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琵琶湖・竹生島 〈竹生島〉


 2014年11月14日、彦根港から遊覧船で竹生島を訪れました。以前よりぜひ参拝したいと思いながら、なかなか訪れる機会に恵まれませんでした。この度、やっと念願がかなった感があります。
 竹生島への渡航は、彦根、長浜、今津の三港から定期船があり、それぞれ3~40分の船旅となるようです。実は私は大変な感違いをしておりまして、竹生島は琵琶湖の中央部(彦根の西方)に存在するとばかり思っていました。今回訪れるにあたって仔細に地図を眺めたところ、湖の最北端に位置しており、長浜市の西浅井町の突端にある葛籠尾崎からは約2キロほどの距離にありました。

竹 生 島 周 辺 地 図


 謡曲『竹生島』では、ワキの「臣下」が都から逢坂の関を越え、鳰の浦(琵琶湖)に到着、湖の左岸を北上し、真野の入江でシテの漁翁と出会い、その釣舟に乗せてもらって竹生島へ渡ります。私が乗った定期船は彦根から40分で竹生島に到着しましたが、この臣下の場合、真野の入江は現在の琵琶湖大橋の西詰付近ですから、そこから竹生島へは、彦根からに比べると2倍近い距離があります。また我々が乗る高速艇とは異なり手漕ぎの釣り船ですから、大変な時間をかけての旅であったに違いありません。
 では先ず、謡曲『竹生島』について。


   謡曲「竹生島」梗概
 金春禅竹作とも伝えるが、作者は未詳。『竹生島縁起』などによる。『平家物語』や『源平盛衰記』に、平経正が木曽義仲の上京を阻むために北陸に赴く途中、竹生島に参詣した記事が見えている。
 延喜の聖代に仕える廷臣の一行が、竹生島に参詣のため、四の宮から逢坂山を越え琵琶湖畔に着くと、漁翁と若い女の乗っている釣り船が来たので便船を請う。のどかな春の湖面を渡り、一同は竹生島に上る。女人禁制の島に女の同行を不審がる廷臣に、老人はこの島の弁才天が女体であるから、女人とて隔てはないと説く。女は「我は人間に非ず」と言って社殿に入り、老人も「我はこの湖の主ぞ」と言い捨てて浪の中に消える。
 ややあって社殿が鳴動して弁才天が現れ、夜遊の舞楽を奏し、続いて湖上に龍神が出現して、廷臣に金銀珠玉を献げた後、天女は社殿に、龍神は波を蹴立てて龍宮に帰っていった。
 舞台大小前に、一畳台に載せた小宮の作り物を出す。小宮には前ツレが中入し、装束を替えて後ツレの弁才天として再登場するが、シテではなくツレによるこのような形式は、他には例を見ない。



 大阪駅8時59分発の新快速電車に乗車、時間が時間だけに車内はかなり混雑しています。10時18分に彦根駅に到着、タクシーで彦根港の近くにある彦根馬場郵便局に立ち寄りました。この局の風景印に竹生島と湖上を走る遊覧船が描かれています。余談ながら、この郵便局の読み方は〈ひこねばんば〉郵便局。「馬場」を「ばんば」と称するケースは結構多くあるようで、身近なところでは大坂城の近く、NHK大阪放送局があったのは馬場町と書いて〈ばんばちょう〉。NHK大阪放送局のコールサインは「JOBK」ですが、これを「ジャパン・オオサカ・バンバ・カドッコ」の略だとは、小林信彦の『唐獅子株式会社』の一節でありました。
 寄り道をしたため、港に到着したのは10時50分頃、遊覧船の出港は11時ちょうどですので、かなりきわどい時間となっていました。


