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比叡山延暦寺

〈雷電・大会・橋弁慶・善界〉


 2018年10月17日から19日にわたり、比叡山・大原・貴船を巡り、謡蹟を探訪いたしました。比叡山では一泊し、東塔・西塔・横川の諸堂に参拝いたしました。
 比叡山へは京都の八瀬からと、大津の坂本からとのルートがありますが、今回は京阪・淀屋橋→出町柳、叡山電鉄・出町柳→八瀬叡山口、叡山ケーブル・八瀬→ケーブル比叡、叡山ロープウェイ・ロープ比叡→比叡山頂に到着。そこからは比叡山頂シャトルバスにて東塔・西塔・横川の各エリアを廻りました。

比叡山諸堂案内地図



 比叡山延暦寺は平安時代初期の僧・最澄(767~822)により開かれた日本天台宗の本山寺院で、住職(貫主)は天台座主と呼ばれています。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。
 最澄による開基は延暦7年(788年)、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けました。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後の弘仁14年(823)になります。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになりました。
 比叡山からは日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しています。円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くしました。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがりました。
 その後、比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになり、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもります。以後「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきました。延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇をして「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言わしめたくらいです。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通しておりました。
 戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こしました。元亀2年(1571)、強大な武力と権力を持つ延暦寺が戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されます。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。



《東塔》

 先ずは延暦寺の中心ともいうべき東塔エリアから参拝いたしましょう。東塔は延暦寺三塔の中心で、延暦寺発祥の地であり、総本堂である根本中堂をはじめ、重要な堂塔が集まっています。

東塔諸堂案内地図



 延暦寺バスセンターより境内に入場します。左手に国宝殿があり、大講堂に続く緩やかな上り坂の参道の両側には、開祖最澄をはじめとして、かつて叡山で修行した多くの高僧の逸話をパネルにして展示してあります。
 謡曲にも登場する恵心僧都源信、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮、天台座主で『愚管抄』を著し百人一首でも著名な慈円などなど、枚挙にいとまがありません。


一隅を照らす

戒壇院


 スロープを進むと、左手に大講堂が建ち、右手には阿弥陀堂・東塔に続く坂道があります。大講堂前の広場には「照千一隅此則國寶」と刻された石柱がそびえています。以下、諸堂宇等の説明は、延暦寺のパンフレット・サイト・説明書き等を参照しています。
 天台宗では「一隅を照らす運動」を実施しており、来年で発足50周年を迎えます。「一隅を照らす」という言葉は、天台宗を開かれた伝教大師最澄の『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の冒頭にあります。天台宗のサイトによれば、「あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らしてください。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。」ということのようです。
 以下は『山家学生式』の冒頭の一節です。(『山家学生式』については後述)

 国宝とは何ものぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝となす。故に古人の曰く、径寸十枚、是れ国宝に非ず。照千一隅、此れ則ち国宝なりと。

 石柱の「照千一隅」について、天台宗のサイトなどでは「一隅を照らす」となっており、それであれば「照于一隅」だと思われます。ところが撮影した写真などで石柱を眺めますと“于”ではなく“千”と読み取れます。この件については、根本中堂の前に『山家学生式』の碑が建てられていましたので、そちらで考察したいと思います。
 阿弥陀堂への参道はかなりの急坂となっています。その右手に戒壇院があります。戒壇院は天台宗の僧侶が受戒する道場として重要なお堂です。最澄の入寂後に建立の勅許がおり、第一座主義真のとき 828年に建立されました。本尊は釈迦如来。



阿弥陀堂

ご朱印


 戒壇院からさらに坂道を進み、最後の石段を上ると阿弥陀堂と法華総持院東堂に到着します。
 阿弥陀堂は、昭和12年(1937)の比叡山開創1150年大法要を記念して建立されました。全国檀家信徒や有縁の各家の先祖をまつり、日々念仏回向が行われています。本尊は阿弥陀如来。


東塔

ご朱印


 東塔、灌頂堂、寂光堂、阿弥陀堂を総称して法華総持院といいます。法華総持院は伝教大師により建立の計画がなされ、慈覚大師により創建されました。当初の堂宇は焼失し元三大師良源が復興しましたが、信長の焼き討ちにより再び焼失、400年を経て昭和55年~62年にかけて復元再興されました。



東塔前のお地蔵さま

吉井勇歌碑


 阿弥陀堂エリアの石段の傍らに、吉井勇の歌碑を発見しました。吉井勇没年の1年後の昭和36年11月に建立されたもので、碑の裏面に、戒名の大叡院友雲仙生夢庵大居士が刻まれています。

  雷すでに起こらずなりぬ秋深く大比叡の山しづまりたまへ



大講堂

ご朱印


 阿弥陀堂から石段を下り、大講堂前の広場に帰着しました。大講堂は5年に一会の法華大会(ほっけだいえ)をはじめ、経典の講義などに使われるお堂です。現在の建物は昭和31年の焼失後に、坂本にあった讃仏堂を移築したものです。本尊には胎蔵界大日如来を祀り(朱印の種子は胎蔵大日如来の“ア”字)、比叡山で修行した法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、各宗祖師の木造が奉安されています。



鐘楼

奉納牛の像


 大講堂前の前庭にある鐘は“開運の鐘”と呼ばれているそうです。
 ちょうど、修学旅行の女子高生たちが交互に鐘を撞いており、ひと撞きするごとにかわいい嬌声をあげておりました。
 大講堂から万拝堂への坂道を下ると、左手に「福田海 奉納牛像」とした牛のの石像がありました(福田海(ふくでんかい)は、岡山県出身の中山通幽が天台宗総本山延暦寺から不滅の霊灯を分与されて創始した宗教。神儒仏に老荘を加えた哲理で、陰徳積善を教えています。信者を福田海員と呼び、霊場旧跡の復興・無縁仏の祭祀・池溝の浚渫などに奉仕する)。以下は傍らに立つ駒札からの転載です。

 宗教法人福田海(岡山市)は、一生を人間のために尽くす牛の供養を実践されることでも知られている。
 その開祖中山通幽師は、明治維新の神仏分離や境内地没収などで、延暦寺が窮乏を極めたとき、根本中堂の不滅の法灯のための種油を、自ら背負って寄進を続けられた。
 その深いご縁を以て明治三十一年九月不滅の灯は福田海に分灯され、更に昭和九年秋、根本中堂近くの参道に牛の銅像が寄進された。このとき牛像の裏側には奉納の趣旨が「年々屠殺の牛魂追福のためなり」と刻まれていた。その後、銅像は第二次世界大戦のため供出され、代わりに石像がここに安置された。


根本中堂の石柱

改修工事中の根本中堂


 万拝堂に朱印帳を預けて、左手の坂道を下ると根本中堂です。…が、驚いたことに根本中堂はすっぽりと覆い隠されておりました。うかつにも何も調べずに叡山に参拝したのですが、根本中堂は平成28年から10年をかけて、いわゆる“平成の大改修”に入ったばかりでした。
 現在の根本中堂は寛永年間に徳川家光の命により再建されたものです。今回の改修工事は、昭和30年に完成した“昭和の大改修”からやく60年ぶりのもので、本堂の銅板屋根、廻廊栩葺きの葺き替え、外面の朱塗り、漆塗りの塗り替えを中心に行われるとのことでした。


改修工事以前の根本中堂の全景(パンフレットより)


