国道161号線の春日町の信号を右折し、京阪電車の踏切を越えると、「長安寺西国三十三所」と刻した石柱が建てられています。一瞬、この寺が西国の札所かと思いましたが、そんな筈はありません。恐らく(確認しませんでしたが)裏山あたりに西国霊場の本尊を祀った小祠のようなものがあり、ミニ西国三十三ヶ所になっているのだと思います。
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京阪電車の踏切を渡る
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参道左手の獣魂碑
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参道の石段の左手に「獣魂碑」と刻した大きな石碑が建てられていました。
長安寺ご住職のブログによれば、「近江牛は江戸初期より将軍家に献上した長い歴史があり、昭和初期には全国的に近江牛の肉質が最高であると認められ、昭和2年11月には大津周辺の家畜商や食肉商により長安寺境内にこれ又高さ5メートルにおよぶ、恐らく日本一の獣魂碑が建立され、さらに昭和12年が丁丑歳にあたるので由緒ある長安寺において、同年4月に全国食肉連合会が主催して盛大な牛供養が行われた」とのことでした。
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牛塔
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「獣魂碑」の反対側、参道の右手に「牛塔」と呼ばれる石造りの宝塔が建てられています。
この長安寺の牛塔については、京都新聞の「ふるさと昔語り」に詳しく述べられていましたので、以下に転載します。
大津市の西南端、国道1号から分岐した161号を少し北に走り長等公園の方に入ると、木立に囲まれた長安寺(大津市逢坂二丁目)の本堂へ続く階段が見えてくる。階段を上ると、その中ほどには「牛塔」とよばれる高さ3.3メートルの石造宝塔があり、昔、この一帯にあったとされる関寺の復興を助けた霊牛についての言い伝えが残っている。
逢坂関からその名をとったとされる関寺は、詳しいことは分かっていないが、大規模な寺だった。『長安寺由緒』によると、寺には平安時代の日本三大仏の一つとして5丈(約15メートル)の弥勒仏が安置されていたほか、巨大な楼閣や三重の塔もあったとされる。
しかし、天延4年(976)6月16日、畿内で大地震がおきた。『関寺縁起』などによると、このとき寺のお堂や大仏の多くが壊れてしまった。それから約40年後、恵心僧都源信(942~1017)らによって関寺復興工事が始まり、治安2年(1022)に、ようやく本堂が落成したとされる。
この工事のとき、京都の清水寺の僧が資材の運搬用に関寺に寄進した一頭の牛が大いに工事を助けたと伝えられている。
牛は琵琶湖の水運を利用して浜大津に集められた重い資材を運びながら逢坂峠の急な坂道を何往復もし、その働きぶりから人々の間には、「尊い牛だ」「仏の化身で寺の修復を助けに来たのだ」といううわさが立ち始めた。このうわさは京都へも広がり、藤原道長(966~1027)をはじめ、時の権力者が牛のもとを訪れ参拝するようになった。
万寿2年(1025)、関寺の工事がすべて終わると、牛は本堂の周りを右回りに三度回り、数日後には死んだと伝えられている。牛のこの行動について、長安寺の下村孟住職は「右遶三匝(うじょうさんそう)と言います。インドの言い伝えでは、修行僧が仏像に対して行う礼法です。信心深い牛だったのでしょうな」と解説する。牛の死後、供養のため、道長の息子の藤原頼通(992~1074)が石塔を建てたと伝えられている。
その後、関寺は、鎌倉時代に起きた山門派と寺門派の抗争や関ケ原の合戦などで焼失し衰退したとされる。江戸時代初めには関寺は時宗の長安寺へと名前を変え、石塔もこの寺へと引き継がれることになる。
現在では長安寺を訪れる人は少ない。しかし下村さんは「石塔はかつての寺の隆盛と霊牛の雄々しさを伝えている」と話している。
この牛塔(長安寺宝塔)は重要文化財に指定されています。
石段を登りきった正面に庫裏があり、左手に小ぶりですが本堂があります。その中間に小町の供養塔や百躰地蔵などが祀られていますが、全般に侘びしいという感を否めません。
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本堂
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百躰地蔵
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本堂といえば聞こえはよいのですが、お堂に毛の生えたような建物がひとつ、ポツンと建てられています。お堂の正面には「牛佛(迦葉佛)、関寺遺跡、時宗長安寺」と書かれた木の札が掲げられているだけです。お堂の右側には「関寺遺跡 長安寺」とした説明書きがありました。
長安寺の前の名称関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった大寺院である。平安時代、日本三大仏の一つ関寺大仏は特に有名である、鎌倉時代、時宗宗祖一遍上人が遊行し「おどり念仏」を奉納。慶長の兵火に罹災の後、寺の名称を長安寺と改め時宗に属し、現在は小堂を残すのみである。又江戸時代長安寺水道として地域に給水を行っていた。
