんがいを見奉らば。その年もまだしき。づき頃の薄曇り。降りみ降らずみ定めなき。時雨しぐれぞ通ふ村紅葉の。錦の直垂はたゞ世の常によもあらじ。いかさまこれはきんだちの。おんなかにこそあるらめと。御名ゆかしき處に。えびらを見れば不思議やな。たんじやくを附けられたり。見ればりよ宿しゆくの題をすゑ   「行き暮れて。の下蔭を宿とせば  〈立廻  

シテ「花や今宵のあるじならまし。忠度と書かれたり  地「さては疑ひ嵐の音に。聞えし薩摩の守にてますぞいたはしき


 前置きが長くなりますが、謡曲『忠度』について。


 謡曲「忠度」梗概

 世阿弥作。『平家物語』『源平盛衰記』に典拠する。
 藤原俊成に仕えていたが、俊成の死後出家した僧が須磨の浦まで来ると、浦風に散る若木の桜のもとで老人と出会う。老人は、ここが忠度の最後の地であることを述べ姿を消す。
 やがて旅寝する僧の夢枕に忠度の霊が現れ、自分の歌が『千載集』にとられながら「読人知らず」とされたことへの無念を語り、西海へ出陣したときの模様を示す。そして合戦に臨み、岡部六弥太と組んで討たれたさまを見せ、僧に弔いを請うのである。
 後シテは短冊を付けた矢を腰に着けて登場し、それを手にして舞い、「行き暮れて」と記された歌を詠む型がある。また組み討ちの場面では、忠度・六弥太各々の側からの仕方話を、後シテ一人が写実的な型を駆使して演じ分ける。さらにツヨ吟とヨワ吟とが入り組んでおり、作曲面でも凝った作品といえよう。


 さて、いよいよ『忠度』の謡蹟探訪を開始いたします。表題で『忠度』の謡蹟を「神戸・駒ヶ林」の「腕塚堂」としましたが、やっかいなことに、世に「忠度塚」といわれているものが、「腕塚」と「胴塚」の二つあり、おまけにそれが、神戸市長田区の駒ヶ林と、明石市天文町の二ヶ所、都合四ヶ所存在するのです。何か平忠度の遺体が、八つ裂きにされ飛散したような様相を呈しているのです。
 今回の調査において、私は長田区駒ケ林を『忠度』の謡蹟として位置づけましたが、それは以下の理由によります。

 明石市の山陽電鉄人丸駅のすぐ近くに、両馬川旧跡の石碑があり、この地で忠度と岡部六弥太忠澄が戦ったと伝えています。一方神戸市長田区の駒ヶ林においても、同様の伝承があります。以前、敦盛塚を訪ねたおり「源平合戦図」なるものを入手いたしましたが、この地図によると、忠度最後の地は駒ヶ林となっており、駒ヶ林のすぐ西方に“猟場川”が流れているのです。“両馬川”と“猟場川”、何とも奇妙な合致ではあります。
 忠度が明石で討たれたという説を支持する理由として、一の谷で敗れた忠度が、源氏の軍勢がひしめき合っている東方に逃れるはずはない。逃げるとすれば西方である、というものです。けれども平家の軍勢は生田の地を中心に布陣しており、こちらが主力であった筈です。破れた忠度は主力と合流しようとして東に走るでしょう(後述しますが、一の谷で平家が敗れた時、生田方面の平家軍はまだ健在でした)。また駒ヶ林の沖合には御座船があり、主上安徳天皇と総帥の平宗盛がおりました。逃れて海上に出ようとすれば、当然東方に向うのではないかと思われます。そして、駒ヶ林で岡部六弥太に討たれた。これが私の想像であります。
 けれども、ここでさらに困った事態が出来しました。『摂津名所図会』の「腕塚堂」の項に、以下のように述べられているのです。

 薩摩守忠度塚 駒ヶ林の中にあり。塚上に五輪の石塔を居ゑたり。
 異本『平家物語』には、忠度唯一騎明石をさして落ちられけるに、岡部六弥太忠澄追ひかけければ、取つてかへしひき組んで討たれたまひしよし見えたり。明石に墓のあるべき証と覚ゆ。土人云ふ、明石にあるは腕塚なりとぞ。

