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太宰府天満宮 〈老松・藍染川〉


 2019年8月5日、太宰府天満宮に参拝しました。当宮は『老松』の謡蹟でありますが、近くの光明禅寺に沿って流れる小川が藍染川であり、当然のことながら、ここは『藍染川』の舞台でもあります。
 なお当天満宮には、10年前の平成21年3月に参拝したことがあり、その折撮影した写真の一部を以下に使用しております。

太宰府周辺地図


 西鉄・太宰府駅から東に延びる参道〈「天神様通り」と呼ぶようです〉に沿って、土産物店がずらりと軒を連ねています。名物は、言わずと知れた「梅が枝餅」。到着が9時過ぎでしたので、参道の人影はまばらでありました。


一の鳥居

二の鳥居


 三の鳥居に到着、手前に「太宰府天満宮」の社号標の石柱が建てられています。左手に本宮の由緒書きが掲げられています。(由緒書はパンフレットより)

 太宰府天満宮は、菅原道真公〈菅公〉の御墓所の上に社伝を造営して、その神霊を御奉祀する神社で、学問の神、至誠の神として世の崇敬を集めている。
 延喜3年( 903)2月25日、菅公は謫居の地、南館〈榎寺〉において清らかな御生涯を終えられた。その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなった。これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬った。京より追従した、門弟の味酒安行〈うまさけのやすゆき〉は延喜5年ここに嗣庿を創建、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて太宰府に下って造営を進め、延喜19年に御社殿を建立した。
 醍醐天皇は大いに菅公の生前の忠誠を追懐されて延長元年( 923)に本官を復された。そして、一条天皇正暦4年( 993)には正一位左大臣を贈られ、天満大自在天神と崇められた。その後、度重なる勅使の下向があり、二十二社に準ぜられた。
 明治4年、国幣小社に、同15年には官幣小社、同28年には官幣中社に社格を進められ、全国天満宮の総本宮と称えられて年間 650万余の参拝があり、日本全国より崇拝を集めている。


三の鳥居〈平成21年撮影〉


 三の鳥居を入ると、北に本殿への参道に続く四の鳥居があります。ここは小さな広場になっており、延寿王院の山門前では神牛が出迎えてくれます。定かに数えたわけではありませんが、当社には10体ほどの神牛が奉納されているようです。


四の鳥居

神牛〈平成21年撮影〉


 この一角の右手には、後述しますが道真が京の都を去る時に詠んだという
  東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ
の歌碑がそびえ立っています。


「東風吹かば…」の歌碑


 石造りの大鳥居を抜けるたところにある池は「心字池」と呼ばれています。左側の太宰府天満宮幼稚園側から見ると、池のほとりの曲線と中に築かれた島が草書の「心」の形になっているということで、この名前がついているそうです。
 心字池にかかる朱塗りの反り橋が太鼓橋で、池や周りの木々に鮮やかに映えて美しい。


太鼓橋

心字池


 太鼓橋を渡ると楼門前の広場です。左手に建つのは徳富蘇峰の詩碑です。

  儒門出大器   儒門 大器を出し
  抜擢躋台司   抜擢されて台司に躋(のぼ)
  感激恩遇厚   恩遇の厚きに感激して
  不顧身安危   身の安危を顧みず
  一朝罹讒構   一朝 讒構に罹(かか)
  呑冕謫西涯   冕(うら)みを呑んで西涯に謫(たく)せらる
  傷時仰蒼碧   傷時 蒼碧を仰ぎ
  愛君向日葵   君は向日葵(こうじつき)を愛す
  祠堂遍天下   祠堂 天下に遍く
  純忠百世師   純忠 百世の師たり


