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甲州身延山・久遠寺 〈身延・現在七面〉


 2016年11月9日、謡曲『鵜飼』の謡蹟を山梨県石和の遠妙寺に訪れ、その夜身延に入り宿泊、明10日、日蓮宗の総本山である久遠寺に参拝いたしました。当山は謡曲『身延』と『現在七面』の謡蹟でもあります。ただし、『身延』は観世流のみ、『現在七面』は金剛流と観世流のみの現行曲で、若干マイナーな感は否めません。
 当初は、可能であれば七面山へも登りたいと考えておりましたが、宿で話を伺うと、七面山への交通機関は無く麓から徒歩での登頂となり、5時間ちかくかかるとのことで、残念ながら断念せざるを得ませんでした。

久遠寺周辺地図



   

《身延山久遠寺》  山梨県南巨摩郡身延町身延3567

 文永11年(1274)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き、西谷の地に草庵を住処としました。このことにより、文永11年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)に本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。

 下の「久遠寺案内図」をクリックすると、寺の地図が別窓で開きます。

久遠寺周辺案内図


 先ずは、日蓮が最初に庵を結んだ、久遠寺草創の地である西谷に参拝します。
 当所には、日蓮のご廟所と草庵の跡が、久遠寺草創の聖地として守られています。
 拝殿の奥にある八角の塔が祖廟塔で、日蓮の「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との遺言により建立された日蓮上人の廟墓です。日蓮の廟慕なので“祖廟”とも称し、恋慕渇仰する信徒の参詣が絶えません。

 ここで日蓮について、その生涯を簡単に眺めてみます。

 承久年(1222)に安房国長狭郡に生まれる。天台寺院清澄寺で道善房を師として出家、のち延暦寺などに遊学、ついに釈尊の出世の本懐は一切経のなかでただただ法華経にある、だから諸経を捨てて専持法華経,その法華経の眼目である題目を専唱すると,善悪人・男女・老若・俗世の貴賤や貧富の差別なく,すべての人は成仏できるとの確信に到達し、建長5年(1253)法華信仰の弘通を開始する。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため,浄土教徒に圧迫され同寺を退出,弘通の場を鎌倉に求めた。そのころ地震,疫病,飢饉等災害が続出し,日蓮はこの原因を法然浄土教の流布と人々の法華信仰の棄捨によるものとし,浄土教徒への資援禁止と法華信仰への回帰を対策として,これを『立正安国論』にまとめ,文応元年(1260)前執権の北条時頼に提示した。
 日蓮は幕府の宗教政策を非難し諸宗を攻撃したので、しばしば念仏者に襲われ、幕府もまた日蓮を伊豆に、次いで佐渡に流した。佐渡赦免後の文永11年(1274)甲斐国身延山に隠栖、以後は主に著述と弟子の養成に当たった。弘安5年(1282)常陸国に向け身延山を出立、その途上武蔵国池上(現・東京都大田区)において61歳の生涯を閉じた。
 日蓮はその生涯幾多の法難に遭遇しているが、その最たるものは文永8年(1272)の龍口法難である。一説によれば、龍口でまさに処刑される瞬間、太刀取りの白刃が振り上げられた瞬間、突如として発光体が現われ、太刀取りは目がくらんで倒れ、兵達は怖れをいだい逃げ去り、ついに日蓮の生命を奪うことができなかったといわれている。

 余談になりますが、この法難の挿話で思い出すのが謡曲『盛久』です。盛久は日蓮と同じく刑場に引き出され、まさに斬首されんとしたとき、太刀取りの刀が折れ盛久は助命される、これは日頃信心している観音菩薩の加護であるというものですが、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」に「或遭王難苦、臨刑欲壽終、念彼観音力、刀尋段段壊」とあり、経文に示されたことが具現化するというストーリーです。盛久の挿話は日蓮の龍口法難と何らかの関連性があるのではないかと想像しています。


祖廟拝殿


 祖廟塔には日蓮上人の入滅時に建立された五輪の墓が収められ、塔の右手には身延山歴代の墓が並び、左手には富木常忍の母、阿仏房日得、南部実長公の墓があります。
 祖廟を拝礼するための建物が拝殿で、千鳥破風、御所向拝丸太造檜皮葺の造作となっています。殿内の頭上に掲げる「立正」の大額は、昭和天皇より賜った勅額で、大正天皇より日蓮上人に賜った「立正大師」の贈り名にちなんだものです。


