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大津・三井寺 〈三井寺〉


 このところ、大津の琵琶湖d周辺の謡蹟探訪が続いています。2014年9月17日にも大津市の三井寺に参拝しました。当然のことながら『三井寺』の謡蹟探訪です。とはいうものの実情は、大津駅のレンタサイクルを借りての、大津市西部の郵便局廻りとタイアップしての謡蹟訪問ではあります。ただ三井寺を訪れる前に近くの三橋節子美術館に立ち寄りました。これは近江八景の「三井の晩鐘」にちなんで、同館に展示されている同名の作品を鑑賞したかったためです。三橋節子の描く「三井の晩鐘」については、境内における該当の地にて触れたいと思います。

 謡曲『三井寺』では、別れ別れとなった愛し子を尋ねる母親が、京都の清水寺に参拝し、三井寺に行けばわが子に逢えるとの夢の告げを受けて当寺に参拝します。それでは、先ず謡曲『三井寺』について。


   謡曲「三井寺」梗概
 世阿弥の作とも伝えられるが、作者未詳。典拠は不明であるが、本曲の中心は、物狂いの母と子の再会譚というよりは、むしろ月の能、鐘の能というべきで、三井寺に着いてからの主人公は、鐘と月に没頭し、子を思うことを忘れたかのようである。
 『古今和歌集』の伊勢の歌「春霞立つを見すてて行く雁は花なき里に住みやならへる」や、『和漢朗詠集』の白楽天の詩句「三五夜中新月色、二千里外故人心」などの著名な詩歌が随所にちりばめられており、詩的情緒を盛り上げている。作詩・作曲ともに傑出した意味で「謡三井寺、能松風」などとも称されている。また『桜川』と姉妹曲にたとえられ、『桜川』の春・花・網之段と、『三井寺』の秋・月・鐘之段とが対比される。

 別れ別れになったわが子の行方を尋ねて、清水寺に参拝した母親は霊夢を得る。門前の宿の亭主がその夢を占い、三井寺に赴くことを勧める。
 折しも秋半ば、園城寺の住僧は幼い千満を伴い月見に出る。寺の能力は住僧に命じられ、千満のために謡いかつ舞ってみせる。やがて、狂女姿の母親が寺に到着し、月を愛でつつ鐘を撞こうとする。住僧に制止されると、鐘にまつわる故事を述べて、押し切って鐘を撞く。琵琶湖畔の三井寺で、明月の夜、鐘にまつわる詩歌を引いて感慨が述べられたのち、千満の頼みで住僧は女の故郷を尋ね、互に母子であることがわかり、二人は再会を喜び故郷に帰る。

 本曲はアイ狂言が活躍する曲である。前場の門前の者の示唆により、主人公は三井寺に赴くことになり、物語として重要な役割を担っている。
 後場では、ワキの一行が着座すると、小舞〈いたいけしたるもの〉を舞う。「いたいけしたる」は小さくてかわいらしい様子をしているの意。さらに、後シテが登場して「舟人もこがれいづらん」と橋懸へくつろぐと、能力は鐘を撞く所作を入れ「ジャンモン、モンモン」と鐘の音の口真似をする。流派によって異なるが、シテは一ノ松で鐘を聞き、するすると舞台へ入り笹でアイを打つ。アイは「蜂が刺した」とおどけて飛びのき、シテとの問答となる。
 本曲では、専用の鐘楼の作り物を目附柱前に出す。『道成寺』に用いる実物大の鐘に比べるとミニチュア版であるが、遠近法を使って描かれたように見えるのも、また一興であろう。


 清水寺に参詣して夢で啓示を蒙った母親は、都から江州三井寺に赴きます。頃は八月十五日の中秋の名月。寺では住僧が講堂の庭に出て、月を眺めています。私が当寺を訪れる一週間前が、ちょうど中秋節に当っておりました。