彦根港に到着

竹生島航路の遊覧船

これは竹生島に始めて参詣さんけいの者なり。ちかひの船に乗るべきなり


 定刻に出航しました。遊覧船は釣り船ならぬ高速艇であり、白波を蹴立てて湖上を滑って行きます。左舷遠方に見えるのは比良の嶺々か。船内に流れるのは「琵琶湖周航の歌」。

  われは湖(うみ)の子 さすらいの
  旅にしあれば しみじみと
  昇る狭霧
(さぎり)や さざなみの
  志賀の都よ いざさらば

 彦根馬場郵便局以外にも竹生島や遊覧船を描いた風景印がありました。長浜市のびわ郵便局と西浅井郵便局の風景印を後日入手しましたので掲載します。



琵琶湖に浮かぶ多景島を
描き、高速船と馬を配した
彦根馬場郵便局風景印

竹生島の小島と琵琶
湖上の遊覧船を描く
びわ郵便局風景印

奥琵琶湖の風景を
描き、竹生島を配した
西浅井郵便局風景印

 延喜の臣下が竹生島に詣でたのはうららかな春の日でありましたが、この度はもはや冬の季節。それでも、船室から外に出ると肌寒さを感じますが、船内は適当に暖かく、季節のことなどは忘却の彼方。流れくるメロディを聞くともなく耳にし、窓外に立つ白波を見るともなく眺めながら、ぼんやりとしているうちに、はやくも竹生島の島影が眼前にせまっていました。


眼前に迫る竹生島

上歌「所は海の上。所は海の上。國は近江おほみの江に近き。山々の.春なれや花はさながら白雪の。降るか殘るか時知らぬ。山は都の富士なれや。なほえかへる春の日に。比良ひらおろし吹くとても。沖漕ぐ舟はよもきじ。旅の習ひの思はずも。雲居くもゐよそに見し人も。同じ舟に馴衣なれごろも浦を隔てゝ行く程に。竹生島も見えたりや
シテ緑樹りよくじゆ影沈んで  地うを木にのぼ氣色けしきあり。月海上かいしやうに浮かんでは兎も浪をはしるか面白の島の景色けしき




《竹生島》  長浜市早崎町


 竹生島に関して、以下は Wikipedia の要約です。

 竹生島は、琵琶湖八景のひとつにも数えられ、全島が針葉樹で覆われており、島の周辺は深く、西側付近は琵琶湖最深部 (104.1メートル) である。北の葛籠尾崎との間には湖底遺跡があり、水深70メートルほどの湖底から多数の土器が引き揚げられている。この土器は非常に古く、且つ時代の幅も大きいもので、縄文時代早期から弥生時代、果ては中世にまで及ぶと考えられている。このような遺跡は世界でも類がなく、沈積原因は今なお大きな謎に包まれている。
 『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
 島には定期船が発着する港が島の南側に一箇所あり、数店の土産物店と寺社はそこからすぐの所にある。寺社関係者ならびに店舗従業員はいずれも島外から通っているため、無人島となっている。
 古来、信仰の対象となった島で、神の棲む島とも言われる。南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番札所)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる(江島神社に代えて、大和の天河神社とも)。

 都久夫須麻神社と宝厳寺の関係について、以下「西国三十三所巡礼の旅」の宝厳寺のホームページによります。

 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使にとしてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。
 当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし、神社に改めよという命令が下りました。しかしながら全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年に現在の本堂が再建されました。

 しかしながら現在では、カワウによる糞害の影響が深刻な問題となっているようです。人が往来する場所は島の南の一部に限られており、終日無人の北部にはカワウの大規模なコロニーが形成され、その数は約2万羽にも達しているそうです。糞害により木々のほとんどを枯死させるという景観被害を惹起し、北側では水質の汚染も特に顕著であり、近年では南側にも糞害の影響は及び始めているようです。今日では「緑樹陰沈んで」と謡曲で謡われた在りし日の竹生島の姿を見ることはもはやできないとのことです。