祖廟塔(パンフレットより)

拝殿の「立正」の額


草庵跡(パンフレットより)


 拝殿より一段低く、石造りの玉垣に囲まれた方形の芝が、日蓮がその晩年の9ヶ年を過ごした草庵の跡です。日蓮はこの地で、法華経の読誦、弟子の教育のための法門の談義、膨大な著述の執筆などに明け暮れました。
 室町時代、第11世日朝の時に、狭隘となったこの地から現在地へと移転しましたが、この草案の跡は聖地として守られ続けています。


 西谷より取って返し、山門から本堂等の諸伽藍へ参拝いたします。



三門


 当山の山門は、空・無相・無願の三つの門を経て覚りに至ることから、本堂を覚りの世界に見立て、本堂に至る正面のこの門を“三門”といいます。
 26世日暹(にっせん)の代の寛永19年(1642)に建立されましたが焼失し、現在の門は明治40年(1907)に、78世日良によって再建されました。掲げられる「身延山」の扁額は79世日慈の筆になるものです。


本堂に続く菩提梯(パンフレットより)

宮沢賢治歌碑


 三門から本堂へは高さ104メートル、287段の石段が、雲をつくようにそびえています。26世日暹の代の寛永9年(1632)に、佐渡島の住人仁蔵の発願によって起工、完成したものです。菩提梯と呼ばれていますが、覚りに至る階段を意味し、この石段を登り切ると、涅槃の本堂に至ることから、覚りの悦びが生ずることを意味しています。しかしながら気が遠くなりそうな高さでした。
 石段の右手に宮沢賢治の歌碑が建てられていました。

  塵点(じんてん)の劫をし過ぎていましこの妙のみ法にあいまつりしを

 宮沢賢治は法華経の熱烈な信者でした。「塵点の劫」は、仏教用語で天文学的に長い時間のことで、その時を越えて法華経の教えにめぐりあえたという感激を詠んだもので、賢治自身の筆跡を写刻しています。
 賢治の歌碑の右には「生命の充実したものは美しい」という碑が建てられていましたが、作者は判読不能でした。



本堂

御朱印

 本堂は明治8年(1875)の大火で焼失して以来、その再建は身延山久遠寺の悲願でした。日蓮上人七百遠忌の記念事業として、90世日勇の代の昭和60年5月に入仏落慶式が行なわれました。総坪数970坪(3201㎡)、間口32メートル、奥行51メートルで一度に2500人の法要を奉行できます。ご本尊は江里宗平仏師の作、外陣の天井画「墨龍」は加山又造画伯の畢生の力作です。


祖師堂

 祖師堂は日蓮上人の尊像を奉安するお堂で、祖師の御魂が棲んでいるという意味で「棲神閣」と称しています。11代将軍徳川家斉が天保7年(1836)に建立し、5年後に廃寺となった鼠山感応寺の堂宇を、明治14年(1881)に74世日鑑の代に移築し、同年宗祖第六百遠忌をここで奉行しました。内陣正面の虹梁にある立正の勅額は、昭和6年宗祖第六百五十遠忌のとき、天皇陛下より日蓮上人の御廟へ下賜せられたものです。


鐘楼と五重塔

開基堂


 身延山久遠寺の大鐘は、徳川家康の側室お万の方が寄贈したと伝わるものです。大晦日の夜にのみ、先着1000名の一般の方も撞くことが出来るそうです。
 開基堂は、鎌倉時代中期の御家人で日蓮の有力壇越である南部実長をお祀りしています。南部実長は出家し、法寂院日円と改名しました。以前は本堂前にありました。身延町指定文化財。


拝殿

仏殿


 日蓮上人の御真骨を奉安する御真骨堂は、白亜の八角堂と拝殿からなっています。11世日朝の代の文明6年(1474)に、西谷から現在の地に移築されました。現在の八角堂と拝殿は、74世日鑑の代の明治14年に再建されたものです。
 仏殿は、昭和6年、日蓮上人の650遠忌を記念して、81世日布の代に建立されました。


甘露門

時鐘


 甘露門は明治初年に建立されました。扁額は元・元老院議官であった中村正直の筆になるもの。甘露の語源は「法華経観世音菩薩普門品第二十五」の中の「澍甘露法雨」からきており、観世音菩薩が私たちを救うために甘露の雨を降らすという意味です。
 時鐘は明治10年(1877)に建てられましたが、昭和27年に焼失。その後、大映の社長・映画プロデューサーであり、熱心な日蓮宗信者でもあった永田雅一氏によって再建されました。



