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摂津・江口君堂普賢院 〈江口〉


 2016年10月11日、謡曲『江口』の謡蹟である、江口君堂普賢院寂光寺を訪れました。
 府道16号線の「江口の君堂前」のバス停のある交差点の東南側に「江口の君堂参道」の標識が建てられています。府道をそのまま北進すると神崎川に到達し、江口橋が架かっています。
 標識のある交差点から300メートルほど東に進むと、淀川の堤防から少し入ったところに、お目当ての「江口の君堂」があります。


江口橋

「江口の君堂参道」の標識


江口君堂周辺地図



 地図を眺めて見ますと、この地は京都から淀川を下るとき、神崎川の合流点にあり、瀬戸内海から難波を経て京に向かう人々は、一旦此処で船を下りて川船に乗り換えたそうで、東西の交通の要衝地点として非常に賑わった宿場でした。またそのような宿場には必然的に遊女街がさかえ、旅人のみならず平安貴族たちも都から淀川を下り、この歓楽街で遊女達と船遊びを楽しんだものと想像されます。

 以下は、脇田晴子『女性芸能の源流』(角川選書、2001)からの引用ですが、大江匡房(おおえのまさふさ)の『遊女記』には、次のように記されています。

 山城の国の淀津から大川に浮かんで西に一日行くと河陽(かや・現在の山崎)の地に着く。これは山陽・西海・南海の三道 を往来するものはこの道を通らざるを得ない。淀川を南したり西したりして河内の国にむかって江口に着く。それから摂津国に着いて、神埼・蟹島(かしま)などの地に着く。門を並べ、戸を連ねて、人家が絶えるところがない繁華な地である。倡女が群れをなして、扁舟に棹さして旅舶につけて枕席を薦める。声は素晴らしく、韻(しら)べは水風に漂うようである。天下第一の楽しき所である。


 江口や神崎の遊女たちは、大江匡房が「扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む」と記したように、舟遊女でした。このことから遊女というのは、舟遊女のことだという人もあるくらいだが、初期には舟遊女から始まったとしても、のちのちまで舟遊女には限らないと思う、と脇田女史は同書で述べています。



《宝林山普賢院寂光寺》  大阪市東淀川区南江口3-13-23

 「江口の君堂参道」の標識から数分歩くと、右手に「江口の君堂普賢院」の石柱の建つ小さな門があり、そのままゆるやかな坂を進んで右折すると境内が見渡せる高所に「江口の里」の石柱が建てられています。これは昭和37年に市制施行70周年を記念して大阪市によって建てられた記念碑です。
 ただ、あいにくこの日は本堂が改修工事中で、写真撮影が思うに任せず、残念な結果となりましたが、幸い数年前に当寺を訪れたことがあり、その折撮影したものがありましたので、その写真を一部使用しています。


「江口の里」の石柱から境内を俯瞰



境内

北門の石柱


 「江口の里」の石柱の横から境内への階段があり、本堂へと導かれます。
 鐘楼の前に波多野青畝の句碑が建てられています。波多野青畝(明治32年~平成4年)は奈良県の人。高浜虚子に師事し、昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギス」の4Sと称されています。
 関西語特有の滑らかな調子で、万葉の古語や雅語を生かした独特の美と飄逸味のある句を作っています。眼前のものをそのまま書き写すのではなく、相応しい言葉を取り出して写実風景を一句の上に構成するという手法をとっており、「客観写生」に濃やかな主観を調和させたおおらかな句風でした。

  流燈の帯の崩れて海に乗る


波多野青畝句碑

鐘楼

 本堂正面には「寶珠山」の扁額が、前方の柱には「普賢院」と「江口君堂」の札が掛かっています。本堂の中には、江口の君妙女が自ら刻んだという彫像が安置されているようです。