徳富蘇峰詩碑

麒麟像、鷽像


 また宝物庫の前には、麒麟と鷽(うそ)の像が立っていてます。“鷽”とはまた難しい字ですね。県の文化財に指定されています。以下はその説明です。

 麒麟は中国の瑞獣思想上の動物で、聖人が現われて王道が行われる時に出現すると伝えられ、菅公御聖徳をたたえたものといえる。
 鷽は、一月七日、一年中の嘘を天神様の誠心と取り替えていただく鷽替(うそかえ)神事ゆかりの鳥で、幸運を運ぶ天満宮の守り鳥でもある。
 嘉永5年(1852)に奉納されたもの。

 恥ずかしながら、“鷽”という鳥の存在すら知りませんでした。早速 Wikipwdia に神だのみ。鷽は、スズメ目アトリ科ウソ属に分類される鳥類の一種。和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、ヒーホーと口笛のような鳴き声を発することから名付けられた。その細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあった、とのことです。
 また、主に菅原道真を祭神とする天満宮において行われる「鷽替え神事」は、鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる特殊な神事である、とのことです。


楼門

 壮大な楼門をくぐると正面に本殿が鎮座しています。
 本宮の祭神は菅原道真(承和12年・845~延喜3年・903)。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人で、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめました。しかし左大臣藤原時平の讒言により、大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、再び京の地を踏むことなく、ここ太宰府で亡くなりました。ただ左遷については一般には藤原時平による讒言によるものと言われていますが、宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真がこれに巻き込まれたとする説もあるようです。
 余談になりますが、高知県宿毛市小筑紫の七日島に天満宮が鎮座しています。道真が大宰府に配流になったとき、嵐のため船が宿毛近くの小さな入り江に漂着しました。道真が「ここは筑紫か」と聞いたことから“小筑紫”の地名が生まれたと言い伝えられているそうです。また七日間船を繋いだことから“七日島”と呼ぶようになつたとのことでした。

 道真は幼少の頃よりよく詩を賦したといわれ、日本の漢詩人としては巧者の一人に数えられています。太宰府の配所において、京での重陽節の翌日、「秋思」の勅題での作詩に対し御衣を賜ったことを詠んだ「九月十日」の詩は、よく知られているものです。

  去年今夜侍清涼   去年の今夜 清涼に持す
  秋思詩篇独断腸   秋思の詩篇 独り断腸
  恩賜御衣今在此   恩賜の御衣 今 此に在り
  捧持毎日拝余香   捧持して 毎日 余香を拝す

 ちなみに、上記の詩中にいう「秋思の詩篇」は以下のようです。

  丞相度年幾楽思   丞相 年を度(わた)りて 幾たびか楽思(たの)しめる
  今宵触物自然悲   今宵 物に触れて 自然に悲し
  声寒絡緯風吹処   声は寒し 絡緯(らくい) 風吹くの処
  落葉梧桐雨打時   葉は落つ 梧桐(ごどう) 雨打つの時
  君富春秋臣漸老   君は春秋に富み 臣は漸く老ゆ
  恩無涯岸報猶遅   恩は涯岸(はて)もなく 報ゆること 猶お遅し
  不知此意何安慰   知らず 此の意 何くにか安意(なぐさ)めん
  飲酒聴琴又詠詩   酒を飲み 琴を聴き 又た詩を詠ず

 道眞は55歳で右大臣となり、菅丞相と呼ばれていました。絡緯は「蟋蟀・コオロギ」のこと。


本殿

ご朱印

 本殿に向かって右に著名な「飛梅」があります。「東風吹かば……」の歌に詠まれた京の屋敷の梅が、菅原道真を慕って配所まで一夜にして飛んできたという飛梅伝説はよく知られているものです。飛梅同様に、桜も同じ屋敷内にありましたが、歌に詠まれなかったのを嘆き一夜のうちに枯れてしまいました。このことを聞いた菅公が「梅は飛び桜は枯るる世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」と詠むと、屋敷内の松も一夜にして配所に生育、すなわち「老松(生松、追い松)」だといわれています。天満宮本殿の裏に摂社「老松神社」があり、道真のの父是善卿が祀られています。