 さて、下界での参拝を済ませて、いよいよ山上にある奥之院へと向かいました。奥之院へは数キロメートルのハイキングコースもあるようですが、専用のロープウェイが運行されています。地上駅に近づいて、山上を眺めやれば結構な高さがあります。パンフレットによれば、このロープウェイは「関東一の高低差763m、眺望絶景!、7分間の空中散歩」というここですが、あいにく私は高所恐怖症で、足が地についていない、この手の乗り物は大の苦手です。おまけに朝まだ早く、乗り場には客の姿もありません。登りたいが気が乗らないな、とやあらん、かくやあらんと悩むうちに始発便の出発時間となりました。ちょうどそこへ一人の若者が現われ、幸いなことに同乗することとなりました。ただ、この日は風が強く、平常であれば7分のところを10分かけて運行するとのことで、若干遅れての出発となりました。


奥之院へのロープウェイ




 山頂の展望台からは富士山が望まれます。ここ身延山山頂展望台からの景色は「関東の富士見百景」にも選定されています。山頂には四方に展望台が設けられており、富士山以外にも、駿河湾・南アルプス・八ヶ岳連峰などの絶景を満喫することができるようです。


山頂より富士山を望む


 奥之院思親閣へ参拝いたします。黒木の門柱の手前に日蓮上人の立像が建てられています。これは日蓮上人が故郷の房州を遥拝されているさまを現しており、昭和10年に建立されたものです。
 仁王門に続く石段の傍らに、樹齢700年を超える“お手植え”の老杉があります。これは日蓮上人が両親と恩師道善坊の墓に、追善供養のため手づから植えられたもので、近年では長寿のパワースポットとして信仰されているようです。


奥之院入口


日蓮上人立像

お手植えの杉


 奥之院思親閣は、日蓮上人が身延山に隠棲した9ヶ年の間、風雨を厭わず身延山の山頂に登り、故郷の房州小湊を拝し両親を慕われたという故事に因んで建てられたものです。




奥之院思親閣仁王門


 本院本堂前の仁王門(二天門)を移転したものです。六浦平次郎入道の建立で、天和年間(1681~83)31世日脱の代に本堂域から移転されました。仁王像は日脱の開眼です。門の前の石段は昭和45年に造営されました。


思親閣祖師堂

御朱印


 身延山より西の方角、山を一つ越えた彼方にあるのが七面山です。海抜1982mの山頂には、法華経信徒の守護神である七面大明神が奉祀されており、山頂にある敬慎院には2千名の参詣者が参籠できる施設となっています。
 この山は、徳川家康の側室である養珠院お万の方によって女人禁制が解かれました。お万の方は、紀州藩祖徳川頼宣・水戸藩祖徳川頼房の実母で、家康没後に出家し養珠院と名乗り、法華経を加護し日蓮宗の寺の発展に寄与しています。お万の方は身延町大野にある本遠寺に埋葬されています。
 敬慎院に祀られる七面大明神は七面天女とも呼ばれています。七面天女については以下のような説話が伝えられています。(『身延山・七面山参拝案内』鎌倉新書、1999)

 京に住まいする公家の藤原師資は子宝に恵まれず、厳島神社に祈願したところ、師資の妻は「昇天する龍が宝珠を呑む」夢を見る。まもなく妻は身ごもり、美しい姫が生まれた。成長した姫は、ある日重い病に罹り、一向に治癒しない。そこで厳島神社に祈念したところ「東方の甲斐国波木井郷に七つ池の霊山がある。そこは毘沙門天の城・釈花福光の吉祥天をうつした霊境で、七宝金婆の池には天竺の無熱池の水をたたえている。この水で浄めれば病は平癒するであろう」との神託を得た。姫が七面山に入り、一の池で体を浄めると病はたちどころに平癒した。姫の肌の輝きが水面に映えたとき、姫は「私はこの池に棲む因縁があるのです」と言い、池に飛び込んだ。その途端、巨大な龍が姿を見せ「末法の世に現れて法を守らん」と言いおいて姿を消した。姫は龍神となり、七面山のご来光と白雪を吸収して、七面天女といわれる女神にと姿を変えていった。
 時は下って、身延山で日蓮上人が高座石に坐して説法を行っていると、若い女性が現われ説法の座に着き上人を礼拝した。信徒たちは不審に思ったところ、上人は「皆に正体を見せてやりなさい」と告げ、身延の水の入った花瓶を女に渡した。女は花瓶の水を手のひらに一滴落とすと、たちまち龍に姿を変じた。そして、もとの女の姿に戻り「私は身延山を守るために七面山の池に棲むものです。これからも法華経を信仰するものを守護するであろう」と言い、雲に乗って七面山に飛び去った。