竹生島入島記念Ticket


シテ「舟が着いて候御上おんあがり候へ  ワキ「あらうれしややがて神前へ參り候べし


 船が桟橋に繋留され、いよいよ島に上陸しました。船着場から見上げると、斜面にへばりつくような建物が目に入ります。随分高い所まで石段が組まれて、堂塔が建てられているようです。高所恐怖症の私にとっては、極めて好ましくない状況であります。
 中腹に足場が組まれており、改修工事が行われている様子です(都久夫須麻神社と宝厳寺観音堂の間にある舟廊下と、観音堂の唐門が工事中でした)。


船着場からの光景


 桟橋を上りますと左手に「琵琶湖周航の歌」の碑。3番の歌詞が刻まれています。

   瑠璃の花園 珊瑚の宮
   古い伝えの 竹生島
   仏の御手に 抱かれて
   眠れ乙女子 やすらけく



「琵琶湖周航の歌」の碑

琵琶湖八景「新緑竹生島沈影」の碑


 その奥には「名勝史蹟竹生島」の石柱が建てられ、売店が軒を連ねています。その右手には「琵琶湖八景・新緑竹生島沈影」の碑が目に入ります。
 古来、人口に膾炙した「近江八景」は琵琶湖南部に偏っているため、琵琶湖の雄大さと変化に富んだ景観を中心として、昭和25年に琵琶湖八景が選定されました。八ヶ所の景観は以下のようです。
   月明 彦根の古城
   涼風 雄松崎の白汀
   新雪 賤ヶ岳の大観
   煙雨 比叡の樹林
   深緑 竹生島の沈影
   夕陽 瀬田石山の清流
   暁霧 海津大崎の岩礁
   春色 安土八幡の水郷

 琵琶湖八景の碑の右手には、白水の句碑が建てられていますが、白水に関しては一切分かっておりません。

  新緑の毬とうかべり竹生島  白水

 その右には「當嶋水際八町殺生禁断也」の石柱が建てられています。


白水句碑

経正の看板


 左手の売店の手前にある休憩所の前に「清盛の甥、平経正が、琵琶の秘曲を奏でた地・竹生島」の看板が立て掛けられています。平経正の竹生島詣では、木曽義仲の討伐に向う途次、この島に立ち寄った記事が『平家物語』巻七・竹生島詣での事にみえています。以下はその該当部分より。


 頃は卯月なかの八日の事なれば、綠に見ゆる梢には、春の情を殘すかと疑はれ、澗谷かんこく鶯舌あうぜつの聲老いて、初音はつねゆかしきほとゝぎす、折知りがほに告げ渡り、松に藤浪ふぢなみ咲き懸りて、まことにおもしろかりければ、經正急ぎ船よりおり、岸にあがつて、この島の氣色けしきを見給ふに、心もことばも及ばれず。 (中略)
「或經のもんに云はく、閻浮提えんぶだいの内に湖あり。そのなか金輪際こんりんざいより生ひ出でたる水精輪すゐしやうりんの山あり。天女住む所と云へり。すなはちこの島の御事なり」とて、經正、明神の御前につい居給へり。「それ大辯だいべん功徳くどく天は、往古わうこの如来、法身ほつしん大士だいじなり。妙音めうおん辯才べんざい二天の名は、おのおの別なりとは申せども、本地ほんぢ一體にして、衆生しゆじやう濟度さいどし給へり。一度參詣の輩は、所願成就圓滿すと承れば、頼もしうこそ候へ」とて、靜に法施ほつせ參らせてゐ給へば、やうやう日暮れ、居待ゐまちの月さし出でて、海上も照り渡り、社壇もいよいよかゞやいて、まことに面白かりければ、常住の僧「これは聞ゆる御事なり」とて、御琵琶おんびはを奉る。經正これを取つてき給ふに、上玄じやうげん石上せきじやうの秘曲には、宮の中も澄み渡り、まことにおもしろかりければ、明神も感應に堪へずやおぼしけん、經正の袖の上に、白龍はくりゆうげんじて見え給へり。經正もあまりのかたじけなさに、暫く御琵琶をさし置かせ給ひて、かうぞ思ひ續けらる、
  ちはやぶる神にいのりのかなへばやしるくも色のあらはれにけり
目の前にて、てう怨敵をんできを平げ、凶徒を退けん事は疑なしと喜んで、又船に乘り、竹生島をぞ出でられける。ありがたかりし事どもなり。




