粟 津 原 探 訪 地 図
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《矢橋公園》 草津市矢橋町
それでは謡曲のストーリーにしたがって、“矢橋の渡し”から今回の謡蹟めぐりをスタートいたしましょう。
6月20日、JR石山駅でレンタサイクルを借用、近隣の郵便局を廻りながら草津市に入り、県道26号線を北上し、矢橋郵便局に立ち寄った後、その北の矢橋の交差点を左折、琵琶湖畔の堤防沿いに少し進むとお目当ての“矢橋公園”がありました。
近江八景 大江敬香
堅田落雁比良雪 堅田の落雁 比良の雪
湖上風光此處収 湖上の風光 此の処に収まる
烟罩歸帆矢橋渡 烟は帰帆を罩(こ)む 矢橋の渡し
風吹嵐翠粟津州 風は嵐翠を吹く 粟津の州(しま)
夜寒唐崎松間雨 夜(よ)は寒し唐崎 松間(しょうかん)の雨
月冷石山堂外秋 月は冷やかなり石山 堂外の秋
三井晩鐘勢多夕 三井の晩鐘 瀬多の夕べ
征人容易惹郷愁 征人容易に 郷愁を惹かん
近江八景のひとつに「矢橋帰帆」があります。江戸時代に対岸の石場との間の渡し舟発着地として栄えた矢橋は、東海道を行く旅人が大津から東へ向かう近道として賑わいました。歌川広重の近江八景の図には、大津から矢橋へと湖上を進む帆船の群れが描かれています。現在矢橋の渡船場のあった場所は遺跡公園として整備されており、弘化3年に設置された常夜燈と石垣が当時の面影を伝えています。
真帆引きて矢橋に帰る船は今打出の浜をあとの追風
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矢橋公園
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公園内には「矢橋帰帆」の図と矢橋港の説明がありました。以下は草津市による説明書きです。
矢橋港は伯母川と狼川の三角州間にあって、琵琶湖が最も湾入した地点に所在する。南は近江最大の港津・大津に面し、西は比叡山の門前町坂本およびその外港にあたる坂本三港に面している。また東は矢橋道を経由して、東海道に通じ、宿場町草津に達する。
本港の古代における様相は明らかでないが、中世には志那、山田両港とならぶ軍事的要港として重視されたことが「源平盛衰記」他の文献から推測される。そして近世に至って、草津宿の興隆、東海道の交通量の増大に伴って、本港の重要性は一段とたかまった。天正6年(1578)、織田信長は安土水害視察に際し、その往復路を松本津と矢橋港の湖上水路をとり、徳川家康も慶長5年(1600)の関ヶ原戦、慶長19年大坂冬の陣、元和元年(1615)大坂夏の陣にあたって、本港を利用するなど、大津への短捷路として、湖南における主要な渡し場となった。
しかし、本港も近現代の交通体系の変革や琵琶湖の水位低下等が起因となって衰退し、その旧状を失うに至った。ところが昭和57年~58年にかけて、発掘調査をするに及び、江戸時代の本港の実態が解明されるに至った。
すなわち本港は、奥行約90米、幅約65米の規模で琵琶湖に開口するもので、港内に湖中へ突き出す2基の石積突堤と港湾南端から湖岸に平行して築かれた石積突堤1基を配し、各石積突堤間を船着場、船入、船溜などに当てている。また港湾北側の石積台場上に常夜燈を建て、航行する船の便宜を図っている。
以上の矢橋港の旧状がすべて整えられたのは、『膳所領郡方日記』、常夜灯刻銘より弘化3年(1846)と推測されるが、「近江の海は湊八十あり、いづくにか君が船舶て草結びけむ」と万葉集に詠まれた近江の諸港が今やほぼ消滅にある現状を省りみれば、本港の遺構は古代より展開されてきた琵琶湖の水運と近江八景「矢橋の帰帆」の歴史を凝集した唯一のものであり、歴史的価値の高い史跡と思われる。
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矢橋の帰帆図
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「矢橋の帰帆」の説明書の前方には、与謝蕪村の句碑がありました。
菜の花やみな出はらひし矢走舟(やばせぶね) 蕪村
石場へ渡ろうと矢走街道を港まできた。船の発着時はたいそう騒がしい矢走港も、昼の今は渡し船がみな出はらっていて静かである。港の周辺は一面の菜の花畑で、春風につつまれている。菜の花の黄色と白帆を浮かべた湖の青さが、靄のかかった背後の山々とよく調和して、まことにのどかな春の風景であることよ。
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蕪村句碑
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公園内のあづまや
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中央にあづまやがポツンと建てられていますが、人影はまるでなく、公園というにはいささか侘びしすぎる情景です。
公園の北側には石垣が築かれ松が植えられているのですが、これが立ち枯れの状態、その台上に石造りの常夜灯が建てられています。上記の説明にある弘化3年(1846)に建設されたものでしょう。現在は西側の湖岸に堤防が築かれて、湖水とは繋がっていませんが、かつてはここまで船が出入りして賑わっていたようです。
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弘化3年の常夜灯
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かつてはこの常夜灯のあたりからは、対岸の大津側の石場の渡しや、遥か沖合いに比叡山が望まれたはずですが、現在ではすぐ目の前に「矢橋帰帆島」なる人工島が作られたため、これらを眺めることができなくなってしまいました。
『三井寺』では
山田矢橋の渡舟の夜は通ふ人なくとも。月の誘はば自づから。舟もこがれて出づらん舟人もこがれ出づらん
と、矢橋の美しさを謡っており、かつての情景が惜しまれる次第です。
矢橋帰帆島は、琵琶湖を中心とした滋賀県の水質保全の取り組みの一環として、良質な放流水質の確保を目的に、昭和53年(1978)に着工、4年後に完成した人工島で、下水道浄化センターとして運用を開始しました。島内は公園施設として整備されており、週末などには家族連れで賑わっているそうです。
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矢橋帰帆島と矢橋大橋
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矢橋港にたゆとう小舟
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東海道を大津宿から草津宿に到る短絡コースは、この石場の渡しから矢橋の渡しへ舟路をとり草津宿に到るルートとなりますが、これを陸路をとりますと、大津宿から膳所のあたりで南下し瀬田の唐橋を経て北上し草津宿に到るルートとなり、かなりの回りり道となります。けれども舟路の場合は、比叡おろしや比良おろしなどの影響で、水難事故の可能性があります。『醒睡笑(せいすいしょう)』にある、室町時代の連歌師宋長の詠んだ、
武士のやばせの舟は速くとも急がば回れ瀬田の唐橋
の歌が「急がばまわれ」の語源であるとされています。
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近江大橋
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京阪電車「粟津駅」
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ところが現代では、かつての矢橋航路のすぐ南に、対岸と結ぶ「近江大橋」が完成しています。
さて謡曲『兼平』では、木曽の山家より出でたる僧が、矢橋の渡しから柴舟に乗せてもらい、比叡山などの景勝を見ながら対岸の粟津の原に渡ります。近江大橋は自転車での通行が可能であり、瀬田の唐橋まで戻らなくても対岸の大津側に渡ることが可能になっています。旅僧の乗せてもらった柴舟の替わりに自転車を扱いで、エッチラオッチラと、かつての粟津の原へとやって参りました。
かつてこの辺り一帯は松原が有名で、粟津の晴嵐と近江八景の一つに数えられていましたが、現在は住宅地と化してしまっています。「粟津の原」のせめてもの名残にと京阪電鉄の「粟津駅」の模様をカメラに収めました。
以下は謡曲『兼平』において、矢橋の渡しからの船中のシーンを謡ったところです。
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