謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ

備前・藤戸寺 〈藤戸〉


 2017年7月3日、『藤戸』の謡蹟を訪ねて、岡山県倉敷市藤戸地区の藤戸寺に参拝しました。この日は、後に九州に大きな被害をもたらした台風3号が接近していましたが、気温が35度になろうかという真夏日で、あまりの暑さに一部の謡蹟探訪を諦めたくらいです。
 岡山駅より瀬戸大橋線で茶屋町まで行き、茶屋町駅でレンタサイクルを借用、藤戸寺に向かいました。今回の謡蹟探訪は、ここ藤戸寺を中心にして、付近にある「藤戸合戦」の史跡を巡ろうというものです。

 謡蹟を訪ねるにあたって、謡曲『藤戸』の背景である「藤戸合戦」の概要を、以下 Wikipedia を参照して眺めてみましょう。

 「藤戸合戦」は、平安時代末期の寿永3年/元暦元年12月7日(ユリウス暦:1185年1月10日)に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。
 寿永3年2月7日(1184年3月20日)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。
 源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。
 現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(現在の倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。『吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。

 上述のように、かつて岡山県南部一帯に広がる岡山平野は海であり、現在の児島地区は児島という島であったようです。下図の濃い緑の部分が海面に現れていた小島で、倉敷川の流域は海峡であったと思われます。

藤戸地区の謡蹟案内地図


 JR茶屋町駅から自転車で10数分、藤戸地区に到着しました。倉敷川に架る朱塗りの橋は「盛綱橋」。現在の橋は平成元年に架け替えられたもので、『平家物語』や謡曲『屋島』で知られる“佐々木盛綱”の名を冠したものです。以下は藤戸史跡保存会による「盛綱橋」の説明です。

 今見るこのあたりの山々は、昔。島であった。付近を往来する船も帆影を映したであろう。藤戸海峡は現在、美田と化して僅かに倉敷川に名残をとどめる。
 ここ藤戸・天城の架橋は正保4年(1647)に始まり、以後この地は四国往来の要衝、また川湊として栄えた。降って大正15年、船運を考慮して無橋脚のトラス橋が建設され、盛綱橋と命名された。橋名は、源平藤戸合戦で先陣の名声を挙げた源氏の猛将佐々木盛綱に因む。
 盛綱は源頼朝が治承4年(1180)挙兵するや弟範頼に従い平家と戦いつつ西へ下った。この地において。寿永3年12月(1184)馬を躍らせて敵前を渡海し、その名を歴史にとどめた功により備前の国児島の地を領し、後に伊予・備後の守護となる。
 今ここに平成元年、装いを新たにしてまた盛綱橋の名を伝える。


盛綱橋

馬で海を渡す盛綱像


 盛綱橋を渡ると藤戸寺です。



《藤戸寺》  倉敷市藤戸町藤戸57

 藤戸寺は高野山真言宗の寺院。山号は補陀楽山。本尊は千手観音。「藤戸のお大師様」、「源平合戦供養の寺」として知られています。以下は当寺境内に掲げられた由緒書きです。

 慶雲2年(705)このあたり一帯がまだ海であった頃、この藤戸の海より千手観音の霊像が浮かび出で、この地に奉安す。三十余年を経て、聖武天皇の天平年間、行基菩薩が諸国を巡錫した際、この千手観音を本尊とし、藤戸寺を創建す。
 寿永3年(1184)12月、源平藤戸合戦で源氏の武将佐々木三郎盛綱は、この藤戸海峡を馬で渡り先陣の功をたてた。その戦功二より児島の郷を受領した際、合戦で荒れた藤戸寺を修復し、源平両軍の戦没者及び先陣の手引きをし秘密保持の為盛綱に亡き者にされた霊を慰め藤戸寺で大法要を行った。そして、寺前の飛境内であった小島に経を収め供養塔を建立す。これが経ヶ島である。尚、この史実は謡曲「藤戸」として古来より広く演じられ謡い継がれている。


藤戸寺本堂を望む


藤戸寺境内案内図


 当寺ご住職より境内案内図と上掲の藤戸周辺の古跡案内図を頂戴しました。この案内図により、境内諸堂宇を拝観いたしましょう。

 本堂への階段の左手に、手水舎と沙羅双樹の樹があります。
 『平家物語』の冒頭の一節で「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」と詠われている沙羅双樹は沙羅樹〈さらのき〉とも呼ばれ、ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木です。その花は直径5㎝程で白く、朝に咲き、夜には落ちてしまうことから“儚なさ”の象徴とされ、平家一門の栄華と没落にたとえられているようです。見ごろは6月中旬で、この時期、当寺では客殿を開放して「沙羅の花を観る会」が開催され、撮影会や句会などが催されるようです。