 『摂津名所図会』の記述を信じれば、忠度の最期の地として“明石説”が有力視されます。そうは云うものの、あくまでも『平家物語』の“異本”であり、その信憑性はいかがなものかと思われます。
 さらに『源平盛衰記』(池邊義象編・博文堂)によれば、「忠度通盛等最後の事」において以下のように述べています。

 薩摩守忠度は生年四十一、色白くして鬚黒く生ひ給へり。赤地の錦の直垂に、黒絲縅の甲に、冑をば著給はず、立烏帽子計にて、白鴾毛の馬に、遠雁の文を打ちたる鞍置きてぞ乘りたりける。かるも河、須磨、板宿を打ち過ぎつゝ、渚に付いてぞ落ち給ふ。

 “かるも河”は“刈藻川”、すなわち現在の新湊川であり、板宿よりさらに東になります。そうすると位置関係ががおかしくなるのですが、少々のことには目をつぶって(?)、忠度は一の谷から須磨、板宿、刈藻川方面へと、落ちて行ったと想像されます。そしてその途中、駒ヶ林のあたりで岡部六彌太に討たれた…、と考えたいのです。
 したがって私は“駒ヶ林”を忠度最期の地とし、強引にもここを『忠度』の謡蹟といたしました。
 ただし謡曲のストーリー上の舞台として考えた場合、ワキ僧がシテと出会う場面は須磨の浦の“若木の桜”のある場所です。ということは“若木の桜”のある“須磨寺”ということになりそうですね。

源平合戦図


 先ずは世に「一の谷の戦い」と呼ばれている源平合戦について、Wikipedia を参照いたしました。

 寿永3年(1184)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口─主将は忠度─、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。
 迂回進撃を続ける搦手軍の義経ら70騎は、難路を越えて平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。
 2月7日払暁、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は、崖を駆け下り平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。
 範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われているが『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって多少異なっている。この戦いで一門の多くを失った平氏は致命的な大打撃をうける。


 今回の謡蹟巡りは、山陽電鉄人丸前駅からスタートして、明石の謡蹟をめぐり、山陽電鉄からJRに乗換え、鷹取駅から駒ヶ林の謡蹟を訪ねました。このルートにしたがって、謡蹟めぐりを始めたいと思います。




《明石の謡蹟》 両馬川、腕塚神社、忠度塚


明 石 の 謡 蹟



両馬川旧跡の碑

 山陽電鉄人丸前駅の北側に、かつて両馬川(りょうまがわ)の細い流れが残っていたようですが、現在では埋められて暗渠となってしまったようです。私はうかつにもこの旧跡を見逃してしまい、悔やんでおりましたところ、友人のNさんが撮影した写真を送ってくださいました。
 以下は、同所の明石市教育委員会の説明書きです。

 ●寿永3年(1184)2月、一の谷の戦に敗れた平家軍の通過地である。
 ●平忠度が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川をはさんで戦ったので「両馬川」という名前がついたと伝えられている。

 写真の左側の碑は「御即位記念」と刻されているのですが…。


 山電人丸前駅から西へ、細い路地を入ると「腕塚神社」が祀られています。以下は同社に置かれてある縁起書きです。

 寿永3年(1184)2月7日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守忠度は、海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十余騎で追った。忠度に付き従っていた源次ら4人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川まできた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を斬り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた文を拡げると
  行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし  忠度
とあり初めて忠度と分った。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。忠度が馬を並べて戦った川をその後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠になってしまい、昔を偲ぶよすがもない。
 腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、いま神社にある木製の右手で幹部を撫でれば、よくなるといわれている。これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の線路脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。昭和59年3月、山電の高架化工事のため東約30メートルの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名もこれに因んで右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。時代の流れとはいえ歴史や伝説が消えていくのは惜しい。
 地元の天文町右手塚自治会が、年間を通じて献花・清掃などに奉仕しているが、毎年3月の第一日曜日に氏神の神官と共に祭礼を行い、謡曲『忠度』を連吟で奉納して忠度を偲ぶ習わしである。謡曲の奉納は神社が現在地に移ってからであるが、みたまを祀るご奉仕がいつの頃から始まったものか地元の古老も知らないから、その起源は随分昔に違いない。地元民としては子子孫孫に至るまで神社奉仕が伝承されることを切に願うものである。