 工事中とのことでいささかがっかりして本堂に入りましたが、本尊の参拝は確保されつつ工事を行うとのことで、内部は足場がぎっしりと組み立てられています。この足場組み立てだけでも大変な工事になりそうです。そのうえ中庭に4層のステージが組まれており、昇降が自由にでき、かつ撮影も可能。考えようによっては、またとないチャンスに恵まれたのかも知れません。さっそく上り下りしながらパチリパチリと撮影に余念がありません。そのうちの数点を以下に。写真で見ますと、廻廊の屋根の一部がかなり傷んでいるのが窺えました。


 

 


改修工事中の根本中堂

 根本中堂は東堂の中心であるだけでなく、比叡山第一の総本堂でもあります。伝教大師最澄が延暦7年(788)に、一乗止観院という草庵を建て、自ら刻んだ薬師瑠璃光如来を安置して比叡山寺と号したのが始まりとされます。その宝前に灯明をかかげて以来、最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので「不滅の法灯」と呼ばれています。
 『太平記』の「比叡山開闢の事」には次のような挿話があります。

 釈迦が仏法の道場を開こうと比叡山にやってくると、麓で釣りをする翁と出会います。翁がこの土地の主であるならば、この山を我に与えよと望んだところ、翁(実は白鬚明神でした)はこれを拒否します。そこへ薬師如来が飛来して、翁を説得し、釈迦は教えを伝える大師となってこの山を開け、私はこの山の王となろうと誓って二仏は東西に去ってゆきました。

 そして『太平記』では、千八百年後に釈迦が伝教大師となって比叡山を草創することが述べられています。最澄は釈迦の生まれ変わりであるという伝承もあるようですね。そして当然のことながら延暦寺のご本尊は薬師如来であります。


根本中堂(パンフレットより)

ご朱印

 根本中堂の右手の一段高所に、「根本中堂」と題して宮沢賢治の歌碑が建てられています。またその手前には「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」の碑がありました。
 宮沢賢治が熱烈な法華の信徒であったことは、以前身延山に参詣した折に知りましたが、その生涯についてはほとんど知ることがありませんでした。この銘板には賢治と法華との関わりが詳しく記されていましたので、やや長文ではありますが以下に転載します。

  ねがはくは妙法如来正徧知大師のみ旨成らしめたまへ

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品 第十六」に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きて行くことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会、居室の二階には日蓮上人大曼荼羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった
 賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿で生計をたて、低カロリーの食事、自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十四年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参拝で得たものは大講堂では「…きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「…大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上菩提を得せしめることであったので、賢治は「大師の教にみそなわして下さい」と歌い上げたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「…悉く皆の無上菩提…」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の創作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏みこませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末永く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。


宮沢賢治歌碑

山家学生式の碑と伝教大師童形像


 宮沢賢治の歌碑の右手には「天台法華宗年分学生式」の碑があります。

   天台法華宗年分學生式一首
 國寶何物 宝道心也 有道心人 名爲國寶
 故古人言 徑寸十枚 非是國寶 照千一隅
 此則國寶 古哲又云 能言不能行 國之師也
 能行不能言 國之用也 能行能言 國之宝也
 三品之内 唯不能言不能行 爲國之賊
 乃有道心佛子 西稱菩薩 東號君子
 惡事向己 好事與他 忘己利他 慈悲之極

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。
故に古人言く、「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千一隅、
此れ則ち国宝なり」と。古哲また云く、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。
能く行ひて言ふこと能はざるは国の用なり。能く行ひ能く言ふは国の宝なり。
三品のうち、ただ言ふこと能はず行ふこと能はざるを国の賊となす」と。
乃ち道心あるの仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。
悪事を己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり


 さて「照千一隅」か「照于一隅」かという問題ですが…。
 「一隅を照らす」という言葉については、前述の天台宗のサイトによれば、「“照于一隅”“照千一隅”というような議論がありますが、昭和49年7月23日に開催された天台宗勧学院議において「照于一隅」を「一隅を照らす」と読み下すという統一見解が出され、一隅を照らす運動総本部では、この決定に依拠しています。」と記載されています。
 そしてこのところの解釈として「直径三センチの宝石十個、それが宝ではない。社会の一隅にいながら、社会を照らす生活をする、その人こそが、なくてはならない国宝の人である」と述べられています。ただ「徑寸十枚 非是國寶」の訳に比べて「照千一隅 此則國寶」のそれは、やけに詳しく、持って回ったような表現になっていますし、「社会の一隅にいながら」という解釈は明らかに「照于一隅」に基づいています。
 けれども「天台法華宗年分学生式」の碑の写真や、天台宗のサイトにある伝教大師直筆の『山家学生式』の冒頭部分(延暦寺蔵、国宝)をよく見ますと、“于”ではなく“千”となっています。したがってこのフレーズは「照于一隅」ではなく「照千一隅」とするのが正しいと思われます。
 このことについて関連するサイトを調べておりますと、「真言宗泉湧寺派大本山 法楽寺」のサイトで「最澄『山家学生式』の解説を見出しました。同サイトによれば「徑寸十枚 非是国宝 照千一隅 此則國寶」の意味でありますが、「直径三センチの大きな宝玉十個があったとしても、それは国宝ではない。千里を照らす一隅を守る者、これがすなわち国宝なのである」と解釈しており、「照于一隅」とするのは誤りである、とされています。私はこの説の方が正しいのではないかと想像しております。



万拝堂

ご朱印


 万拝堂は比叡山の回峰行者が、この地で全国の神仏を遥拝するところから名づけられたお堂で、道内は千手千眼観世音菩薩を本尊とし、天台・伝教両大師像、さらに毎月の一日から三十日を守護する三十番神像が奉安されています。


大黒堂

ご朱印


 大黒堂は、伝教大師最澄が比叡山へ登った折、この地において大黒天を感得したところで、日本の大黒天信仰の発祥の地と言われており、大師自作の三面大黒天を祀っています。出世大黒天ともいい、人々の招福などを祈るところです。三面大黒天については以下に。

 三面大黒天は正しくは三面六臂大黒天といい、日本で最初の三面を持った大黒天です。米俵の上に立ち食生活を守る「大黒天」を中心に、右には勇気と力を与える「毘沙門天」、左には美と才能を与える「弁財天」、6本の手には衆生の福徳を叶え苦難を除く様々な道具を持っています。
 すなわち、正面の大黒天の左手には願いを叶える如意宝珠、右手には煩悩を断ち切る智慧の利剣。右面の弁財天の左手には福をあつめる鎌、右手には世福を収納し人々の願いに応じて福を与える宝鍵。左面の毘沙門天の左手には七財を自在に施す如意棒、右手には魔を下す鎗を、それぞれ持つ。
 福徳開運の善神であり、商売繁盛の守り神として、現在では宗派の別なく祀られている。



護良親王遺蹟の碑

比叡の碑


 大黒堂の左手に「大塔宮護良親王御遺蹟」の碑が建てられています。
 護良親王〈延慶元年・1308~建武2年・1335年〉は、後醍醐天皇の皇子で鎌倉時代後期から建武の新政期に活躍しました。
 嘉暦2年(1327)12月から元徳元年(1329)2月までと、同年12月から元徳2年(1330)4月までの二度に亙り、天台座主となりました。『太平記』によると、武芸を好み日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったといいます。

 大黒堂の右手に『比叡』の二文字が刻まれた巨大な篆刻のような石碑がありました。畳2枚分ほどの大きさもありましょうか…。


 大黒堂から緩やかな石段を登ると文殊楼があります。文殊楼の後方の急な石段を下るとは根本中堂があり、また前方の石段をくだると延暦寺会館があります。以下は大津市教育委員会による説明書きです。