飛梅


 『源平盛衰記』に飛梅伝説に関する記述があり、謡曲『老松』の資材の一つとも考えられています。また『十訓抄』にも同様の記載がありますので、以下に引用します。
 先ず、『源平盛衰記』(池邊義象編、博文館、1914)から。


 八月十七日に、平家は筑前國御笠群みかさのこほり太宰府にき給ひへり。 (中略) さてこそ平家の人々は、大臣おとど殿を始め奉り、安樂寺に詣で給ひ、詩を作り歌を讀みなどして、手向たむけ給ひける中に、皇后くわうごうぐうのすけ經正、かくぞ詠じ給ひける。
  みなれしふるの都の戀しさに神も昔をわすれ給はじ
 北野天神は、時平ときひら大臣おとどの讒訴に依て、延喜五年正月廿五日に安樂寺に遷され給ふ。住みなれし故郷ふるさとの戀しさに、常は都の空をぞ御覧じける。ころは二月のことなるに、日影長閑のどかに照らしつゝ、東風こちの吹きけるに、思召し出づる御事多かりける中に、
  こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
と詠じければ、天神の御所ごしよ高辻東洞院紅梅殿こうばいどのの梅の枝割折さけをれて、雲井遙に飛行きて、安樂寺へぞ參りける。櫻も御所に在りけるが、御歌おんうたなかりければ、梅櫻とも同じくまがきの内にそだち、同じく御所に枝をかはして有りつるに、如何いかなれば梅は御言おんことばに懸り、我はよそに思召さるらんと怨み奉りて、一夜が中に枯れにけり。されば源順みなもとのしたがふが、
  梅はとび櫻は枯れぬ菅原すがはらやふかくぞたのむ神の誓ひを
かゝる現人神あらひとがみなれ共、歸京をゆるされ給はず、つひに其にて隱れさせ給ひける御歎、我身につまれて、經正も思ひつゞけ給ひけり。人々詩つくり歌よみなどして、社頭しやとう地形ちぎやう庭上の古木、立寄り立寄りし給ひけるに、さても昔紅梅殿より飛び參りける梅はいづれなるらんと、口々に云ひて見廻り給ひけるに、何國いづくよりともなく、十二三ばかりの童子化現けげんして、或古木の梅のもとにて、
  是やこのこち吹く風にさそはれてあるじ尋ねし梅のたちえは
うち詠じて失せにけり。北野の天神の御影向やうがうと覺えて、各々渇仰かつがうかうべを傾け給ひけり。


 続いて『十訓抄』〈永積安明校訂、岩波文庫、1942〉の記述です。


菅家、太宰府に赴かせたまひけるとき、
  こちふかば匂ひをこせよ梅のはな
  あるじなしとて春をわするな
とよみをきて、都を出てつくしに移て後、紅梅殿の梅の片枝とび参て、おひつきにけり。或時、此梅にむかひて、
  古里のはなのものいふ世なりせば
  むかしの事をとはましものを
とながめさせたまひければかの木、
  先久於故宅 廃籬於久年
  麋鹿在住所 無主亦有花
かく申たりけるこそ、あさましとも哀とも、心もお詞もをばれね。


 ここで“飛梅”に関する川柳を少々拾ってみました。

  何梅がとぼうと時平おつけなし
  梅が香にはてなはてなと安楽寺
  身を筑紫てもあはんとぞ梅はとび

 初句、時平(しへい)は、道真の政敵であった藤原時平。時平の讒言により太宰府に流されました。梅が京から筑紫へ飛んだと聞いた時平が、凡夫のあさましさで、そんな馬鹿なことがあるものか、と貶したということですが、誰でもそう思いますね。
 余談ですが、天満宮にお参りをして、お賽銭に千円札や万札をお供えするのは、菅公のお気に召さないそうです。何故なら菅公は「シヘイ」がお嫌いなのです。
 二句目、梅がとんできた太宰府の安楽寺、にわかに匂ってきた梅の香りに、ただ驚くばかりであったでしょう。
 三句目、百人一首・元良親王の歌「わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしても逢はむとぞ思ふ」の本歌取り。“身を尽くしても”をうまく“筑紫”に掛けたもの。「座布団1枚」の声が聞えそうですね。