シテ「都の秋をてゝ行かば  地「月見ぬ里に。住みや習へるとさこそ人の笑はめ。よし花も紅葉もみぢも。月も雪も故郷ふるさとに。我が子のあるならば田舎ゐなかも住みよかるべしいざ故郷に歸らんいざ故郷に歸らん。歸れば樂浪ささなみや志賀辛崎からさきの一つ松。みどり子のたぐひならば。松風に言問こととはん。松風も今はいとはじ櫻咲く。春ならば花園の。里をも早く杉間すぎま吹く。風すさましき秋の水の。三井寺に早くきにけり三井寺に早く着きにけり



《三井寺》  大津市園城寺町246

 三井寺は正式には長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)といい、天台寺門宗の総本山です。
 以下、当寺の資料により、三井寺の沿革を眺めてみましょう。

 三井寺の草創は古く、天智・弘文・天武三帝の勅願寺として、天武天皇15年(686)に弘文天皇の皇子・大友村主(すぐり)与多王によって建立されたといわれており、「園城寺」の寺名も与多王が自ら荘園城邑を献じて創建したところから、天武天皇より「園城」の勅額を賜ったことによると伝えられています。また当寺が俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統三帝の産湯に用いられたという霊泉が境内にあり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたのを、後に智証大師がこの霊泉をもって三部潅頂の法儀に用いたことから「三井寺」と称するようになったといわれています。

 三井寺の歴史を語るとき、智証大師円珍(814~91)の存在を忘れることができません。円珍は貞観元年(859)に密教修学の道場として唐坊を設け、天台別院として伽藍を再興しました。以来、智証門流(後の天台寺門宗)として法灯を護持していきました。

 円珍は、弘仁5年(814)に讃岐国(香川県)金倉郷で誕生、弘法大師空海の甥とも姪の子であるともいわれています。15歳で比叡山に登りますが、空海の身内であれば真言宗を志しそうなものですのに、相対すると思われる天台宗の門を敲いたのは何故なのでしょうか。それはともかく、仁寿3年(853)に入唐し、5年後の天安2年(858)に帰国。帰国後しばらく現四国八十八箇所第七十六番金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様です。その後比叡山の山王院に住し、貞観10年(858)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場としました。後に叡山を山門派が占拠したため園城寺は寺門派の拠点となります。円珍が唐より持ち帰った一切経の2組は、園城寺と実相寺に収められています。


四国七十六番金倉寺
智証大師像

 円珍の一派は、慈覚大師円仁の弟子たちとともに天台宗における二大勢力を形成します。彼らの死後、両派の確執は表面化し、正暦4年(993)に円珍門下は比叡山を下って三井寺に入ります。この時以来、延暦寺を山門、三井寺を寺門と称しました。この二派の抗争は中央の政治情勢にも大きな影響をもち、三井寺は度々焼き討ちにあい、戦国時代末まで興亡を繰り返すことになります。

 それでは、三井寺の参拝です。下の「三井寺境内案内図」をクリックすると、寺の地図が別窓で開きます。

三井寺境内案内図



園城寺仁王門


 自転車を駐車場の片隅に止めて、いざ参拝です。さすがに大寺だけのことはあり、当寺の仁王門はどっしりとした風情で眼前に立ちはだかっているかの感がありました。仁王門の左奥に受付があり、入場券(500円)を購入し、改めて門をくぐり入場いたしました。


園城寺入場券

 この入場券には、三井の晩鐘、弁慶の引摺り鐘と並んで3口ある梵鐘のひとつ、朝鮮鐘の「飛天」が描かれています。
 以下は門前に立つ、大津市教育委員会による園城寺大門(仁王門)の説明書きです。

 この大門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の楼門です。宝徳4年(1452)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられ、のち伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)徳川家康の寄進によって園城寺へ移されたもので、仁王門とも呼ばれています。
 楼門としては、正規の手法にのっとったもので、全体の均斉もよくとれた美しい姿をしています。また、檜皮葺の屋根がやわらかい感じを与えています。その他、細部の蟇股(がままた)や、木鼻(きばな)などの彫刻や斗拱(ときょう)などの組物に室町時代中期の特色が見られます。いずれにしても楼門の中でも代表作にあげられるものです。
 明治33年4月に国の重要文化財になっています。




