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大津・粟津原 〈兼平〉


 2014年4月23日、郵便貯金の旅で大津市東部を訪れた際、JR石山駅のすぐ裏側(北側)に今井兼平の墓所を発見しました。この日は謡蹟めぐりに関してはあまり重きを置いておらず、もっと事前調査をして来ればよかったのにと、ほぞを噛みましたが後の祭り、『兼平』の謡蹟であれば先ず「矢橋(やばせ)の渡し」から始めねばなるまいと、6月20日に矢橋の渡しから木曽義仲の墓所とされる「義仲寺」に参拝すべく、再度この地を訪れました。
 そのような経緯で、この訪問記は時間軸が後先になっており、少々おかしな所が出来いたしますが、お許し願います。先ずは謡曲『兼平』の概要について。


   謡曲「兼平」梗概
 作者は世阿弥とも伝えられているが未詳。『平家物語』巻九、「河原合戦の事」および「木曽最期の事」による。
 木曽の山家の僧が、木曽義仲の跡を弔うため粟津の原に向かい矢橋の渡しに到着する。そこに老人が棹さした柴舟が来たので、頼んで乗せてもらう。船頭は僧に尋ねられ、琵琶湖周辺の景色を案内しているうちに粟津に着くと、船頭は知らぬうちにいなくなっていた。
 僧が夜もすがら回向をしていると、甲冑姿の兼平の霊が現れ、先ほどの船頭は自分であったと明かし、義仲の最期をつぶさに語り、僧に主君の回向を頼み、ついでみずからの壮絶な最期のさまを物語るのである。
 本曲と同じく義仲の最期を扱った曲には『巴』がある。『兼平』『巴』の両曲とも、主人公は自分のことよりも主君義仲の弔いを僧に頼んでいる。本曲の場合、兼平自身の壮烈な戦死の有様は語られても、自らの供養を頼む言葉は漏らさず、主君に奉仕する勇将の意気と最期の描写が際だって、全体を勇壮なものにしている。
 なお、曲の最後が「目を驚かす有様」と体言止めで終わるのは、他に『融』『野宮』があるが珍しい例である。



粟 津 原 探 訪 地 図



《矢橋公園》  草津市矢橋町


 それでは謡曲のストーリーにしたがって、“矢橋の渡し”から今回の謡蹟めぐりをスタートいたしましょう。
 6月20日、JR石山駅でレンタサイクルを借用、近隣の郵便局を廻りながら草津市に入り、県道26号線を北上し、矢橋郵便局に立ち寄った後、その北の矢橋の交差点を左折、琵琶湖畔の堤防沿いに少し進むとお目当ての“矢橋公園”がありました。

    近江八景   大江敬香
  堅田落雁比良雪  堅田の落雁 比良の雪
  湖上風光此處収  湖上の風光 此の処に収まる
  烟罩歸帆矢橋渡  烟は帰帆を罩(こ)む 矢橋の渡し
  風吹嵐翠粟津州  風は嵐翠を吹く 粟津の州(しま)
  夜寒唐崎松間雨  夜(よ)は寒し唐崎 松間(しょうかん)の雨
  月冷石山堂外秋  月は冷やかなり石山 堂外の秋
  三井晩鐘勢多夕  三井の晩鐘 瀬多の夕べ
  征人容易惹郷愁  征人容易に 郷愁を惹かん

 近江八景のひとつに「矢橋帰帆」があります。江戸時代に対岸の石場との間の渡し舟発着地として栄えた矢橋は、東海道を行く旅人が大津から東へ向かう近道として賑わいました。歌川広重の近江八景の図には、大津から矢橋へと湖上を進む帆船の群れが描かれています。現在矢橋の渡船場のあった場所は遺跡公園として整備されており、弘化3年に設置された常夜燈と石垣が当時の面影を伝えています。