手水舎と沙羅双樹の樹

謡曲史蹟保存会の駒札


 手水舎の左手に「謡曲『藤戸』と藤戸寺」と題して、謡曲史蹟保存の駒札が建てられています。謡曲『藤戸』については後述します。

 佐々木盛綱は藤戸の渡の先陣の功を立てた恩賞で、備前国児島を賜り、入国して訴訟ある者は申し出よと触れると、一人の老婆が、盛綱に亡き者にされたわが子を返してくれと歎き訴える。
 盛綱は藤戸の戦に、この老婆の子の漁夫に海の浅瀬を教えられて、先陣の功を立てたのであるが、この事が他に漏れるのを恐れて、かの若者を亡き者にしたのである。
 盛綱は今、その母の歎きを見て、さすが哀れに思い、慰さめ、又その亡き子の為に仏事を行うと、やがてその漁夫の亡霊が現れて、自分が亡き者にされた時の様を語り、供養を受けたお蔭で恨みも晴れ、成仏することが出来た、と喜んで消え失せる。という筋である。
 藤戸寺は盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め、敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を祀るため大法要を営んだ寺である。


山口誓子句碑

森白象句碑


 境内には山口誓子と森白象の2基の句碑が建てられています。
 山口誓子の句碑は、本堂への階段の右手にあります。この句は、誓子が藤戸寺を訪れて詠んだもので、自身の揮毫になるものです。

  いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ  誓子

 かつて源平合戦の昔は海原で、源氏の将兵が馬で浅瀬を渡っていたであろうが、いまは一面稲稲刈りの終わった田園風景になっている。との感慨を詠んだものでしょう。

 本堂への石段を上った右手、鐘楼の前に白象の句碑が建てられています。白象は高野山管長を務めた森寛紹〈もりかんしょう〉大僧正の俳号で、「ホトトギス」同人としても活躍しました。

  お遍路や杖を大師とたのみつゝ  白象

 この句碑は、昭和59年(1984)弘法大師入定1150年遠忌記念として建てられたもので、藤戸寺は江戸時代に開設された児島八十八か所霊場の第46番札所にもなっており、当寺に参拝する白装束のお遍路も多く見られたことでしょう。


石造藤戸寺五十塔婆

大師堂


 本堂の右手奥に岡山県の重要文化財に指定されている、石造藤戸寺五重塔婆があります。以下は倉敷市教育委員会による説明書きです。

 総長 355cm、花崗岩製。
 頂上の相輪は後補であるが、他はよく残っており、ことに輪郭を巻いた初重塔身四方仏の表現がすぐれている。全体の様式も古式である。
 その初重東西の輪郭下部に「寛永元年(1243)十月十八日」の刻銘があり、鎌倉時代中期はじめの基準作例として重要である。


藤戸寺寺号標

源平藤戸合戦八百年記念碑


 藤戸寺の西に100mほどのころに源平藤戸合戦八百年記念碑がたてられています。源平藤戸合戦の800年目にあたる昭和59年(1984)、源平藤戸合戦八百年記念祭行事が挙行され、その際に立てられたものです。

 寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑)源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが、源氏には水軍が無かったので渡海出来ず、平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもたゞ切歯扼腕悔しがるだけであった。
 時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を心がけており、苦心の末、一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。
 翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりに、まっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りをあげるや、敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。
 盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ、永く後世に名声を伝えられる事となった。



 藤戸寺のご住職より「藤戸周辺の案内図」(冒頭に掲載した地図)を頂戴しましたので、この地図に基いて藤戸合戦の古跡を巡りました。暑さのため割愛した箇所は、同地図の写真を掲載しています。

 藤戸合戦では、源範頼を総大将とする源氏は本陣を地図の左上の、現・法輪寺に置き、佐々木盛綱は現・山陽ハイツのあたりに陣を構えていました。これに対して平家は平行盛を主将として、地図の中央下部の篝地蔵(かがりじぞう)に城郭を構えて、源氏に相対しておりました。
 佐々木盛綱は、乗出岩より海中を進み、浅瀬となっている鞭木を経て、現・西明院の先陣庵に上陸、先陣の功を立てました。案内図で青の破線で示されているのが、推定される盛綱の進路です。