 文殊楼は、延暦寺根本中堂の正面の屋根上にあって、ほぼ東を向いて建っています。桁行3間、梁間2間、二重、入母屋造、銅板葺の構造を持ち、一見楼門のように見えます。楼上には文殊菩薩が安置されています。
 創立は根本中堂と同じく古いものです。寛永の復興にあたって根本中堂、講堂とともに再建されましたが、寛文8年(1668)に焼亡してしまいました。そのためすぐに再建された文殊楼が現在のものです。寛永の建物より小規模となり、全体的には唐様が取り入れられていますが、古い和様も忘れずに入っている所に苦心がしのばれる折衷様式となっています。いずれにしても江戸時代の代表的な様式の建物です。
 平成28年に国の重要文化財に指定されました。


文殊楼

ご朱印


 文殊楼は楼内の二階に上ることができます。ところがその階段たるやほぼ垂直で、梯子を上る感があります。上るのは何とか上れましたが、降りるのに一苦労でした。
 ところがこの急階段を、修学旅行の女学生の一群が、すいすいと上り下りしております。話を伺うと群馬県の女子高で、この後京都市内で一泊とのこと。付き添いの先生を交えてしばらく歓談のひとときとなりました。



漢俳碑

慈鎭和尚歌碑


 文殊楼の横手に、比叡山を讃えて詠んだ漢俳の碑がありました。
 漢俳は漢訳俳句とも呼ばれるもので、俳句の五七五の形式にならい、五・七・五と、17字の漢字を3行に並べ、季題を入れ、韻を踏んだ有季定型による新しいスタイルの詩です。
 以下は碑に刻された漢俳と、説明版の内容です。

  巍巍比叡山 扶桑文化此搖籃 恩德重人間
  萬派溯淵源 不忘傳教始開山 千二百年前
  千二百年來 東西相照妙蓮開 比叡與天台
  昔歲憶相陪 緬懷祖德樹豐碑 友誼萬年垂
  同德復用心 願師久佐為群生 慈力護和平


 この碑は、比叡山開創一千二百年にあたり、比叡山と一千二百年来友誼を重ねて来た中国仏教を代表して、趙樸初会長から漢俳五句が贈られた。
 第一首は、比叡山が日本文化育ての親であり、その徳風を蒙った人は量り知れない。
 第二首は、比叡開祖伝教大師の流れを汲んで開かれた日本大乗仏教各宗派は、千二百年前の恩徳を忘れない。
 第三首は、過去一千二百年、比叡山と中国の天台山は東西相照らして大乗仏教の花を咲かせた。
 第四首は、日中両国仏教徒は千二百年間積み重ねた友情を未来永劫発展させよう。
 第五首は、同胞たがいに心を合わせ世界和平のために力を尽くしたい。大師のご加護をいつまでも。
 以上五首を詠まれ、唱和六十二年八月二日に、比叡山、天台山、五合山いわゆる日中三山合同法要の中で除幕した記念碑である。


 近くに慈鎭和尚(じちんかしょう)の歌碑があります。慈鎭和尚は慈円(久寿2年・1155~嘉禄元年・1225)の諡号。平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧で、歴史書『愚管抄』を記したことで知られています。この歌は小倉百人一首に採られたもので、百人一首では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されています。

  おほけなくうき世の民におもふかなわがたつ杣に墨染の袖

 この歌について『百人一首一夕話』では以下のようにのべられています。

 千載集無雑中に題知らずとて入りたり。我が立つ杣とは後世に叡山の異名のやうになりたり。この事は叡山の開祖伝教大師中堂建立の時、材木を伐るとて杣に入られし時の歌に、

   阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさみやさぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加あらせ給へ
と詠まれたり。この歌の我が立つ杣とは今日愚僧が木を伐りに入り立つその杣といふ事にて、山の名にはあらず。この歌を拠り所にして、後々に叡山を我が立つ杣と詠めるなり。
 さて阿耨多羅三藐三菩提の仏とは無上正遍智(しやうへんち)とて、この上もなく正しき智恵のすぐれたる仏といふ事にて、その仏達何とぞ今日我が入り立つ冥加とて目に見えぬ所より御力を加へられて、よき材木を伐り出すやうに守らせ給ひ、この叡山に中堂を建立する我れに力を添へ給へと詠まれたるなり。三藐三菩提をさみやさぼだいとつめて読むが読み癖なり。
 さてこの慈円の歌の心は徳もなき愚僧が身には不相応に大きなる事なれど、世の中の万民の祈りをしてこの叡山に住むといふ墨染の袖を、かの下(しも)万民の身の上におほふやうに祈祷を模する事かなと詠まれたるなり。
 この歌千載集に法印慈円と書きて入れられたり。千載集は文治三年に撰せらるればその頃は法印位なりしが、建久二年十一月権僧正にて天台の座主となられたる由記録に見えたり。



国連平和の鐘

中本紫公句碑


 1954年、日本人の一個人が戦争の悲惨さ、核廃絶の尊さを訴えて、当時の国連加盟国65ヵ国のコインと銅を合金して鋳造、世界の心が一つとなり平和のシンボルとなった「世界平和の鐘」をニューヨークの国連本部に寄贈、国連の中庭に設置されました。この趣旨を継承するためワールドペースベル協会が、世界各国にコインの提供を呼びかけ、世界106ヵ国からの賛同を得て、「世界平和の鐘」を鋳造し、国連と同じ趣旨の「鐘」を全世界に寄贈する運動を推進しています。
 国連本部設置の「鐘」は毎年国連総会開催月の9月21日を国際平和の日と定め、歴代の国連事務総長が世界平和を祈念して打ち鳴らされます。この比叡山延暦寺の鐘は世界第21番目に寄贈されたものです。

 世界平和の鐘の前に、中本紫公の句碑が建てられています。紫公は膳所中庄に長く住まいした俳人で、俳句雑誌「花藻」を創刊しました。この句碑は昭和40年5月に建立さたものです。

  落し文あらむか月の比叡泊り  紫公


法然上人得度霊場

法然上人得度旧跡の碑


 文殊楼から大黒堂の方に戻り、一隅会館の前の坂を下ると延暦寺会館に到着します。会館の横をさらに下って行くと法然堂があります。訪れたのが午後4時を過ぎていたからでしょうか、人影もなく施錠されていました。
 法然は15歳で叡山に上り、18歳で西塔黒谷の青龍寺に隠遁するまでの3年間を、この地で過ごしたものでしょう。それにしては、他の堂塔に比べると普通の民家のような建物で、いかにももの寂しい、悪く言えばあばらやの感があるお堂でありました。



 東塔の諸堂を一通り拝観したところで、この地に関連する謡曲『雷電』について考察いたしましょう。この曲の後場の舞台は内裏になりますが、前場は延暦寺の中心となる法場ですので、東塔の根本中堂を謡蹟に比定したいと思います。


   謡曲「雷電」梗概
 宮増の作ともいわれるが作者未詳。『太平記』に拠ったもの。
 太宰府に左遷された菅丞相(菅原道真)が怨みを呑んで死ぬと、その怨霊が夜半に、恩師である比叡山延暦寺の座主・法性坊律師僧正のもとへ訪れ、宮廷人に復讐する意思を漏らし、宮廷から要請があっても下山せぬよう依頼する。僧正が、要請が三度に及べば参内せざるを得ぬ由を応えると、丞相は仏壇に供えてあった柘榴をかみ砕き、妻戸に投げかけ火焔となし、姿を消す。
 内裏では黒雲と稲妻に襲われ、丞相の変じた雷神が雷鳴をとどろかせ、紫宸殿・弘徽殿・清涼殿と諸所を飛び廻る。僧正がこれを追って祈り、帝から天魔大自在天神の名を贈られた丞相は、喜び立ち去る。
 宝生流では後場を改作し、本曲を廃し、別曲『来殿』としている。これは嘉永4年(1851)に菅原道真を祖神とする加賀前田家の前田斉泰(なりやす)が改作、後場を全く別の曲に作り変え、早舞物にした。