また本堂の右手の百体地蔵は、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちの戦乱などで、比叡山麓(大津市坂本)に埋もれていたものを、昭和35年に当寺へ百体移したということです。
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小町供養塔
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百体地蔵の隣に小町供養の五輪塔があり、「謡曲『関寺小町』と牛塔」として、謡曲史跡保存会の駒札が建てられています。
謡曲『関寺小町』は、老衰した小町がなお優秀な歌人として風雅で上品な気質であることを素直に描いた老女物の秘曲である。
或る年の7月7日、近江国関寺の住職が稚児を連れて山かげに住む老女の許へ歌物語を聞きに行った。老女は僧に請われるままに歌物語をはじめた。その言葉の端から彼女が小野小町であることが分かった。
小町は、わが詠歌を引いて昔の栄華を偲び、今の落魄を嘆いた。寺の七夕祭に案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞った。
この牛塔は関寺建立の際、工事を助けるために現れた「霊牛」を供養するために建てられたといわれる日本で最古最大の宝塔で、芸術上からも立派な重要文化財である。その他残る物とて何一つないが、かえって老女小町の隠棲地にふさわしくさえ思えてくる。
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一遍上人供養塔
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超一房供養塔
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小町の供養塔の隣には、一遍上人と超一房の供養塔があります。以下は当寺ご住職のブログで一遍上人と関寺の関係、および超一房について紹介されていますので、以下に転載します。
まず、一遍上人と関寺について。
関寺と時宗との関係は、弘安6年(1284)に時宗宗祖一遍(1239~89)が入洛に際しこの関寺に逗留している。このことについて国宝『一遍聖絵』第七には、再建中の関寺堂舎の様子が画かれている。そして、一遍は、関寺にある池(関清水)の中州に踊り屋を設け、七日間の踊り念仏を行っている。
「又、関寺へ入り給し時、園城寺よりしかるべからざるよし、制止ありとて、其夜は関 のほとりなる草堂にたちより給しほどに、化導のおもむきゆへなきにあらずとて、衆都のあるされありしかば、関寺に七日の行法をはじめ給き。あまさへ智徳たち対面法談ありて、聖の余波をおしまるるによりて、今二七日延行せられ侍き」
とある。その事情を含め推察すると始めは逗留を制止するも、霊夢をもって逗留を許可している裏側には、一遍による踊念仏が関寺再興勧進に必要不可欠だったのではないだろうか。
続いて、超一房に関する記述です。
この「超一房供養塔」は、平成14年7月に先代住職により建立されたものです。
時宗宗祖一遍上人の生涯を描いた国宝『一遍聖絵』(清浄光寺(遊行寺)蔵)によると、文永11年(1275)に一遍上人が遊行の旅に出た際、同行した3名の中にこの超一房がいました。
一遍上人と超一房との関係については、さまざまな説があります。正妻、側室等の説があり、小説などで取り上げられています。しかし、『一遍聖絵』では、一遍上人と同行した超一房を含む3人との関係についてあえて記していません。
この長安寺の前身である関寺には、弘安6年に一遍上人と時衆が逗留し、踊り念仏が厳修されている様子が『一遍聖絵』に描かれています。さて超一房は、一遍上人の時代から記されていた『時衆過去帳』によれば、この関寺逗留の頃、亡くなっているのです。そのため、長安寺には、この超一房の供養塔が建立されたのです。
長安寺の小町の旧跡に別れを告げ、『蝉丸』の謡蹟を訪うべく国道161号線を南下、関蝉丸神社下社に到着しました。
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関蝉丸神社の小町塚
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関蝉丸神社の本殿裏山には「小町塚」があります。
石碑の上部に横書きで「小町塚」と刻まれ、その下に、
花濃以呂は宇つりにけりないたづらに わず身世にふるながめせしまに
と彫られているということなのですが、よく判読できませんでした。
下図は、長安寺と関蝉丸神社下社を描いた「近江名所図会」です。蝉丸宮の社殿の右手に“小町庵”が描かれています。これは現在の小町塚の位置とほぼ合致します。現在では庵は退転しましたが“小町塚”として存続しているのではないでしょうか。
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近江名所図会
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また、逢坂峠を越えた京都市との境にある月心寺には、小町の百歳堂があると聞いていましたので、蝉丸三社を訪ねたその足で月心寺を訪問したのですが、門扉は堅く閉ざされ参拝することは叶いませんでした。
期待していただけに残念至極でありましたが、『関寺小町』と『蝉丸』の謡蹟探訪に終止符を打ち、重い足を引きずりながら山科駅へと向った次第です。
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