篝地蔵


乗出岩

鞭木


●乗出岩
 寿永3年(1184)12月7日早朝、源氏の武将佐々木盛綱は、僅かな部下とともに海に馬を入れた。対岸の種松山一帯に布陣する平家の軍との間に、藤戸合戦が始まった。鎌倉の総大将源頼朝は、海を馬で渡った例がないと称賛した。
●鞭木
 このあたりは土地が少し高い。乗出岩から海に入った盛綱はここで馬を休めた。持っていた鞭を水底に挿したが、いつか大木に育ち地名となった。藤戸寺にある盛綱像は、その後この地で育った木を利用して、文政10年(1827)に天城藩士山脇十二郎が彫刻したものである。


浮州岩跡


●浮州岩跡
 藤戸寺の西、数百メートルの田んぼの中に、浮州岩の跡があります。浮州岩は潮の満ち干にかかわりなく、常に海面に浮き出て見えたので、その長あるとのことです。謡曲で「あれなる。浮洲の岩の上に…」と謡われているのは、この辺りのことでしょうか。

 ここは浮洲岩とよぶ岩礁の跡である。海峡が東西に通じていた頃海の難所として知られ、寿永3年(1184)12月7日源平両軍が戦った古戦場として有名である。
 また織田信長が錦に包んで二条御所に運んだ藤戸石、豊臣秀吉はこの石を醍醐三方院の庭に移し主人石に立てた、天下の名石の出たところでもある。歳月は流れて藤戸海峡は平野と化し、この辺りも備前藩が干拓したが、浮洲岩の沼澤はそのまま残して海峡の昔を伝える史跡とした。標石には正保2年(1645)の造立銘がある。


先陣庵


●先陣庵
 浮州岩跡の南西1キロほどの小高い地にある西明院の境内に先陣庵があります。佐々木盛綱は先陣を切ってこの付近に上陸しました。

 今から約800年の昔、寿永3年(1184)12月、源平藤戸合戦の行われた頃は、このあたりまで一面海であった。対岸の源氏の陣中より佐々木盛綱が馬で海を乗切り、この地に上陸し、一気に平氏の陣営に攻め入り、源氏を勝利に導いた。当時馬で海を渡るなど前代未聞、驚異的な行為であった(源氏方には舟がなかった)。
 後に盛綱は、この地に「先陣寺」という寺を建て、戦没将兵と、渡海の手引きをしてくれた御あるにもかかわらず、他言を封じるため斬殺した浦男との冥福を祈った。当時は規模も広大であったが、いつしか衰えてしまって、一宇の小庵に名留めているにすぎない。


経ヶ島

経ヶ島の経塚と石塔


●経ヶ島
 藤戸寺の北東、天城小学校体育館の西隣にある。源平藤戸合戦の軍功により、児島の領主となり入国した佐々木盛綱は、藤戸寺で大法要を営んだといわれ、そのとき書写した経をこの小島に埋めて経塚を建てたことから経ヶ島と呼ばれるようになったという。

  経ケ島秋の下闇深かりし  高濱年尾
 寿永3年(1184)冬12月、源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。
 源氏の将佐々木三郎盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、味方を勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、大供養を藤戸寺で行い 写経をこの島に埋めたので経ケ島と呼ばれるようになった。
 頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、小さい方が漁夫の供養塔と伝えられている。
 麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、寛永9年(1632)、岡山藩家老池田氏が天城に陣 屋を設けた際、祀られたものである。


笹無山

蘇良井戸


●笹無山
 盛綱に亡き者にされた男には年老いた母がいた。我が子の無残な最期を知り、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹を抜いてしまった。
 謡曲『藤戸』では、盛綱に迫り、無情な仕打ちを怨む哀切な筋書きになっている。
●蘇良井戸
 背後の高坪山一帯に布陣した源氏の軍が、この井戸を利用したという。蘇良の意味は不明である。近世・現代を通じて、飲み水に困る新田地帯の住民によく利用された。


