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西近江・白鬚神社 〈白鬚〉


 2017年3月30日、謡友Mさんの主催する“徒然謡倶楽部”のツアーで、滋賀県高島市に鎮座する白鬚神社に参拝しました。当社はその名の如く謡曲『白鬚』の謡蹟です。ただし『白鬚』は観世・金春二流のみの現行曲で、その故もあってか昭和25年~平成21年の60年における演能回数は、わずかに 34 回を数えるのみでした。

白鬚神社周辺地図



   

《白鬚神社》  滋賀県高島市鵜川215

 社伝によれば「垂仁(すいにん)天皇25年に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)により社殿を創建(または再建)、天武天皇白鳳3年(674)勅旨を以て、比良明神の号を賜わる」とあります。垂仁天皇といえば実在は疑問視され、ましてその25年といえば紀元前5年ですから、にわかには信じがたいことですが、近江最古の社といわれるくらい古いことは古いのでしょう。
 湖水の対岸にある石山寺の縁起では、夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁が、比良明神の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に如意輪観音像を安置し、草庵を建てたのが石山寺の草創といわれており、琵琶湖を中心にした近江の各地には、白鬚明神を髣髴とさせる老翁が姿を現す物語が点在しているようです。


白鬚神社


 現在の社殿は、豊臣秀吉の遺命により息子の秀頼が、家臣の片桐且元を奉行として慶長8年(1603)に造営したもので、これは桃山時代の神社建築を伝える貴重な建造物として、昭和13年(1938)に国の重要文化財に指定されています。
 白鬚神社は白髭神社とも表記されていますが、「白髭」と書くのは中部から関東地方に多く、関西以西ではほとんど見当たりません。逆に「白鬚」は関東にも見られますが、関西から西に多く分布しています。中部以東にはわずかながら「白髯」の表記もあるようです。


拝殿

御朱印


 「白鬚」の名称の由来も諸説あるようです。もっとも定説に近いと思われるのが、新羅系渡来人が祖神を祀ったものとする説で、「シラ」は、新羅の最初の国号「斯(シ)」の意であり、斯盧(シラ)国から新羅(シラ)国へと国号が変わる過程で「シラギ」に転訛して「白鬚」になったというものです。また一方で、社名の白鬚(はくしゅ)は、百済(ひゃくさい)のことであり、百済系渡来神を祀った神社とする説もあるようです。現祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)となっているが、古くは渡来系の神を祀った神社であったと考えられているようです。
 祭神の猿田彦命は、その容姿が、鼻の長さが七咫(あた)、背の長さが七尺(さか)と、記紀には記されています。“咫”は親指と中指を広げたときの長さとされ、姿は天狗に似ていたようで、天孫降臨の際、高天原から葦原中国までの道案内をしたのが猿田彦でした。天岩戸で有名な天鈿女命(あめのうずめのみこと)は猿田彦の妻だといわれています。


湖中に建つ大鳥居


 当社で目を惹くのは、湖中に浮かぶ大鳥居です。往古、神社前の湖中に鳥居があったという伝説や絵画(白鬚明神縁起)があり、これを根拠に大阪道修町の小西久兵衛氏が昭和12年(1937)に復興寄進されました。
 現在の鳥居は昭和56年(1981)に琵琶湖総合開発の補償事業で再建されたもので、琵琶湖を代表する景観になっています。

白鬚神社境内案内図


 本殿の右手、手水舎の奥まった所に、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。
 当社の縁起と若干重複しますが、本殿の説明書きを以下に。

