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和州・龍田大社 〈龍田・逆矛〉


 2018年9月14日、28日に『龍田』の謡蹟を訪ねるべく、奈良県斑鳩町鎮座の龍田神社および三郷町の龍田大社に参拝いたしました。当初、『龍田』の謡蹟は斑鳩町の龍田神社とばかり考えておりましたが、『神皇正統記』などの資料によくよく目を通しておりますと、むしろ三郷町の龍田大社が謡蹟として妥当であると思われます。また歌に詠まれた龍田川も、古くは現在の大和川であるとのことですので、それで急遽28日に三郷町の龍田大社にお参りした次第です。
 また参拝時にはうかつにも気が付かなかったのですが、後ほど調べてみますと、龍田大社は『逆矛』の謡蹟でもありました。

龍田大社・龍田神社 近郊地図



《龍田大社》  奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1

 龍田大社はJR関西線の三郷駅の北方、徒歩数分ほどの地に鎮座しています。当社については、以下当社のサイトや略縁起記を参考にしています。

 主祭神は、天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)・国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)。別名を、志那都比古神(しなつひこのかみ)・志那都比売神(しなつひめのかみ)
 天と地の間、すなわち大気・生気・風力を司る神で「龍田の風神」と総称され、北葛城郡河合町川合の「広瀬の水神」と並び称された。「御柱」とは「真の柱」の意で「天地万物の中心の柱」と解釈され、別名の「志那」とは「息長」の意で、文字通り「気息の長く遠く吹き亘る」と解釈。すなわち天地宇宙の万物生成の中心となる『気』を守護する、幅広い新徳のる神である。
 創建は訳2100年前、第十代崇神天皇の頃、国内に凶作・疫病が流行した折、天皇の御夢に「吾が宮を朝日の日向処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に吾が宮を定めまつりて云々」という神託があり、その通りに造営すると、疫病は退散し豊作となったという。

龍田大社境内案内地図



龍田大社 朱の大鳥居


  境内入口には朱塗りの大きな鳥居が建っており、鳥居の左手には「官幣大社龍田神社」と刻まれた社号標が建てられています。鳥居扁額には「龍田本宮」と記されています。かつて当社は龍田神社と称していたとのことですので、“本宮”は斑鳩町にある龍田神社との違いを明確にするためのものなのでしょうか。またこの鳥居は厳島神社のような4本の控え柱をもっています。鳥居をくぐると砂利の参道が拝殿まで続いています。さすがに官幣大社だけのことはあり、境内は広く風格を感じさせられます。


境内 鳥居の下より拝殿を望む



拝殿

ご朱印

 拝殿は舞台作りで、その奥に末社、摂社が祀られ、さらにその奥に本殿があります。本殿の写真はパンフレット所載のものです。


本殿(パンフレットより)


 拝殿脇からは、末社3社と摂社2社が望まれます。末社は上座から天照大御神と住吉大神、枚岡大神と春日大神、高望王をお祀りしています。また奥側の摂社には、上座から龍田比売命と龍田比古命が祀られています。
 また社殿左手には龍田恵美須神社、三宝稲荷神社、白瀧神社が祀られています。


高橋蟲麿歌碑

参道左手の句碑


 拝殿脇の右手に、当社を詠んだ高橋蟲麿の万葉歌碑があります。(巻九・1751)

鳥山を い行き巡れる 川沿ひの 丘辺の道ゆ 昨日こそ わが越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 峰の上の 桜の花は 瀧の瀬ゆ 散り落ちて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社に 風祭りせな

難波宮から平城京に還って来る時の、高橋虫麻呂の歌である。龍田の社は、風神を祭ることで古来有名であった。折しも桜花満開の時、そこで、名高い龍田の神に、花が風で散らないように風祭をしようと願ったのである。

 高橋蟲麿が通ったのは、龍田道と呼ばれる平城京と難波宮を結ぶ街道のひとつであったと思われます。この街道の設置には聖徳太子も関わったともいわれているようです。『万葉集』にも多くの歌人が龍田道を通った歌を残しており、重要な地であったことがうかがわれます。
 龍田大社の近くの三郷立野郵便局で「竜田古道」の記念切手を販売していましたので、購入しました。後ほどご紹介します。
 なお、参道の左側、手水舎の対面に句碑が建てられていました。「○○○○○しずまり月をほしいまゝ」のようなのですが、初句が判読できませんでした。作者は“九十三翁”らしいのですが…。