 藤戸合戦の主要な史跡を一通り眺めました。以下、謡曲『藤戸』について考察いたしましょう。



   謡曲「藤戸」梗概
 世阿弥の作とも伝えるが作者は未詳。『平家物語』による。四番目物〈怨霊物〉。
 藤戸の先陣を果たした功により、恩賞として賜った児島へ佐々木盛綱が入部し、訴訟の申し出を受け付ける。そこへ賤しい身なりの老女が進み出て、罪なき子を殺された恨みを泣きながら訴えた。盛綱は老女の強い訴えに抗しきれず、前年三月、先陣の功を一人占めしようと、馬で渡る浅瀬を教えてくれた若い漁師を殺害し、海に沈めたことを物語る。わが子を返せと激しく迫る女を、盛綱は慰め私宅へと送り届ける。盛綱が殺された男の追善供養を営むと、海上に漁師の霊が現われ、刺し殺されて海に沈められたさまを再現し、回向を受けて成仏得脱の身となることが出来たと言って消え失せるのであった。
 軍将の功名の犠牲となって謂われなく命を取られた一庶民とその母の怨恨を主題としたものである。

 佐々木盛綱の藤戸の先陣の裏面には、一漁夫が浅瀬を教えた功労があった。しかし盛綱はそれに報いる代りに却ってその漁夫を殺害した。それは先陣の功名を独占するためであり、盛綱の側から見れば、匹夫には節義がないから強いられたなら他の軍将にも教えるかも知れぬ懼れがあった。しかし漁夫の側からすれば、いかに武人専制の世とはいっても、恩義を仇で返される謂れはなかった。それは人道上からも許されることではなく、世間に責められても仕方のないことであった。

 その世間の代表者として、前場では漁夫の母が登場し、罪なき子を殺した殺害者を問責する。盛綱は憐れな母親の道理ある問責に対抗することを得ず、男らしく反省し、悔悟して漁夫の霊を弔慰することを約束する。後場では漁夫の霊が現われて、本人自らが敵意をもって殺害者に迫るが、追善供養の功力により成仏が約束されたので、心は和らげられ妥協することになるのである。
 本曲は庶民の立場から、支配階級の理不尽さへの反抗を描いたものとしては珍しい例である。為政者によって罪なくして殺される子の霊を扱った同類の筋を持つ作品には、父と子を描く『天鼓』がある。



 『藤戸』に関しては、大角征矢氏が『能謡ひとくちメモ』の「『藤戸』の盛綱は卑劣なワキか?」にて、里井陸郎氏がその著書『謡曲百選』において盛綱を徹底的にこき下ろしているに対して、大角氏は、白洲正子『旅宿の花─謡曲平家物語』を参照するなど、大論陣を張って盛綱を擁護されています。そのほかこの『ひとくちメモ』には、『藤戸』に関する興味深い事柄が多数述べられています。
 大角氏が参照された里井陸郎『謡曲百選』(笠間書院、1982)では、藤戸合戦などにみられる“先陣争い”による武将たちの勲功について、以下のように述べられています。

 人を出し抜き功名を独り占めするという背徳の行為が、半ば公然と正当化され容認され、時には推奨さえされた根拠は、それが又武士たちにとって、かけがえのない一族のための生活の方便であるという社会的な意味を持ったからである。能『藤戸』のワキ佐々木三郎盛綱に罪の意識や痛烈な自己否定が希薄なのはそのためであり、勲功のためには罪なきものの犠牲をかえりみない武断的性格の根は甚だ深いのである。
 しかし『藤戸』の場合は、平家物語に数多い先陣争いのケースとは違ってさらに事情は深刻である。武士達の相互の間のかけひきやごまかしとはわけがちがう。出しぬかれたか、しまった、というだけですみはしないのである。適当に信用されたあと虫けらのように生命を抹殺された被害者やその遺族からみれば盛綱の所業はとうてい許し難い残酷非道としかいいようのないものである。一将功名のかげにうもれたいけにえの怨嗟の声、苦痛のうめきほそのままぶっつけたような能『藤戸』の持つ史的な意味はかくて甚だ大きいといわねばならぬ。