本堂

御朱印

 以下は、本堂前に掲示されている、達筆で板書された当寺の由緒書きで、昭和29年に梵鐘が再興されたのを記念して作成されたもののようです。

 当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君、これを草創せしを以って、一つに江口の君堂と称す。
 抑も江口の君とは、平資盛の息女にして、名を妙の前と言い、平家没落の後、授乳母なる者の郷里即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを欺き、後遂に往来の船に棹の一ふしを込め、秘かに心慰さむ浅ましき遊女となりぬ。
 人皇第七十九代六條帝の御宇、仁安二年長月二十日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へと詣でての道すがらこの里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待の間仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、されば西行なんとなく
   世の中をいとふまてこそかたからめ かりのやとりをおしむ君かな
と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて
   世をいとふ人としきけは仮の宿に 心とむなとおもふはかりそ
と返し、ついに一夜を佛の道のありがたさ、歌をたしなむおもしろさを語り明かしき。かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬を後にして、雪月花を友とする歌の旅路に立ち出ぬ。出離の縁を結びし遊君妙女は心移さず常に成佛を願う固き誓願の心を持ちおれば、後生はかならず救わるべしと深く悟り、後佛門に帰依して、名を光相比丘尼と改め、此の地に庵を結びぬ。又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と雖も菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ、貴婦賎女の至遊君白拍子の類いをも遍く無上道に入らしむ結縁とし給う。
 かくて元久二年三月十四日、西嶺に傾く月と共に、身は普賢菩薩の貌を現わし、大牙の白象に来りて去り給いぬ。御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ。終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。
 去る明応の始め、赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、この霊像を一七日信心供養せられければ、菩薩の御誓違わず、夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば忽ちち平癒を得たり。
 爰に想うに妙の前の「妙」は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。さればこの君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の楽を極めんこと疑いあるべからず。其の後元弘延元の乱を得て堂舎佛閣焦土と化すも宝塔は恙く宝像も亦儼然として安置せり。正徳年間普聞比丘尼来たりて再建す。即ち現今のものにして、寺域はまさに六百六十余坪、巡らすに竹木を以てし幽遠閑雅の境内には君塚・西行塚・歌塚の史蹟を存す。
 然れども当寺に傳わる由緒ある梵鐘は遠く平安朝の昔より淀の川を往き交う船に諸行無情を告げたりし程に、図らざりき過ぐる大戦に召取られ、爾来鐘無き鐘楼は十余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも只管再鋳の日を発願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の護持に微力を捧げんとする有志相集い、梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより弘く十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得て、聞声悟導の好縁をむすぶを得たり。(昭和二十九年九月完成)

 この由緒書きや他の文献にによれば、当寺は遊女妙の草創になるものとされています。ただし、この妙なる遊女は平資盛の息女とされていますが、西行は資盛の祖父である平清盛とほぼ同世代の人物ですから、時間的なずれが大きくかなり無理があります。こういう由緒はかなりいい加減な内容が多いのですが、妙を平資盛の息女とせず、せめて清盛の娘くらいに位置づけておけば、それなりによかったのではないかと思います。

