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2017年10月25日、神奈川県の江ノ島を訪れ、その足で鎌倉・由比ヶ浜の「盛久頸座」を訪れました。 |
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由比ヶ浜界隈探索地図 |
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盛久斬首の地 |
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昭和10年の頸座の碑 |
大正8年の頸座の碑 庚申塚 |
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以上、碑文などの内容を眺めてみました。謡曲『盛久』の主人公は「平盛久」ですが、どのような人物であったのか、残念なことに私はほとんど知りません。幸い手持ちの『平家後抄』(角田文衛、講談社学術文庫、2000)にかなり詳しく記されていました。以下は同書からの抜粋です。 |
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文治二年(1186)に入ってから、ある下女が盛久のことを鎌倉方に密告した。密告によって盛久が毎夜、清水寺に詣でていることが判明したので、彼は直ちに召捕られてしまった。 |
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頼朝は盛久の旧領である紀伊国の荘園を返付することを約し、所領安堵の下し文を与え、また都に帰るため鞍馬一匹を彼に送った。 |
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謡曲「盛久」梗概 |
さて謡曲の典拠となった『長門本平家物語』ですが、幸いなことに『新潮日本古典集成・謡曲集』(伊藤正義校注、1988)の巻末・各曲解題に関連箇所が掲載されていましたので、やや長文になりますが以下に転載します。 |
主馬入道盛国が末子に、主馬八郎左衛門盛久、京都に隠れ居りけるが、年来の宿願にて、等身の千手観音を造立し奉て、清水寺の本尊の右脇に居奉りけり。盛久、降るにも照にも跣足にて清水寺へ千日毎日参詣すべき心ざし深くして、歩みを運び年月を経るに、人これを知らず。 |
この長門本を典拠とした謡曲『盛久』は、すでに斬刑を覚悟していた盛久が観音信仰の余徳によって不思議にも救われるという「観音利生譚」が主眼となっています。『法華経』の「普門品」の偈「或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壊」の実現でもありました。盛久が目前に迫った最期を覚悟して、土屋三郎と一夜を語り明かし、この「普門品」を読誦するシーンを、謡曲では以下のように謡っています。 |
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このように眺めると『盛久』の本節は『長門本平家物語』そのものというより、それと同根、同内容の「観音利生説話」に基づくといえましょう。この「普門品」にある“刀尋段々壊”の利生譚としての処刑を免れる話は、「三曲」所収の『初瀬六代』にも見えます。以下にその〈クセ〉を転載します。 |
クセ「初瀬の鐘の聲。つくづく思へ世の中は。諸行無常の |
この『盛久』は『実盛』『通盛』と並んでいわゆる「三盛」の一に数えられていますが、開口から「いかに土屋殿に申すべき事の候」と、シテとワキとが問答をしながら登場するといった破格の演出で驚かされます。このようにいきなり問答をしながら幕を出るというのは他に例を見ません。ただし、観世・金春以外の流派では、ワキの名ノリ「これは鎌倉殿のみ内に、土屋のなにがしにて候、さても主馬の判官盛久は、丹後の国成相寺に忍んでござ候を、よき案内者をもつて生け捕り申し、只今関東へおん供仕り候」(横道萬里雄・表章『日本古典文學大系・謡曲集』岩波書店、1960)で始めるようになっています。余談ですが、丹後の国成相寺といえば『丹後物狂』の花若(子方)が学問に励んだ寺でありました。 |
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一セイ シテ「何時か又。清水寺の花盛り 地「歸る春なき。名殘かな シテ「音に立てぬも音羽山 地「たきつこゝろを。人知らじ 〈中略〉 |
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清水寺 |
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逢坂の関跡 |
瀬田の唐橋 |
鏡神社 |
熱田神宮 |
富士の高嶺 |
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(平成29年10月25日・探訪) (平成29年11月12日・記述) |