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相州鎌倉・由比ヶ浜 〈盛久〉


 2017年10月25日、神奈川県の江ノ島を訪れ、その足で鎌倉・由比ヶ浜の「盛久頸座」を訪れました。
 江島神社に参拝した時は、雨がかなり激しく、十分にお参りすることがかないませんでしたが、江ノ電の長谷駅に降りたったときには雨は小降りとなっており、長谷郵便局に立ち寄り、県道311号鎌倉葉山線(由比ヶ浜通りとでも呼ぶのでしょうか)に沿って歩く頃には、幸いなことに雨はほとんど上がった状態で、傘の厄介にならずに済み、ようやく晴れ男の本領が発揮できた感があります。

由比ヶ浜界隈探索地図


 謡曲『盛久』の主人公である平盛久が、斬首されかかったと伝えられる地には「盛久頸座」の碑が建てられています。地図では海岸線より若干内陸に入っていますが、平安朝末期にはこのあたりまで海だったのかもしれません。あるいは近年になってからこの地を比定したものでしょうか。


盛久斬首の地


 ここには「頸座」の碑が2基と謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。小さい方の「頸座の碑」は、大正8年に鎌倉同人会によって建てられたものです。

 平家物語に文治二年六月廿八日幕府命じて平家の家人主馬八郎左衛門盛久を由比が浜に斬らしめんとせしに不思議の示現ありて之を赦したまふとあるは此地なりと云ふ

 上記碑文では『平家物語』となっていますが、これは『平家物語』の“流布本”ではなく、後述しますが“長門本”のことです。
 大きい方の碑は、昭和10年に鎌倉町青年団によって建てられたものです。

 盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累代ノ家人ナリ、然ルニ平家滅亡ノ後京都ニ潜ミ年來ノ宿願トテ清水寺ニ參詣ノ歸途北條時政人ヲシテ召捕ヘシメ鎌倉ニ護送シ文治二年六月此地ニ於テ斬罪ニ處セラレントセシニ奇瑞アリ宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシトイフ


昭和10年の頸座の碑

大正8年の頸座の碑


庚申塚


 最後に「謡曲『盛久』と由比ヶ浜」と題した保存会の駒札です。ただこの駒札は道路を行き交う車両が多い故か、一面に埃をかぶって、かなり判読しづらい状態になっておりました。

 平家の武将・平盛久は、源氏に破れ捕らえられて鎌倉に送られ、この由比ヶ浜の地で首を切られることになりました。
 盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け、処刑前夜に観世音の霊夢を見ました。そしていざ処刑の時、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を取り落とし、太刀も二つに折れてしまいました。
 これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢を見た、観世音のお告げである」と言って助命し、盛久は所望されて舞を舞うのでした。

 以上、碑文などの内容を眺めてみました。謡曲『盛久』の主人公は「平盛久」ですが、どのような人物であったのか、残念なことに私はほとんど知りません。幸い手持ちの『平家後抄』(角田文衛、講談社学術文庫、2000)にかなり詳しく記されていました。以下は同書からの抜粋です。

 平盛久は、伊勢守・盛国の八男に生まれ、以前に主馬判官と呼ばれた盛国にちなんで主馬八郎左衛門と呼ばれた。
 源平の合戦を通じて盛久は、戦いに加わったけれども、特別の武勲をたてなかった。しかし壇ノ浦の後、彼は大胆にも都に潜入したのであった。長門本『平家物語』(巻第二十)によると、清水寺の阿闍梨・良観に篤く帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを金堂の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始めた。

 文治二年(1186)に入ってから、ある下女が盛久のことを鎌倉方に密告した。密告によって盛久が毎夜、清水寺に詣でていることが判明したので、彼は直ちに召捕られてしまった。
 (鎌倉に護送され、あわや打首というところを観音の奇瑞により救われる。)

 頼朝は盛久の旧領である紀伊国の荘園を返付することを約し、所領安堵の下し文を与え、また都に帰るため鞍馬一匹を彼に送った。
 都に入った盛久は、清水寺に参って本尊を拝し、良観阿闍梨に事の次第を報告した。阿闍梨は、去る六月二十八日の午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れて手が折れたので、寺では大変不思議に思っていたが、遥か鎌倉の地にある貴殿を救済されるためであることが分かったと語った。都の貴賤はこの話をきき、新造の千手観音のご利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏をいやが上にも尊んだということである。