 社記によれば、垂仁天皇の25年倭姫命により社殿を創建したと伝え、白鬚社の総社である。
 その後、慶長年間に豊臣秀頼により境内の整備が行われ、本殿は同8年(1603)片桐且元を奉行として播州の大工により建立されたことが、棟札(むねふだ)・嵌板墨書(はめいたぼくしょ)によってわかる。
 建物は、地垂木(じたるき)や桔木(はねき)の長さを節約して、当初から軒先に支柱を入れているため、外観はやや軽快さに欠ける。屋根は、明治12年に向拝の軒先を切り縮め、現拝殿を付加したため、権現造風(ごんげんづくりふう)となり、雨仕舞(あめじまい)を考慮して、それまでの杮葺(こけらぶき)を檜皮葺(ひわだぶき)に改めている。
 本殿は、大型で向拝(こうはい)の手挾(たばさみ)・蟇股(かえるまた)などの絵様(えよう)に、桃山期の特徴をよく表した優れた建物である。
 また、寛永元年(1624)建築の旧拝殿(現絵馬殿)を除く社殿も慶長復興期のもので、近世の社殿配置を残す神社としても貴重である。


拝殿の奥に連なる本殿

社務所


続いて、「謡曲『白鬚』と白鬚神社」と題した謡曲史蹟保存会の駒札の内容です。

 謡曲「白鬚」は、白鬚明神の縁起を語って祝言を述べる曲である。
 勅使が近江の国の白鬚の社に参詣すると、明神の神霊が漁翁の姿で現れ、白鬚明神の縁起を詳しく語り、比叡山が仏法修行の清浄地として、外道魔物を入れない地となった縁起を語る。やがて明神は真の姿を現して楽を奏し、天女も龍神も現れて御代を祝うというのがその粗筋である。
 白鬚神社はまた比良明神ともいう。近江最古の大社で、現在の本殿は慶長八年(1603)に豊臣秀頼、淀君が建立し、後に改築された拝殿と一体になって特殊な桃山建築の美を見せている。背後に比良の連峰をひかえ、鳰鳥(にほとり)がのどかに浮かび、湖面に立つ清楚な美しさは、安芸の厳島を彷彿させる。


手水舎

若宮神社


 それでは、境内を散策いたしましょう。本殿の裏山の石段を上って一段高くなったところに、歌碑・句碑が並び、境内社が祀られています。若宮神社を除く石段上の10社は「上の宮」と総称されています。先ずは境内社から。
 石段登り口の左手に若宮神社が祀られています。祭神は太田命(おおたのみこと)。太田命は猿田彦神の子孫とも、または猿田彦神の別名とする説もあるようです。社殿は本殿と同じ慶長8年、豊臣秀頼による再建。高島市の文化財に指定されています。
 石段を上ると、右から外宮(豊受姫神)、内宮(天照大神)、三社、右から加茂神社(建角身命)、八幡神社(應神天皇)、高良神社(玉垂命)、さらに一段高く、鳴子弁財天社(鳴子弁財天)、寿老神社(壽老神)、波除稲荷社(祭神不詳)、天満神社(菅原道眞)、さらに奥まった所に、岩戸社(祭神不詳)が祀られています(カッコ内は祭神)。岩戸社の右手には、磐座でしょうか、ピラミッドのような三角の岩が祀られていました。社務所でお聞きすると「白鬚神社古墳群」と呼ばれ、山の上まで古墳群が続いているそうです。


三社(左から高良社、八幡社、加茂社)

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左から内宮、外宮


左から天満宮、稲荷社


左から壽老人、弁才天


岩戸社

岩戸社の右の磐座


 境内社に続いて、歌碑と句碑を訪ねましょう。
 先ず手水舎の近くに、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。大正初年参拝の二人が社前に湧出る水の清らかさを詠んだもので、上の句は鉄幹、下の句は晶子の作。大正7年に京都延齢会が手水舎を再建、その記念として歌碑を建てたもので、全国に60余基ある与謝野夫妻の歌碑の中では最も古いものです。
  しらひげの神のみまへにわくいづみ これをむすべばひとの清まる

 芭蕉の句碑は、駐車場のはずれにあります。芭蕉47歳の作で、安政4年(1857)蕉門の人たちによって建立されました。
  四方より花吹き入て鳰の湖


与謝野夫妻歌碑

芭蕉句碑


 石段を上がった所、境内を見下ろすように紫式部の歌碑があります。
   近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て
 みおの海に網引く民のてまもなく 立ちゐにつけて都恋しも

