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このところ、大津の琵琶湖d周辺の謡蹟探訪が続いています。2014年9月17日にも大津市の三井寺に参拝しました。当然のことながら『三井寺』の謡蹟探訪です。とはいうものの実情は、大津駅のレンタサイクルを借りての、大津市西部の郵便局廻りとタイアップしての謡蹟訪問ではあります。ただ三井寺を訪れる前に近くの三橋節子美術館に立ち寄りました。これは近江八景の「三井の晩鐘」にちなんで、同館に展示されている同名の作品を鑑賞したかったためです。三橋節子の描く「三井の晩鐘」については、境内における該当の地にて触れたいと思います。 |
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清水寺に参詣して夢で啓示を蒙った母親は、都から江州三井寺に赴きます。頃は八月十五日の中秋の名月。寺では住僧が講堂の庭に出て、月を眺めています。私が当寺を訪れる一週間前が、ちょうど中秋節に当っておりました。 |
シテ「都の秋を |
《三井寺》 大津市園城寺町246 |
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三井寺は正式には長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)といい、天台寺門宗の総本山です。 |
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円珍は、弘仁5年(814)に讃岐国(香川県)金倉郷で誕生、弘法大師空海の甥とも姪の子であるともいわれています。15歳で比叡山に登りますが、空海の身内であれば真言宗を志しそうなものですのに、相対すると思われる天台宗の門を敲いたのは何故なのでしょうか。それはともかく、仁寿3年(853)に入唐し、5年後の天安2年(858)に帰国。帰国後しばらく現四国八十八箇所第七十六番金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様です。その後比叡山の山王院に住し、貞観10年(858)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場としました。後に叡山を山門派が占拠したため園城寺は寺門派の拠点となります。円珍が唐より持ち帰った一切経の2組は、園城寺と実相寺に収められています。 |
四国七十六番金倉寺 智証大師像 |
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円珍の一派は、慈覚大師円仁の弟子たちとともに天台宗における二大勢力を形成します。彼らの死後、両派の確執は表面化し、正暦4年(993)に円珍門下は比叡山を下って三井寺に入ります。この時以来、延暦寺を山門、三井寺を寺門と称しました。この二派の抗争は中央の政治情勢にも大きな影響をもち、三井寺は度々焼き討ちにあい、戦国時代末まで興亡を繰り返すことになります。 |
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園城寺仁王門 |
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園城寺入場券 |
この入場券には、三井の晩鐘、弁慶の引摺り鐘と並んで3口ある梵鐘のひとつ、朝鮮鐘の「飛天」が描かれています。 |
園城寺食堂(釈迦堂) |
階段の下から本堂を望む |
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金堂 |
御朱印 |
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閼伽井屋(金堂裏面より撮影) |
左甚五郎作の龍の彫刻 |
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鐘楼(左手の建物は納経所) |
三井の晩鐘 |
この鐘は音色のよいことで知られており、銘の神護寺、姿(形)の平等院とともに、音(声)の三井寺として、日本三銘鐘のひとつに数えられています(神護寺に替えて、勢の東大寺とも)。慶長7年(1602)に古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして鋳造されたもので、鐘の上部には乳といわれる突起が108個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古の遺品といわれています。また、この鐘楼は国の重要文化財に指定されています。 |
三井の晩鐘と鐘楼を描く 大津観音寺郵便局風景印 |
なお、三井寺の近くにある大津観音寺郵便局の風景印に、この鐘が描かれていましたので掲載します。 |
三井の晩鐘について、この地方の昔話として次のような伝承があります。以下に、滋賀県老人クラブ連合会編『近江むかし話』(東京ろんち社・1968)を要約しました。 |
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三橋節子美術館 |
三井の晩鐘(三橋節子美術館 Post Card) |
それでは、謡曲『三井寺』の「鐘之段」に続くクセの部分です。シテの狂女が眺めた月は、この地からであったのでしょうか。あるいは観音堂にある観月舞台のあたりからだったものか。 |
クセ「山寺の春の夕暮れ来てみれば |
このクセ謡で注意すべきは、アゲハの詞章が「月落ち鳥啼いて」となっていることです。もちろん原文は、張継の「楓橋夜泊」。この部分、原詩では「月落ち烏啼いて」と、鳥(トリ)ではなく烏(カラス)です。同様の詞章は『道成寺』にもあり、こちらも“カラス”ではなく「鳥啼いて」となっているのです。謡曲の作者は、なぜ、烏を鳥に替えたのでしょうか。カラスでは語呂が悪かったから…? |
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霊鐘堂 |
弁慶の引摺り鐘 |
弁慶の引摺り鐘は、奈良時代の作とされ、昔、俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に龍宮から持ち帰った鐘を、三井寺に寄進したと伝えられています。その後山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いて見ると、“イノー・イノー”と響いたので、「そんなに三井寺に帰りたいのか」と、腹を立てた弁慶が谷底へ投げ捨ててしまい、その時のものと思われる傷痕や破目などが残っているといわれています。 |
(俵藤太秀鄕は、龍神の依頼を受け大ムカデを退治する。そのお礼として宝物とともに赤銅の鐘を貰い受けた。)
鐘は |
この『太平記』の記述を信じれば、鐘が山門に引き上げられたのは、文保2年のこととされています。文保2年は1318年。鎌倉時代の末期ですので、弁慶とはあまり関係がなさそうですね。 |
三井の |
霊鐘堂の隣には一切経蔵があります。室町時代の禅宗様式の経堂で、慶長7年(1602)に山口市の国清寺にあったものを、毛利輝元の寄進により移築されたものです。内部中央には、高麗版の一切経を治める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっています。 |
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一切経蔵 |
八角輪蔵 |
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三重塔 |
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灌頂堂 |
長日護摩堂 |
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唐院四脚門 |
村雲橋 |
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観音堂の方向に直角に曲がる曲がり角に建つのが、園城寺五別所の一つである微妙寺です。別所とは平安以降、広く仏法を布教し多くの衆生を救済すべく、本寺の周辺に設けられた園城寺の別院で、微妙寺をはじめ、水観寺、近松寺、尾藏寺、常在寺があり、「園城寺五別所」と総称しています。 |
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微妙寺 |
御朱印 |
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本堂内陣 |
本尊・十一面観音立像 |
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毘沙門堂 |
柳田暹朠歌碑 |
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観音堂への階段 |
百体堂 |
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観音堂 |
西国札所御朱印 |
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観音堂内陣 |
手水舎 |
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観月舞台(パンフレットより) |
舞台からの眺望 |
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水観寺 |
御朱印 |
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唐崎神社 |
拝殿 |
霊松 |
一つ松 |
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(平成26年 9月17日・探訪) (平成26年10月31日・記述) |