 さて、西行と遊女の出逢いや歌の相聞については、『撰集抄』や『古今和歌集』などに遺されています。
 以下、『撰集抄』の「江口の遊女歌之事」より。

 過ぬる長月の廿日あまりのころ、江口と云所をすぎ侍りしに、家は南北の岸にさしはさみ、こゝろは旅人の往来の舟をおもふ遊女のありさま、いと哀にはかなき物かなと、見たてりしほどに、冬を待えぬむらしぐれのさら暮し侍りしかば、けしかる賤がふせ屋にたちより、はまれ待つまの宿をかり侍りしに、あるじの遊女ゆるす氣色の侍らざりしかば、なにとなく
  世の中をいとふまでこそかたからめ假のやどりを惜しむ君かな
とよみて侍りしかば、あるじの遊女、うちわびて、
  家をいづる(又は、世をいとふ)人とし見れば假のやどに心とむなと思ふばかりぞ
とかへして、いそぎ内にいれ侍りき。たゞ、しぐれのほどしばはの宿とせんとこそ思ひ侍りしに、此歌のおもしろさに、一夜のふしどとし侍りき。
 此あるじの遊女は、いまは四十あまりにもやなり侍らん。みめことがらさもあてやかにやさしく侍りき。よもすがら、なにとなき事ども語りし中に、此遊女の云やう、「いとけなかりしより、かゝる遊女となり侍りて、とし此、そのふるまひをし侍れども、いとけらく覺えて侍り。女はことに罪ふかきとうけ給はるに、このふるまひをさへし侍る事、げにさきの世の宿習のほど、おもひ知られ侍りて、うたてしく侍りしが、この二三年は此心いとゞふかくなり侍りしうへ、としたけ侍りぬれば、ふつにそのわざをもし侍らぬに侍り。おなじ野寺の鐘なれども、ゆふべは物のかなしくて、そゞろに涙にくらされ侍り。此かりそめのうき世には、いつまでかあらんとすらんと、あぢきなふおぼえて、あかつきには心のすみて、わかれをしたふ鳥の音なんど、ことにあはれに侍り。しかあれば、夕べには、こよひすぎなばいかにもならんと思ひ、あかつきには、此夜あけなばさまをかへて思ひをとらんとのみ侍れども、年へて思ひなれにし世の中とて、雪山の鳥のこゝちして、いままでつれなくてやみぬるかなしそよ」とて、しやくりもあへず泣くめり。この事きくに、あはれにありがたく覺えて、墨染の袖しぼりかねて侍りき。夜あけ侍りしかば、名殘はおほく侍れども、再會をちぎりて別れはべりぬ。
 さて、かへる道すがら、貴くおぼえていくたびかなみだをもおとしけん。いまさら心を動かして、草木を見るにつけても、かきくらさるゝこゝちし侍り。狂言綺語(きょうげんきぎょ)のたはぶれ、讃佛乘(さんぶつじょう)の因とはこれかとよ。かりの宿をも惜しむ君かなといふ腰折を、われよまざらましかば、此遊女やどりをかさざらまし。しからば、などてかかゝるいみじき人にもあひ侍るべき。この君故に、我もいさゝかの心を須臾ほどおこし侍りぬれば、無上菩提の種をも、いさゝか、などか兆さざるべきとうれしく侍り。  (以下略) (西尾光一校注『撰集抄』岩波文庫、1970)


 上記の『撰集抄』の説話について、白洲正子はその著『西行』(新潮文庫、1996)において、次のように述べています。

 この説話の主旨は、「狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因」という思想にあり、これは和漢朗詠集の白楽天の詩に出ている。原文は長いので略すが、美辞麗句をもって人を惑わす言葉も、仏法を賛美する起因となるの意で、遊女が客を魅惑することも、西行が歌を詠むことも、すべて狂言綺語の戯れであり、そういう罪を仏法に転換することによって、自他ともに救われる。明恵上人の伝記の中で、西行が、「我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しここに至らずして、妄りに此の道を学ばば邪路に入るべし」といったのもそういう意味で、ここにいう「法」しは、必ずしも仏法ではなく、いかに生くべきかという自己発見の道であったと思う。
 江口の遊女は、長年たずさわっていた売色の経験により、人間の真実に目覚めたので、それは正しく泥中に咲いた花の一輪にたとえられよう。そういう曰く言いがたい人生の機微を、みごとに表現したのは室町時代の猿楽である。舞台芸術は、文字どおり「狂言」であり、「綺語」であって、美しい舞と歌によって見物を魅了して行く間に、おのずから法悦の境に導かれる。能の思想は、幽玄と花にあると一般には思われてえり、私もそう書いたことがあるが、それらは外に現れるテクニックの問題で、底流にあるのは「狂言綺語は讃仏乗の因」しいう信念に他ならない。実際にも、謡曲の中では、お題目のようにくり返し謳われる詞なのである。