 この説話は、恐らく『法華経』の「提巾達多品第十二」に基いて作られたのではないかと想像するのですが、後述する謡曲の『現在七面』は『法華経』やこれらの説話によったものでしょう。


七面山遥拝


 七面山の山頂からは、春秋の悲願の中日には富士山頂からのご来光を拝むことができ、その神々しさは筆舌に尽くし難いものがあるとのことです。しかしながら前述しましたように、七面山には徒歩での登頂となります。今回の参拝では断念せざるを得ませんでした。


 さて、奥之院の参拝から再び地上に下り立ちました。この身延山を舞台とする謡曲『身延』と『現在七面』について考察したいと思います。
 残念ながら両曲ともに余り人気のある曲とは申せません。ちなみに昭和25年~平成21年の60年間における演能回数は、『身延』が僅か13回で、全210曲中197位、『現在七面』は若干多く、53回で169位となっています。両曲ともに法華経と身延山を礼賛したもので、日蓮宗の宣伝のための曲と受け止められ兼ねず、線香くさい詞章(失礼!)は一般にはあまり受け入れられないのかもしれません。かつ『身延』は観世流のみ、『現在七面』は観世・金剛二流のみの現行曲であることなどが、人気の低い所以かもしれません。

 それでは、まず『身延』について。

  

   謡曲「身延」梗概
 作者、典拠ともに未詳であるが、『妙法蓮華経』の利益霊験を資材としたもので、一貫して『法華経』礼賛の作品である。全曲を通じての趣旨は女人成仏で、これは『現在七面』と同様に法華経の「提婆達多品(だいばだったほん)」にある龍女成仏の説話によったものであるが、『現在七面』が龍女をシテとしているだけ原典に近いのに対し、本曲はシテを女人の亡霊ということにしているので、霊験譚としては幾分力が弱くなっている。なお、ワキ僧は単に上人となっているが、日蓮上人のことであり、一番本の前付“役別”には日蓮上人となっている。

 身延山の日蓮上人が『法華経』を読誦しているところへ、この山の麓に住むひとりの女が訪れる。読経の折ごとに遠路通ってくる女を不審に思った上人は、ことの次第を尋ねる。女は、上人がここお見えになったのは上行菩薩のご再誕だと思われるので、そのありがたい御法に逢おうと思って参るのだと答え、みずからはこの世に亡き人であるが、上人の説法の功力で苦患を免れることが出来た、なおこの上にも仏果を授けていただきたいと頼み、法華経の功徳を称えて報恩の舞を舞い、霊地身延山を讃嘆しながら姿を消すのであった。
 『法華経』のことを語り、その功徳を讃えるのが本曲の目的であり、見方によっては日蓮宗宣伝のために作られたものと取れぬこともない。

 なお上述のように、本曲は上演回数の面からみれば稀曲の部類に属すもので、昭和25年~平成21年の60年間で、僅かに13回上演されたにすぎない。


 悲しいことに私は、3度も四国霊場を巡拝したにもかかわらず、信仰心に乏しく、宗教とはあまり縁のないところに暮らしておりました。お経といえば、ときたま仏壇に向かったり、四国遍路の折に唱えた「般若心経」を知っている程度です。したがって未だかつて真摯に「法華経」に接したことはありません。この『身延』の曲に際して、急遽「法華経」や「日蓮宗」について調べてみましたが、残念ながら理解するにはほど遠い状態です。以下、日蓮宗のサイトや関連書籍などからの付け焼き刃的な引用です。

 法華経のサンスクリット語の原典は中国に伝わり3種の完訳が現存しているが、漢訳仏典圏では鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。
 鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』は28章で構成され、これを二十八品(にじゅうはっぽん)といい、前半の14品を迹門(しゃくもん)、後半の14品を本門(ほんもん)と呼ぶ。〈迹門〉は〈本門〉への導入部分で、「法華経」こそが究極の経典であることが述べられ、本論である〈本門〉では、釈尊は不滅であり、あらゆる人々が永遠の幸せに至る道が示されており、これらがさまざまな比喩を用いて説かれている。釈尊が真に説きたかったのは法華経であり、他の経典は法華経を理解させる準備・方便のために説かれたものとされている。