竹生島参拝案内図


 数軒並ぶ土産物店の前の参道を通過すると、拝観券の販売所があります。最初の階段を上ると「竹生島神社」の扁額のある一の鳥居があります。鳥居をくぐり直進すると「厳金山」の扁額の掛かった二の鳥居があり、急勾配の階段を上ると宝厳寺の弁才天堂に行き着きます。第一の鳥居のところには、右・竹生島神社の案内があり、狭い回廊の先が都久夫須麻神社です。神社の方からお参りする方が、少しでも楽な様子なので、右の回廊に進みます。


「竹生島神社」の扁額の第一の鳥居

「宝厳寺」の扁額の第二の鳥居


 朱の鳥居をくぐって神社に向います。回廊は狭くすれ違うと手すりからはみ出しそうな感があります(高所恐怖症特有の感覚でしょうか?)。
 見下ろすと、桟橋には高速船が繋留されており、我々を再度彦根港へ運んでくれます。上陸時間は70分。70分では参拝や見学には時間が足りないのではないかと心配で、乗船する前にその旨、係の方に伺ったところ、今まで時間が不足した例はほとんどないとのことでした。


竹生島神社への回廊

波止場を見降ろす


 狭い回廊の終点、二つ目の朱の鳥居をくぐると「黒龍堂」がありました。以下はその説明書きです。

 黒龍は、八大龍王の一尊。龍王は大海に住み雨を降らす神である。また、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水(清めの水)を降らせたと伝えられ、修行者の修道無難、道念増進の守護神でもある。隣に立つ大木は、黒龍が湖より昇って来ると伝えられる神木である。
 黒龍堂は、昭和45年大阪・岡橋氏により建立された。近年、堂の傷みが進んでいたが、平成7年解脱会有志の方々により修繕、合せて鳥居が再建された。


黒龍堂

弁才天堂


 黒龍堂を過ぎると、少し広々としたスペースに出ました。左手に都久夫須麻神社の社殿が建ち、向って正面の海際には龍神拝所、右手に弁才天堂と白巳大神の小祠が並んでいます。
 弁才天堂には「日本五弁天」として、
  安芸国 厳島大神
  大和国 天川大神
  近江国 竹生島大神
  相模国 江島大神
  陸前国 黄金山大神
が、名を連ねておりました。日本三大弁才天と、三ヶ所に限定すると、厳島と竹生島に続く第三の弁才天として、天河と江野島とで争われるようですが、このように五ヶ所とすれば不要な争いは避けられるようですね。
 最期の黄金山大神は始めて耳にする神社でしたので、調べて見ますと、宮城県石巻市の黄金山神社で、通称金崋山神社。明治以前には弁才天を祀る大金寺であったが、明治の神仏分離で大金寺は廃され現在の黄金山神社となります。しかしながら、従前の弁才天信仰は継承されているとのことでした。


白巳大神

龍神拝所


 弁天堂の隣には白巳大神の小祠があります。弁才天は、古代インドにおける川の神だったことから、川の流れのイメージに起因して、神使は「蛇」や「龍」だとされています。祠の中には2匹の白蛇がとぐろを巻き、右の蛇は口に黄金の玉をくわえておりました。

 海に面して龍神拝所があり、ここで御朱印を頂戴します。またここで土器(かわらけ)に願いごとを書いて、湖面に突き出た鳥居に向って投げる「かわらけ投げ」が出来るようで、投げたかわらけが見事に鳥居をくぐれば、願い事が成就するそうですが、果して…?