 以下は前場の最後、菅丞相の亡霊が叡山の法性坊律師僧正を訪ね、久闊を叙し師恩を謝した後に、自分を陥れた宮中人に復讐をなすという決意を語り、僧正に参内せぬよう依頼する場面です。


シテ「我この世にての望みは叶はず。死しての後梵天ぼんでん帝釈たいしやくの御憐みをかうむり。鳴るいかづちとなり内裏に飛び入り。我にかりし雲客うんかくを。殺すべし。其時そのとき僧正を召され候べし。構へて御參り候な
ワキ仮令たとひ宣旨はありと云ふとも。一二度いちにど迄は參るまじ
シテ「いや勅使度々重なるとも。構へて參り給ふなよ
ワキ王土わうどに住める此の身なれば。勅使三度に及ぶならば。いかでか參内さんだい申さゞらん
シテ「其時丞相姿にわかに變り鬼の如し
ワキ「折節本尊ほぞん御前おんまへに。柘榴ざくろを手向け置きたるを

「おつ取つてみ砕き。おつ取つて嚙み砕き。妻戸つまどにくわつと。きかけ給へば柘榴たちま火焔くわえんとなつて扉にばつとぞ燃え上る。僧正御覧じて。騷ぐ氣色けしきもましまさず。洒水しやすゐの印を結んで。鎫字ばんじみやうを。唱え給へば火焔くわえんは消ゆる。煙のうちに。立ち隱れ丞相しようじやうは。行方ゆくへも知らず.失せ給ふ行方も知らず失せ給ふ 〈中入〉


 比叡山における菅丞相と、その師である法性坊尊意僧正の戦いは『太平記』巻十二「大内裏造営事地付地聖廟御事」に見えます。謡曲はこれらを典拠としたものでしょう。以下に『太平記』の当該部を転載します。
 なお「丞相」の読み方ですが、三国志の諸葛孔明の場合は「じょうしょう」ですが、道真の場合は「しょうじよう」と読むようです。


 おなじき年夏の末に、延暦寺第十三の座主ざす法性坊ほふしやうばう尊意そんい贈僧正、四明しめい山の上、十乗の床の前に、觀月を照し、心水しんすゐを清め御座おはしましけるに、持佛堂の妻戸を、ほとほととたたく音しければ、押開て見玉ふに、すぎぬる春筑紫にてまさしく薨逝こうせいと給ひぬと聞へし菅丞相にてぞ御座おはしましける。(中略)
 菅丞相御顔にはらはらとこぼれ懸りける御なみだ押拭おしのごはせ給ひて、(中略) 「其の恨みを報ぜん爲に、九重の帝闕ていけつに近づき、我につらかりし佞臣ねいしん讒者ざんしやを一々に蹴殺さんと存ずる也。其の時定て山門におほせ摠持そうぢの法驗を致さる可し。たと勅定ちよくぢやう有りと雖も、相ひ構へて參内さんだい有る可からず。」と仰せられければ、僧正の曰く、「貴方と愚僧と師資しし之儀淺からずと雖も、君と臣と上下之礼尚ほ深し。勅請ちよくしやうの旨一往いちわう辭し申すと雖も、度々に及ばばいかでか參内つかまつらで候べき。」と申されけるに、菅丞相御氣色けしき俄に損じて御さかなに有ける柘榴じやくろを取てかみくだき、持佛堂の妻戸つまどに颯と吹懸けさせ給ひければ、柘榴のさね猛火みやうかなつて妻戸に烘付もえつきけるを、僧正少も騒がず、烘火もゆるひに向ひ灑水しやすゐの印をば結ばれければ、猛火忽ちに消えて妻戸は半ばこげたるばかり也。此の妻戸今に傳つて山門に在りとぞ承る。


 この菅丞相と僧正とのありさまを詠んだ川柳が多くあります。以下に少し拾ってみました

 僧正の一番弟子はおそろしい (柳多留十七・6)
 師の坊はきしやばり妻戸こかされる (柳多留十七・5)

 「ぎしゃばる」は、「義者張る」で、かたくなに義理立てをする、物事を堅苦しく考えること。僧正が「勅使三度に及べば…」などと応えるものですから、道真が怒って妻戸に火を吐きかけ、焦がしてしまいました。適当に応対しておけばよかったものを…。
 余談になりますが、朝廷からの要請が三度に及び、僧正が山を下り参内する様子が『太平記』に描かれています。

勅宣三度に及びければ、力無く下洛し給ひけるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正「只其の車水の中を遣れ」と下知し給ふ。牛飼命に随って漲りたる河の中へ車を颯と遣懸けたれば、洪水左右へ分れ、却って車は陸地(くがぢ)を通りけり。

 なんと僧正は、増水して荒れ狂う鴨川の真っただ中に車を乗り入れますと、川水は左右に別れ、その中を進んでいったというものです。まるでモーゼの「出エジプト記」を彷彿させるシーンではありませんか。

 加茂川を胴切りにして参内し (柳多留拾遺四・6)

 かくて無事参内を果たした僧正と雷と化した菅丞相の、内裏での戦いの幕が切って落とされます。


 大成版の五番綴りの初版本第一冊が檜書店から発行されたのは翌昭和15年4月15日でした。この時期は次第に国粋主義が浸透してきたときで、軍部より横槍が入って謡本の〈天皇〉に係わる不適切な部分の文句の変更を強要されました。この『雷電』に関しても改竄の痕跡が窺えます。現在の一番本の5丁裏からの字体が小さくなり、かなり詰め込んだ感がありましたので、戦前に発行された五番綴のものと対比してみました。


戦前の大成版五番綴本

現在の大成版一番本


 上掲の両者を比較しますと、シテ詞「内裏に飛び入り」からワキ詞「柘榴を手向け置きたるを」までの詞章が大幅に変更されています。大きな変更点では「我に憂かりし雲客」が「君側の奸」となっています。「我に憂かりし雲客」では、皇室関係者に対して不都合てある、とでも思われたのでしょうか。




《西塔》

 東塔に続いて西塔エリアの参拝です。東塔のバスセンターからバスで10分ほどで西塔駐車場に到着します。
 西塔といえば、謡曲の『橋弁慶』や『船弁慶』では、弁慶の「これは西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶にて候」なる〈名ノリ〉で、一曲の幕が切って落とされます。それ故、西塔には弁慶ゆかりの旧跡などが残されているのではないかと期待をしていたのですが、駐車場に弁慶の看板と、弁慶杉があっただけで、仰々しいものは見当たりませんでした。(後述しますが、釈迦堂の手前に「弁慶のにない堂」なる堂宇がありましたが、弁慶の名前のみで弁慶とは無関係のようでした。)

西塔諸堂案内地図



 西塔のバス停から「ようこそ比叡山延暦寺へ」なる、やや悪趣味と思えるアーチをくぐり、ゆるやかな下りの参道を進むと道は左右に岐れ、右に行くと浄土院、左は釈迦堂へと続いています。
 この岐路のところに五輪塔と「弁慶飛び六法 勧進帳を観て」なる詩碑が建てられていました。「弁慶飛び六法 勧進帳を観て」は草野天平の詩です。調べてみますと、草野天平は詩人・草野心平の弟です。