  真帆引きて矢橋に帰る船は今打出の浜をあとの追風


矢橋公園


 公園内には「矢橋帰帆」の図と矢橋港の説明がありました。以下は草津市による説明書きです。


 矢橋港は伯母川と狼川の三角州間にあって、琵琶湖が最も湾入した地点に所在する。南は近江最大の港津・大津に面し、西は比叡山の門前町坂本およびその外港にあたる坂本三港に面している。また東は矢橋道を経由して、東海道に通じ、宿場町草津に達する。
 本港の古代における様相は明らかでないが、中世には志那、山田両港とならぶ軍事的要港として重視されたことが「源平盛衰記」他の文献から推測される。そして近世に至って、草津宿の興隆、東海道の交通量の増大に伴って、本港の重要性は一段とたかまった。天正6年(1578)、織田信長は安土水害視察に際し、その往復路を松本津と矢橋港の湖上水路をとり、徳川家康も慶長5年(1600)の関ヶ原戦、慶長19年大坂冬の陣、元和元年(1615)大坂夏の陣にあたって、本港を利用するなど、大津への短捷路として、湖南における主要な渡し場となった。
 しかし、本港も近現代の交通体系の変革や琵琶湖の水位低下等が起因となって衰退し、その旧状を失うに至った。ところが昭和57年~58年にかけて、発掘調査をするに及び、江戸時代の本港の実態が解明されるに至った。
 すなわち本港は、奥行約90米、幅約65米の規模で琵琶湖に開口するもので、港内に湖中へ突き出す2基の石積突堤と港湾南端から湖岸に平行して築かれた石積突堤1基を配し、各石積突堤間を船着場、船入、船溜などに当てている。また港湾北側の石積台場上に常夜燈を建て、航行する船の便宜を図っている。
 以上の矢橋港の旧状がすべて整えられたのは、『膳所領郡方日記』、常夜灯刻銘より弘化3年(1846)と推測されるが、「近江の海は湊八十あり、いづくにか君が船舶て草結びけむ」と万葉集に詠まれた近江の諸港が今やほぼ消滅にある現状を省りみれば、本港の遺構は古代より展開されてきた琵琶湖の水運と近江八景「矢橋の帰帆」の歴史を凝集した唯一のものであり、歴史的価値の高い史跡と思われる。



矢橋の帰帆図


 「矢橋の帰帆」の説明書の前方には、与謝蕪村の句碑がありました。


   菜の花やみな出はらひし矢走舟(やばせぶね)  蕪村

 石場へ渡ろうと矢走街道を港まできた。船の発着時はたいそう騒がしい矢走港も、昼の今は渡し船がみな出はらっていて静かである。港の周辺は一面の菜の花畑で、春風につつまれている。菜の花の黄色と白帆を浮かべた湖の青さが、靄のかかった背後の山々とよく調和して、まことにのどかな春の風景であることよ。



蕪村句碑

公園内のあづまや


 中央にあづまやがポツンと建てられていますが、人影はまるでなく、公園というにはいささか侘びしすぎる情景です。
 公園の北側には石垣が築かれ松が植えられているのですが、これが立ち枯れの状態、その台上に石造りの常夜灯が建てられています。上記の説明にある弘化3年(1846)に建設されたものでしょう。現在は西側の湖岸に堤防が築かれて、湖水とは繋がっていませんが、かつてはここまで船が出入りして賑わっていたようです。



弘化3年の常夜灯


 かつてはこの常夜灯のあたりからは、対岸の大津側の石場の渡しや、遥か沖合いに比叡山が望まれたはずですが、現在ではすぐ目の前に「矢橋帰帆島」なる人工島が作られたため、これらを眺めることができなくなってしまいました。
 『三井寺』では


山田矢橋の渡舟の夜は通ふ人なくとも。月の誘はば自づから。舟もこがれて出づらん舟人もこがれ出づらん


と、矢橋の美しさを謡っており、かつての情景が惜しまれる次第です。
 矢橋帰帆島は、琵琶湖を中心とした滋賀県の水質保全の取り組みの一環として、良質な放流水質の確保を目的に、昭和53年(1978)に着工、4年後に完成した人工島で、下水道浄化センターとして運用を開始しました。島内は公園施設として整備されており、週末などには家族連れで賑わっているそうです。



矢橋帰帆島と矢橋大橋

矢橋港にたゆとう小舟



 東海道を大津宿から草津宿に到る短絡コースは、この石場の渡しから矢橋の渡しへ舟路をとり草津宿に到るルートとなりますが、これを陸路をとりますと、大津宿から膳所のあたりで南下し瀬田の唐橋を経て北上し草津宿に到るルートとなり、かなりの回りり道となります。けれども舟路の場合は、比叡おろしや比良おろしなどの影響で、水難事故の可能性があります。『醒睡笑(せいすいしょう)』にある、室町時代の連歌師宋長の詠んだ、