園城寺食堂(釈迦堂)

階段の下から本堂を望む


 仁王門を入ると、すぐ右側にあるのが食堂(じきどう)です。
 以下、大津市教育委員会による食堂の説明書きです。

 食堂は、桁行七間、梁間四間、一重、檜皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の建物で、もと御所の清涼殿であったという伝承があります。現在は釈迦如来がまつられ、釈迦堂の名称で親しまれています。
 全体として簡素な建築で、後世の改造も多く、唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)は江戸時代に付けられたものですが、内陣部分や須弥壇には古い手法が残されており、特に須弥壇には精巧な彫刻が施されています。
 建築年代は室町時代初期と推定され、正面一間通りが解放となっているところや、扉口が両端の間のみにあるところは、かつての食堂の形式を伝えているものと考えられています。
 明治45年(1912)2月に国の重要文化財になりました。

 参道正面の石段を上ると、金堂や鐘楼が建つ広場に到達します。




金堂

御朱印


 金堂は、広々とした境内にひときわ大きく、どっしりとした威容を誇っています。本尊の弥勒菩薩は、用明天皇のときに百済より渡来し、天智天皇の御念持仏であったと伝えられており、当寺の草創の際、天武天皇が本尊として安置されたとのことです。
 現在の建物は、豊臣秀吉の正室北政所により慶長4年(1599)に再興されたもので、七間四方、入母屋造、檜皮葺。堂内は、外陣・内陣・後陣に区切られ、内陣の中央五間は床を外陣より一段下げて、四半瓦敷きにした天台系本堂の古式を伝えています。重厚さのなかに柔らかさをもつ仏堂として、桃山時代の代表的建築に数えられています。
 また、金堂正面にある灯籠は、天智天皇が大化の改新で蘇我氏一族を誅し、その罪障消滅のために、天皇が自らの左薬指(無名指)を切り、この灯籠の台座の下に納められたと伝えられています。それ故、灯籠の別名を「園城寺金堂無名指灯籠」と名づけられているそうです。




閼伽井屋(金堂裏面より撮影)

左甚五郎作の龍の彫刻


 金堂の左手(西側)には重要文化財に指定されている閼伽井屋があります。格子戸の奥の岩組からは霊泉が昏々と湧き出しているそうです。天智・天武・持統の三帝が産湯に用いられたことから「御井寺」すなわち「三井寺」の名が生れるもととなった霊泉です。
 以下は、閼伽井屋の正面に掲げられた説明書きです。

天智・天武・持統の三帝御降誕の時、この井水を取って産湯とし玉体を祝浴された。よって「御井」と云ふ。茲に園城寺が建てられて俗に「三井寺」と云われた。後、智証大師三部潅頂の閼伽に用いてから、「御井」を「三井」に改め寺号となる。
往昔、御所の御車寄を賜り閼伽井屋として立てられて後、慶長3年豐公北政所、之を再興修理せられた。正面上部には名匠左甚五郎作の龍の彫刻があり、夜な夜な琵琶湖に出てあばれるので、目玉に五寸釘が打たれている。屋根は大唐破風で、金堂の素木に対して極彩色を施してある。

 金堂の右手(東側)に納経所があり、その手前に近江八景のひとつとして有名な「三井の晩鐘」があります。


鐘楼(左手の建物は納経所)