太樟

ひろはちしゃの木


 回廊を西に出た、社務所の北側に天然記念物の「大樟」が枝を一杯に拡げています。樹齢は千年とも千五百年ともいわれ、大正11年に国の天然記念物に指定されて、貴重な樹木として保護されています。
 また境内の北西隅あたりに「ひろはちしゃの木」がひっそりと立っています。落雷で主幹を失い、ベルトを巻かれ周囲を支柱に支えられて、かろうじて立っているという感があります。樹齢は七百年で、昭和10年、国の天然記念物に指定されています。


 境内の拝観を一通り終えましたので、本宮が舞台となっている謡曲『老松』について考察したいと思います。


   謡曲「老松」梗概
 世阿弥の作。『北野天神縁起』『源平盛衰記』などによる。ただし「飛梅伝説」や、太宰府における道真について、さらに〈クセ〉でかたられる松の叙爵に関しては『十訓抄』の記述も考慮されたものと思われる。

 都に住む梅津何某が、日ごろ信仰する北野天神の霊夢に従って、梅薫る早春の筑紫・安楽寺に参詣する。老人と若者が現われ、今を盛りの梅の花垣を囲うので、飛梅とその傍らにある老松の来歴を訊ねる。二人は紅梅殿と老松のめでたい謂れを物語り立ち去った。
 その夜、梅津何某が老松の陰に旅居して、神のお告げを待っていると、老松の精が現われ、さまざまの舞楽を奏し、君が代を長久に護らんという神託を告げる。

 本曲は『高砂』『蟻通』などとともに老体の能の代表として、世阿弥『三道』に記され、また形式・内容の上で本格的な脇能として『高砂』『弓八幡』とともに“真の脇能”と称されている。天下泰平・長久を旨とした祝言性の濃い作品であり、近代以前には上演頻度の高い能のひとつであった。

 後場で後シテが「いかに紅梅殿……」と呼びかけているが、通常は人物としての“紅梅殿”は登場しない。しかし、このシテの詞や、最後の詞章は「告げを知らする。松風も梅も。久しき春こそ、めでたけれ」と終わるので、これらの詞章から見ても、当初は後場に後ツレとして“紅梅殿”が登場する演出が行われていたと考えられる。観世流以外の四流には「紅梅殿」の〈小書〉があり、この場合には常には登場しない“紅梅殿”が増加している。
 観世流では「彩色・返留之伝」の〈小書〉がこれに相当するが、近年では他流と同じく「紅梅殿」の〈小書〉も行われている。
 なお本曲菅原道真の飛梅伝説を扱いながら、道真その人についてはアイ狂言の語りにあるのみで、本文ではほとんど触れられていない。


 以下は、長大でかつガッシリとした〈クセ〉を転載します。前段で、ワキが「当社の謂れを委しく」語ってほしいと依頼しているにもかかわらず、肝心の由緒は語られず、梅と松についての蘊蓄話となっているのは、ちょっとそっぽを向かれたかんがあります。