 ここで謡曲『盛久』について考察いたしましょう。


   謡曲「盛久」梗概
 作者は観世十郎元雅。典拠は『長門本平家物語』。
 捕らわれて京から鎌倉へ向かう盛久は、護送役の土屋三郎に頼み、日ごろ信仰する清水寺に立ち寄り、観音に最後の祈願をして鎌倉に下った。
 鎌倉に到着し、処刑を間近にして盛久は心静かに「観音経」を読誦し、その後でひと眠りしていると、夢中に観音のお告げがあった。翌朝、由比ヶ浜の処刑の場に臨み、太刀取りは振り上げた太刀を取り落とし、太刀は二つに折れる。これを聞いた頼朝は盛久を連れて来させ、盛久から清水観音の霊夢の話を聞くと、自分も同じ夢を見ていたので、奇特に思い、命を助け盃を与えて舞を所望する。盛久は喜びの舞を舞い、やがて退出するのであった。
 以下は、里井睦郎『謡曲百選』(笠間書院、1982)からの抜粋です。

   或遭わくそう王難苦おうなんく   臨刑りんぎよう欲壽終よくじゆじゆ
   ねんかんのんりき   刀尋とうじん段々壊だんだんね
      ひょっとして王の怒りにふれて苦難に遇うことがあり
      刑に臨んで寿命がはてようとするときにあたっても
      かの観音の神秘な力を心に深く祈念するならば
      ふり下された刀がいく重にも折れてばらばらにこわれてしまうであろう
 この観音のあらたかな功徳をたたえる法華経普門品の偈の句が、おそらく盛久という武人の助命談瑞談脚色のヒントになった。主馬判官盛久の処刑のことに関しては、平家物語の長門本にしか所見がない。この神秘的な霊験談は、もとより架空のつくり話であるが、長門本に拠って能『盛久』を描いた十郎元雅の心中には、観音信仰が、おそらく生き生きとして実在していたにちがいない。そうでなければ、これほどの劇的な迫力と、みまやかな情緒をもった現在能男舞物は書けなかったであろう。
 十郎元雅という人は、人間の暗いかなしみのわかる人であっただけに、かえってその心の奥には、しずかに燃えるともし火のように、やさしく暖かな観音の慈悲が存在していたにちがいないのだ。
 その敬虔な祈り、そして信頼が「いかに土屋殿に申すべき事の候」という型やぶりの開口の句を書かせたのである。神妙なそれでいて一種の安らぎをすら感じさせる開口の謡でなければならない。
 刀尋段々壊などという事態が現実に起るなどとは元雅も信じてはいまい。『隅田川』の狂女は、いかなる他の物狂の能の母たちとちがってついに現実に生きたわが子と再会しなかったではないか。何ものかを期待できる豊かな現実を元雅は決して持っていなかったのである。だからこそ、かえって彼は、せつないほどに澄みきった読経の声を隅田川の虚空にひびかせ、それを永遠の詩にし、又絵にすることができたのである。


 さて謡曲の典拠となった『長門本平家物語』ですが、幸いなことに『新潮日本古典集成・謡曲集』(伊藤正義校注、1988)の巻末・各曲解題に関連箇所が掲載されていましたので、やや長文になりますが以下に転載します。