   一つの傷も胸の騒ぎもなく
   真に為し
   さうして終った
   独り凝っと動かず
   晴れ渡る安宅の空に
   知らず知らず涙が滲む
   沁み徹る人生の味
   成就の味


 西塔の入山受付のすぐ左に「箕淵弁財天社」が祀られています。東塔の無動寺弁財天、横川の箸塚弁財天と共に比叡山三弁財天の一つに数えられています。


弁慶飛び六法の碑

箕淵弁財天


 少し進むと同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。常行堂と法華堂という同じ形の建物がふたつ並んで、渡り廊下で繋げたものです。常行堂は阿弥陀経を、法華堂は法華経をそれぞれ読経し、修行する道場です。これは、法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表しており、お堂が渡り廊下でつながっている理由もそこにあります。力持ちの弁慶がこの渡り廊下をてんびん棒にして、このお堂をかついだという伝説から「弁慶のにない堂」と呼ばれており、この堂宇が、唯一弁慶の名が関された建物のようです。


にない堂


 「にない堂」では『四種三昧行』という修行が行われるといいます。正面向かって左が、四種三昧のうち、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂、右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂です。
 四種三昧は常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなり、常坐は90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行であり、常行は90日間、本尊阿弥陀如来の周りを歩き続けるという過酷な修行です。


常行堂

法華堂


 法華堂の前方に米田雄郎(よねだゆうろう)の歌碑があります。米田雄郎(明治24年~昭和34年)は、大正・昭和前期の歌人。前田夕暮に師事する。以来夕暮の死まで「詩歌」にて作歌。早稲田大学中退後、大正7年滋賀県蒲生郡桜川村(現・蒲生町)の極楽寺住職となり、歌人、宗教家として活動しました。歌集に「日没」「朝の挨拶」「青天人」などがあります。

  しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり

 にない堂から釈迦堂に下る石段の途中、左手に恵亮堂があり、その前に中西悟堂の歌碑があります。中西悟堂は昭和期の詩人・随筆家。僧職から野鳥研究科に転じ、日本野鳥の会を創設しました。この歌碑は、悟堂が野鳥・自然保護運動の功績で文化功労者表彰を受けたことを記念して、友人が建てたものです。

  樹之雫(きのしずく)しきりに落つる暁闇(ぎょうあん)の比叡をこめて啼くほととぎす


米田雄郎歌碑

中西悟堂歌碑

 石段を下ると西塔の中心的な堂宇である釈迦堂です。釈迦堂は正式には転法輪堂といい、現在の建物は信長の焼討の後、秀吉が園城寺の弥勒堂を移築したもので、山上では現存する最も古い建造物です。本尊は伝教大師自作の釈迦如来立像で、堂の名もこれに由来します。


釈迦堂

ご朱印

 釈迦堂前の広場の一角に釈迦如来の座像が祀られています。そこから上る小高い処に鐘楼がありましたが、手入れがなされていない様子で、半ば朽ちかけている感がありました。


釈迦如来像

鐘楼



 西塔関連の謡曲といえば、一番に浮かぶのが『橋弁慶』です。謡曲では弁慶はここ西塔の傍らに住まいして、夜な夜な京の五条天神まで丑刻詣でを行っておりました。以下『橋弁慶』について。


   謡曲「橋弁慶」梗概
 佐阿弥とも伝えられているが作者は未詳である。佐阿弥は室町時代の能作者であるが、生没年未詳。『自家伝抄』は『望月』『高野物狂』なども佐阿弥の作としているが確証はない。金春系の人物であろうか。
 『橋弁慶』は『義経記』に取材したもの。原典では弁慶が五条の橋で太刀強盗を働いているが、それを牛若の方にしたのは、前段における会話で、牛若の早業に関する予備説明を加えようとしたためであって、本曲の中心をなすのは、いうまでもなく後段の切り組みであり、ここ比叡山の西塔が舞台となっているのは前場である。


 以下は謡曲の冒頭、弁慶と従者の太刀持ちとの会話です。丑の刻詣での満参の日に、神変不思議な武技を見せる少年の噂を聞いた弁慶が、出かけるのを一瞬ためらうものの、むしろその者を討ちとってやろうと決意するシーンです。


名宣 シテ「これは西塔のかたはらに住む武蔵坊弁慶にて候。我宿願しゆくぐわんの子細あつて。五條の天神てんしんへ。丑刻うしのときまうでつかまつり候。今日滿參まんさんにて候程に。只今参らばやと存じ候。いかにたれかある

ツレ御前おんまえに候
シテ「五條の天神てんしんへ参らうずるにてあるぞ。そのぶん心得候へ
トモかしこまつて候。また申すべき事の候。昨日きのふ五條の橋を通り候處に。十二三じふにさんばかりなる幼き者。小太刀こだちにて斬つて廻り。さながら蝶鳥てふとりの如くなる由申し候。まづまづ今夜の御物詣おんものまうでは。おぼし召し御止りあれかしと存じ候
シテ言語道断ごんごだうだんの事を申す者かな。例へは天魔鬼神てんまきじんなりとも。大勢おほぜいにはかなふまじ。おつとり籠めて討たざらん


 本曲は『義経記』を典拠としています。同書の巻第三に、弁慶の生い立ちから義経との邂逅が述べられています。また弁慶の名前のいわれなどが記されていますので、以下にその該当部分を転載します。(梶原正昭校注『義経記』小学館・日本古典文学全集、1971)


 (弁慶は幼名を鬼若といい、比叡山で修行していたが、乱暴の限りを尽くしたので、師の御坊ももてあますようになった。)
 鬼若おにわかこれを聞きて、頼みたる師の御坊にもかやうに思はれんには、山上にありてもせんなし。日にも見えざらん方へ行かんと思ひ立ちて出でけるが、かくて何処いづくにても山門の鬼若とこそ言はれんずれ。学文に不足なし。法師になりてこそ行かめと思ひて、 (中略) 戒名かいみやうをば何とか言はましと思ひけるが、昔比叡ひえの山にあくを好む者ありけるが、西塔さいたふ武蔵坊むさしばうとぞ申しける。廿一にて悪事をしめて、六十一にて死にけるが、端坐たんざ合掌がつしやうして往生わうじやうを遂げたりけると聞けば、我もあゑものにそれが名を付けて呼ばれたらば、かうになる事もこそあれ。我も西塔さいたふ武蔵坊むさしばうと言ふべし。実名じつみやうは、父の別当はべんせうと名乗られしぞかし。師の御坊はくわんけいなれば、弁せうの弁をとり、くわん慶の慶を取りて、弁慶とぞ名乗ける。昨日きのふまでは鬼若おにわか今日けふ何時いつしか武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 (下山した弁慶は、その後四国に渡り修行をしたが、播磨の書写山で騒ぎを起こし、その後洛中で人の太刀を奪っているおり、義経と遭遇することになる。)



 西塔関連の謡曲としてもう一曲『大会(だいえ)』があげられます。「鷲の御山を移すなる」という詞章から、釈迦堂のある西塔が適切であると考えられますし、原典の『十訓抄』には「比叡山の西塔に住みける僧」と明記されていますので、この地を謡蹟といたしました。
 それでは『大会』について。


   謡曲「大会」梗概
 金春禅竹とも伝えられているが作者は未詳である。『十訓抄』による。
 比叡山の僧正の廬室へ山伏が訪れ、命を助けられた例を述べ、なにか望みをかなえて差し上げようという。釈尊の霊鷲山出の説法を拝みたいとの掃除用の希望を、山伏は約諾して消え去る。

