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2018年10月17日から19日にわたり、比叡山・大原・貴船を巡り、謡蹟を探訪いたしました。比叡山では一泊し、東塔・西塔・横川の諸堂に参拝いたしました。 |
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比叡山諸堂案内地図 |
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比叡山延暦寺は平安時代初期の僧・最澄(767~822)により開かれた日本天台宗の本山寺院で、住職(貫主)は天台座主と呼ばれています。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。 |
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《東塔》 |
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東塔諸堂案内地図 |
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一隅を照らす |
戒壇院 |
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阿弥陀堂 |
ご朱印 |
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東塔 |
ご朱印 |
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東塔前のお地蔵さま |
吉井勇歌碑 |
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大講堂 |
ご朱印 |
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鐘楼 |
奉納牛の像 |
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根本中堂の石柱 |
改修工事中の根本中堂 |
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改修工事以前の根本中堂の全景(パンフレットより) |
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改修工事中の根本中堂 |
根本中堂は東堂の中心であるだけでなく、比叡山第一の総本堂でもあります。伝教大師最澄が延暦7年(788)に、一乗止観院という草庵を建て、自ら刻んだ薬師瑠璃光如来を安置して比叡山寺と号したのが始まりとされます。その宝前に灯明をかかげて以来、最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので「不滅の法灯」と呼ばれています。 |
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根本中堂(パンフレットより) |
ご朱印 |
根本中堂の右手の一段高所に、「根本中堂」と題して宮沢賢治の歌碑が建てられています。またその手前には「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」の碑がありました。 |
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宮沢賢治歌碑 |
山家学生式の碑と伝教大師童形像 |
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万拝堂 |
ご朱印 |
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大黒堂 |
ご朱印 |
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護良親王遺蹟の碑 |
比叡の碑 |
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大黒堂から緩やかな石段を登ると文殊楼があります。文殊楼の後方の急な石段を下るとは根本中堂があり、また前方の石段をくだると延暦寺会館があります。以下は大津市教育委員会による説明書きです。 |
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文殊楼 |
ご朱印 |
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漢俳碑 |
慈鎭和尚歌碑 |
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近くに慈鎭和尚(じちんかしょう)の歌碑があります。慈鎭和尚は慈円(久寿2年・1155~嘉禄元年・1225)の諡号。平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧で、歴史書『愚管抄』を記したことで知られています。この歌は小倉百人一首に採られたもので、百人一首では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されています。 |
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阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさみやさぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加あらせ給へ |
国連平和の鐘 |
中本紫公句碑 |
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法然上人得度霊場 |
法然上人得度旧跡の碑 |
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以下は前場の最後、菅丞相の亡霊が叡山の法性坊律師僧正を訪ね、久闊を叙し師恩を謝した後に、自分を陥れた宮中人に復讐をなすという決意を語り、僧正に参内せぬよう依頼する場面です。 |
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比叡山における菅丞相と、その師である法性坊尊意僧正の戦いは『太平記』巻十二「大内裏造営事地付地聖廟御事」に見えます。謡曲はこれらを典拠としたものでしょう。以下に『太平記』の当該部を転載します。 |
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この菅丞相と僧正とのありさまを詠んだ川柳が多くあります。以下に少し拾ってみました |