蘭陵王の屏風

火消し車


 御朱印を頂戴しようと社務所に参りますと、正面玄関のついたてに、雅楽の「蘭陵王」が描かれていました。
 社務所の前はちょっとした庭園になっているのですが、そこに昔懐かしの人力によるポンプ式の消防車が置かれていました。


風の宮の石柱

下照神社


 境内の左手奥に「風の宮 龍田本宮」の石柱が建てられてあり、その前方に末社の下照神社が祀られています。当社のサイトによれば祖霊社で明治時代創建とのこと。その名からすれば下照姫命をお祀りしているのでしょうか。



《龍田神社》  奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6

 龍田神社について、以下 Wikipedia によります。

 崇神天皇の時代に創立され、法隆寺の鎮守とされていた。伝承によれば、聖徳太子が法隆寺の建設地を探し求めていたときに、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、その名の通り龍田比古神・龍田比女神の二神(龍田大明神)を祀っていた。延喜式神名帳にもこの名前で記載され、小社に列している。しかし、後に龍田大社より天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れられてしまった。現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している。
 明治の神仏分離により法隆寺から離れ、三郷町立野の官幣大社龍田神社(現・龍田大社)の摂社となった。独立の請願の結果、大正11年3月に龍田大社より独立し、県社に列格した。


龍田神社の鳥居

 龍田川に架かる龍田大橋より東に1キロ弱、国道25号線の北側の旧街道に面して、龍田神社が鎮座しています。古色然とした鳥居には注連縄が飾られ、屋根が付けられており、ちょっと変わった鳥居のようです。境内は龍田大社に比べるとかなり小ぢんまりとしていますが、境内の左側には建造物もなく、広々とした感があのました。


拝殿

ご朱印

 当社の手水舎の水口は鶏です。神の御使いの鶏なのでしょう。
 拝殿の右手前のご神木の両サイドには赤い祠が祀られています。末社の楠大明神と稲荷大明神です。


手水舎

拝殿前の摂社


 本殿の西側の一角には、恵比寿神社・廣田神社・粟島神社・祇園神社・市杵島姫命、白龍大神の6柱の摂社が祀られています。



拝殿西側の摂社


 境内の左手前に、ソテツの巨樹のこんもりとした茂みがあり、その傍らに「金剛流発祥之地」の碑が建っています。以下はその説明書きです。

 金剛流は、能楽シテ方の一流で、大和申楽四座(結崎・円満井・外山・坂戸)のうちの坂戸座を源流とする。
 坂戸座は、その名称を法隆寺周辺部にあった古代郷で、おおむね現斑鳩町の並松・五百井・服部・竜田・小吉田・稲葉車瀬・神南付近を範囲とする坂戸郷に由来し、古刹法隆寺に所属して発展をみた申楽の座である。
 中世の法隆寺付近には、法隆寺東郷・西郷が成立しており、その郷民たちの精神的紐帯として祀られた竜田神社を中心に、竜田市が栄えていた。「法隆寺々要日記」によれば、寛元元年(1243)にはこの市の守護神として、摂津西宮から夷神が勧請され、その祭礼に郷民自身による申楽が盛んに演じられたとある。
 法隆寺付近の郷民たちは、竜田市の経済力を背景に、強固な自治的組織を生み育て、祭礼に彼ら自身が芸能を演じて楽しむとともに、彼らのなかで法隆寺に所属し、大和一円で活躍した専門の申楽集団である板戸座を育てたのである。
 よってここに金剛流発祥之地の碑を建てる。



金剛流発祥之地

 


ソテツの巨樹


 以下は同所にある、奈良県教育委員会による「県指定天然記念物 ソテツの巨樹」の説明です。

 ソテツは雌雄異株の裸子植物で、分岐の少ない円柱状の茎に、大型で羽状の葉を茎頂にむらがらせてつける。成長すると高さ数メートルにもなる常緑樹で、熱帯から亜熱帯にかけて分布し、その一部は九州南端にも自生している。
 雄花も雌花も大型で茎頂につけるが、暖地でなければほとんど花をつけることがなく、近畿ではまれに八月頃に見られる。
 このソテツの巨樹は植栽されたもので、東西に二株あり、根元の総周囲は約5.7mに達する。茎頂にはしばしば雄花をつけている。