 やがてあたりの景色が変わり、霊鷲山での釈尊の大説法の場面が、目のあたりに見え、釈尊に化けた天狗が、菩薩たち大勢に囲まれて法を説く。そこへ帝釈天が現われ、化けの皮をはがされた天狗はほうほうの体で逃げ去った。
 後場の説法の場面では、まず地謡によりパノラマ風に描かれる。舞台では、大小前に一畳台を置き、上に椅子の作り物を載せる。後シテは赤頭・大兜巾の上から、大会頭巾をかぶり、袷狩衣の上に大水衣を重ねて着、掛絡を掛け、右手に数珠、左手に経巻を持つという、仰々しい出立をして、椅子に腰かける体で床几にかける。さらに小ぶりの大癋見の面の上に大型の釈迦の面を重ねてかけ、この釈迦の面と大会頭巾を外して帝釈天に追いかけられるのである。


 “大会”とは盛大な法要をいい、後場の釈迦に化けた天狗による大説法の場面をさしている。


 謡曲『大会』のストーリーに沿って、原点である『十訓抄』との関連を調べてみましょう。(「永積安明校訂『十訓抄』岩波文庫、1942」による)

① 比叡山の僧(ワキ)の霊地の讃嘆
    〈サシ〉ワキ「それ一代の教法は。
    〈上歌〉 地「鷲の御山を移すなる。

② 山伏(シテ)の登場、山頭の僧庵を詠嘆
    〈サシ〉シテ「月は古殿の燈火を挑げ

③ シテ・ワキの対応、シテの中入
    山伏は以前助命された報恩に僧の希望を叶えることを告げ
    釈尊の霊山説法の有様を見せることを約して消える。

【謡曲】

ワキ「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな。命を助け申すとは更に思ひも寄らず候
シテ「都東北院の邊にての事なり。定めて思し召し合はすべし。かばかりの御志。などかは申し上げざらん。この報恩に何事にてもあれ。御望みの事候はゞ。刹那に叶へ申すべし
ワキ「げにさる事のありしなり。また望みを叶へ給はん事。この世の望み更になし。但し釋尊霊鷲やまにての御説法の有様。目のあたりに拜み申したくこそ候へ
シテ「それこそ易き御望みなれ。まことさやうに思し召さば。即ち拜ませ申すべしさりながら。尊しと思し召すならば。必ず我が為悪かるべし。構えて疑ひ給ふなと
「返すがへすも約諾し。返すがへすも約諾し。さあらばあれに見えたる。杦一村に立ち寄りて。目を塞ぎ待ち給ひ。佛の御聲の聞こえなば。その時。兩眼を開きて。よくよく御覧候へと。言ふかと見れば雲切。降り来る雨の足音ほろほろと歩み行く道の。木の葉をさつと吹き上げて。梢に上り。谷に下り。かき消すやうに.失せにけりかき消すやうに失せにけり 〈中入〉

【十訓抄】

ゆゝしき功徳造行とおもひて行ほどに、切堤のほどに、藪よりいやうなる法師のあゆみいでゝ、をくれじと步よりければ、けしきおぼえて片方へたちよりて過さむとしけるとき、かの法師ちかくよりていふやうは、「御憐を蒙て命生てはべれば、其悦きこえむとてなん。」と云。たちかへりて、「えこそおぼえね。誰人にか。」ととひければ、「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛きめを見て侍つる老法師にて侍り。生たるものはいのちにすぎたるものなし。かばかりの御心ざしいかで報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても懇なる御ねがひあらば、一事ならず叶へ奉らむ。小神通をえたれば、なにかはかなへざらん。」と云。
こまやかにいへば、やうこそあらめとおもひて、「我は此世の望さらになし。年七拾になりたれば名聞利養もあぢきなし。後生こそおそろしけれど、それはいかでかなへ給ふべき。されば申にをよばず。但、釋迦如來の靈やまにて法をときたまひてむこそ、いかにめでたかりけむとおもひやられて、朝夕心にかけて見まくほしくおぼゆれ。其有さままなびて見せたまひてんや。」といふ。此法師「いとやすき事也。さやうのものまねするを、おのれが徳とせり。」といひて、さがり松の上の山へぐしてのぼりぬ。「こゝに目をふさぎてゐ給へ。佛の説法し給ひてんこゑのきこへんとき目をば見あけ給へ。但、あなかしこ、貴しとおぼすな。信だにも起したまはゞ、をのれがためあしかりなむ。」といひて峯のかなたへのぼりぬ。


④ オモアイの独語、アイの対応
    愛宕山の木の葉天狗が、大天狗が僧に助けられた経緯を語る。
    同輩の木の葉天狗と大会に化仏となる相談をと、謡い舞う。

【十訓抄】(十訓抄の挿話の開口部。天狗を助けた後、上記③のストーリーへ続く)

後冷泉院御位の時、天狗あれて世中さはがしかりけるに、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京にいでゝ歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鴉のよにおそろしげなるを、しばりからめて棒をもて打さいなみけり。「あらいとほし。などかくはするぞ。」といへば、「殺して羽とらむ。」と云。此奏慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこいうけて、ときゆるしてはなしやりつ。


⑤ 後シテの登場
    天狗が釈尊に扮して登場、霊山説法の場を現出。

【謡曲】

「不思議や虚空に音楽響き。不思議や虚空に音楽響き。佛の御聲。ふらたに聞ゆ。兩眼を開き。邊を見れば
シテ「山は即ち霊山となり
「大地は金瑠璃
シテ「木はまた七重寶樹となって
「釋迦如來獅子の座に現れ給へば。普賢文殊。左右に居給へり。菩薩聖衆。雲霞の如く。砂の上には龍神八部。おのおの拜し。圍繞せり
シテ「迦葉阿難の大聲聞
「迦葉阿難の大聲聞は。一面に坐せり。空より四種の。華降り下り。天人雲に。連なり微妙の音楽を奏す。如来肝心の。法門を説き給ふ.げにありがたき。氣色かな

【十訓抄】

とばかりして法の御こゑのきこゆれば、目を見あけたるに、地は紺瑠璃となり、木は七重寶樹となりて、釋迦如來の獅子の座上におはします。普賢・文殊左右に座したまへり。菩薩・聖衆雲霞のごとく帝釋・龍神八部、掌を合て圍繞せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、王冠を地に付て恭敬し給へり。空より四種のはなふりて、かうばしき香四方にみちて、天人空につらなりて微妙の音樂を奏す。如來、寶花に座して甚深の法門を宣たまふ。そのこと大かたこゝろもことばも及がたし。しばしこそ、いみじくまねびにせたるかなと、興ありておもひけれ。


⑥ シテの立働き
    僧が思わず合掌礼拝すると、にわかに異変が起る。

【謡曲】

ワキ「僧正その時。忽ちに
「僧正その時忽ちに。信心を起し。随喜の涙。眼に浮かみ。一心に合掌し。帰命頂禮大恩教主。釋迦如来と。恭敬礼拝するほどに。俄かに台嶺。響き振動し.帝釋天より下り給ふと見るより天狗。おのおの騷ぎ。恐れをなしける。不思議さよ 〈イロエ〉
「刹那が間に喜見城の。刹那が間に喜見城の。帝釋現れ数千の魔術を。あさまになせば。ありつる大會。散り散りになつてぞ見えたりける 〈働〉