 この歌は、『源氏物語』の作者紫式部が、この地を通った時に詠んだものである。平安時代の長徳2年(996)、越前国司となった父藤原為時に従って紫式部が京を発ったのは夏のことであった。一行は逢坂山を越え、大津から船路にて湖西を通り、越前に向かった。途中、高島の三尾崎(今の明神崎)の浜辺で、漁をする人々の網引く見馴れぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのが右の歌である。
 その夜は勝野津に泊り、翌日塩津から陸路越前に下った。紫式部にとって、この長旅は生涯でただ一度 の体験となった。彼女は越前の国府(武生市)に一年ばかり滞在したが、翌年の秋、単身京に帰った。ここに紫式部の若き日を偲び、当白鬚神社の境内に歌碑を建て、永く後代に顕彰するものである。
 なお碑文は「陽明文庫本」に依り記した。


紫式部歌碑

式部歌碑の解説碑


 羽田岳水の句碑は三社の南側にあります。岳水は「馬酔木燕巣会」主宰、昭和49年の作。 碑は平成2年に機関誌『燕巣』400号を記念して、「比良八講」ゆかりの当社境内に建立したものです。
  比良八荒沖へ押し出す雲厚し

 中野照子は大津市出身で『好日』編集責任者。照子歌碑建設委員会が平成16年に、天満宮の南側に建立しました。
  吹き晴れて藍ふかまれる湖の 光となりてかへりくる舟


羽田岳水句碑

中野照子歌碑


 松本鷹根の句碑は、平成26年、「京鹿子雁が音俳句会」によって建てられた新しい句碑のようです。
  島雲に涙ぐまねば 雲なき日


松本鷹根句碑

境内を俯瞰



 最後になりましたが、謡曲『白鬚』について考察いたしましょう。


   謡曲「白髭」梗概
 本曲は観阿弥作の独立の謡い物〈白髯〉をもとに作られたと考えられ、この謡い物〈白髯〉は能に取り入れられた最初の曲舞(くせまい)とされている。「亡父曲付」と記す世阿弥の『五音』記載の〈白髭曲舞〉は、現行曲のクリ・サシ・クセと同文である。
 『太平記』巻十八「比叡山開闢事」に拠ったもので、現行曲の作者は未詳である。
 本曲に『歌占』『花筐』のクセを加え「三難クセ」と称する。いずれもカングリのあるツヨグセの難物である。ただし本曲は観世・金春の二流にしかないため、大阪の故大槻十三師などは『白鬚』に替えて『山姥』としている(昭和4年能楽書院刊『謡の實際』145頁、大槻十三師口述)。
 勅使が白鬚明神へ参詣すると、漁翁と漁夫が現われ、仏法を広めるために釈尊がこの地へ渡ったと称する当社の由来を語り、自らは勅使を慰めるために現れた白鬚明神であると告げ、社壇の中に消え失せる。
 夜とともに白鬚明神が現われ、夜遊の舞楽を催し、天女と龍神も湖上から現われ、天灯・龍灯を供え、明け方に一同は去ってゆく。

 本曲のアイは通常は末社の神であるが、替間(かえあい)に「道者(どうしゃ)(勧進聖(かんじんひじり))」があり、互いに舟に乗った勧進聖と道者たちとが、勧進に入れ入らぬで争い、鮒の精が出てこれを収める。