 私は「法華経」といえば、主として日蓮宗で読誦されるお経であり、団扇太鼓を打ちながら「南無妙法蓮華経」を唱える姿と重複して考えておりましたが、大きな思い違いをしていたようです。そういえばわが家の宗旨は曹洞宗ですが、法事の折には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」が唱えられておりますし、「曹洞宗檀信徒日課経典集」にもこのお経が「修証義」と並んで掲載されておりました。


クリ 地「げにや恩愛おんあい愛執あいしふの涙は。四大海しだいかいより深し。聞法もんぽふ随喜ずゐきのその為には。一滴も落すことなし
サシ シテ衆罪しゆざい如霜露によさうろ惠日ゑにちの光に。消えて卽身成佛たり  地「かの調達てうだつが五逆のいんに。沈み果てにし阿鼻あびの苦しみ。終に法儀のうてなに變ず  シテ「況んや受持じゆぢし讀誦せんをや  地「たゞ一時ひととき結縁けちえんせば。それこそ即ち。佛身なれ
クセ歸命きみやう妙法蓮華經。一部八巻四七品ししちほん文々もんもん悉く神力を示しべ給ふ。濁乱ぢよくらんの衆生なれば。この經は保ちがたし。暫くも保つ者は。我則がそく歡喜くわんぎして。諸佛もしかなりと一乗の。妙文なるものを。深著じんぢやく虚妄法こまうぼふ堅受けんじゆ不可捨ふかしやぞ悲しき
シテ「始め華嚴けごん御法みのりより  地「般若に及ぶ四十餘年。未顯みけん眞實しんじつの方便成佛のまことあらはれて妙法蓮華經ぞかし。正直捨方便無上のだうに到るべし。げにありがたやこの經に。逢ふこと難き優曇華うどんげの。花待ち得たり嬉しの今の機縁や


 続いて、身延山における日蓮上人を扱った『現在七面』について。
 七面天女の伝承は前述しましたが、この伝承や『現在七面』の典拠となった『法華経』の「提婆達多品第十二」について考察しましょう。「提婆達多品第十二」の後半部には「女人成仏」「龍女成仏」の説話が語られています。
 後半の物語は智積(ちしゃく)菩薩と文殊師利菩薩の対話から始まります。
 『法華経』の功徳によって仏に成れる者の例として文殊菩薩が挙げたのは、まだ八歳にしかならない竜女でした。これは、その当時のインド社会の一般認識としては、とても信じられない話でありました。つまり、まだ子供であり、女身であり、しかも人間ですらない畜生の身であるのです。仏に成れる者という一般認識から最も遠いタイプの存在でした。
 当の竜女が現われて、実際に仏に成ってみることで、「女人成仏」が可能であることを証明してみせます。それを目の当たりに見せられた誰しもが、「仏性の平等」という真理を心に深く受け止めることになります。
 「提婆達多品第十二」の経文および現代語訳は、本項の最後に掲載しています。


   謡曲「現在七面」梗概
 作者は未詳である。作者や演奏に関する古記録が見当たらないので、比較的新しい作品ではないかと思われる。『妙法蓮華経』の「提婆達多品(だいばだったほん)」にある龍女成仏の説話に典拠したものであろう。本曲も『身延』と同じく、ワキ僧は謡曲の詞章では単に上人となっているが、明らかに日蓮上人のことであり、一番本の前付“役別”には日蓮上人となっている。
 身延山で日蓮上人が法華経を読誦しつつ礼賛を励んでいると、毎日一人の女が来て仏に花水を捧げるので、その名を尋ねたところ、自分はこのあたりの者であるが、女人成仏の謂れを示して欲しいと乞う。上人が法華経を説き、龍女成仏の奇特を語ると、自分は七面の池に年経て棲んでいる大蛇であるが、報恩のためにもとの姿を現そう、と言って雷鳴とともに消え失せる。
 上人たちがなおも読誦を続けていると、恐ろしげな大蛇が現われ、上人の法力によってたちまち女人と変じ、神楽を奏して報恩の舞を舞い、今後はこの山の守護神となろうと誓って、白雲にまぎれて昇天するのである。