 以下は謡曲の原典となった『平家物語』巻十「藤戸の事」〈佐藤謙三校注・角川文庫、1959〉です。


 さる程に、同じき九月十二日(中略)(源氏は)都を立つて播磨はりまむろにぞ着きにける。平家の方は、(中略)五百余艘の兵船ひやうせんに乘り連れて漕ぎ來り、備前の兒島こじまに着くと聞えしかば、源氏やがてむろを立つて、これも備前國、西河尻にしかはじり、藤戸に陣をぞ取つたりける。さる程に、源平兩方陣を合はす。陣のあはひ海のおもてわづか二十五町ばかりをぞ隔てたる。源氏、心はたけう思へども、舟なかりければ、力及ばず、いたづらに日數をぞ送りける。(中略) 近江國の住人、佐々木三郎盛綱もりつな、二十五日の夜に入つて、浦の男を一人語らひ(中略)「この に馬にて渡しぬべき所やある」と聞きければ、男申しけるは、「浦の どもいくらも候へども、案内知りたるは稀に候。知らぬ こそ多う候へ。この男は案内よく存じて候。たとへば、川の瀬のやうなる所の候ふが、月頭つきがしらには東に候、月末つきずゑには西に候。くだんの瀬のあはひ、海の面十町ばかりも候ふらん。これは御馬などにては、たやすう渡らせ ふべし」と申しければ、佐々木、「いざさらば、渡いて見ん」とて、かの男と二人ににん紛れ出でて、はだかになり、件の川の瀬のやうなる所を つてみるに、げにもいたう うはなかりけり。ひざこしかたにたつ所もあり、びんの濡るる所もあり。深き所を泳いで、淺き所に泳ぎつく。 申しけるは、「これより南は、北よりはるかに淺う候。かたき矢先を揃へて待ち參らせ候ふ所に、 にてはいかにも叶はせ給ひ候ふまじ。たゞこれより歸らせ へ」と云ひければ、佐々木、「げにも」とて、歸りけるが、「下﨟げらふは、どこともなき者にて、又人にも語らはれて、案内もや教へんずらん。わればかりこそ らめ」とて、かの男を刺し殺し、首かき切つてぞ ててげる。
 明くる二十六日の辰の刻ばかり、又平家の方の逸男はやりをつはものども、小舟に乘つて漕ぎ出し、 を上ケて、「ここを渡せ」とぞ招きたる。こゝに、近江國の住人、佐々木三郎盛綱、かねて案内は つたり。(中略)家の子郎党らうどう等共に七騎、うち入れて渡す。(中略)深き處を泳がせて、淺き所にうちあがる。大将軍(參河守範頼)これを 給ひて、「佐々木にたばかられぬるは。淺かりけるぞ。渡せ渡せ」と下知げぢし給へば、三萬餘騎の兵ども、皆うち入れて渡す。平家の にはこれを見て、船どもおし浮かべおし浮かべ、 先をそろへて、さしつめ引きつめ散々に射けれども、源氏の方のつはものども、これを事ともせず、(中略)をめき叫んで戰ふ。一日戰ひ暮し、 に入りければ、平家の舟は沖に浮び、源氏は兒島の地にうち上がつて、人馬の をば休めける。明けければ、平家は、讃岐の屋島へ漕ぎ退く。源氏、心はたけう思へども、舟なかりければ、やがて續いても攻めず。「昔より、馬にて を渡す兵多しといへども、馬にて海を渡す事、天竺てんじく震旦しんたんは知らず、我が朝には希代きたいためしなり」とて、備前の兒島を佐々木にぶ。鎌倉殿の御教書みけうしよにも載せられたり。



 藤戸合戦は『平家物語』では9月(謡曲では3月)のこととして書かれていますが、史実は前述のように旧暦の12月でありました。なお、謡曲が藤戸合戦の日を3月としていることに関して、大角氏は『能謡ひとくちメモ』にて、以下のように見解を披露されています。

 盛綱が領地児島に入部したのは、春も末~それは藤の頃、その藤は先陣の藤戸にちなむ~と、作者は始めから考えていたのですよ。秋や冬の頃では絶対にいけない、と。
 そして「春」に入部してちょうど一年ぐらい前の「三月二十五日」を事件の日としたことにより、「そういえば」と「思いあた」らせたのだと思うのですよ!
 それを、わずかに去年の九月や十二月!の事件だとすればあまりに短か過ぎる、早過ぎる、生々し過ぎる!
 これだと盛綱は「ひたかくし」にせざるを得なくなる。だから事件が起きたのは一年かそれ以上たった去年の三月頃でなければならない、と作者は思い、きっとそのような文句にしたのではないかと私は思うのですよ!