 この物語は『摂津名所図会』にも紹介されています。

君堂
江口里にあり。日蓮宗寶林山寂光寺普賢院と号す。女僧住職す。
江口君像、本堂に安ず。長一尺ばかり。その外、普賢菩薩の尊像、境内に西行塔・江口君の墓・西行桜あり。また什寶に西行真蹟の和歌あり。
  山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれはしらん物かは  西行
当寺の由縁、旧記に聞こえず。恐らくは江口の謡曲の文義を種として、後世いとなみし佛場なり。かの文に西行と和歌贈答の後、江口君は普賢菩薩と現れ船は白象となりて西の空に入るの趣向なり。これは、同じく『撰集抄』に書写山の證空上人播州室津の遊女を見て閉目観念したまへば、たちまち遊女普賢菩薩と見え、また眼を開けばもとの遊女なり。これを江口の遊女に准えて謡の文句を作したり。またそれをこの寺に種として普賢院君堂と号す。右に引書するがごとく、江口の遊女の和歌古実は、『新古今集』『江家次第』、江口尼の事は、西行の『撰集抄』等より外に証とすべき旧記いまだ見来らず。


江口遊女妙
歌塚とて『新古今』贈答の和歌を石刻して、江口村南川堤の上に建つる。北の方、西行法師の歌。南の方、遊女妙の歌。東の方、法華首題七字、賜紫日顕の書判。西の方、当山法華霊場宝林山寂光寺君堂造立の志は如月院妙耀日近信士の菩提と為す。
『新古今』 天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ、江口にやどなかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける。
    世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりををしむ君かな  西行法師
 同  世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなとおもふばかりぞ   遊女妙

 本堂の前には、君塚と西行塚が並んで祀られています。


西行塚と江口の君塚


 手水舎の右手に、西行と妙の歌塚があります。元久2年(1205)と刻されており、江戸時代の好事家が淀川堤に建てたものですが、明治39年(1906)の淀川改修で川底になるため、寂光寺境内に移転されたとのことです。
 正面には「南無妙法蓮華経」のお題目。向かって右面には、西行の「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」が、左面には、妙の「世を厭ふ人とせ聞けば仮の宿に 心を止むなと思ふばかりぞ」の歌が刻まれています。


西行・妙の歌碑と謡曲史蹟保存会の駒札

右面・西行の歌

左面・妙の歌



 上記の『撰集抄』などに取材して作られたのが、謡曲『江口』です。


   謡曲「江口」梗概
 本曲の作者は世阿弥の書に「江口遊女、亡父曲」と記してあり、観阿弥作曲であることを示している。特にクリ・サシ・クセは古く独立した謡い物として存在したとされ、その作者は観阿弥と考えられている。しかしまた世阿弥の女婿の禅竹の作とする説があるのは、禅竹は一休の弟子で、一休の『狂雲集』に「江口美人勾欄曲に題す」という詩があり、これを禅竹に与えたといわれていることによる。さらに世阿弥とする説も有力である。本曲は『撰集抄』や『新古今和歌集』にある西行と遊女妙の贈答歌を縦糸に、『撰集抄』や『十訓抄』にある性空上人の説話を横糸に構成されたものである。(性空上人の説話は後述)
 諸国一見の僧が、都から天王寺に向かう途中江口の里に立ち寄り、遊女江口の君の旧跡を弔い、むかし西行法師がここで宿を断られ「世の中を厭うまでこそ…」と詠んだ歌を吟ずると、一人の女が現われ、それは宿を惜しんだのではなく、世捨て人の女の家に泊めまいとしたのだと言って、なお弁解していたが、自らはその江口の君の幽霊であると言って消え失せた。
 旅僧がその跡を弔っていると、月澄みわたる水上に、江口の君が他の遊女たちと舟に乗って現れ、むかしの川逍遥のさまを見せたり、遊女の境涯を述べた歌を謡い、舞を舞って見せたりしていたが、やがてその姿は普賢菩薩と変じ、舟は白象となり、白雲に乗じて西の空へと消えていった。