 以下は、鬚神社の縁起を謡ったとされる、クリ・サシ・クセの詞章です。
 この詞章は、典拠である『太平記』巻十八「比叡山開闢の事」に準拠しています。


クリ「それこの國の起り家々につたふる所。おのおの別にして。その説まちまちなりといへども。暫く記する所の一義いちぎに依らば。天地既に分かつてのち。第九の減劫げんごふ人壽二萬歳の時
サシ シテ迦葉かせふ世尊せそん西天に出世し給ふ時  地だいしやうしやくそんその授記を得て。兜率天にぢうし給ひしが  シテ「われ八相はつさう成道じやうだうの後。遺教流布の地いづれの所にかあるべきとて  地「この南瞻部洲を普く飛行ひぎやうして御覧じけるに。漫々とある大海の上に。一切いつさい衆生しゆじやう悉有しつう佛性ぶつしやう如來。常住じやうぢう無有むう變易へんやくの波の聲。一葉いちえふの蘆に凝り固まつて。一つの島となる。今の大宮権現の。なり。
クセ「その後人壽。百歳の時。悉達しつだと生まれ給ひて。八十年の春の頃。頭北づほく面西めんさい右脇うきやうぐわ跋提ばつだいの波と消え給ふ。されども佛は。常住不滅法界の。妙體なれば昔。蘆の葉の島なりし中つ國を御覧ずるに時はがやふき不合あはせずの。みことの御代なれば佛法の名字みやうじを人と知らず。こゝに比叡山の麓ささなみや。志賀の浦のほとりに。釣を垂るゝ老翁あり。釋尊彼に向つて。翁もし。この地の主たらばこの山を我に與へよ。佛法結界の。地となすべしとのたまへば。翁答へて申すやう。われ人壽六千歳の始めより。この山の主として。この湖の七度まで。蘆原になりしをも。正に見たりし翁なり。
但しこの地。結界となるならば。釣する所失せぬべしと深く惜しみ申せば。釋尊力なく。今は寂光土じやくくをうどに。歸らんとし給へば
シテ「時に東方より  地浄瑠璃じやうるり世界の主藥師。忽然と出で給ひて善き哉や。釋尊この地に佛法を弘め。給はん事よわれ人壽二萬歳の昔より。この所の主たれど。老翁未だ我を知らず。何ぞこの山を。惜しみ申すべきはや。開闢かいびやくし給へ我もこの山の主となつて。共に五百歳の。佛法を守るべしと。固く誓約し給ひて。二佛東西に去り給ふ。その時の翁も今の白鬚の神とかや


 白鬚神社の由緒書きなどによれば「当社の縁起は謡曲『白鬚』にも謡われ…」と記されているのですが、謡曲の典拠である『太平記』は比叡山の開基を語ることに主眼がおかれており、それに基づく謡曲でも、神社の開基には触れず比叡山の草創について述べています。釈迦如来がこの地に仏法を広めようとやって来た時には、すでに白鬚明神は存在していました。そして、釈迦が明神に対して「この地を仏法の聖地としたい」と申し出たのに対し、明神は「釣りができなくなるから、いやだ」と拒否します。同じ断るにしても、もう少し論理的な理由づけもあろうというものです。これではケチで分からず屋の田舎の爺さんではありませんか。薬師如来に説得されて、しぶしぶ協力するのでは、白鬚明神にとって何とも不名誉極まりない、と思われてなりません。
 余談ですが、薬師如来が釈迦に「釈迦は大師となってこの山を開け。私はこの山の王となろう」と約束しますが、比叡山延暦寺の本尊は薬師如来です。『太平記』では、千八百年後に釈迦が伝教大師となって、比叡山を開くことが述べられていますが、最澄は釈迦の生まれ変わりであるという伝承もあるようです。
 また『太平記』では、釈迦の生誕から涅槃に至るまでを、「六年難行して…」とか「遍小十二年…」などと細かく数えていますが、謡曲では「…生まれ給ひて。八十年の春の頃」と、合算してさらりと述べています。

 参考までに以下に『太平記』巻十八「比叡山開闢の事」の該当箇所、および難解な箇所が多くありますのでその現代語訳を掲載します。(長谷川端校注・訳『日本古典文学全集・太平記』小学館、1996)