大成版の五番綴りの初版本第一冊が檜書店から発行されたのは翌昭和15年4月15日でした。この時期は次第に国粋主義が浸透してきたときで、軍部より横槍が入って謡本の〈天皇〉に係わる不適切な部分の文句の変更を強要されました。この『雷電』に関しても改竄の痕跡が窺えます。現在の一番本の5丁裏からの字体が小さくなり、かなり詰め込んだ感がありましたので、戦前に発行された五番綴のものと対比してみました。 |
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戦前の大成版五番綴本 |
現在の大成版一番本 |
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《西塔》 |
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西塔諸堂案内地図 |
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弁慶飛び六法の碑 |
箕淵弁財天 |
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にない堂 |
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常行堂 |
法華堂 |
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米田雄郎歌碑 |
中西悟堂歌碑 |
石段を下ると西塔の中心的な堂宇である釈迦堂です。釈迦堂は正式には転法輪堂といい、現在の建物は信長の焼討の後、秀吉が園城寺の弥勒堂を移築したもので、山上では現存する最も古い建造物です。本尊は伝教大師自作の釈迦如来立像で、堂の名もこれに由来します。 |
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釈迦堂 |
ご朱印 |
釈迦堂前の広場の一角に釈迦如来の座像が祀られています。そこから上る小高い処に鐘楼がありましたが、手入れがなされていない様子で、半ば朽ちかけている感がありました。 |
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釈迦如来像 |
鐘楼 |
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以下は謡曲の冒頭、弁慶と従者の太刀持ちとの会話です。丑の刻詣での満参の日に、神変不思議な武技を見せる少年の噂を聞いた弁慶が、出かけるのを一瞬ためらうものの、むしろその者を討ちとってやろうと決意するシーンです。 |
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本曲は『義経記』を典拠としています。同書の巻第三に、弁慶の生い立ちから義経との邂逅が述べられています。また弁慶の名前のいわれなどが記されていますので、以下にその該当部分を転載します。(梶原正昭校注『義経記』小学館・日本古典文学全集、1971) |
(弁慶は幼名を鬼若といい、比叡山で修行していたが、乱暴の限りを尽くしたので、師の御坊ももてあますようになった。) |
西塔関連の謡曲としてもう一曲『大会(だいえ)』があげられます。「鷲の御山を移すなる」という詞章から、釈迦堂のある西塔が適切であると考えられますし、原典の『十訓抄』には「比叡山の西塔に住みける僧」と明記されていますので、この地を謡蹟といたしました。 |
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謡曲『大会』のストーリーに沿って、原点である『十訓抄』との関連を調べてみましょう。(「永積安明校訂『十訓抄』岩波文庫、1942」による) |
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【謡曲】 |
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ワキ「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな。命を助け申すとは更に思ひも寄らず候 |
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【十訓抄】 |
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ゆゝしき功徳造行とおもひて行ほどに、切堤のほどに、藪よりいやうなる法師のあゆみいでゝ、をくれじと步よりければ、けしきおぼえて片方へたちよりて過さむとしけるとき、かの法師ちかくよりていふやうは、「御憐を蒙て命生てはべれば、其悦きこえむとてなん。」と云。たちかへりて、「えこそおぼえね。誰人にか。」ととひければ、「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛きめを見て侍つる老法師にて侍り。生たるものはいのちにすぎたるものなし。かばかりの御心ざしいかで報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても懇なる御ねがひあらば、一事ならず叶へ奉らむ。小神通をえたれば、なにかはかなへざらん。」と云。 |
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【十訓抄】(十訓抄の挿話の開口部。天狗を助けた後、上記③のストーリーへ続く) |
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後冷泉院御位の時、天狗あれて世中さはがしかりけるに、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京にいでゝ歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鴉のよにおそろしげなるを、しばりからめて棒をもて打さいなみけり。「あらいとほし。などかくはするぞ。」といへば、「殺して羽とらむ。」と云。此奏慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこいうけて、ときゆるしてはなしやりつ。 |
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【謡曲】 |
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地「不思議や虚空に音楽響き。不思議や虚空に音楽響き。佛の御聲。ふらたに聞ゆ。兩眼を開き。邊を見れば |
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【十訓抄】 |
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とばかりして法の御こゑのきこゆれば、目を見あけたるに、地は紺瑠璃となり、木は七重寶樹となりて、釋迦如來の獅子の座上におはします。普賢・文殊左右に座したまへり。菩薩・聖衆雲霞のごとく帝釋・龍神八部、掌を合て圍繞せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、王冠を地に付て恭敬し給へり。空より四種のはなふりて、かうばしき香四方にみちて、天人空につらなりて微妙の音樂を奏す。如來、寶花に座して甚深の法門を宣たまふ。そのこと大かたこゝろもことばも及がたし。しばしこそ、いみじくまねびにせたるかなと、興ありておもひけれ。 |