 龍田大社、龍田神社両社の参拝を終えたところで、謡曲『逆矛』と『龍田』の検討に移りたいと思います。
 その前に、両曲のペースとなっている『神皇正統記』の該当箇所を眺めてみましょう。


 コヽニ天祖あまつみおや國常立くにのとこたちの尊、伊弉諾・伊弉册ノふたはしらの神ニみことのりシテノ給ハク、「豐葦原ノ千五百秋ちいほあきノ瑞穂ノくにアリ。いまし往キテシラスベシ。」トテ、即天瓊矛あめのぬぼこヲサヅケ給。 此矛又ハ天ノ逆戈さかほこトモ、天魔返あまのさかホコトモイヘリ。二神コノホコヲサヅカリテ、あま浮橋うきはしノ上ニタヽズミテ、矛ヲサシオロシテカキサグリ給シカバ、滄海あをうなばらノミアリキ。ソノホコノサキヨリシタヽリオツルしほコリテひとつノ嶋トナル。コレヲ磤馭廬嶋おのごろじまト云。(中略)
 此矛ハつたへて、天孫シタガヘテアマクダリ給ヘリトモ云。又垂仁天皇ノ御宇ぎようニ、大和姫ノ皇女、天照太神ノ御オシヘノマヽニ國々ヲメグリ、伊勢國ニ宮所みやどころヲモトメ給シ時、大田おほたノ命ト云神マヰリアヒテ、五十鈴いすずノ河上ニ靈物れいもつヲマボリオケル所ヲシメシ申シニ、カノ天ノ逆矛・五十鈴・天宮あめのみや圖形づぎやうアリキ。大和姫ノ命ヨロコビテ、其所ヲサダメテ、神宮ヲタテラル。靈物ハ五十鈴ノ宮ノ酒殿さかどのニヲサメラレキトモ、又、瀧祭たきまつりノ神ト申ハりゆう神ナリ、ソノ神(天逆矛ヲ)アヅカリテ地中ニヲサメタリトモ云。ひとつニハ大和ノ龍田たつたノ神ハコノ瀧祭と同體ニマス、此神ノアヅカリ給ヘル也、ヨリテ天柱あめのみはしら國柱くにのみはしらト云御名アリトモ云。昔磤馭廬嶋ニもてクダリ給シコトハアキラカ也。世ニ傳ト云事ハオボツカナシ。天孫ノシタガヘ給ナラバ、神代ヨリ三種さんじゆノ神器ノゴトク傳給ベシ。サシハナレテ、五十鈴ノ河上ニ有ケンモオボツカナシ。ただし天孫モ玉矛ミヅカラシタガヘ給ト云事みえタリ。シカレド矛モ大汝おほなむちノ神ノタテマツラルヽ、國ヲタヒラゲシ矛モアレバ、イヅレト云事ヲシリガタシ。寶山ニトヾマリテ不動ノシルシトナリケンコトヤ正説しやうせつナルベカラン。龍田たつたモ寶山チカキ所ナレバ、龍神ヲ天柱國柱トイヘルモ、深祕じんぴノ心アルベキニヤ。


 上に引いた『神皇正統記』によれば、日本の國を創成し、天の御柱・国の御柱となって国家鎮護の根本となり、伊勢神宮にあっては心の御柱となるのが天瓊矛(天逆矛)であり、その守護神である瀧祭の神が龍田明神と同体であるというわけです。
 この『神皇正統記』を骨子として、瀧祭の神が天逆矛の由来を述べる鬼がかりの脇能が『逆矛』であり、龍田明神の和魂(にきたま)としての龍田姫をシテとするのが『龍田』です。