三井の晩鐘


 この鐘は音色のよいことで知られており、銘の神護寺、姿(形)の平等院とともに、音(声)の三井寺として、日本三銘鐘のひとつに数えられています(神護寺に替えて、勢の東大寺とも)。慶長7年(1602)に古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして鋳造されたもので、鐘の上部には乳といわれる突起が108個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古の遺品といわれています。また、この鐘楼は国の重要文化財に指定されています。
 謡曲に謡われている三井寺の鐘はこの鐘ではなく、「秀郷とやらんがの龍宮より取りて帰りし」鐘と謡っていますので、後述する弁慶の引摺り鐘のことです。けれども弁慶の引摺り鐘は、往昔、この地の鐘楼に懸かっていたとして、物語を進めてまいりましょう。


三井の晩鐘と鐘楼を描く
大津観音寺郵便局風景印

 なお、三井寺の近くにある大津観音寺郵便局の風景印に、この鐘が描かれていましたので掲載します。
 「謡曲『三井寺』の概要」で簡単に述べましたが、能ではアイの能力が鐘を撞きます。そのおり興味あることに「まことにこの鐘は、背(せい)東大寺、成(じゃう)平等院、声園城寺と申して、天下に三つの鐘にて候」といいながら撞くのです。“背”は勢、“成”は“なり”すなわち形のことでしょう。日本三銘鐘がいつごろから謂われたのか定かではありませんが、少なくとも室町時代にはすでに存在しており、場合によっては神護寺ではなく東大寺だったのかも知れませんね。



 三井の晩鐘について、この地方の昔話として次のような伝承があります。以下に、滋賀県老人クラブ連合会編『近江むかし話』(東京ろんち社・1968)を要約しました。

 昔、この里に美しい若者が住んでいた。琵琶湖で漁をして京で売りさばくのを生業としていた。いつの頃からか、ひとりのみめうるわしい娘が彼を見守るようになり、ふたりは祝言を挙げて夫婦になった。夫婦仲はむつまじく、やがて子どもが生まれた。
 或る日のこと、妻は「実は私は琵琶湖の龍神の化身で、神様にお願いして人間にしてもらいました。もう湖に帰らねばなりません」と云い、湖水へと帰っていった。
 夫はやむなく昼間はもらい乳をして、夜になると浜へ出て妻を呼びます。妻は現れては乳を飲ませては、また湖水に沈んで行きました。こんな毎日が続いたあと、妻は自分の右の目玉をくり抜いて「これからは乳の代りにこれをなめさせてください」と夫に渡しました。泣く子にその目玉をなめさせますと、不思議と泣き止みます。けれども毎夜のこととて、やがて目玉をなめ尽してしまいました。そこで、また浜に出て、左の目玉をもらってやりました。そのとき、妻が「両方目玉がないと方角がわかりませんから、毎晩子どもを抱いて三井寺の鐘をついてください。その音であなたがたの無事を確かめて安心しますから」と云いました。
 それから毎晩、三井寺では晩鐘をつくようになったということです。

 この民話を画にしたのが、三橋節子の『三井の晩鐘』なのです。
 三橋節子(みつはし・せつこ、1939~75)は京都府出身の画家。1973年に利き手の右手を鎖骨の癌により手術で切断。その後は左手で創作を続けますが、35歳の若さで癌の転移により他界しています。


三橋節子美術館


三井の晩鐘(三橋節子美術館 Post Card)