【十訓抄】

さまざまの瑞相を見るに、在世説法の砌にのぞみたるがごとく、信心忽に起て随喜のなみだにうかび、渇仰のおもひ骨にとをるあいだ、手を合せて心をひとつにして、「南無歸命頂禮大恩教主釋迦如來。」と唱て恭敬禮拜するほどに、山おびたゞしくからめきさはぎて、ありつる大會かきけつやうにうせぬ。夢のさめたるがごとし。


⑦ ツレ・シテの立働き
    帝釈天が登場、釈尊に扮した天狗は本体を現わし、折檻を受けて退散する。

【謡曲】

ツレ「帝釋この時怒り給ひ
「帝釋この時怒り給ひ。かばかりの信者をなど驚かすと忽ち散々に苦を見せ給へば羽風を立てゝ。翔らんとすれども。もぢり羽になつて。飛行も叶はねば。恐れ奉り。拜し申せば帝釋乃ち雲路をさして。上らせ給あ。その時天狗は岩根を傳ひ。下るとぞ見えし。岩根を傳ひ。下ると見えて。深谷の岩洞に。入りにけり

【十訓抄】

こはいかにしつるぞと、あきれまどひて見まはせば、もしありつる山中の草深なり。あさましながら、さてあるべき成らねば山へのぼるに、水のみのほどにてこの法師出來て、「さばかりちぎりたてまつりしことを、たがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力によりて護法天童下り給ひて、かばかりの信者をばみたりにたぶろかすとて、われらさいなみ給へる間、雇集たりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃去ぬ。をのれ、かたはねがひうたれて術なし。」といひて失にけり。




《横川》

 最後は横川エリアの参拝です。西塔よりさらに4キロほど奥にあります。横川は慈覚大師円仁により開かれ、後に元三大師良源により横川六谷として整備されました。すなわち般若・解脱・兜率・戒心・飯室・香芳の六谷です。

横川諸堂案内地図


 駐車場の一角に「比叡山」「横川」の門柱が立ち、ここが横川の各堂宇への参拝の入口となっています。
 “横川”と聞いて思い起こすのは、横川の僧都や恵心僧都源信です。また修験の場として謡曲に登場するものとして、『花月』の「名高き比叡の大嶽に。少し心の澄みしこそ。月の横川の流れなれ」であり、『鞍馬天狗』の「邊土に於いては。比良横川。如意が嶽」などが浮かんできます。


横川参拝入口

龍ヶ池弁財天


 拝観受付を過ぎてしばらく進むと、右手に横川中堂の朱塗りの建物が見えてきます。道の左手は小さな池になっており、龍ヶ池弁財天を祀る小祠がありました。以下は「龍ヶ池弁天と龍神さま」の説明です。

 この池を「龍ヶ池」または「赤池」といい、中央には「龍ヶ池弁財天女」をお祀りしていますが、古来からの伝説によれば、元三大師と大蛇の物語が伝わっています。
 昔、この池に大蛇が住みつき、毒気をはいて修行僧や村人に害を与えていました。元三大師はこれを知り、大蛇に向い“汝は身を自由に変化させる不思議な通力を持っていると聞くが本当か”とお尋ねになると、大蛇は“本当だ、俺に出来ないことはない”と答えました。そこで大師は“ならば大きい姿になってみよ”と申されると“お安いご用”とばかり数十倍の大きさに変身しました。大師は再び“では小さくなり私の手の平に乗れるか”と申されると、“承知”とばかり小さくなり、手の平の中に入りました。そこで大師はすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。そして弁天さまをここにお迎えして祀られ、小さくなった大蛇を弁天さまの侍者とされました。大蛇は大師に諭され、前の悪業を悔い改め、今後は弁天さまのお使いとして「龍神」となり、自分の神通力を善業に向け、横川の地を訪れる人々の道中の安全と心願成就の助けをすることを大師に誓いました。
 別名、雨乞いの弁天さまとしても知られ、龍神さまとともに、霊験あらたかな法力により私たちを守護くださり、ご利益をいただくことができます。ご信心ください。


横川中堂を望む(パンフレットより)

 横川中堂は慈覚大師円仁の入唐帰国後、嘉祥元年(848)に開創されました。信長の焼討で失われ、慶長年間に総丹塗りで舞台造りの大堂が再建されましたが、昭和17年の落雷でまたも焼失しました。本尊の聖観音は災火をまぬがれ、四季講堂に仮安置されました。
 昭和46年、伝教大師1150年大遠忌を記念して復元され、本尊も戻り、現在は新西国観音霊場にもなっています。


横川中堂

ご朱印

 横川中堂からゆるやかな上り坂が続いています。この道を2、30人の方々が清掃作業を行っていました。後ほど判明しましたが、長浜方面からの奉仕活動の皆さんでした。
 道の左手に「虚子の塔」があり、虚子と次女の星野立子の句碑が建てられています。

 高浜虚子は在京の折、比叡山に登り、紀行文「叡山詣」(明治40年)を著し、横川中堂の政所〈一念寺)に泊まり、小説「風流懴法」(明治40年)を執筆した。
 比叡山をこよなく愛した俳聖を称え、昭和28年10月に虚子の塔(逆修爪髪塔)が建立された。
 毎年、俳聖を偲ぶ一族をはじめ、慕う方々参列のもと元三大師堂において奉修されている。
   清浄な月を見にけり峰の月  虚子
   御僧に別れ惜しやな百千鳥  立子

 また元三大師堂へ向かう道の辺にも句碑がありました。作者は“浮栄”とも“浮堂”とも読めそうなのですが、判別できませんでした。

   結縁の横川に上り天高し  浮栄(浮堂?)


虚子の塔

浮堂句碑

 横川中堂から直進して虚子の塔を過ぎると朱塗りの鐘楼があり、道は左右に岐れています。左折すると元三大師堂。右折してしばらく進むと恵心堂に着きます。
 恵心僧都は源信の尊称で、日本の浄土教の祖と称され、法然や親鸞に大きな影響を与えています。
 また、琵琶湖大橋のたもとにある浮御堂は、恵心僧都が比叡山横川から琵琶湖を眺め、湖中に一宇を建立し、一千体の阿弥陀仏奉安し、湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まるといわれています。

 恵心堂は恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。門前に「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。
 恵心僧都は恵心堂に籠り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」等を著し、浄土教の基礎を築かれました。
 毎年六月十日のご命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ、僧都の報恩法要が営まれています。
 付近の都率谷墓地に恵心廟があります。


恵心堂

ご朱印

 入口を入ると右手に「『源氏物語』の横川僧都遺蹟」の碑があります。

 紫式部の『源氏物語』には『法華経』をはじめ、比叡山が多く登場する。たとえば「賢木」の巻では、光源氏、天台座主から受戒、横川僧都により剃髪したとあり、「手習」の巻では入水した浮舟を横川の「なにがしの僧都」(恵心僧都)が助けており、「夢浮橋」の巻では薫が毎月根本中堂に詣でて、「経・仏など供養」したとある。『紫式部日記』には天台座主「院源僧都」の記述があり、『源氏供養表白』は天台の安居院作である。

 碑文に記されているように『源氏物語』に登場する「横川の僧都」は、恵心僧都源信をモデルにしているようです。ちなみに、謡曲に登場する恵心僧都を調べてみました。
◎『頼政』…直接登場しないが、ワキの詞に「向ひに見えたる寺は。いかさま恵心の僧都の。御法を説きし寺候な」
◎『仲光』…ワキとして登場。「これは比叡山恵心の僧都にて候」
◎復曲『鵜羽』…ワキとして登場。
◎宝生流『草薙』…ワキとして登場。
 以下は恵心僧都と明記されていないが「横川の僧都」として登場する曲です。
◎『葵上』…ワキとして登場。
◎『浮舟』…地の詞章に「初瀬の便に横川の僧都に.見つけられつゝ」