それ、この国の起こは、家々に伝ふる処おのおの別にして、その説区々まちまちなりといへども、しばらく記するところの一儀いちぎによらば、天地すでに分れて後、第九の減劫げんごふ人寿にんじゆ二万才の時、せふぶつ西天に出世しゆつせし玉ふ。

そもそも、この国の起源は、家々に伝えるところが皆まちまちで、その説はさまざまあるとはいえ、ひとまず記録されている一説によれば、天地がはっきり分れてから、第九の減劫、人寿二万才のときに、迦葉仏が西方に出現なさいました。

時に大聖だいしやう釈尊しやくそんその授記じゆきを得て、都率天とそつてんぢゆうし玉ひしが、我八相はつしやう成道じやうだうのち遺教ゆいげう流布るふの地いづれの所にかあるべしと、この南瞻なんぜん部州ぶしうあまね飛行ひぎやうして御覧じけるに、滔々たうたうたる大海の上に、いつさいしゆじやうしつぶつしやうによらいじやうぢゆう無有むう変易へんやくと、立つなみの音あり。

ときに釈迦はその教えをいただき都率天にお住みになっていましたが、『私が悟りを開いて仏なったあと、教を説き広める地はいずこにあるか』と、我々の住む人間世界を残す所なく飛行してご覧になったとき、広大な大海の上に『一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易』と、波が立っている音がしたのです。

釈尊これを聞こし召して、この波の流れとどまらんずる所、ひとつの国となつて、吾が教法けうぼふ弘通ぐつうする霊地たるべしと、おぼしければ、すなはちこの波の流れ行くにしたがつて、遥かに十万里の蒼海さうかいを凌ぎ玉ふに、この波たちまちに一葉のあしの海中に浮かべるにぞとどまりにける。

釈迦はこの音をお聞きになって、『この波が流れていって止まるであろう所は一つの国となって、自分の教えを広める神聖な場所になろう』とお考えになったので、さっそく波が流れるのにまかせ、はるばる十万里の青海原を越えて行かれました。すると、波はすぐ一枚の葦の葉が海中に浮かんでいる所で止まったのです。

この葦の葉はたしてひとつしまとなる。今の比叡山の麓、大宮権現の跡を垂れ玉ふ、これなり。この故に波とどまつて土こまやかなりとは書けるなるべし。

この葦の葉は釈迦が思ったとおり一つの島になりました。今の比叡山の麓、大宮権現がこの世に姿を現された波止土濃がその場所です。だから、波止まって土濃やかなりと書くのでしょう。

その後人寿にんじゆ百才の時、釈尊、中天竺なかてんじく摩竭陀まかだこく浄飯じやうぼん王宮わうぐうに降誕し玉ふ。御才おんとし十九にて、二月上八の夜半に王宮をのがれ出で、六年難行して雪山せつせんに身を捨て、寂場じやくじやう樹下じゆかに単座し玉ふ事、また六年の後夜ごやしやうがくをなし給ひし後、頓大とんだい三七日、遍小へんせう十二年、尽浄じんじやう虚融こゆうの演説三十年、いちじつさうかいけん八箇年、つひにめつばつだいほとり、さうりんじゆの下に唱へ玉ふ。

そののち、人寿百歳のときに、釈迦は中天竺の摩竭陀国の浄飯王宮に、人間としてお生まれになりました。御年十九のとき、二月上旬八日の夜半に王宮を逃れ出て、六年間難行苦行して、雪(せつ)山(せん)に身を隠し、菩提樹の下で正座をなさって六年目の夜半に悟りを開かれ、その後二十一日間大乗の『華厳経』を説き、次に十二年間小乗の『阿含経』を説き、さらに『般若経』を説くこと三十年、『法華経』を開き明らかにすること八年ののち、ついに抜(ばつ)提(だい)河(が)のほとり沙羅双樹の下で涅槃に入られました。