 三橋節子の生涯およびその作品につては、梅原猛『湖の伝説―画家・三橋節子の愛と死―』(新潮社、1977)に詳しく述べられています。以下はその一節…。

 この画にも、無量の思いを、節子は秘めていると思う。その無量の思いの一つ一つを数えれば、こんなことになるのであろうか。
 節子は、この盲目の龍女に、いたく同情している。同情しているというより、ほとんど自己と同一化している。龍女は、節子自身である。その証拠には、龍女の地上に残してゆこうとする子供が、なずなにそっくり、というよりなずなそのものなのである。
 節子が、龍女に自己を同一化したのは、龍女の龍身と盲目に、その原因の一端があったと思う。 (中略) 片腕を奪われた彼女は、やはり、人間ではなくなった、少なくとも、ふつうの人間ではなくなったと思ったにちがいないと私は思う。そして目玉をとり去る苦しみ。あの女の目玉をなでる手には、右腕切断の前夜、代る代る彼女の腕をなでてくれた肉親たちの手のぬくもりの思い出が、こめられているのかもしれない。
 しかし、節子が龍女に自分自身を見たもっとも大きな原因は、龍女の湖底への帰還の話に、やがて自己の上に迫ってくると思われる、別離の運命を見たからであろう。龍女は愛する夫と子供を残して、湖の底に帰っていった。やがて私も、龍女のように夫や子供を残して、死の国に帰らねばならない。
 龍女は、形見に、自分の目玉を残す。彼女も、何か子供達に残してやりたいと思う。しかし、今、彼女が子供たちばかりかあらゆる人に残しておけるものは、彼女の画だけである。彼女が、病後の体に、渾身の情熱をふりしぼって左手で画を描いたのは、こういう形見を残しておきたいという意思ゆえである。そして特に、彼女は、草麻生やなずなのために、一冊の童画の本をつくろうとする。それは、彼等が、彼女の乳房の代りにしゃぶるべき、彼女の目玉なのである。
 母の目玉を無心にしゃぶる子の背後に、もう一つの目玉をもって立つ母の姿。それは、彼女にとって永遠なる母の姿である。
 (注:草麻生、なずなは、彼女の長男と長女)


 それでは、謡曲『三井寺』の「鐘之段」に続くクセの部分です。シテの狂女が眺めた月は、この地からであったのでしょうか。あるいは観音堂にある観月舞台のあたりからだったものか。


クセ「山寺の春の夕暮れ来てみれば入相いりあひの鐘に。花ぞ散りける。げに惜しめどもなど夢の春と暮れぬらん。そのほか曉の。妹背いもせを惜しむ後朝きぬぎぬの。怨みを添ふる行方ゆくへにも枕の鐘や響くらん。また待つ宵に。け行く鐘の聲聞けば。あかぬ別れの鳥は。物かはと詠ぜしも。戀路こひぢの便の音信おとづれの聲と聞くものを。又は老いらくの。ざめる古を。今思ひ寝の夢だにも。涙心の淋しさに。この鐘のつくづくと。思ひを盡す曉を何時いつの時にか比べまし  シテ「月落ちとり啼いて  地「霜天に満ちてすさましく江村かうそん漁火ぎよくわもほのかにはんの鐘の響きは。かくの船にや.通ふらん蓬窓ほうそうしただりて馴れししほかぢまくらうきぞ變るこの海は。波風も靜かにて。秋の夜すがら月む三井寺の鐘ぞさやけき


 このクセ謡で注意すべきは、アゲハの詞章が「月落ち鳥啼いて」となっていることです。もちろん原文は、張継の「楓橋夜泊」。この部分、原詩では「月落ち烏啼いて」と、鳥(トリ)ではなく烏(カラス)です。同様の詞章は『道成寺』にもあり、こちらも“カラス”ではなく「鳥啼いて」となっているのです。謡曲の作者は、なぜ、烏を鳥に替えたのでしょうか。カラスでは語呂が悪かったから…?
 ここで面白いことに、江戸川柳に、

  月落鳥啼て四手また盛り  (川傍柳 三・33)

という句があるのですが、「鳥啼いて」となっており“カラス”ではないのです。ということは、この川柳作家は張継の原詩ではなく謡曲の章句を踏まえており、謡曲が当時の教養人の生活の中に溶け込んでいたことを物語っているといえそうですね。


 閑話休題。引き続き三井寺の境内を散策いたしましょう。
 金堂の左手にある閼伽井屋を抜けて、更に左手の、やや小高いところに、弁慶の引摺り鐘や弁慶の汁鍋を保存している霊鐘堂があります。