 それでは『逆矛』から。


   謡曲「逆矛」梗概
 宮増作とも伝えるが、作者は未詳。『神皇正統記』などによる。観世流のみ現行。
 天の逆矛の守護神として瀧祭の神が持ち出されてある。瀧祭の神とは大和龍田の明神のことである。昔、伊弉諾・伊弉冉二神は天祖國常立尊から天の瓊矛を授けられ、天の浮橋に立ち、逆さまに海中にさしおろして掻き回すと、瓊矛の滴りが凝り固まって、淡路・四国・筑紫・壱岐・対馬・隠岐・佐渡・本土豐秋津洲、合せて八洲、名づけて大八洲生まれた。その後国土が治まって、平かな御代となったので、天の瓊矛は天の逆矛と号し、瀧祭の神が預かって龍田山に納め、龍田山は宝の御矛が納められたので寶山ともよばれることとなった。
 当今の帝に仕える臣下が龍田山に参詣すると、瀧祭に参詣する老翁と若者に出会い、龍田山を宝山という謂れを訊ねる。老翁は、伊弉諾・伊弉冉の両尊が国土創成のときに使われた御矛を天の逆矛というが、その御矛を瀧祭の明神が預かって、この山に納めたから、宝山と呼ぶのであると語り、自らがその瀧祭の神であると言って消え失せる。
 その夜、社前に籠っている臣下の前に、龍田姫とおぼしき天女が現われ、古鳥蘇(ことりそ)の楽を奏で、次いで山上から龍田の明神が矛を携えて現われ、伊弉諾・伊弉冉の世、矛をさし下して国造りをしたありさまを見せる。
 後シテは大きな矛を持って出るのが本曲の特色で、始終この矛で勇壮に舞う。そして一畳台の上から、この矛を用いて青海原をかき分ける型が特徴を持つ。


 以下に『逆矛』前場の〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉と後場の後シテの登場の部分を引用しています。〈クリ〉~〈クセ〉の詞章については、前述した『神皇正統記』を援用しています。


クリ 地「そもそも瀧祭たきまつり御神おんがみとは即ち當社の御事なり。昔天祖てんそ詔勅みことのり。末明らかなる御國みくにとかや
サシ シテ「こゝに第七代だいしちだいに當つて現れ給ふを。伊弉諾いざなぎ伊弉册いざなみと號す  地「時に國常立くにとこたち伊弉諾に託してのたまはく。豐葦原とよあしはら千五百穐ちいほあきの國あり。汝よく知るべしとて。すなはあまほこを。授け給ふ
クセ伊弉諾いざなぎ伊弉册いざなみは。天祖の御教おんおしへ。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神にじんたゝずみ給ひて。この御矛おんほこを海中に。さしおろし給ひしより。御矛みほこを改めて。あま逆矛さかほこと名づけめ。國富み民を治め得て。二神にじんの初めより今のまでの寶なり。その後國土治まりて。御代みよ平らかになりしかば。瀧祭たきまつりの明神この御矛おんほこを預かりて。所もあまねしや。この御山おんやまに納めて寶の山と號すなり
シテそもそ御矛みほこぬしたりし  地「名もいさぎよき瀧祭の。神のやしろ何處いづくぞと。問へば名を得し龍田山。紅葉の八葉はちえふも。即ち矛の刃先はさきより。照らす日影やくれなゐの光さしおろす矛の露。あめつちすなほなる事も。此處こここそ寶身は知らず。国の寶の山高み。よくよくらいし給へや


後シテ「抑もこれは。あま御矛みほこを守護し奉る。瀧祭のしん和光わくわうに出でゝ龍田の神  地「或はあま御空みそら御矛みほこ  シテ「又は寶山はうざん倶利伽羅くりから御嶽みだけ  地いただきまつれや  シテ「驚かし奉れや。瀧祭
柏手かしはで響く山の雲切くもきり晴れ行く日の。光の如くにあま御矛みほこは。現れたり



 次に謡曲『龍田』について、考察してみたいと思います。


   謡曲「龍田」梗概
 金春禅竹の作とも伝えられるが、作者は未詳。本曲の前段は『古今和歌集』読人不知の歌「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ」および藤原家隆の歌「龍田川栬葉閉づる薄氷渡らじそれも中や絶えなむ」を骨子として脚色したものであろう。後段の、龍田明神が天の三矛を守護し給うことは、上述の『逆矛』とおなじく『神皇正統記』に拠ったものであろう。なお本曲は『逆矛』の影響下に作られたとする見解もある。
 諸国を巡って六十余州に法華経を治める僧が、龍田明神に参詣するために龍田川を渡ろうとすると、神巫(かんなぎ)が現われ、古歌を示しながら渡河をとどめる。巫女は僧を明神に案内し宮巡りするが、やがて自らが龍田姫であると名のって社殿の中に姿を消した。
 その夜、神前で通夜をする僧の前に龍田姫が姿を現し、明神の縁起や紅葉を愛する龍田姫の紅色に寄せる心を語り、神楽を奏し、夜明けとともに天に上がり姿を消す。
 大小前に出した一畳台に小宮の作り物を置き、前シテはその中に中入する。秋の神をシテとして、紅葉の美を讃えるのを目的とした曲であるが、わざと薄氷の張る時節としたのは、家隆の歌に拠ったためであるが、厳粛な気分を加えようとしたためでもあろうか。
 本曲は舞台的に見ると、シテの神楽を見せるのが主眼であるが、本曲と同じく女神が“神楽”を舞う曲として『三輪』『巻絹』がある。なお『葛城』も小書の〈神楽〉のときに“神楽”を、〈大和舞〉のときにも“神楽”またはこれに準ずる舞を舞う。