   武士のやばせの舟は速くとも急がば回れ瀬田の唐橋


の歌が「急がばまわれ」の語源であるとされています。



近江大橋

京阪電車「粟津駅」


 ところが現代では、かつての矢橋航路のすぐ南に、対岸と結ぶ「近江大橋」が完成しています。
 さて謡曲『兼平』では、木曽の山家より出でたる僧が、矢橋の渡しから柴舟に乗せてもらい、比叡山などの景勝を見ながら対岸の粟津の原に渡ります。近江大橋は自転車での通行が可能であり、瀬田の唐橋まで戻らなくても対岸の大津側に渡ることが可能になっています。旅僧の乗せてもらった柴舟の替わりに自転車を扱いで、エッチラオッチラと、かつての粟津の原へとやって参りました。
 かつてこの辺り一帯は松原が有名で、粟津の晴嵐と近江八景の一つに数えられていましたが、現在は住宅地と化してしまっています。「粟津の原」のせめてもの名残にと京阪電鉄の「粟津駅」の模様をカメラに収めました。

 以下は謡曲『兼平』において、矢橋の渡しからの船中のシーンを謡ったところです。


一念いちねん三千の。を現して。三千人のしゆを置きゑんゆうのりも曇りなき。月のかはも見えたりや。さてまた麓はささなみや。志賀辛崎の一つ松。七社しちしや神輿しんよ御幸みゆきの.梢なるべし。さゞ波のなれざお漕がれ行く程に。遠かりし。向ひの浦波の。粟津の森は近くなりて後は遠き樂浪の。昔ながらの山櫻は青葉にて。面影も夏山のうつり行くや青海あをうみの。柴舟しばぶねのしばしばも。いとまぞ惜しきさゞ波の寄せよ寄せよ磯際いそぎはの。粟津に早く着きにけり粟津に早く着きにけり   〈中入〉



《今井兼平の墓》  大津市晴嵐2-4-16

 兼平の墓はJR石山駅の北の住宅地の一角、盛越(もりこし)川という小川のほとりにあります。「兼平庵」の扁額が掛けられた建物の裏手にある小公園のような墓所には、粟津史跡顕彰会の碑や改修記念碑とともに、兼平の子孫によって建てられた鎮魂碑、顕彰碑などが数多く建ち並んでいます。
 4月23日、膳所方面の郵便局を終え、夕方近く、石山駅に戻る途中にこの処に立ち寄りました。先ずは、道端に立つ案内板「今井兼平の墓」より。

 今井兼平は、源(木曽)義仲の腹心の武将。寿永3年(1184)正月、源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討ち死にした義仲のあとを追って自害した。その最期は刀を口にふくんで馬から飛びおりるという壮絶なものであった。
 寛文元年(1661)、膳所藩主本田俊次は、今井兼平の戦死の地をもとめ、中庄の墨黒谷(すぐろだに・篠津川の上流)に墓碑を建立して、兼平の武勇をたたえた。墨黒谷には兼平の塚があったといわれ、その塚のところに建碑したのであった。
 その後、寛文6年(1666)、次代の藩主康将(やすまさ)のとき、参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い現在地に兼平の墓を移設したという。
 碑は、明治44年、その兼平の墓を再改修したときのものである。碑文によれば、滋賀県知事川島純幹、膳所町長馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏訪の人今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したものという。


兼平庵

今井兼平の墓入口


 前掲の案内文と同様の内容になりますが、大津市教育委員会による指定文化財の説明書きです。

 今井兼平は、源平争乱で勇名をはせた源義仲の乳母子(めのとご)で、『平家物語』によると寿永3年(1184)1月21日、粟津合戦で義仲が討死すると、後を追って自害しました。
 兼平の墓は、元は山手の「墨黒谷」にあったそまつな塚でした。寛文元年(1661)、時の膳所藩主本多俊次が改めて墓石を建立し、寛文7年に次の藩主本多康将によって、東海道に近いこの地に移されました。敷地の奥に一段高く石柵に囲まれた墓石があり、中央に大きく「今井四郎兼平」、その両側には銘文が刻まれています。
 現在、周辺には住宅・工場が建ち並び、移築当時の面影はありませんが、敷地内には墓石の外に兼平の末裔によって建立された灯籠や記念碑が数多く残されています。
 平成18年(2006)3月、大津市の史跡に指定されました。