霊鐘堂

弁慶の引摺り鐘

 弁慶の引摺り鐘は、奈良時代の作とされ、昔、俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に龍宮から持ち帰った鐘を、三井寺に寄進したと伝えられています。その後山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いて見ると、“イノー・イノー”と響いたので、「そんなに三井寺に帰りたいのか」と、腹を立てた弁慶が谷底へ投げ捨ててしまい、その時のものと思われる傷痕や破目などが残っているといわれています。
 この伝承は『太平記』巻十五に、「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」として描かれています。


(俵藤太秀鄕は、龍神の依頼を受け大ムカデを退治する。そのお礼として宝物とともに赤銅の鐘を貰い受けた。)

鐘は梵砌ぼんぜいの物なればとて、三井寺へこれをたてまつる。文保ぶんぽ二年三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これをきけるに、あへてすこしも鳴らざりけるあひだ、山法師ども「にくし、その義ならば鳴るやうに撞け」とて、撞木しゆもくを大きにこしらへて、二、三人立ち懸かりて、割れよとぞ撞きたりける。その時この鐘、くじらの吼ゆる声を出だして、「三井寺へゆこう」とぞ鳴いたりける。山徒いよいよこれをにくみて、無動寺むどうじの上よりして、数千丈高き岩の上をころばかしたりけるあひだ、この鐘微塵みぢんに砕けにけり。今は何の用にか立つべきとて、そのわれを取り集めて、本寺ほんじへぞ送りける。ある時一尺ばかりなる小蛇こへび来たつて、この鐘を尾を以つてたたきたりけるが、一夜の内にまた元の鐘に成つて、きずつける所一つも無かりけり。されば今に至るまで、三井寺にあつてこの鐘の声を聞く人、無明むみやう長夜ぢやうやの夢を驚かして、慈尊じそん出世の暁を待つ。末代の不思議、奇特の事どもなり。


 この『太平記』の記述を信じれば、鐘が山門に引き上げられたのは、文保2年のこととされています。文保2年は1318年。鎌倉時代の末期ですので、弁慶とはあまり関係がなさそうですね。
 ただこの鐘は、天台宗における山門と寺門両派の争いにより傷つけられ、不都合が起こったために、二代目の鐘(現在の三井の晩鐘)を新たに鋳造したものでしょう。両派の争いをを象徴するかのような存在ですね。


三井の古寺ふるてら鐘はあれど。昔に歸る聲は聞こえず。まことやこの鐘は秀鄕ひでさととやらんの龍宮より。取りて歸りし鐘なれば。龍女りうによが成佛の緣に任せて。わらわも鐘をくべきなり



 霊鐘堂の隣には一切経蔵があります。室町時代の禅宗様式の経堂で、慶長7年(1602)に山口市の国清寺にあったものを、毛利輝元の寄進により移築されたものです。内部中央には、高麗版の一切経を治める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっています。


一切経蔵

八角輪蔵



 本堂エリアから南へ、唐院エリアへと進みます。
 三重塔は室町初期の建築で、もと大和の比蘇寺(現在の世尊寺)にあったものを、豊臣秀吉が伏見城に移し、のち徳川家康が慶長6年(1601)三井寺に寄進したものです。一層目の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されています。軒は深く、三重の釣合もよく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。


三重塔


 参道より一段高く塀に囲まれた一郭が唐院です。東を正面として、一直線上に、四脚門、潅頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂などが建ち並んでいます。秀吉破却後の再興に当り、最も早く慶長3年(1538)に再建されました。
 唐院という名称は、智証大師が入唐して、天安2年(858)に持ち帰った経典や法具類を納めるために、清和天皇より仁壽殿を下賜され、伝法潅頂の道場としたのに由来します。


灌頂堂

長日護摩堂


 灌頂堂は仁壽殿を下賜されたものと伝えられ、五間四方、入母屋造、檜皮葺の上品な住宅風建築で、大師堂の拝殿としての役割を備えています。内部は前後2室に分かれ、伝法潅頂などの密教儀式が執り行われます。
 長日護摩堂は、三間四方、一重、宝形造、本瓦葺の建築。本尊は不動明王で、長日護摩供を修する道場です。建立年代についての明確な資料はないようですが、寺伝によれば後水尾天皇(1611~29)の祈願によって建てられたものといわれています。