 後場で舟の中央に小宮を載せた屋形船の作り物を、舞台常座あるいは橋掛に出し、〈一声〉で後シテがツレを前後に随えて登場、シテは胴の間に、ツレの一人は舳に、他の一人は水棹を持って艫に立ち、月の夜に川舟を浮かべて歌い舞うさまを表す。〈一声〉のあと〈上歌〉を地謡が謡うのは本曲のみである。
 『江口』は「真の女能」とも称し、代表的な鬘物として扱われる。全体に仏教的な雰囲気が強いが、一方で艶麗さをたたえた気品の高さで貫かれた作品でもあり、遊女すなわち普賢菩薩という意識を盛り込んだところに特徴がある。
 西行は『雨月』『西行桜』や最近復曲された『松山天狗』、また金春流の『実方』に、いづれもワキ僧として登場するが、本曲では実質的には中心人物でありながら、直接登場することはない。


 『江口』を構成する要素である、西行と遊女妙の贈答歌については前述しました。もう一つのテーマである「性空(しょうくう)上人の説話」について、白洲正子『西行』に『撰集抄』の該当箇所が記されていますので、以下に引用します。

 性空上人は「書写山の上人」とも呼ばれた有徳の僧で、生身の普賢菩薩を拝みたいと念じていた。一七日の精進の末、室の遊女の長者を拝めという霊夢をうけ、直ちに室の津を訪ねた。長者というのは、遊女の頭の意味である。彼女は快く招じ入れ、上人に酒をすすめて、舞を舞った。
   周防(すはう)みたらしの沢部に風音信(おとづ)れて
と長者が歌うと、並みいる遊女たちが囃す。
   ささら浪立つ、やれことつとう
 これこそ生身の菩薩よと念じて、上人は目をふさぎ、心を静めて観ずると、世にも美しい菩薩が白象に乗って現れ、
   法性無漏(ほつしやうむろ)の大海には、普賢恒順の月光ほがらかなり
と、玉のような声で歌っている。再び目を開いてみると、以前と同じ遊女が「ささら浪立つ」と囃しており、目を閉じるとまた菩薩が現われる。何度もそういうことをくり返して、法悦にひたった上人が、いとまを述べて帰ろうとすると、一町ばかり行ったところで、長者は頓死してしまった。室の長者は、普賢菩薩の化身であった。

 『十訓抄』の説話も、ほぼ同様の内容ですがが、こちらは室ではなく神埼の遊女となっています。この逸話は『古事談』にものっていますので、当時は有名な霊験譚であったのでしょう。これらから『江口』が構成されていったものと思われます。

 それでは謡曲『江口』のキリを以下に。


ワカ シテ實相じつさう無漏むろの大海に。五塵ごじん六欲ろくよくの風は。吹かねども  地隨縁ずゐえん眞如しんによの波の。立たぬ日もなし立たぬ日もなし  シテ「波の立居たちゐも何故ぞ。假なる宿に。心とむるゆゑ  地「心とめずは浮世うきよもあらじ  シテ「人をも慕はじ  地「待つ暮もなく  シテ「別れも嵐吹く  地「花よ紅葉もみぢよ。月雪つきゆきのふることも。あら由なや  地「思へば假の宿に。心とむなと人をだに。いさめし我なりと。これまでなりや歸るとて。即ち普賢ふげん菩薩ぼさつとあらわれ舟は白象びやくぞうとなりつゝ。光と共に白妙の白雲にうち乘りて西の空に.行き給ふありがたくぞおぼゆるありがたくこそは覚ゆれ



 遊女が普賢菩薩となり、白象のうち乗って西の空に消えてゆく、本曲のハイライトです。
 このところを詠んだ川柳があります。私の好きな句の一つです。

  普賢ともなろう四五日前に買い

 まさか自分の相方の女郎が普賢菩薩の化身であったとは!?。それを知らずに買って、後で驚いた男もいたことでしょう。



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  (平成28年10月11日・探訪)
(平成28年11月29日・記述)


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