 この能の特色としては、シテが二度面を変える点がある。初めは“深井”のような中年の女性の面、次に“般若”の蛇体の面、最後に“増女”のような天女の面を用いるのだが、後シテは“増女”の上に“般若”の面を重ねてかけて登場し、“イロエ”の場面で“物著”をして“般若”の面などの蛇体の装束を取り除いて天女の姿に変身する。一曲の中で三種の面を用いるのは本曲のみである。


 以下は『法華経』の尊さを説いた〈クリ・サシ・クセ〉の部分です。シテは舞台の正中で下居する〈居グセ〉です。このクセはワキの代弁であって、〈アゲハ〉はワキが謡います。


クリ 地「そもそも法華經と云つぱ。釋尊久遠劫くをんごふのその昔。初成道しよじやうだうの時悟り得給ひしめうほふきやうなり
サシ ワキ「然るに華嚴のあしたより。般若のゆふべに至るまで  地抑止おくし在懷ざいくわいし給ひて。種々の方便機に隨ひ。つひに一乘を説き給はねば。十界差別しやべつ區々まちまちなり
クセ「さる程に女人によにんは。外面げめんは菩薩に似て。内心は。夜叉の如しと嫌はれし。その言の葉は諸々の。經のうちにし陸奥の。安達が原の黒塚や。荒れたる宿のうれたきに。假にも鬼のすだくなると。詠みしも女の事とかや。かゝる憂き身の浮かまん事何時いつの時をか松山や。袖に涙の波越えて。作り重ねし罪科つみとがを。くい八千度やちたび身をかこち。佛の御法の言の葉さへ。恨めしとのみなげきけり
ワキ「然るにこの法華經は  地「佛七十しちじふ餘歳よさいにて。初めて説かせ給ひしに。そよや一味ののりの雨。等しくそそうるほひに。敗種はいしゆ二乘にじやう闡提せんだいも。皆々同じ悟りを得。殊に文殊の教へにて。龍女りうによ須臾しゆゆに法を得て。この世ながらの身を捨てず。本のさとりの故郷ふるさとに。立ち帰る有様や。錦のたもとなるらん


 ここで〈クセ〉の〈アゲハ〉について。上述しましたが『現在七面』のクセは〈アゲハ〉をワキが謡います。ワキが〈アゲハ〉を謡う曲は、本曲以外に『藍染川』『皇帝』『谷行』『羅生門』の4曲で(ただし『谷行』はワキツレが謡う)、いづれもワキの重い曲となっています。ちなみにツレが〈アゲハ〉を謡う曲は『蝉丸』など10曲(『小袖曽我』はシテ・ツレの連吟)、それ以外には『安宅』では子方が謡いますが、これは義経ですからツレのようなものですね。また〈アゲハ〉のない〈片クセ〉は『阿漕』『安達原』『海士』『国栖』『橋弁慶(笛之巻)』の5曲となっています。さらにクセのない曲は『嵐山』など60曲で、およそ3割弱の曲にはクセがありません。


 最後に「提婆達多品第十二」後半の経文および現代語訳を掲載します。
  なお経文は、『日蓮宗のお経』双葉社、2004
  現代語訳は、『青経巻の研究』のサイト(http://chances.life.coocan.jp/)を参照しました。


文殊もんじゆごん
文殊師利菩薩は答えました。

娑竭羅しやかつら龍王女りゆうおうによ年始ねんし八歳はつさい智慧ちえ利根りこん善知ぜんち衆生しゆじよう諸根しよこん行業ぎようごうとく陀羅尼だらに諸仏しよぶつしよせつ甚深じんじん秘蔵ひぞう悉能しつのう受持じゆじ深入じんにゆう禅定ぜんじよう了達りようだつ諸法しよほう刹那せつなきようほつ菩提ぼだいしんとく退転たいてん
「それがいるのですよ。娑竭羅竜王の娘がそれです。まだ八歳にしかなりませんが、智慧があり、機根がすぐれており、人間の行いの成り行きを見透せるのです。また、教えは決して忘れず、もろもろの仏さまの教えを、その深い奥義までもことごとく理解して、しっかりと心に保持しています。また、深い精神統一によってあらゆる法を悟ることができ、その瞬間に最高の悟りを求める心を起こして、決して後戻りすることはありませんでした。

弁才べんざい無礙むげ慈念じねん衆生しゆじよう猶如ゆうによ赤子しやくし功徳くどく具足ぐそく心念しんねん口演くえん微妙みみよう広大こうだい慈悲じひ仁譲にんじよう志意しい能至のうし菩提ぼだい
法を説くのも自由自在であり、すべての人々にたいして、まるで自分の生んだ赤子をいたわる母親のような気持ちいだいているのです。すぐれた功徳を積んできており、心に思うことも口で述べることも非常に奥深くて幅広いのです。また、慈悲が深く、謙虚であり、穏やかな気品もたたえています。このように、無上の悟りに達する資質をそなえています」