唐院四脚門

村雲橋


 唐院四脚門は唐院の表門で、奥へ灌頂堂、唐門大師堂と一直線に並ぶ最前列の位置にあります。この門は、もともと棟門形式として建立されましたが、建立後まもなく四脚門にへんこうされたものと考えられます。昭和48年の修理工事によって、寛永元年(1624)の建立であることが判明しました。
 微妙寺に向う参道に架かっているのが村雲橋です。智証大師がこの橋を渡っているとき、中国の青龍寺が火事であると聞かれ、閼伽井の水を撒くと橋の下から村雲が湧き起こり中国に向って飛び去ったが、翌年青龍寺から鎮火のお礼の使者が来たという伝承があるそうです。



 観音堂の方向に直角に曲がる曲がり角に建つのが、園城寺五別所の一つである微妙寺です。別所とは平安以降、広く仏法を布教し多くの衆生を救済すべく、本寺の周辺に設けられた園城寺の別院で、微妙寺をはじめ、水観寺、近松寺、尾藏寺、常在寺があり、「園城寺五別所」と総称しています。


微妙寺

御朱印


 微妙寺は正歴5年(994)、慶祚大阿闍梨の開基になるもので、本尊は十一面観音。もと志賀寺の霊仏で天智天皇の念持仏と伝えられています。往時には除病、除難、滅罪の利益を求めて境内には参詣者があふれ、頭にかぶった笠が破れ、脱げるほどであったことから、俗に「はづれ笠の観音さま」「笠ぬげ観音」として一般に親しまれています。
 この仏像は檜材の一木造で、数少ない10世紀の彩色壇像彫刻として、天台系密教彫刻のなかでも、すこぶる重要なものとなっており、重要文化財に指定されています。
 なお、当寺は湖国十一面観音霊場の第一番札所となっています。



本堂内陣

本尊・十一面観音立像


 微妙寺から観音堂への参道の両側には「南無観世音菩薩」の赤や紫の幟がぎっしりと立ち並んでいました。

 観音堂への登り口近くに毘沙門堂がひっそりとたたずんでいます。もとは園城寺五別所のひとつ、尾藏寺にありましたが、昭和32年に現在地に移されたもの。元和2年(1616)の建立で、一間二間の宝形造、檜皮葺。


毘沙門堂

柳田暹朠歌碑


 毘沙門堂の左手前に、「止観のこころを詠める」とした柳田暹暎の歌碑がありました。

  限りなく刻へし如くたまゆらのことのごとしもいま定を出づ

 柳田暹暎(やなぎだ・せんえい、1917~)は国文学者、『円融 : 歌集 』、『序説日本の文学 』などの著書があるようですが、詳しいことは分かっておりません。


観音堂への階段

百体堂


 階段を上ると西国三十三観音霊場の第十四番札所である観音堂です。石段のすぐ左には百体堂が建てられています。堂内の中央には当寺の本尊如意輪観音像を安置し、左右に西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各霊場の本尊、あわせて百体の観音像が祀られています。

 観音堂の本尊は、智証大師作と伝えられる一面六臂の如意輪観世音菩薩。33年に一度しか開帳されない秘仏です。ご朱印を頂戴したところ、種子(本尊を表わす梵字)が“キリク”になっています。“キリク”は千手観音や阿弥陀如来の種子となっていましたが、如意輪観音も同じ種子になっているのですね。



観音堂

西国札所御朱印


 観音堂は元禄2年(1689)の再建になるもので、桁行九間、梁間五間の重層入母屋造、本瓦葺で、金堂につぐ大建築です。堂内には、本尊の脇侍に愛染明王像と毘沙門天像を安置しています。また本堂再建の様子を描いた「石突きの図」や「落慶図」などの絵馬が多数奉納されています。