ワキ「なほなほ當社のはれくはしく御物語り候へ
シテ「まづ社壇のていを拜み奉れば。北に峨々たる青山あり
 地朧月ろうげつ松閣しようかくの中に映じ。南に寂々たる瓊門けいもんあり。斜日しやじつ竹竿ちくかんもとに透けり
シテ「左に火熖くわえんの輪塔あり
 地翠帳すいちやう紅閨こうけいのよそほひ昔を忘れず。右に古寺こじの舊跡あり。晨鐘じんじよう夕梵せきぼんの響き絶うることなし
クセ「げにや心なき。草木さうもくなりと申せども。かゝる浮世のことはりをば。知るべし知るべし諸木の中に松梅まつうめは。殊に天神の。御慈愛にて紅梅殿こうばいどの老松おいまつも皆末社と現じ給へり。
 さればこの二つの木は。我がちやうよりもなほ。漢家かんかに徳をあらはし。唐の帝の御時は。國に文學盛んなれば花の色を増し匂ひ常より勝りたり。文學すたれば匂ひもなく。その色も深からず。さてこそ文を好む木なりけりとて梅をば。好文木かうぶんぼくとは附けられたれ。さて松を。大夫たいふと云ふ事は。秦の始皇の御狩の時。天にはかにかき曇り大雨たいう頻りに降りしかば帝雨を凌がんと小松の蔭に寄り給ふ。この松俄かに大木となり。枝を垂れ葉を並べ。の間透間すきまを塞ぎてその雨を洩らさゞりしかば。帝大夫たいふと云ふしやくを贈り給ひしより松を大夫と申すなり
シテ「かやうに名高き松梅の
 地「花も千代までの。行末久に御垣守みかきもり。守るべし守るべしや神はこゝも同じ名の。天満あまみつ空もくれなゐの。華も松も諸共に。神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり 〈中入〉


 上記の詞章にある「古寺の旧跡」は、安楽寺西方の観世音寺。『菅家後集』の「不出門」と題する七言絶句の一節に「観音寺只聴鐘声」と詠まれており、この句は『和漢朗詠集』「閑居」に採られています。

  一従謫落在柴荊   一たび謫落(たくらく)して 柴荊(さいけい)に就きしより
  万死兢兢跼蹐情   万死兢兢(きょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情
  都府桜纔看瓦色   都府桜は 纔(わず)かに 瓦の色を看
  観音寺只聴鐘声   観音寺は 只 鐘の声を聴く
  中懐好逐孤雲去   中懐(ちゅうかい)は好し 孤雲を逐(お)ひて去り
  外物相逢満月迎   外物(がいぶつ)は相(あい)逢ひて 満月迎ふ
  此地雖身無検繋   此の地 身 検繋(けんけい)無しといえども
  何為寸歩出門行   何為(なんす)れぞ 寸歩も門を出でて行かん

 道真は、この詩の首聯で「官職をおわれてあばら家に住んで以来、万死にあたる罪に恐れおののき、身をかがめ抜き足差し足で歩むような気持ちでいる」と心境を吐露しており、蟄居して一歩たりとも屋外に出ない生活を送っていたようです。藤原時平の讒言によって左遷されたと、一般には言われておりますが、この詩を見る限り、自らの罪の重さを畏れ、慎んでいるように思われます。


 本曲の〈クセ〉の最後の詞章は「花も松も諸共に。神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり」とあり、「神さびて」以下に関し、上欄註記に「萬代の春とかや千代萬代の春とかやト謡フコトアリ」と記載されています。古来、〈去嫌~さりきらい〉という事があり、その場にふさわしい内容のものを選ぶのはもちろん、場合によればその中の文句を一部変えるなどの配慮が必要とされていました。この文句を一部変える事を〈かざし〉と言います。この件に関して、大角征矢氏は『能・謡ひとくちめも』で以下のように述べられています。

 「大成版以前の昭和改本」では、謡の本文が「花も松も諸共に。萬代の春とかや千代萬代の春とかや」であって、上欄註記には「古ニ 神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり」とあって、両者全く逆になっておるのであります!(中略)