腕塚神社全景


腕塚神社(正面)

「金将の駒」の碑


 神社とは名ばかりの小さな祠でした。それでも地元の方の手で鄭重に祀られている様子です。忠度の霊も満足しているのではないでしょうか。狭い境内の右手に「金将の駒」と刻された碑が立てられていましたが、詳細は不明です。
 由緒書きにもありますが、かつて右手塚町と称していた町名が消えてしまったのは、何とも残念に思えてなりません。


 腕塚神社から南下して国道2号線を渡ると、神戸地方裁判所の北側に「忠度塚」が祀られています。明石市教育委員会による説明によれば、岡部六弥太忠澄に討たれた忠度の亡骸(なきがら)を埋めたところと伝えられる、とのことです。
 この塚は平成7年1月17日の阪神淡路大震災により倒壊しましたが、同年4月10日に町内会の手により修復されたとのことでした。この修復の碑には「天文町 忠度 町内会」と記されています。先ほどの腕塚の所在が、かつて「右手塚町」と称していたように、この地もかつては「忠度町」と称していたのではないでしょうか。右手塚町とか忠度町などのような特殊な呼称は、時代が下り人が代わると忘れ去られて、一般的な変哲もない呼称に替えられてしまうのでしょうか。


忠度塚(全景)


忠度塚

教育委員会の説明板


 塚の後方には漢文で記された、忠度の弔文などがありましたが、場所が狭く撮影できず残念でした。
 忠度の場合、右手を斬り落されたばかりに、胴と腕が別々に葬られており、何やら気の毒に思われてなりません(敦盛も首と胴が別に葬られていましたか…)。


 この忠度塚の西方100メートルほどのところに「忠度公園」があります。忠度の名を冠したところだけに、これは無視するわけにはまいりません。勇んで訪ねたのですが…。


忠度公園


冬の歳時記園


前田純孝(翠渓)歌碑

柿本人麻呂歌碑


 期待した「忠度公園」でしたが、忠度に関連したものは何もありません。前田純孝(翠渓)と柿本人麻呂の歌碑が立てられてありました。

  風吹けば松の枝鳴る枝なれば明石を思ふ妹と子を思ふ  純孝(絶筆)
  白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋つつをらむ   柿本人麻呂

 明石の謡蹟から次は神戸市内へと移動します。垂水駅で山陽電鉄からJRに乗換え、鷹取駅で下車、神戸海運郵便局に立ち寄り、忠度の胴塚と腕塚を訪れました。





《駒ヶ林の謡蹟》 忠度胴塚、腕塚


駒 ヶ 林 の 謡 蹟


 忠度胴塚は、神戸市長田区野田町にあります。神戸海運郵便局の前の通りを東進し、“伍魚福”なる店を右折した一角にあります。


忠度塚(全景)


忠度を祀る墳石

地蔵尊と“お玉大明神”


 小祠の右手には「正四位下薩摩守平○忠度墳」と刻された墓石が建てられています。かつて阪神淡路大震災の折この墓石も倒壊しましたが、近年になって修復された模様で、刻字の色がかなり鮮やかに感じられました。
 墓石の横には胴塚の由来が掲げられています。明石の謡蹟と同様の内容になりますが、以下に記しておきます。

 薩摩守忠度(1144~84年)は平清盛の末の弟で、文武に秀でた将に平家「一門の花」と云はれていた。
 源平一の谷合戦に於て源氏の武将岡部六弥太忠澄に討たれ惜しくもこの地で戦死したが、最後は駒ヶ林の辺だと伝えられている。
 歌道は藤原俊成に師事し、「千載集」にも詠人知らずとして採られているほど武芸にも歌道にも優れた良い武将であった。人は皆、敵も味方もこの武将の死を惜しんだ。

   行きくれて木下かげを宿とせば花やこよいのあるじならまし (旅宿花)
   さゞなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな    (千載集)