観音堂内陣

手水舎


 観音堂の手水舎はちょっと変わった形でしたので、カメラに収めておきました。
 観音堂を出て左手に脚下に足代を組んだ懸造(舞台造)の観月舞台があります。嘉永3年(1849)に建立されたもので、観月の名所として往時より人々に親しまれてきました。謡曲『三井寺』の舞台は、もしかするとここかもしれませんね。眼下には琵琶湖疏水と大津の町並を望み、眼前には琵琶湖の景観が拡がり、遠く比良・鈴鹿連峰が望まれるようです。うかつにもこの舞台を撮り忘れておりましたので、当寺のパンフレットより転載させてもらいました。


観月舞台(パンフレットより)

舞台からの眺望


 観音堂からの帰路は、微妙寺の方への道をたどらず、山門方面に向う急な階段を下りますと、別所の一つである水観寺に出ました。

 水観寺は長久元年(1028)、明尊大僧正の開基と伝えられています。明尊は小野道風の孫にあたり、顕密の奥旨を究め、園城寺長史・天台座主を務めて、本朝唯一の八宗総博士に任じられた、平安仏教界を代表する高僧です。
 本尊は薬師如来。開創当初は十一面観音を祀っていましたが、文禄4年(1595)の豊臣秀吉による園城寺闕所の際に失われたようで、江戸期以降は薬師堂の薬師如来を本尊として現在に至っています。
 また、当寺は西国薬師霊場第四十八番札所になっています。西国薬師霊場は、薬師瑠璃光如来を祀る大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良、和歌山、三重の七府県四十九ヶ寺の西国薬師霊場からなり、平成元年(1989)に結成されました。




水観寺

御朱印


 境内をざっと一周して、再び山門に戻って来ました。大寺だけのことはあり、参拝して境内を散策するだけでも結構疲れを覚えます。


 三井寺に暇乞いをして、自転車を走らせ大津市内西北部の郵便局を廻りながら北上、雄琴温泉までやってきました。帰路は琵琶湖沿いに国道161号線を南下しておりますと、偶然唐崎神社に遭遇、唐崎の一つ松を見ることを得ました。「犬も歩けば…」とは、よく言ったものと感心した次第です。



唐崎神社


拝殿


霊松

一つ松


 謡曲『三井寺』にも「歸れば樂浪や志賀辛崎の一つ松」と謡われた名勝の地は、古くは『枕草子』にも紹介され、室町末期には近江八景の一つ「唐崎の夜雨」に選定されています。
 以下は、滋賀県教育委員会による「滋賀県指定名勝・唐崎」の説明書きです。

 唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場として知られてきました。加えて「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。
 現在、境内の中程に位置する松は三代目の松で、大正10年に枯死した二代目の松にかわって、その実生木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されています。また、二代目の松は、天正9年(1581)に大風で倒れた一代目にかわり、同19年に新庄駿河守らが良木を求めて植え替えたもので、幹周囲9メートルに及び、枝を多数の支柱に支えられた天下の名木として知られていました。今も境内の各所に残る枝を支えた石組みや、支柱の礎石が往時の雄大さを忍ばせています。
 現在の唐崎は、史上に見える景観ではないものの、湖上に突き出た岬状の地形と老松が織りなす景観は、今なお優れており、その歴史的由緒と「近江八景」を具体的に体現できる數少ない場の一つとして貴重といえます。
 なお、当地は平安時代からの大祓の場と考えられ、大津市の史跡にも指定されています。

 偶然訪れた唐崎の地を後にして、暮れなずむ大津の市街地へと帰って行きました。
 大津駅に帰着してレンタサイクルの事務所で伺ったところでは、大津駅から雄琴温泉までざっと15キロとのこと、往復30キロの自転車の旅は、けっこうキツい一日ではありました。




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  (平成26年 9月17日・探訪)
(平成26年10月31日・記述)


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