 主馬入道盛国が末子に、主馬八郎左衛門盛久、京都に隠れ居りけるが、年来の宿願にて、等身の千手観音を造立し奉て、清水寺の本尊の右脇に居奉りけり。盛久、降るにも照にも跣足にて清水寺へ千日毎日参詣すべき心ざし深くして、歩みを運び年月を経るに、人これを知らず。
 平家の侍被打漏されたり、越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清、主馬八郎左衛門盛久、これらは宗徒のもの共なり、尋ね出すべきよし、兵衛佐殿、北条四郎時政に被仰含けり。 (中略) 跣足にて盛久詣でけるを召捕て、兵衛佐殿へ奉る。
 盛久まだ知らぬ東路に千行の涙をのごひ、暁月に袂を潤して、われ清水寺の霊場に千日参詣の心ざしを運び、多年本尊に祈り奉り、信心の誠をこらしつるに、日詣空しくなりぬ、あはれ西国の戦場に軍破れて人々海に入り給ひし時、同じく底の水屑ともなりたりせば、今日かかる憂き目には逢はじものをと思はぬ事もなく、思ひ続けて歎き暮し、朝の露に命をかけ、日数も漸く重なれば鎌倉にも下着しぬ。
 梶原平三景時、兵衛佐殿の仰を承て盛久を召す。心中の所願を尋ね申に仔細をのべず。盛久、平家重代相伝の家人、重恩厚徳の者也、はやはや斬刑に従ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰せて首を刎ねらるべしとて、文治二年六月廿八日に盛久を由井浜に引き据へて、盛久西に向つて念仏十反ばかり申けしるが、いかが思ひけん、南に向つて又念仏二三十遍ばかり申しけるを、宗遠太刀をぬき頸を打つ。その太刀、中より打折りぬ、又打つ太刀も目貫より折れにけり。不思議の思ひをなすに、富士の裾より光二筋盛久が身に差当てたりとぞ見えける (中略)
 兵衛佐殿の室家の夢に、墨染の衣着たる老僧一人出で来て、盛久斬首の罪に当てられ候ふが、まげて宥め候べき由申す。室家夢中に、誰人にておはするぞ、僧申しけるは、われ清水辺に候ふ小僧なりと申すと思して夢覚て、兵衛佐殿にかかる不思議の夢をこそ見たれと宣ひければ、さる事の候、平家の侍に主馬入道盛国が子に主馬八郎左衛門盛久と申す者、京都に隠れて候ひつるを尋ね取つて、只今宗遠に仰て、由井浜にて首をはねよとて遣して候。この事清水寺の観音の、盛久が身に代らせ給ひたりけるにや、首をはね候ふなるに、一番の太刀は中より三に折れて候、又次の太刀は目貫より折れて、盛久が頸は斬れず候ふよし申て候とて、盛久を召し返されたり。
 兵衛佐殿、信伏の首をか傾け、手を洗ひ口を漱ぎ、御直垂召して、盛久に、抑いかなる宿願あつて清水寺へ参り給ひけるぞ、奇特瑞相を現はす、不審なりと仰らるに、殊なる宿願候はず、等身の千手観音を造立し奉りて、清水寺の観音に並べ参らせて、内陣の右の脇に立て奉りて、千日毎日参詣を遂ぐべきよし宿願候ひて、既に八百余日参詣し、今百余日を残して召し捕られ候とぞ申ける。右兵衛佐殿、所帯はなきかと問ひ給へば、紀伊国に候ひしかども、君の御領に罷り成りて候と申す。さぞ候ふらんと仰せられて、件の所帯長く相違あるべからずと、安堵の御下文賜びてもとのごとく還補すべきよし仰せられて、これを返さるる上、龍蹄一疋に鞍置てこれを給はる。 (以下略)



 この長門本を典拠とした謡曲『盛久』は、すでに斬刑を覚悟していた盛久が観音信仰の余徳によって不思議にも救われるという「観音利生譚」が主眼となっています。『法華経』の「普門品」の偈「或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壊」の実現でもありました。盛久が目前に迫った最期を覚悟して、土屋三郎と一夜を語り明かし、この「普門品」を読誦するシーンを、謡曲では以下のように謡っています。


シテ「ありがたや大慈大悲は薩埵さつたの悲願。定業ぢやうごふやく能轉のうてんは菩薩の直道ぢきだうとかや。願はくは無縁の慈悲を垂れ。我を引導し給へ。今生こんじやう利益りやく若しけば。後生善所をも誰か頼まん。二世の願望ぐわんまう若し空しくば。だいしやうの誓約あに虚妄こまうにあらずや。或遭わくさう王難苦わうなんく臨刑りんぎやう欲壽終よくじゆじゆくわんのんりき刀尋たうじん段々壊だんだんね

ワキ「ありがたやこの御經を聽聞ちやうもん申せば。御命もたのもしうこそ候へ
シテ「げによく御弔問候ものかな。このもんと云つぱ。たとひ人王難わうなんの災に遭ふと云ふとも。そのつるぎだんだんに折れ
ワキ「また衆怨しゆをんしつ退散たいさんと云ふ文は。射る矢もその身にはつまじければ