 また口封じの為に男を殺してしまう場面は、覚一本など語り本系『平家物語』のみに見られ、延慶本や『源平盛衰記』にはない話であり、当時の史書にも殺害の件は見えないようで、これは『平家物語』の創作であるようです。そして謡曲『藤戸』の作者は『平家物語』をさらに掘り下げて、非道にも殺害された漁夫の母親を登場させ、支配階級である武人を告発しようとしたもので、異色の作品といえましょう。
 この盛綱が漁夫を殺害するシーンはは、謡曲ではワキ(佐々木盛綱)の“語(かたり)”で述べられます。


ワキ「言語道断。かゝる不便ふびんなる事こそ候はね。今は何をかつゝむべき。その時の有樣語つて聞かせ候べし。ちかう寄つて聞き候へ。
「さても去年三月さんぐわち二十五日の夜に入りて。浦の男を一人いちにん近づけ。この海を馬にて渡すべき やあると尋ねしに。かの者申す彌う。さん候かはのやうなる所の候。月頭つきがしらにはひがしにあり。月の末には西にあると申す。すなはち八幡大菩薩の御告おんつげと思ひ。家の子若黨わかたうにも深く隱し。かの者とたゞ二人ににん夜に紛れ忍び出で。この海のあさみを見置きてかへりしが。盛綱心に思ふやう。いやいや下郎げらふは筋なき者にて。又もや人に語らんと思ひ。不便ふびんには存じしかども。取つて引き寄せ二刀ふたかたな刺し。そのまゝ海に沈めて歸りしが。さては が子にてありけるよな。よしよし何事もぜんの事と思ひ。今は恨みを れ候へ


 本曲では、ワキが“語り”を語ります。“語り”は、神話・伝説・史実・巷説・伝聞に基く過去の事件、または自己の体験・見聞、寺社縁起などを物語るもので、一曲中の重要な聞かせどころです。シテによる“語り”が大半で、鵜飼・景清・田村・屋島など23曲。ツレによるものは、土蜘蛛(源頼光)・放下僧(小次郎)・楠露(楠木正成)の3曲で、いづれも位の重いツレが登場します。
 本曲のようなワキによる“語り”は、本曲以外に以下の7曲にあります。雲林院(芦屋公光)・七騎落(和田義盛)・隅田川(隅田川渡守)・摂待(武蔵坊弁慶)・道成寺(道成寺住僧)・鉢木(西明寺時頼)・松山鏡(松山某)



 「先陣の功」といえば思い出すのが、『平家物語』巻九「宇治川の事」に記されている、佐々木四郎高綱と梶原源太景季の「宇治川の先陣争い」の物語です。景季は磨墨(するすみ)に、高綱は生食(いけずき)に乗り激しい先陣争いを繰り広げますが、景季は高綱の言葉に騙され、高綱に先陣の功を譲る結果となりました。
 この佐々木高綱は盛綱の弟です。兄弟ともに先陣の功を立てましたが、古川柳には次のように詠まれています。

  兄弟のほまれは宇治と藤戸なり (柳多留 四十・34)
  先陣はおとどひながら手が悪し (柳多留 六・21)

 佐々木兄弟は、宇治川と藤戸での先陣の功として有名ですが、兄弟とも他人をだまして功を立てたもので、あまり褒められたものではないということでしょう。

  百も貰ふ気で浅瀬をおしへたり (柳多留 十四・6)
  教へたは浅瀬聞いたは深ひ知恵 (柳多留 百二十七・82)

 浅瀬を教えた漁夫は、百文くらいは当然貰えるものと思っていたであろうということですが、結果は思いに反して貰えるどころか命まで奪われるとは…。

 「深い知恵」とは、“浅瀬を渡って平家を攻めることができる”という盛綱の戦略のことなのか、あるいは漁夫の口を封じるという“悪知恵”をいうのでしょうか。
 さて、キリの詞章、

…さるにても忘れがたや。あれなる。浮洲の岩の上に我を連れて行く水の。氷の如くなる刀を抜いて。胸の邊を。刺し遠し。刺し通さるれば肝魂も。消え消えと。なる處を。そのまゝ海に。押し入れられて。千尋の底に。沈みしに

を引いたものに次のような句があります。

  ごとくなる刀をぬいてせめる恋 (柳多留 一・19)
  鑓持ちは胸のあたりをさし通し (柳多留 一・6)

 初句、その結果、想いがかなわぬときは無理心中か?
 二句目、大名行列などに見る槍持ちが槍の柄を胸の上に構えて捧げ持った姿を詠んだものでしょう。




 謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ
  (平成29年 7月 3日・探訪)
(平成29年 8月20日・記述)


inserted by FC2 system