 以下は『新潮日本古典集成・謡曲集』「各曲解題」(伊藤正義校注、新潮社、1986)を参照しています。

 『龍田』のシテである龍田姫は、『弘安十年古今集歌註』に次のように見える。
 龍田姫トハ、タツタノ大明神也。是、地神(クニツカミ)彦火々出見尊ノ御女(ムスメ)、天ノ逆玉国押依片息々姫命。是ハ崇神天皇御時ヨリ立田山ニ祝奉ル。秋ヲマモル神ト成ル故ニ、紅葉ヲ手向トス。一切ノ秋ノ社ノ神ハ皆是眷属也。故ニ主ノ名ヲ借テ、一切ノ秋ノ山ノ神ヲバ龍田姫ト云。彼御妹彦天津玉依野中津姫命、是ハ春ヲ司ドル神ト成テ、同御代ニ佐保山ニ祝奉ル。是ヲ佐保姫ト云。一切春ノ山神、皆是眷属ト成。依テ主ノ名ヲ借テ、春ノ山神ヲバ佐保姫ト云。夏冬ヲ主神ヲバ不云。可尋之。
 このような理解は、はやく『能因歌枕』に
 たつた姫とは秋の神をいふ。秋をそむる神とも、秋の山をそむる神也
とみえるのをはじめ、『和歌童蒙抄』や『袖中抄』等々にもとりあげられている。
 『龍田』は、このような「秋を守り」、「紅葉を手向け」の神としての性質に焦点があてられ、『古今集』の歌、
   龍田川栬乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん
と、その本歌取りの家隆の歌、
   龍田川もみぢ葉閉づる薄氷渡らばそれも中や絶えなん
を類型的趣向の歌問答として前場を構成するとともに、後場にあっても、〈クセ〉に紅の艶と氷の艶を重ねることを中心に、散る紅葉を幣と手向ける和歌世界の龍田のイメージを龍田姫に重ねて、一貫した主題となっている。

 以下に『龍田』の〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉の詞章を転載しています。〈クリ〉の詞章は前に引用した『逆矛』と同文になっています。


クリ 地「そもそも瀧祭たきまつり御神おんがみとは即ち當社の御事なり  シテ「昔天祖てんそ詔勅みことのり  地すゑ明らかなる御國みくにとかや
サシ シテ「然れば當國寶山はうざんに到り  地天地あめつち治まる御代のためし.民安全あんせんに豊かなるもひとへに當社の御故おんゆゑなり  シテこずゑの秋の。四方よもの色  地「千秋の御影みかげ目前もくぜんたり
クセ「年毎に。栬葉もみぢば流る龍田川。湊や秋のとまりなる。山もどうぜず海邊かいへんも波静かにて。楽しみの秋の色。名こそ龍田の山風も静かなりけり。然れば代々よよ歌人うたびとも。心を染めて栬葉の。龍田の山の朝霞。春は紅葉もみぢにあらねども。たゞ紅色こうしよくで給へば。今朝よりは。龍田の櫻色ぞき。夕日や花の。時雨しぐれなるらんと。詠みしもくれなゐに心を.染めし詠歌えいかなり