シテ「げに頼もしやさりながら。まつたく命の為にこの文をじゆするにあらず
シテ・ワキ「種々諸悪趣あくしゆ地獄ぢごく鬼畜生きちくしやう生老しやうらう病死苦びううしく以漸いぜんしつ令滅りやうめつ
下歌 地「このもんの如くば。諸々もろもろの悪趣をも三悪道さんあくだうのがるべしやありがたしと夕露の。命は惜しまずたゞ後生ごしやうこそは悲しけれ


 このように眺めると『盛久』の本節は『長門本平家物語』そのものというより、それと同根、同内容の「観音利生説話」に基づくといえましょう。この「普門品」にある“刀尋段々壊”の利生譚としての処刑を免れる話は、「三曲」所収の『初瀬六代』にも見えます。以下にその〈クセ〉を転載します。


クセ「初瀬の鐘の聲。つくづく思へ世の中は。諸行無常のことはりかりに見ゆる親子の。夢幻ゆめまぼろしの時のと。かねてはかくと思へどもまこと別れになる時は。思ひし心もうちせてたゞくれくれとへかぬる。胸の火はこがれて身は消ゆる心のみなり。
さるにても我が子のうしなはれんとしけるとは。知れどもなほやさりともの。頼みをかけまくも。かたじけなくもたゞ頼め。南無なむ大悲だいひの観世音。願はくはもとよりの御誓願ごせいぐわんに任せつゝ。念彼ねんぴ観音力くわんのんりき刀尋たうじんだん々の功力くりきげに。偽らせ給はずは。つるぎをも折らせて我が子を助け給へや



 この『盛久』は『実盛』『通盛』と並んでいわゆる「三盛」の一に数えられていますが、開口から「いかに土屋殿に申すべき事の候」と、シテとワキとが問答をしながら登場するといった破格の演出で驚かされます。このようにいきなり問答をしながら幕を出るというのは他に例を見ません。ただし、観世・金春以外の流派では、ワキの名ノリ「これは鎌倉殿のみ内に、土屋のなにがしにて候、さても主馬の判官盛久は、丹後の国成相寺に忍んでござ候を、よき案内者をもつて生け捕り申し、只今関東へおん供仕り候」(横道萬里雄・表章『日本古典文學大系・謡曲集』岩波書店、1960)で始めるようになっています。余談ですが、丹後の国成相寺といえば『丹後物狂』の花若(子方)が学問に励んだ寺でありました。


 シテの〈サシ〉謡から〈ロンギ〉にいたる盛久が鎌倉へ下る道行は、なかなかの名調子で謡い所です。またこの部分は、「三曲」にある『東下り』でも謡われています。
 手持ちの写真があまりなくて、道行の名所のすべてを網羅できませんが、そのいくつかをお目にかけたいと思います。


一セイ シテ何時か又。清水寺の花盛り  地歸る春なき。名殘かな  シテ音に立てぬも音羽山  地たきつこゝろを。人知らじ 〈中略〉
下歌此處は誰をか松坂や四乃宮河原四つの辻
上歌これやこの。行くも歸るも別れては。行くも歸るも別れては。知るも知らぬも。逢坂の關守も今の我をばよも留めじ。勢田の長橋うち渡り。立ち寄る影は鏡山。さのみ年經身なれども。衰へは老蘇の森を過ぐるや美濃尾張。熱田の裏の夕汐の道をば波に隱されて。まはれば野辺に鳴海潟また八つ橋や高師山また八つ橋や高師山
ロンギ汐見坂橋本の。濱名の橋をうち渡り  シテ旅衣。かく来て見んと思ひきや。命なりけり小夜の中山はこれかとよ  地變る淵瀬の大井川。過ぎ行く波も宇津の山  シテ越えても關に清見潟  地三保の入海田子の浦うち出でゝ見れば眞白なる。雪の富士の嶺箱根山。なほ明け行くや星月夜はや鎌倉に.着きにけりはや鎌倉に着きにけり



清水寺



逢坂の関跡



瀬田の唐橋



鏡神社



熱田神宮



富士の高嶺



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  (平成29年10月25日・探訪)
(平成29年11月12日・記述)


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