《都久夫須麻神社(竹生島神社)》


都久夫須麻神社

御朱印

 都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は別名を竹生島神社とも。祭神は、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、宇賀福神(うがふくじん)、浅井比売命(あざいひめのみこと)および龍神を祀る。
 社伝によれば、雄略天皇3年(458)に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建といいます。明治以前は、弁才天を本地仏として祀り、宝厳寺との習合状態が続いていましたが、明治の神仏分離令により宝厳寺から分離し別の法人となっています。
 本殿はかつての宝厳寺の本堂で、国宝に指定されています。以下は本殿前の説明書きです。

 本殿は、桁行5間梁間4間の入母屋(いりもや)造の檜皮葺(ひわだぶき)、前後に軒唐派風(からはふ)をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。
 慶長7年(1602)の豊臣秀頼による復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。
 両開き桟唐戸(さんからと)、壁、法内長押(なげし)上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています。折上格(おりあげごう)天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。

 なお、本殿前には摂社の天忍穂耳神社、厳島江島神社、大己貴神社が祀られています。


弘法大師霊場 明星跡

河童の安全祈願


 社殿の右側の奥に、弘法大師の霊場である「明星跡」の祠がありました。以下、神社による説明書きです。

宝亀5年讃岐の国に生をお受けになった弘法大師は、延暦23年唐に渡られ、帰国後大同2年仲春に竹生島神社に参拝され、此の所に庵を建て修行されました。
この庵を明星跡として聖地としております。

 聖地とされているというものの、いかにも貧相な祠ではありました。
 ここで気になるのが「大同2年(807)」です。四国のお遍路で諸寺に参拝しましたが、四国八十八ヶ寺の縁起で、大同2年、空海の草創としているところが11ヶ寺、大同年間としているところが5ヶ寺ありました。弘法大師空海が唐より帰朝したのは大同元年10月、入京の許しを待って2年ほどは大宰府の観世音寺に止住しているといわれています。空海が帰朝してからの数年間は謎に包まれた期間ですが、その間に四国に諸寺を建立し、またここ竹生島までやってきて修行に励んだとは、我々の感覚をはるかに超越した“超人”といわねばならないでしょう。事実、空海は“超人”であったと思います。まさに、ニーチェに彼の存在を教えてあげたいくらいです。この「大同2年」は仏教史上、特大のクエッション・マークをつけなければならない年でしょう。
 ところで、この「大同2年」は、我々謡曲愛好者にとって、かなり馴染みの深い年といえましょう。それは『田村』で「そもそも當寺清水寺と申すは。大同二年の御草創。坂の上の田村麿の御願なり」と述べられています。清水寺も大同2年の草創でした。

 なお、社殿の右手にある摂社の奥に「湖上安全」祈願の、ちょっとかわいい河童がいましたので、カメラに収めておきました。


舟廊下

観音堂のびんづる坐像


 神社と宝厳寺観音堂は舟廊下で結ばれています。舟廊下は朝鮮出兵のおりに、豊臣秀吉のご座船として作られた日本丸の船櫓(ふなやぐら)を利用して作られたところからその名がついており、重要文化財に指定されています。


《宝厳寺観音堂》


 舟廊下を渡ると西国三十三霊場第三十番札所の観音堂があります。ところがこのところは撮影禁止となっていましたので、通り抜けたところに祀られている「びんづる様」を撮らせてもらいました。

 寺伝によれば、亀元年(724)に聖武天皇の命を受けた行基は、堂塔を建て弁才天を本堂に安置し、翌年には観音堂を建立して千手観音像を安置しました。



観音堂の唐門

御朱印

 観音堂を抜けたところに唐門があります。正しくはここが観音堂への入り口となるようです。あいにく今回は工事中とのことで、その全貌に接することはかないませんでした。以下は唐門の説明書きです。

 慶長7・8年(1602・3)豊臣秀頼によって、京都豊国廟の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・綠などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
 さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長5年に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が、唯一竹生島に現存しているのです。秀吉が始めて城持ちの大名となった長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴ともいえる大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。