 次いで、入口を入ってすぐのところに立つ、謡曲史跡保存会の駒札「謡曲『兼平』と兼平の墓」には以下のように記されています。

 謡曲「兼平」は、主君木曽義仲の最期を勇将兼平の語りによって描き、忠臣兼平の壮絶な討死の様を見せる修羅物である。
 木曽の僧が、義仲の戦死の跡を弔う事を思い立ち、矢橋の浦で老船頭の漕ぐ柴舟に乗船する。舟が粟津に着くと、彼の老人は消え失せてしまった。僧が回向し仮睡すると武将が軍陣の姿で現れ、昨日の渡守は今井兼平の亡身であると言い、主君義仲の最期を詳しく語って追福を頼む。更に「自害の手本にせよ」と広言しつつ討死した。
 粟津原で義仲と共に奮戦し悲壮な最期をかざった此の地に今井兼平の墓はある。今井家末孫によって立派に建立された。


鎮魂碑

元田永孚詩碑

 墓地は緑に囲まれた中に、点々と種々の碑が建てられています。
 最初に目につくのは「鎮魂碑」。これは昭和59年に粟津原合戦800年記念事業の会の手によるもので、両軍の戦没全将兵の鎮魂を祈って建てられたものです。
 その奥にあるのは、群馬県の兼平の遠孫の方の手になるもので、兼平の忠諫義死を詠じた元田永孚(もとだなかざね)の詩碑で、昭和41年に建てられたものです。
 その建碑の趣旨には「遠祖兼平公の忠諫・義死は古今に特出す。今曾祖の遺命に依り、元田永孚先生の詩書を以て、墓前に建碑す」と述べています。


  死生唯報主   死生は 唯主に報(むく)
  終始節彌堅   終始 節は弥(いや)堅し
  正諫雖難納   正諫 納(い)れ難しと雖も
  一心不負天   一心 天に負(は)じず


 結句の「不負天」は「天に負(そむ)かず」と訓読すべきであろうか。


粟津原合戦史跡顕彰碑

表忠文の復刻碑

 さらに進むと「粟津原合戦史跡顕彰碑」があり、碑面には勝海舟の詠歌が刻されています。


   元治丙寅のくれの秋、粟津の里 昔兼平が討死せし處を尋ねし時
 染め出でし粟津のくろのむら紅葉 ちりての後ぞいろいでにけり


 碑には「元治丙寅」と刻されているのですが、元治元年(1864)は甲子、元治2年は4月に改元されて慶応元年となり、慶応2年が丙寅に当ります。この年、勝海舟は幕府側の代表として長州征伐の講和会談に臨み、その帰路、ここ粟津の兼平の墓所に立ち寄ったものと思われます。
 この碑は粟津史跡顕彰会の主催で、昭和49年3月に建てられたもので、裏面に建碑の趣旨(選文並謹書 正六位勲四等 竹内将人)が記されています。


 忠諫剛勇ノ武将兵衛尉今井兼平ハ寿永三年正月廿一日此処粟津原ニ於テ手勢五百余騎ヲ以ツテ源範頼軍三万余騎ヲ迎撃シテ敗レ主君義仲ニ殉ジテ壮烈ナ自刃ヲ遂グ
 然ルニ逆臣ノ汚名ヲ受ケ永年公然ト彼ヲ祀ル者ナク五十年後ノ文暦元年兼平ノ次男兼秀法師来リテ追福ノタメ窃カニ兼平寺ヲ創建シテ祀ル
 四百七十七年後ノ寛文元年膳所城主本多俊次墨黒谷ニ兼平塚ヲ築き表忠碑ヲ建ツ 六年後次代城主同康将コノ地ニ塚ヲ移シテ兼平ノ英傑ニ相応シイ廟所トス
 星霜七百九十年 今茲ニ有志相謀リ繰上ゲ八百年祭ヲ修シ兼平ヲ始メ巴ヲ含メテ本合戦ニ戦没セシ有名無名ノ敵味方千余名ノ合同慰霊ヲ行イ粟津原合戦史跡顕彰碑ヲ建テテ永ク記念ス