シテ神南備かみなみの。三室みむろの岸やくづるらん  地「龍田の川の。水はにごるとも和光の影は明らけき。真如しんによの月はなほ照るや。龍田川紅葉乱れしあとなれや。いにしへは錦のみ。今は氷の下紅葉したもみぢ。あら美しや色々の。紅葉襲もみぢがさねの薄氷。渡らば。紅葉も氷も。重ねて中絶ゆべしやいかで今は渡らん
シテ「さる程に夜神楽よかぐら  地「さる程による神楽の。時うつり事去りて。宜禰きねが鼓も數至りて月も霜も白和幣しらにぎて。振り上げて・聲澄むや  シテ謹上きんじやう  地再拜さいはい 〈神楽〉


 竹本幹夫氏は『龍田』は『逆矛』の影響下に作られたとの見解を示されています(『観世』「作品研究 龍田」、昭和54年11月)。上掲のそれぞれの詞章で〈クリ〉が同文となっていること、逆矛についての理解が両者間で一致していることなどが挙げられています。
 さらに、引歌や語彙表現などにも重なっている部分が見られます。以下に挙げるのは、その一例です。

〈逆矛・ロンギ〉

「颯々の鈴の聲。ていとうと打つ波の。鼓も同じ瀧祭の。神は我なりと。

〈龍田・キリ〉

「久方の。月も落ち来る。瀧まつり 「波の。龍田の 「神の御前に 「神の御前に。散るは栬葉 「即ち神の幣 「龍田の山風の。時雨降る音は 「颯々の鈴の聲

〈逆矛・シテ、上歌〉

「神南備の。御室の岸や崩るらん。御室の岸や崩るらん。龍田の川の水の色は。濁るとも隔てじな

〈龍田・クセ、アゲハ〉

「神南備の。御室の岸や崩るらん 「龍田の川の水は濁るとも和光の影は明らけき

(逆矛・一セイ)

「龍田川。錦織りかく神無月。色づく秋の梢かな

(龍田・シテ上歌)

「氷にも。中絶ゆる名の龍田川。中絶ゆる名の龍田川。錦織りかく神無月の。



 『龍田』には『古今和歌集』をはじめとして、多くの和歌が引かれています。

ワキ「げに今思ひ出したり。龍田川紅葉もみぢ乱れて流るめり。渡らばにしき中や絶えなんとの。古歌こかの心を思へとや


『古今集』秋哥下・283 読人知らず
  龍田河紅葉乱れてながるめり わたらば錦中やたえなむ
左註に「このうたはある人、ならのみかど(文部天皇)の御哥也となむ申す」とある。

シテ「紅葉もみぢの歌はみかど御製ごせい。又その後家隆かりゆうの歌に。龍田川紅葉をづる薄氷。渡らばそれも中や絶えなんと。かさねてかやうに詠みたれば。必ず紅葉もみぢに限るべからず


藤原家隆『壬二集(みにしゅう)
  龍田川紅葉葉閉づる薄氷 渡らじそれも中や絶えなん
「紅葉の歌は帝の御製」とあるのは、前記の歌の左註に「奈良の帝のの御哥也」とあるによる。

上歌 シテ「氷にも。中絶ゆる名の龍田川。中絶ゆる名の龍田川。錦織りかく神無月かみなづきの。ふゆがは冬川になるまでも。紅葉をづる薄氷を。なさけなや中絶えて。渡らん人は心なや。


『古今集』冬哥・314 読人知らず
  龍田川錦おりかく 神な月しぐれの雨をたてたきにして

上歌「殊更ことさらにこの度は。殊更にこの度は。ぬさ取りあへぬをりなるに。心して吹け嵐。紅葉もみぢを幣の神慮かみごころ。神さび心も澄み渡る。龍田のみねはほのかにて。川音もなほ冴えまさる夕暮ゆふぐれ


『古今集』巻九羇旅哥・420 菅原道真
  このたびはぬさもとりあへず たむけ山紅葉の錦 神のまにまに

『古今集』巻五秋哥・298 兼覽(かねみの)
  たつたひめたむくる神のあればこそ 秋のこのはのぬさとちるらめ

クセ「年毎としごとに。栬葉もみぢば流る龍田川。みなとや秋のとまりなる。山もどうぜず海邊かいへんなみ静かにて。楽しみのみの秋の色。名こそ龍田の山風やまかぜも静なりけり。


『古今集』巻五秋哥下・311 紀貫之
  年ごとにもみぢばながす龍田がは みなとや秋のとまりなるらん

(クセの中) …春は紅葉もみぢにあらねども。たゞ紅色こうしよくで給へば。今朝よりは。龍田の櫻色ぞき。夕日や花の。時雨しぐれなるらんと。詠みしもくれなゐに心を.染めし詠歌えいかなり