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【謡曲】 |
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ワキ「僧正その時。忽ちに |
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【十訓抄】 |
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さまざまの瑞相を見るに、在世説法の砌にのぞみたるがごとく、信心忽に起て随喜のなみだにうかび、渇仰のおもひ骨にとをるあいだ、手を合せて心をひとつにして、「南無歸命頂禮大恩教主釋迦如來。」と唱て恭敬禮拜するほどに、山おびたゞしくからめきさはぎて、ありつる大會かきけつやうにうせぬ。夢のさめたるがごとし。 |
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【謡曲】 |
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ツレ「帝釋この時怒り給ひ |
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【十訓抄】 |
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こはいかにしつるぞと、あきれまどひて見まはせば、もしありつる山中の草深なり。あさましながら、さてあるべき成らねば山へのぼるに、水のみのほどにてこの法師出來て、「さばかりちぎりたてまつりしことを、たがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力によりて護法天童下り給ひて、かばかりの信者をばみたりにたぶろかすとて、われらさいなみ給へる間、雇集たりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃去ぬ。をのれ、かたはねがひうたれて術なし。」といひて失にけり。 |
《横川》 |
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横川諸堂案内地図 |
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駐車場の一角に「比叡山」「横川」の門柱が立ち、ここが横川の各堂宇への参拝の入口となっています。 |
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横川参拝入口 |
龍ヶ池弁財天 |
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横川中堂を望む(パンフレットより) |
横川中堂は慈覚大師円仁の入唐帰国後、嘉祥元年(848)に開創されました。信長の焼討で失われ、慶長年間に総丹塗りで舞台造りの大堂が再建されましたが、昭和17年の落雷でまたも焼失しました。本尊の聖観音は災火をまぬがれ、四季講堂に仮安置されました。 |
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横川中堂 |
ご朱印 |
横川中堂からゆるやかな上り坂が続いています。この道を2、30人の方々が清掃作業を行っていました。後ほど判明しましたが、長浜方面からの奉仕活動の皆さんでした。 |
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虚子の塔 |
浮堂句碑 |
横川中堂から直進して虚子の塔を過ぎると朱塗りの鐘楼があり、道は左右に岐れています。左折すると元三大師堂。右折してしばらく進むと恵心堂に着きます。 |
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恵心堂 |
ご朱印 |
入口を入ると右手に「『源氏物語』の横川僧都遺蹟」の碑があります。 |
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恵心堂入口 |
源氏物語の恵心僧都遺蹟 |
恵心堂から取って返し、鐘楼からゆるやかに下ると四季講堂(元三大師堂)です。 |
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元三大師堂 |
角大師の由来とおみくじ発祥の地の碑 |
四季講堂は、康保4年(967)以来、四季に法華経等五部の大乗経を講義することをはじめたので、この名があります。古くは定心房ともいわれ、天台宗中興の祖といわれる慈恵大師良源(元三大師)の住房の跡をついだもの。はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、いまは元三大師を本尊にしているので、元三大師堂とも呼ばれています。またおみくじ発祥の地としても有名です。 |
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四季講堂 |
ご朱印 |
『善界』という曲があります。大唐の天狗善界坊が日本の仏法を阻害しようと渡来するが、比叡山飯室の僧正に祈られて退散する、というものです。謡曲本文の詞章では、ワキは比叡山の高僧としか分かりませんが、アイ狂言が「かやうに候ふ者は、比叡山飯室の僧正に仕へ申す能力にて候」と名宣っています。 |
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以下に『善界』の後場、善界坊は僧正に危害を加えようとし、僧正はこれに対し祈祷で対抗します。そして不動明王や十二天、三十番神の加護により、善界坊が敗退する場面を引用しています。 |
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『善界』は『今昔物語』巻二十「震旦天狗智羅永壽渡此朝語」に典拠しています。原文はかなり長文ですので、以下にその概要を記します。(「馬淵和夫他校注『今昔物語集』小学館・日本古典文学全集、2001」を参照) |
今は昔、震旦の智羅永寿(ちらようじゅ)という強い天狗が、日本の修験僧と力比べをしようと日本の天狗のもとに渡ってきた。日本の天狗は智羅永寿を比叡山の大嶽へと案内した。 |
『善界』は上記のような説話に拠ったものでしょう。なお『今昔物語』には、天竺の天狗が比叡山に渡ってきたが、法力に触れて心を入れ替え、後に日本の子供に生まれ変わり、得度して僧正になったという談話も見えています。(同書巻二十「天竺天狗聞海水音渡此朝語」) |
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(平成30年10月17、18日・探訪) (平成30年11月19日・記述) |