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2017年7月3日、『藤戸』の謡蹟を訪ねて、岡山県倉敷市藤戸地区の藤戸寺に参拝しました。この日は、後に九州に大きな被害をもたらした台風3号が接近していましたが、気温が35度になろうかという真夏日で、あまりの暑さに一部の謡蹟探訪を諦めたくらいです。 |
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藤戸地区の謡蹟案内地図 |
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JR茶屋町駅から自転車で10数分、藤戸地区に到着しました。倉敷川に架る朱塗りの橋は「盛綱橋」。現在の橋は平成元年に架け替えられたもので、『平家物語』や謡曲『屋島』で知られる“佐々木盛綱”の名を冠したものです。以下は藤戸史跡保存会による「盛綱橋」の説明です。 |
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盛綱橋 |
馬で海を渡す盛綱像 |
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《藤戸寺》 倉敷市藤戸町藤戸57 |
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藤戸寺は高野山真言宗の寺院。山号は補陀楽山。本尊は千手観音。「藤戸のお大師様」、「源平合戦供養の寺」として知られています。以下は当寺境内に掲げられた由緒書きです。 |
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藤戸寺本堂を望む |
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藤戸寺境内案内図 |
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手水舎と沙羅双樹の樹 |
謡曲史蹟保存会の駒札 |
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山口誓子句碑 |
森白象句碑 |
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石造藤戸寺五十塔婆 |
大師堂 |
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藤戸寺寺号標 |
源平藤戸合戦八百年記念碑 |
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藤戸寺のご住職より「藤戸周辺の案内図」(冒頭に掲載した地図)を頂戴しましたので、この地図に基いて藤戸合戦の古跡を巡りました。暑さのため割愛した箇所は、同地図の写真を掲載しています。 |
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藤戸合戦では、源範頼を総大将とする源氏は本陣を地図の左上の、現・法輪寺に置き、佐々木盛綱は現・山陽ハイツのあたりに陣を構えていました。これに対して平家は平行盛を主将として、地図の中央下部の篝地蔵(かがりじぞう)に城郭を構えて、源氏に相対しておりました。 |
篝地蔵 |
乗出岩 |
鞭木 |
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浮州岩跡 |
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先陣庵 |
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経ヶ島 |
経ヶ島の経塚と石塔 |
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笹無山 |
蘇良井戸 |
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『藤戸』に関しては、大角征矢氏が『能謡ひとくちメモ』の「『藤戸』の盛綱は卑劣なワキか?」にて、里井陸郎氏がその著書『謡曲百選』において盛綱を徹底的にこき下ろしているに対して、大角氏は、白洲正子『旅宿の花─謡曲平家物語』を参照するなど、大論陣を張って盛綱を擁護されています。そのほかこの『ひとくちメモ』には、『藤戸』に関する興味深い事柄が多数述べられています。 |
さる程に、同じき九月十二日(中略)(源氏は)都を立つて |
藤戸合戦は『平家物語』では9月(謡曲では3月)のこととして書かれていますが、史実は前述のように旧暦の12月でありました。なお、謡曲が藤戸合戦の日を3月としていることに関して、大角氏は『能謡ひとくちメモ』にて、以下のように見解を披露されています。 |
ワキ「言語道断。かゝる |
本曲では、ワキが“語り”を語ります。“語り”は、神話・伝説・史実・巷説・伝聞に基く過去の事件、または自己の体験・見聞、寺社縁起などを物語るもので、一曲中の重要な聞かせどころです。シテによる“語り”が大半で、鵜飼・景清・田村・屋島など23曲。ツレによるものは、土蜘蛛(源頼光)・放下僧(小次郎)・楠露(楠木正成)の3曲で、いづれも位の重いツレが登場します。 |
「先陣の功」といえば思い出すのが、『平家物語』巻九「宇治川の事」に記されている、佐々木四郎高綱と梶原源太景季の「宇治川の先陣争い」の物語です。景季は磨墨(するすみ)に、高綱は生食(いけずき)に乗り激しい先陣争いを繰り広げますが、景季は高綱の言葉に騙され、高綱に先陣の功を譲る結果となりました。 |
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「深い知恵」とは、“浅瀬を渡って平家を攻めることができる”という盛綱の戦略のことなのか、あるいは漁夫の口を封じるという“悪知恵”をいうのでしょうか。 |
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を引いたものに次のような句があります。 |
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(平成29年 7月 3日・探訪) (平成29年 8月20日・記述) |