 その先には改修記念碑があります。入口の案内板に記されていますが、この碑は明治44年(1911)に兼平の墓を再改修した時のもので、その碑文によれば、滋賀県知事・川島純幹、膳所町長・長杉庄平、兼平の末裔信州諏訪の人・今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡大し、その参道を改修したものとのことです。


 兼平の墓は一番奥まったところに、午後の陽ざしを背に浴びて静かにたたずんでいました。現在の墓は今井家の末裔によって建てられたもので、「今井四郎兼平」と彫られた丸みのある石でできています。
 その横には「今井四郎兼平」の銘の両側にあったが風化により判読が難しくなったので、兼平の末裔が平成18年1月21日に復刻した「表忠文」の碑が建てられています。


兼平之忠諌豪勇突出古今 愚婦童昧道唱巷説膳所城主本多下総守俊次公也 索古地立石誌有志者豈不感歎哉 見義輕死 亦勤善之謂乎經日乃至 童子戯聚沙為佛塔 是為菩提善縁况造立圓満法身佛乎
   寛文元年辛丑十月二十一日  大圓院開山賜紫沙門万源書



今井兼平の墓


シテ「兼平はかくぞとも。知らで戰ふそのひまにも。御最期の御供を。心にかくるばかりなり  地「さてそののちに思はずも。かたきかたに聲立てゝ  シテ「木曽殿討たれ給ひぬと  地「呼ばはる聲を聞きしより  シテ「今は何をかすべきと  地「思ひ定めて兼平は  シテ「これぞ最期のくわうげん  地あぶみ踏んばり  シテ大音だいおんあげ木曽殿の。御内に今井の四郎  地「兼平と。名のりかけて。大勢に。割つて入れば。もとより。いつたうぜんの。秘術を現し大勢を。粟津の。みぎはに追つ詰めて磯打つ波の。まくり切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。駈け通つて。そののち。自害の手本よとて。太刀をくはへつゝさかさまに落ちて。つなぬかれ失せにけり。兼平が最期の仕儀目を驚かす有樣なり目を驚かす有樣



 兼平の最期を詠んだ川柳を少し拾ってみました。

  兼平の手本はめつた習はれず  (柳多留拾遺五・21)
  兼平をくわへきせるの手本にし  (宝暦十三梅・2)

 「自害の手本よとて。太刀を銜へつゝ。逆様に堕ちて。貫かれ失せにけり」を詠んだものです。いくら「自害の手本」といわれても、ちょっと真似のし難いお手本ですね。
 また、これは私の好きな句なのですが、

  素一分は心細くもただ一騎  (柳多留拾遺四・18)

という句があります。これはクセの詞章、

さてその後に木曽殿は。心ぼそくも唯一騎。粟津の原のあなたなる。松原さして落ち給ふ

の文句取りです。
 「素一分(すいちぶ)」とは、一分(1両の4分の1)こっきり、ぴったり一分しか持っていないということ。吉原の中級遊女の揚げ代が一分であったらしい。1両は現在の価値に換算すると8万円程度、したがって1分は2万円ほどになるが、2万円の予算で銀座の高級クラブに出かけたということになるようです。1分ぽっきりで吉原へ乗り込む若者の心細さを、謡曲の詞章を続けて見事に表現しています。吉原と兼平の武勇を扱った謡曲という、一見ミスマッチと思われる組み合わせが絶妙にマッチしており、心憎いばかりの出来栄えではないでしょうか。(参考:「阿部達二『江戸川柳で読む平家物語』文春文庫、2000年」)



 最後になってしまいましたが、本曲が他の曲と大きく異なっている点があります。
 通常の二場物の曲では前シテは主人公の亡霊が土地の老人などに化して出現し、前場で我が本性を名乗る~あるいは名乗らぬまでもそれとなくほのめかす~ケースが通例となっています。もっとも『朝長』や『船弁慶』などのように前後が別の人格である場合はこの限りではありません。
 ところが本曲では、前シテは自らの本性を名乗らぬばかりか、粟津に到着すると何の挨拶もなくいなくなってしまいます。そして後シテとして兼平の本性を現して「先ほどの渡し舟で逢ったではないか」とワキを詰るのです。このように、前場でその本性を明らかにしない曲が他にあるかどうか、一度調べてみる必要がありそうですね。




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  (平成26年 4月23日、6月20日・探訪)
(平成26年 8月26日・記述)


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