智積ちしやく菩薩ぼさつごん
それを聞いた智積菩薩は、疑問を投げかけました。

我見がけん釈迦如来しやかによらい無量劫むりようこう難行なんぎよう苦行くぎよう積功しやつく累徳るいとく菩薩ぼさつどう未曽みぞう止息しそく
「私が、お釈迦様のお姿を拝見しますに、はかり知れない程の長い年月の間、難行苦行をなさり、功徳を積みかさねられて、菩薩の道を求め行じることを少しもお休みになったことはありませんでした。

かん三千大千さんぜんだいせん世界せかい乃至ないし無有むうによ芥子けし非是ひぜ菩薩ぼさつしや身命しんみようしよ衆生しゆじよう然後ねんご乃得ないとくじよう菩提ぼだいどう不信ふしん此女しによ須臾しゆゆきよう便べんじよう正覚しようがく
広い三千大千世界を見渡してみても、芥子粒ほどの小さな場所でさえも、お釈迦様が菩薩として衆生を救うために身命をかけられなかった場所はありません。お釈迦様でさえ、そうした長い苦行の後になって、ようやく仏の悟りを成就なさったのではありませんか。それなのに、その女の子が、ほんのわずかな間で仏の悟りを成就するなどとは、とても信じられません」

言論ごんろん未訖みこつ龍王女りゆうおうによ忽現こつげん於前おぜん頭面ずめん礼敬らいきよう却住きやくじゆう一面いちめん以偈いげ讃曰さんわつ
二人の対話がまだ終わっていない時、当の竜王の娘が忽然とお釈迦様の前に姿を現わしました。そして、み足に額をつけて礼拝し、お釈迦様の正面に退きますと、偈をうたってお釈迦様をほめたたえました。

深達じんだつ罪福相ざいふくそう 徧照へんじよう於十方おじつぽう
「お釈迦様は、何が罪をつくり、何が福を生みだすかを深く見極めておられ、その智慧の光であまねく世界中を照らしてくださっています。

微妙みみよう浄法身じようほうしん 具相ぐそう三十二さんじゆうに 八十はちじつ種好しゆごう ゆう荘厳しようごん法身ほつしん
その何ともいえず清らかなご本体は、目に見えるお姿として現われれば、三十二の吉相や八十の福相をおそなえになり、ご本体の清らかさを象徴しておられます。

天人てんにんしよ戴仰たいごう 龍神りゆうじんげん恭敬くぎよう 一切いつさい衆生しゆじようるい 無不むふ宗奉しゆうぶしや
天上界や人間界のすべての人がその有り難さを仰ぎ見、竜神さえもことごとく心からお敬いいたしております。あらゆる生あるもので、そのみ教えに帰依しないものはありますまい。

又聞うもんしよう菩提ぼだい 唯仏ゆいぶつとう鉦知しようち せん大乗教だいじようきよう 度脱どだつ衆生しゆじよう
また、いま文殊師利菩薩さまがおっしゃられたように、私が無上の悟りを成就できるということは、ただお釈迦様だけが明らかにご存知のことでございましょう。私は、大乗の教えを分かりやすく説き示して、苦しんでいる衆生を救いたいと存じます」

爾時にじ舎利弗しやりほつ龍女りゆうによごん
その時、舎利弗が竜女に向かって言いました。

によ不久ふくとく無上道むじようどう是事ぜじ難信なんしん所以しよい者何しやか女身によしん垢穢くえ法器ほうき云何うんがのうとく無上むじようだい
「お前さんは、すぐにでも無上の悟りを得られると思っているようだが、私には信じられない。なぜかといえば、女の身は煩悩が多く、お釈迦様の教えを受け入れるのに相応しくないとされているからだ。どうして無上の悟りなどが得られるものだろうか。

仏道ぶつどう懸曠げんこうきよう無量むりようこう勤苦ごんくしやくぎようしゆ諸度しよど然後ねんご乃成ないじよう
仏に成る道は遥かなる道程であり、はかりしれないほど長い年月、苦労して修行を積み、六波羅蜜を完全に実践して、その後になってようやく成就できるものである。