衣笠内大臣家良
  今朝よりも龍田の桜色ぞ濃き 夕日や花に時雨なるらん

(クセ シテ・アゲハ)神南備かみなみの。三室みむろの岸やくづるらん  地「龍田の川の。水はにごるとも和光の影は明らけき。真如しんによの月はなほ照るや。


『拾遺集』高向草春
  神南備の御室の岸や崩るらん龍田の川の水は濁れる



 上述しました「龍田古道」について、記念切手とともにご紹介いたします。
 以下は「万葉歌を歩く、神降りの風道“龍田古道”」紹介のパンフレットからの転載です。


 

 飛鳥時代、推古天皇により置かれた日本最古と云われる大道。シルクロードから繋がる大陸文化の窓口でもあり、斑鳩の里・法隆寺と難波津・四天王寺を結ぶ街道として整備され、壬申の乱の舞台にもなりました。また、道の整備には聖徳太子が関わっていた説もあり、竜田道沿道には、太子ゆかりの古代寺院が立ち並んでいました。
 龍田古道沿道に鎮座する旧官幣大社「龍田大社」には、龍田山山頂に降臨されたとされる日本最古の「龍田風神」が祀られています。いにしえ人々は遠路となる旅の安全を「龍田風神」に祈願しました。
 天皇の行幸や遣隋使・遣唐使、官人が、大和に入る玄関口として行き交い、風光明媚な三郷町界隈を詠んだ万葉歌・和歌は三十首ほど残っています。春色に染まる龍田の山桜。桜と紅葉の名所「三室山」。麓を流れる「龍田川」。神降りの風道は、局軽く美しく生命の「気」を運ぶ道。
 風神「龍田大社」が鎮座する日本最古の龍田の里を一緒に歩いてみませんか。
  わが行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめ此の花を風にな散らし  (巻九・1747 高橋蟲麿)


 

 切手に描かれた龍田大社や龍田古道の数葉を以下に。


春の龍田大社


龍田大社の風神大祭


秋の龍田大社


三室山の万葉歌碑


神奈備神社


 三郷立野郵便局の風景印に龍田大社が、また竜田郵便局の風景印に竜田川が描かれています。


「風の神」として知られる
龍田大社をモチーフに描く
三郷立野郵便局風景印


法起寺三重塔と
龍田川の紅葉を描く
竜田郵便局風景印



 この項の冒頭で「歌に詠まれた龍田川も、古くは現在の大和川であった」旨を申し述べました。下の写真は、龍田大社の南東、JRの路線が大和川を跨ぐすぐ南に架かる大正橋からの、大和川を撮ったものです。左は大和川の下流側、右の写真は上流側でJRの鉄橋が架かっています。橋を渡った左奥が三郷駅になっています。
 このあたりも、両岸に楓が多く紅葉の名所とされており、古来歌にも多く詠まれていますが、あいにく私が訪れたのはやや季節外れの時節でありました。


大正橋の下流の大和川


大正橋の上流、大和川に架かるJRの鉄橋


 斑鳩町を流れる竜田川には紅葉の名所として知られる竜田公園(竜田川緑地)があります。後述する能因法師や在原業平の詠んだ“龍田川”はこの地であるとする説もあります。下の写真は龍田大橋の下流、工事中の新国道52号線の橋上から、上流の竜田川を撮影したものですが、これがふた月ばかり遅かったならと、まことに残念な結果でありました。