然りといへども仏は元来もとより本有ほんう常住じやうじゆう周遍しゆうへん法界ほふかい妙体めうたいなれば、遺教ゆいげう流布るふのために、昔芦の葉の国なりしなんえんだい豊葦原とよあしはら中津国なかつくにに到つて見玉ふに、時は鵜羽うのは不葺合ふきあはせずのみこと御代みよなれば、人いまだ仏法のみやうをだにも聞かず。しかれども、この地大日だいにち遍照へんぜうの本国として、仏法東漸とうぜんの霊地たるべければ、いづれの所にかおうしやうの門を開くべきと、かなたこなたを遍歴へんれきし玉ふところに、比叡山の麓、の浦の辺に、釣を垂れて座せるらうをうあり。

そうは言っても、仏は本来生滅することなく常に存在し、あらゆる世界にゆきわたる不思議なお体でいので、その教えを広めるために、昔葦の葉が国土となった人間世界の中つ国日本に行ってみると、時は神武天皇の父の御代なので、人々はいまだ仏法の名すら聞いたことがありません。しかし、この地は大日如来の本国として、仏法が次第に東へ広まるときの霊地になるはずだから、仏がこの世に現れて衆生を導く道場をどこに開いたらよいのかと、あちこち経めぐられたところ、比叡山の麓、志賀の浦のほとりで、釣をしている翁がいました。

釈尊これに向つて、『おきなもしこの地のぬしたらば、この山をわれに与へよ。結界の地となして、仏法をひろめん』とのたまひければ、この翁、答へていはく、『我人寿にんじゆ六千才の始めより、この所の主として、この湖の七度まで桑原くはばらと変ぜしを見たり。ただし、この地の結界となりては、釣する所を失ふべし。釈尊早く去りて、他国に求め給へ』とぞ惜しみたり。この翁は、これ白鬚しらひげの明神みやうじんなり。

釈迦は翁に向い『翁がもしこの地の主であるならば、この山を私に与えよ。俗人立ち入り禁止の地と決めて、仏法を広めようと思う』とおっしゃったところ、翁は、『私は人寿六千歳のはじめから、ここの主として、この湖が七度まで桑原に変ったのを見ている。この地が俗人立ち入り禁止の地となってしまっては、私は釣をする場所を失うことになろう。釈迦よ、早くここを去り、他国に地を求めたまえ』と惜しんで答えたのです。この翁は白鬚明神です。

釈尊これにつて、寂光土じやくくわうどに帰らんとし玉ひけるところに、東方浄瑠璃じやうるり世界せかい教主けうしゆわうぜんせいこつぜんとして来給へり。釈尊大きに歓喜くわんきし玉ひて、已前いぜん老翁がいひつる事を語り給 ふに、医王善逝しようたんしてのたまはく、『かな、釈尊、この地に仏法を弘通ぐづうし玉はん事。我人寿二万才の始めより、この国のしゆなり。かの老翁いまだ我を知らず。何ぞこの山を惜しみ奉るべきや。えん時至つて、仏法とうりうせば、釈尊はをしへを伝ふる大師となりて、この山をかいびやくし玉へ。我はこの山の王となりて、久しく五百才の仏法をまもるべし』と誓約をなし、二仏おのおの東西へ去り給ひにけり。

そこで釈迦は常寂光土に帰ろうとなさったところへ、東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来が突然いらしたのです。釈迦は大変喜ばれ、以前に翁が言ったことをお話しすると、薬師如来は感嘆して、『じつによいことだ、釈迦よ、あなたがこの地に仏法を広めなさることは。私は人寿二万歳のはじめから、この国の守護神です。あの翁はまだ私のことを知らないのです。どうしてこの山を惜しんでよいでしょう。しかるべき時機が来て、仏法が東へ伝われば、釈迦は教を伝える大師となって、この山をお開きください。私はこの山の王となって、永久に末世の仏法を守護しましょう』と、誓って約束なさり、二仏はそれぞれ東西に去って行かれました。




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  (平成29年 3月30日・探訪)
(平成29年 5月 3日・記述)


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