女人身によにんしん猶有ゆうう五障ごしよう一者いつしや不得ふとく梵天ぼんてんおう二者にしや帝釈たいしやく三者さんじや魔王まおう四者ししや転輪てんりん聖王じようおうしや仏身ぶつしん云何うんが女身によしん速得そくとく成仏じようぶつ
また、女人の身には五障といって、どうしても成れないものがあるとされている。第一には梵天王になることができない。第二には帝釈天。第三には魔王。第四には徳によって天下を統一する大王。そして第五には仏と成ることができないのだ。それなのに、女人の身であるお前さんが、どうして速やかに仏と成ることができるのであろうか」

爾時にじ龍女りゆうによ一宝珠いちほうじゆ価直けじき三千さんぜん大千だいせん世界せかい持以じい上仏じようぶつぶつそく受之じゆし
その時、竜女は手に三千大千世界にも値するほどの尊い宝珠を一つ持っており、それをお釈迦様に差し上げました。お釈迦様は、ただちにそれをお受けとりになりました。

龍女りゆうによ智積ちしやく菩薩ぼさつ尊者そんじや舎利弗しやりほつごん
竜女は、智積菩薩と尊者舎利弗に申しました。

こん宝珠ほうじゆ世尊せそん納受のうじゆ是事ぜじしつ
「ごらんの通り、私は宝珠を差し上げました。お釈迦様はお受けくださいましたが、それは早かったでしょうか、どうだったでしょうか」

とうごん甚疾じんしつ女言によごんによ神力じんりきかん成仏じようぶつそく於此おし
二人は答えました。「じつに早かった」
竜女は言いました。「あなたがたの神通力によって、私が仏に成る様子をごらんになってください。これよりもっと早いですよ」

当時とうじ衆会しゆえかいけん龍女りゆうによ忽然こつねん之間しけん変成へんじよう男子なんし菩薩ぼさつぎようそくおう南方なんぽう無垢むく世界せかいほうれんじようとう正覚しようがく三十二さんじゆうにそう八十はちじつしゆごう十方じつぽう一切いつさい衆生しゆじよう演説えんぜつ妙法みようほう
その時、集まっていた一同の目には、竜女が忽然として男子に変わり、菩薩行を完成した尊い姿となって、南方の無垢世界に行って美しい蓮華に坐して仏の悟りを成就し、三十二の吉相や八十の福相をあらわし、あまねく方向にいるすべての衆生のために法華経の教えを説いている様子が見えたのでした。

爾時にじ娑婆世界しやばせかい菩薩ぼさつ声聞しようもん天龍てんりゆう八部はちぶにん非人ひにんかいようけん龍女りゆうによ成仏じようぶつ時会じえにんでん説法せつぽうしんだい歓喜かんぎしつちよう敬礼きようらい
その時、娑婆世界の菩薩や声聞をはじめ、天人も、竜や、さまざまな鬼神も、人間および人間以外のあらゆる生あるものも皆、遥かな世界で竜女が仏の悟りを得て、あまねくその世界の人間や天人のために法を説いている様子を見て、心に大いなる喜びをおぼえ、皆が遥かな世界へ向けてうやうやしく礼拝するのでありました。

無量むりよう衆生しゆじよう聞法もんぽう解悟げごとく不退転ふたいてん無量むりよう衆生しゆじようとくじゆ道記どうき無垢むく世界せかい六反ろつぺん震動しんどう
無数の衆生が竜女の説く法華経の教えを聞いて、よく理解し、後戻りせずに仏の教えを修行する意志を得、そして無数の人々が、いつかかならず仏に成れるという保証を得ました。その尊い事実に対して、無垢世界では大地も感動にうち震えました。

娑婆しやば世界せかい三千さんぜん衆生しゆじようじゆう不退地ふたいじ三千さんぜん衆生しゆじようほつ菩提ぼだいしんとく受記じゆき
その様子を見ていた娑婆世界の人々も、三千人が後戻りせずに仏の教えを修行する意志を得、三千人が仏の悟りを求める心を起こして、いつかかならず仏に成れるという保証を得ました。

智積ちしやく菩薩ぼさつぎゆう舎利弗しやりほつ一切いつさい衆会しゆえ黙然もくねん信受しんじゆ
智積菩薩も舎利弗も、そこに集まっていた一同も、じっと黙り込んだまま、その尊い事実を心の奥深く受け止めたのでありました。




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  (平成28年11月10日・探訪)
(平成29年 1月12日・記述)


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