 唐門を出たところに本堂(弁才天堂)への階段があり、その前方の通路脇には観音像と修行大師の像が建っていました。この前を通って直進すると、本堂へと続くもう一本の階段があります。
 私は先に竹生島神社に参拝し、宝厳寺観音堂を経て本堂へ向うルートをとっているのですが、この唐門が観音堂への玄関口となっていますので、先に宝厳寺の本堂にお参りし、観音堂を経て竹生島神社に詣でるのが正しい参拝路ではないかと考えた次第です。


修行大師像

観世音立像


 ここから本堂(弁才天堂)へとお参りするのですが、見上げれば天まで届くのではないかと思わせる急な階段です。手すりに縋りつつ、やっとの思いで無事に登りきりました。本堂の前には島内唯一の広場(といっても僅かな広さではありますが)になっています。海側に納経所があり、その隣には今登って来たとは別の石段が下界に通じております。


本堂への石段

五重石塔


 本堂前の広場の片隅に、重要文化財に指定されている「宝厳寺五重石塔」があります。以下はその説明です。

 初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間(ごうぎま)の形や、各重笠石の反りの形状などから、鎌倉時代の特徴が見られます。
 五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは、全国で7基しかなく、これはその一つです。
 石材は、比叡山中から採掘される小松石によりつくられた石造りの五重の塔です。
 豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが後補のものとなっています。
 


不動明王像

三重塔


 弁才天堂の前方には、二体の童子を従えた不動明王が、右手に宝剣を左手に縄を持ち、紅蓮の火焔を背に憤怒の形相でたたずんでいます。
 ここからさらにもう一段上ると、三重塔や宝物殿があります。三重塔は江戸時代初期に焼失したものを、平成12年5月に復元したもので、古来の工法に基づいて建築され、四本柱に32体の天部の神々を描き、また、四方の壁には真言宗の八人の高祖を配しているとのことです。
 よほど三重塔や宝物殿を拝観しようかと考えましたが、もう一段上まで階段を上るのは厭だと、足が勝手に本堂へと向っておりました。



《宝厳寺弁才天堂》


弁才天堂

御朱印


 以下は、当寺のサイトによります。

 本尊の大弁財天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つで、その中で最も古い弁財天です。そのため、当山のみ「大」の字をつけ、大弁財天と称します。
 この本尊は、開山時(724年)聖武天皇の勅命を受け、僧行基が開眼したものです。内陣の壁画は、荒井寛方画伯によるもので正面の壁画を「諸天神の図」、側面を「飛天の図」と呼びます。

 なお、当寺の本尊弁財天は秘仏とされており、60年に一度御開帳となります。次回の開帳は2037年とのこと。
 また開創以来、本尊大弁才天を安置していた本堂は、明治の神仏分離の際に神社に引き渡した、神社本殿となったため、その後本堂がないまま仮安置の状態で経過していましたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。

 参拝を終え広場に出ますと参拝客が増えています。桟橋を見降ろすと新たに定期船が到着した模様、団体の巡拝客がやって来たようです。納経所を見ると添乗員らしい若い女の子が3人で、沢山の朱印帳を積み上げて右往左往しております。これはしまった、もっと早く納経を済ませておけばよかったと思っても後の祭り、仕方なく後ろに並んで順番を待ちました。四国の納経所でもこんなケースによく出会いました。けれども一人だけの遍路であれば、寺の方の気配りや添乗員の好意で先に割りこませてくださることが多くあったのですが、ここでは女の子は自分たちの納経に無我夢中。脇目も振らずといった様相でありました。
 四国遍路で納経所に並んだ折によく思ったことですが、このように添乗員がドサッと納経帳を持ちこんだ後になると、どうしても時間がかかってしまいます。それも修行であると言われればそれまでなのですが、考えて見ますに、これらの納経帳は持ち主がいません。すなわち実体がないと言えるのではないでしょうか。実体のないものが大きな顔をしているのはおかしいではないかと、ちょっと屁理屈をこねてみたくもなりますが、いやいや、そうではない。般若心経にも「色即是空、空即是色」というではないか。実体がないからこそこの世に存在しているのだ。などと自問自答しながら、納経所に並んでいたことを、ふと思い出しました。(前述しましたが、お四国の添乗員さんは、たった一人の遍路を待たせることをせず「この方を先にしてあげてください」と、親切にも順番を譲ってくださることが多かったです。)
 多少時間がかかりましたが、納経も無事終了。ここから恐怖の階段下りと相成ります。