竜田公園を流れる竜田川



 最後に龍田川を詠んだ、百人一首の著名な歌を鑑賞いたしましょう。

  嵐吹く三室の山のもみぢ婆は竜田の川の錦なりけり

 尾崎雅嘉『百人一首一夕話』(岩波文庫、1973)に「後拾遺集秋下に、永承四年内裏の歌合にとあり。歌の心は嵐の吹く三室山のもみぢ葉がその儘竜田川へ散り來て流るゝが錦と見ゆるといふ事なり。三室山は大和の武市郡(たけちのこほり)にあり。竜田川は竜田山の麓に流れて平群郡(へぐりのこほり)なれば、武市郡よりはほかの郡をも隔てて遙か西北に当りて川の流れさへ異なれば、三室山の紅葉がこゝに流るべきにあらず。古へも歌詠む人の地理をよく考へられざりし事あるなるべしと契沖(けいちう)はいへり。」とあります。
 さらに能因法師その人について「また能因歌の事につけては至りて好き者なりし事は、ふと詠まれたる歌に、
  都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
この歌を我が心にもよく詠みたりと思はれければ、我が身都にありながらこの歌を世の人の中へ出ださん事無念なりと思ひて、人にも知られず久しく籠り居て、顔の色を黒くせんとて日ごとに日に当りなして後、陸奥へ修行に出でて詠みたる由いひて、かの歌を人に披露せられけり。」というエピソードを記しています。

 上述の『百人一首一夕話』では、能因の歌にある、三室山は武市郡にありとして、竜田川との位置関係の矛盾をついています。上記の逸話にもあるように、能因という人はいささかいい加減なところのある人物で、この「嵐吹く~」の歌も実地に訪れることもなく、想像で詠んだものかも知れません。
 ところで『百人一首一夕話』には「三室山は大和の武市郡にあり」とされています。私は武市郡の位置関係がよく判っていませんが、当初に掲げた近郊地図によれば、三室山は三郷町と斑鳩町の二か所に存在しています。また竜田川も昔は現在の大和川のことであるとするのが通説のようです。そうであれば竜田川も二か所に存在することになりますが、能因の歌の三室山は三郷町の三室山で、その麓を流れる大和川が、歌に詠まれた竜田川であると思われます。これは次に挙げる業平の歌に詠まれた龍田川も同様であります。
 このような隣接した地域に、同じ名称の山が存在するとは、迷惑もはなはだしいと申さねばなりません。まったく困ったものだと、愚痴のひとつもこぼしたたくなってきます。

 能因はそれくらいにして、次は在原業平の歌です。

  千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは

 『古今和歌集』巻五・秋哥下294 の歌です。この歌に詠まれた龍田川もやはり大和川であるとするのが通説のようです。

 歌の心は「神代の昔でさえも、こんなことは聞いたことがない。龍田川が一面に紅葉が浮かべて真っ赤な紅色に、水をしぼり染めにしているとは」というものですが、知ったかぶりをするご隠居が、短歌にいい加減な解釈を加える「千早振る」という古典落語の演目があります。

 「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くくるとは」という歌の解釈を尋ねられたご隠居が、苦し紛れに「竜田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」とやってしまった。
 「この竜田川、努力の甲斐あって大関にまで出世した。そして吉原の夜桜花見に行った時に観たのが、千早太夫の花魁道中だ。これに竜田川は一目ぼれするのだが、千早はいい顔をしない。千早にフラれた竜田川は、妹分の神代にはなしをつけようとした。しかし神代も、姉さんの嫌なものは、わちきも嫌でありんすと、いう事を聞いてくれなかった。嫌気がさした竜田川は、相撲をやめて豆腐屋になった。」

 「そりゃあおかしいや、ご隠居。相撲取りから急に豆腐屋なんて」「まあ、いいじゃないか。実家の商売が豆腐屋だったんだから。」
 「ある日、竜田川が豆をひいていると、女乞食がやってきて、空腹で動けないのでオカラを恵んでくれという。女の顔をみるとなんとこれが千早太夫のなれの果て。竜田川は怒って、オカラはやれないとドーンとつくと女は飛んでいった。千早は世をはかなんで自分から井戸の中に身を投じてしまった。それでおしまい。これがこの歌の意味だ。」
 「あんまり長いから、別の話かと思った。それでどこが、いまの歌の話なんですか。」
 「千早がフッた後で、妹の神代もいう事を聞かなかったから“千早振る 神代もきかず 竜田川”となるだろう。落ちぶれた千早はオカラを求めるもくれず、井戸の水に身を投じたから“からくれないに 水くぐるとは”じゃないか。」
 「しかし、水くぐるなら、“水くぐる”だけで十分じゃありませんか。それなのに“水くぐるとは”ってのはどういうことです。“とは”ってのは。」
 「“とは”ってのはだな、千早の本名だった。」

 お後がよろしいようで…。(「興津要編『古典落語』講談社文庫、1972」を参照)




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  (平成30年 5月16日・探訪)
(平成30年 6月14日・記述)


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