恵心堂入口

源氏物語の恵心僧都遺蹟

 恵心堂から取って返し、鐘楼からゆるやかに下ると四季講堂(元三大師堂)です。
 お堂の入口に「元三大師と角(つの)大師の由来」の碑が建てられています。

 永観2年、全国に疫病が流行して、巷では疫病の神が徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。
 お大師さまは、この人々の難儀を救おうと、大きな鏡の前に自分のお姿を映されて、静かに目を閉じ禅定(座禅)に入られると、お大師さまの姿はだんだんと変わり、骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人明普阿闍梨だけがこのお姿を見事に写し取られた。
 お大師さまは、写し取った絵を見て、版木でお札(ふだ)に刷るように命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して、各家の戸口に貼りつけるように再び命じられ、病魔退散の実を見事に示めされたのであった。やがてこのお札(角大師の映像)のあるところ病魔は怖れてよりつかず、一切の厄難から逃れることが出来た。以来千余年、このお札を角大師と称し、元三大師の護符として、あらゆる病魔の平癒と厄難の消除に霊験を顕わし、全国的に崇められているのである。


元三大師堂

角大師の由来とおみくじ発祥の地の碑

 四季講堂は、康保4年(967)以来、四季に法華経等五部の大乗経を講義することをはじめたので、この名があります。古くは定心房ともいわれ、天台宗中興の祖といわれる慈恵大師良源(元三大師)の住房の跡をついだもの。はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、いまは元三大師を本尊にしているので、元三大師堂とも呼ばれています。またおみくじ発祥の地としても有名です。
 お堂の入口に「元三(がんさん)大師と角(つの)大師の由来」の碑が建てられています。
 同所の近くに「元三大師について」とする説明版がありましたので、以下に転載します。

 元三大師は、僧名を良源(912~985)といい、慈恵(じえ)と諡(おくりな)する。正月三日に亡くなられたことから元三大師と称せられている。
 門下三千人といわれ、この中からは、我が国浄土教の祖とされる恵心僧都源信をはじめ、檀那僧正覚運、慈忍尊者尋禅、兜率僧都覚超など幾多の名僧を輩出した。
 大師は、ここ横川の地に住し、優れた法力を以て、種々の霊験を現され、仏法を守護し、多くの人々を救い護り導かれた。
 生まれながらにして如意輪観音の化身と仰がれ、今日なお除災招福、五穀豊穣、善願成就を祈る多くの人々より「厄除け大師」「角大師」として、信仰を集めている。
 また大師は、我が国における「おみくじ」の元祖としても知られる。


四季講堂

ご朱印


 『善界』という曲があります。大唐の天狗善界坊が日本の仏法を阻害しようと渡来するが、比叡山飯室の僧正に祈られて退散する、というものです。謡曲本文の詞章では、ワキは比叡山の高僧としか分かりませんが、アイ狂言が「かやうに候ふ者は、比叡山飯室の僧正に仕へ申す能力にて候」と名宣っています。
 飯室は横川六谷の一で、横川より約1キロ強東南の地に飯室不動尊が祀られており、横川エリアに包含されます。飯室の僧正が登場しますので、横川を謡蹟としましたが、謡曲では、飯室の僧正が勅命により比叡山を下る途中で、善界坊に襲われますので、『善界』の謡蹟は洛北の叡山の麓とするのが妥当であり、横川とするのは不適切かもしれません。
 若干無理がありますが、ここ横川に関連する曲ということで、『善界』について眺めてみましょう。


   謡曲「善界」梗概
 竹田法印定盛(1421~1508)の作。定盛は代々の医家で、応仁2年義政を治療して法印位に上る。『皇国名医伝』に“博学多能”“世称十能之士”と見え、謡や能を嗜んだ記録もある。宝生・金春・喜多流は『是界』、金剛流は『是我意』とも。『今昔物語』に典拠する。
 中国の天狗の首領善界坊は、日本の仏法を妨げようと思い、渡来して愛宕山の天狗太郎坊を訪れ、太郎坊の案内で比叡山に赴く。
 比叡山飯室の僧正は勅を受け、禁裏に向かうため下山すると、にわかに天地鳴動して善界坊が現われ、僧正一行を遮る。僧正が悪魔降伏のために不動明王を念じると、衿迦羅・制多迦・十二天を先駆とする不動明王が現れ、さらに山王権現も出現したので、さすがの善界坊も力を失い、虚空へと逃げ去るのであった。


 以下に『善界』の後場、善界坊は僧正に危害を加えようとし、僧正はこれに対し祈祷で対抗します。そして不動明王や十二天、三十番神の加護により、善界坊が敗退する場面を引用しています。


「不思議や雲のうちよりも。不思議や雲の中よりも。邪法じやほふとのふる聲すなり。もとより魔佛まぶつ一如いちによにして。凡聖ぼんしやう不二ふになり。自性じしやう清浄しやうじやう天然動きなき。これを不動ふだうと名づけたり 〈立廻〉


ワキ聽我ちやうが説者せつしや得大とくだい智慧ちゑ吽多羅うんたら吨干滿たかんまん
「その時御聲みこゑの下よりも。其の時御聲の下よりも。明王現れ出で給へば。衿迦羅こんがら制多迦せいたか十二天。各々降魔ごうまの力を合はせて。御先みさきを拂つて。おはします 〈働〉
シテ明王みやうわう諸天しよてんは。さて置きぬ
「明王諸天はさて置きぬ。東風こち吹く風に。東を見れば
シテ山王さんわう権現ごんげん
「南に男山をとこやま。西に松の尾北野や賀茂の。山風神風吹き拂へば。さしもに飛行ひぎやうつばさも地に落ち.力も槻弓つきゆみ八洲やしまの波の。立ち去ると見えしがまた飛び來り。さるにてもさるにても。かほどにたへなる佛力ぶつりき神力しんりき今よりのちは。きたるまじと。言ふ聲ばかりは虚空こくうに殘り。言ふ聲ばかり。虚空に殘つて。姿は雲路くもぢに。入りにけり


 『善界』は『今昔物語』巻二十「震旦天狗智羅永壽渡此朝語」に典拠しています。原文はかなり長文ですので、以下にその概要を記します。(「馬淵和夫他校注『今昔物語集』小学館・日本古典文学全集、2001」を参照)


 今は昔、震旦の智羅永寿(ちらようじゅ)という強い天狗が、日本の修験僧と力比べをしようと日本の天狗のもとに渡ってきた。日本の天狗は智羅永寿を比叡山の大嶽へと案内した。
 まず山から下りてくる余慶(よきょう)律師と出会ったが、律師の手輿の上に炎が燃え上がっているのを見て、智羅永寿は隠れてしまった。次に飯室の深禅(じんぜん)僧正が下ってきたが、智羅永寿は輿の前を歩いている童子に追い立てられて、逃げてしまった。次いで横川の慈恵(じえ)大僧正がやってきた。智羅永寿はこの一行につかまり、さんざんに懲らしめられて、ほうほうの体で許してもらい、震旦へと逃げ帰った。


 『善界』は上記のような説話に拠ったものでしょう。なお『今昔物語』には、天竺の天狗が比叡山に渡ってきたが、法力に触れて心を入れ替え、後に日本の子供に生まれ変わり、得度して僧正になったという談話も見えています。(同書巻二十「天竺天狗聞海水音渡此朝語」)




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  (平成30年10月17、18日・探訪)
(平成30年11月19日・記述)


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