 墓石の左手、道路から入ると正面にはお地蔵さまなどが並び、中に「お玉大明神」なる墓碑がありましたが、“お玉さん”という女性でも祀っているのでしょうか。ここ胴塚は地元の自治会によって管理されているようです。

 胴塚堂を後にして、忠度の腕塚堂に向います。胴塚から南下して大通りを東進すると、細い路地の入り口に、「左忠度…」なる道標と「平忠度公を祭る腕塚堂」「場所 長田区駒ケ林町四丁目(これより南60m下る)」として十三重塔が描かれた“腕塚堂”の案内板がありました。以下案内板の文面です。

平相国清盛の弟薩摩の守忠度公、源平一の谷合戦にて岡部六弥太忠澄に敗れこの地にて戦死す。依而此地を廟所として祭る。特に斬り取られた片腕を埋めた墓碑を腕塚と称して永く信仰の対象とした。何時の世にか腕、腰、足の痛みあるところと墓石を擦れば直ちに快感を覚え全治に向うとて参詣者の足を絶たない。毎月七日は命日とて特に賑う。

 案内にしたがって小道に入ると「うでづか」なる道標があります。そこからさらに住宅の間の路地を少し進んで、お目当ての「腕塚堂」に到着いたしました。


「腕塚堂」の道標と案内板

「うでつか」の道標


 腕塚堂は写真に見るように、屋根がかなり低いので、かなり狭く感じられます。北側はお堂になっています。格子の間から覗いて見ると十畳位の広さがあると思われる部屋で、正面に「薩摩守忠度卿之霊」とした位牌が祀られています。また反対の南側にはお地蔵さまが祀られ、その奥は人家になっているようです。ここ駒ヶ林地区の自治会により管理されているように思われます。


腕塚堂


 長田区役所による「腕塚堂(平忠度塚)」とした由緒書きがありました。今までと同様の内容ですが、以下に転載します。

 平忠度は平清盛の末弟で、歌道にもすぐれ、豪勇で知られた武将でした。
 源平一の谷合戦(1184年)のとき、平忠度は一の谷陣の大将でしたが、敗れて駒ヶ林指して落ち行く途中、源氏の武将岡部六弥太忠澄と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落されてしまいました。忠度はついに静かに念仏して討たれ、そのエビラ(矢を入れて背に負う道具)には、
  「行きくれて木の下かげを宿とせば
   花やこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたといわれています。
 この腕塚は忠度の切り落された腕を埋めた所と伝えられ、腕、腰、足の痛みがなおるとひとびとから信仰されています。


腕塚堂内陣


反対側の地蔵尊

由緒書き

十三重の石塔


 堂の裏手には十三重の石塔が建てられています。忠度の供養塔なのでしょう。阪神淡路大震災の折には、おそらく倒壊したのではないかと想像します。
 お堂の前に、ご詠歌を刻した木額が掲げられていました。

   海静か 磯辺の松を 駈け(別け?)ゆけば 駒ヶ林に 忠度の塚
   参るなら 月の七日は 御命日 鐘の響きの 絶ゆる暇なし


詠歌


 このお堂より数百メートル北の国道2号線の南側一帯を「腕塚町(1~10丁目)」と称しています。これは明らかに忠度の腕塚から命名されたものでしょう。とすると、腕塚はかつては現在の腕塚町のあたりに存在していたものかも知れません。


 近年、あまり耳にしなくなりましたが、「薩摩守」といえば「忠度」から、“ただ乗り”即ち“無賃乗車”の意で使われていました。
 狂言に『薩摩守』という演目があります。一文無しの旅の僧が、神崎の渡しを渡ろうとするのですが、渡し守が秀句(巧みに言いかけたシャレ)好きであるのにつけ込み、只乗りをしようと試みます。料金を払う段になって「船賃は薩摩守」とやったまではよかったのですが、その心は「忠度」というのを忘れてしまい、苦しまぎれに“ただのり”を“青のり”と間違えて「心は、青のりの引き干し」と言ってしまいます。船頭「アノやくたいなし、とっととお行きゃれ」「面目もござらぬ」




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  (平成26年 2月20日・探訪)
(平成26年 4月 2日・記述)


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