本堂への階段

二の鳥居(扁額は厳金山)


 高所恐怖症の身にとって、登りより下りのほうが、下が見えるだけに恐怖が増幅される感があります。手摺にすがりながら何とか下界に下りて参りました。ヤレヤレ。
 なお、下山途中の二の鳥居の扁額には「厳金山(がんこんざん)」なる宝厳寺の山号が掲げられています(一の鳥居の扁額は「竹生島神社」でした)。この鳥居がいつ建てられたものか見忘れたのですが、これも神仏習合の名残といえそうです。
 70分の滞在時間は短いのではないかと思っていましたが、まだ十分に時間は残っていました。土産物屋さんをひやかしたり、船着場周辺をうろついたりして遊覧船の出発時間を待ち、帰りの船に乗り込んだ次第です。


 さて、謡曲『竹生島』のキリの詞章について、大角征矢氏よりちょっと興味深いお話を伺いましたので、以下にご紹介します。


「龍神湖上こしやうに出現して。龍神湖上に出現して。光もかかや金銀きんぎん珠玉しゆぎよくをかの客人まれびとに捧ぐる氣色けしき。ありがたかりける。奇特きどくかな  〈舞働〉
後シテ「元より衆生しゆじやう済度さいどの誓ひ  地「元より衆生済度の誓ひ。樣々なれば。或は天女てんによの形をげんじ。有緣うえんの衆生の諸願しよぐわんを叶へ。又は下界の龍神となつて。國土をしづめ。誓ひをあらはし。天女は宮中きうちうに入らせ給へば。龍神はすなはち湖水に飛行ひぎやうして。波を蹴立けたて。水をかへして天地にむらがる大蛇だいじやの形。天地にむらがる大蛇の形は。龍宮に飛んでぞ。入りにける


 上記の謡曲の詞章に現れる「かの客人」について、驚いたことには三通りの説があるそうです。これに関して大角征矢氏は『能謡ひとくちメモ』で紹介されているのですが、それを要約しますと、
 ① 〈客人〉とは「ワキの朝臣」とするもので、多くの注釈書がこの説を採用しています。
 ② 〈客人〉とは「神」とするもの。これは、和田萬吉(1865~1934)が『謡曲物語』において「さる程に時移りて夜に入れば、海上俄かに波風荒び、水底なる龍宮より龍神現れ出でて、四邊(あたり)まばゆき金銀珠玉を神前に捧ぐるさま、世離れて尊くも有難し。」となっていて、捧げる相手はワキではなく「神様」なのです。つまり、神前に捧げる有様を朝臣のワキが眺めている、という情景なのです。
 ③ 〈客人〉とは「釈尊」とするもの。これは『宝生流正本講義録』で以下のように述べられています。「かのまれ人に云々──これは龍神どもが湖上に出現して美々しく昌(さかん)なる有様は、かの釈尊に娑竭羅(しゃから)龍王の女(むすめ)が如意宝珠を捧げ奉りし光景も、かくやありけんと思はれて有難かりきとなり。文章少し詞(ことば)たらず。かのまれ人とは釈尊をさす。」となっており、〈客人〉すなわち「おしゃか様」という訳です。
 ①の説が普通の解釈だと思われますが、いろんな見方があるものですね。



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  (平成26年11月14日・探訪)
(平成26年11月30日・記述)


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