 徳川幕府になって武家の式楽に取り上げられてから、徳川の本姓が〈松平〉であるので、〈松〉に関して〈まずい表現〉であるような箇所を軒並み家元が〈訂正〉したわけですね。すなわちこれが〈去嫌~かざし〉の元祖であったわけです。足利義満に仕えた室町時代の世阿弥の、思いも及ばなかった事でしょう…。
 そしてこれが、幕末から明治・大正・昭和(戦前)に至るまで謡い継がれ、大成版になってやっと、本来の世阿弥の書いた表現に戻ったという事なんですな! これに類する著名な例をいま一つ挙げますと…、
 『鉢木』~薪之段~いま我々が謡う「松はもとより煙にて。薪となるも理や切りくべて今ぞ…」が、徳川時代以降、昭和の戦前までは、「松はもとより常盤(ときわ)にて。薪となるは梅桜切りくべて今ぞ…」と、何やら意味不明のまゝに謡っていたのであります。
 また宝生流の『三輪』では、ワキの待謡で、我々観世流の謡う「松は標(しるし)もなかりけり」を、「松は常盤の色ぞかし」と今でも徳川時代のまゝ、頑固に(失礼!)謡っているのであります。上に挙げた『鉢木』の文句も、今でも徳川時代のまゝの「松はもとより常盤」なのであります。


 本曲は「真の脇能」三番の一に挙げられているだけに、謡うには相当な力が要ると思います。前半には長大な剛グセがあり、後場では後シテが「歌を謡ひ」と、拍子不合のツヨのカングリを謡うなど、かつて師について謡を習ったことがありますが、正直申して舞い上がってしまったことを思い出します。ともかく大変な曲ですが、うまく謡えれば痛快の極みといえましょう。
 菅原道真関連の曲には、本曲以外に『雷電』(宝生流は『来殿』)があります。また本曲同様、菅公は直接登場しませんが『道明寺』も菅公ゆかりの曲と言えましょう。




 三の鳥居のところから案内処の横の通路を南下しますと、突き当りに光明禅寺があります。寺の門前の白塀に沿って流れる小川が“藍染川”です。謡曲では、シテがこの川に身投げをするくらいですから、さぞ大きな川かと思いきや、今はまさに小川とも言えない溝のような川なのです。けれども、それではちょっと品がないとでもいうように、大きな石柱に堂々と「藍染川」と彫られています。この石柱がなければ、ここが藍染川であることは分からないかもしれません。


立派な“藍染川”の石柱

ちょろちょろと流れる藍染川


 小川をたどってお寺の西のはずれにやってきますと、川の中に「梅壺侍従蘇生の碑」が建てられていました。以下はその説明書きです。

   藍染川と梅壺侍従蘇生碑
 この藍染川は平安時代の「伊勢物語」など多くの和歌に詠まれ、謡曲「藍染川」の舞台となったところで、次のような恋愛悲話が残っています。
 「むかし、天満宮の社人、中務頼澄が京に上った時、梅壺という天皇のお傍近くにつかえる女性と恋仲になり、梅千代という男の子が生まれました。やがて頼澄は筑紫に戻ってしまいました。月日が経って梅壺は成長した我が子を父に遇わせようと太宰府まで来ましたが、頼澄の妻は、夫に逢わせまいと梅壺母子を追い返そうとしました。悲嘆した梅壺は藍染川に身を投げて死んでしまいます。それを知った頼澄が梅壺の蘇生を天神様に祈ったところ梅壺は生き返りました。」
という物語です。


梅壺侍従蘇生の碑


 道路に面して「猿田彦大神」の石碑がありました。近くに猿田彦を祀るお社があるのでしょうか。
 山際に「伝衣塔」があります。

 鎌倉時代のこと、太宰府横岳の崇福寺にいた聖一国師の夢枕に菅神(菅原道真公)が現われ、禅の教えを問うた。そこで国師が宋の仏鑑禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋に渡り、忽ち悟りを開いて戻って来られたという。渡宋天神の話であるが、悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子の鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、そのおり創建された寺が光明禅寺と伝えられている。


猿田彦大神の碑

佃衣塔


 上述しましたが、藤壺がこの地で身を投げたとされていますが、川というにはあまりにもみすぼらしい有様です。往時はもう少し立派な川であったものでしょうか。
 謡曲『藍染川』のストーリーは、上記の「藍染川と梅壺侍従蘇生碑」の伝承とほぼ同じですので、あるいは謡曲からこの伝承が生まれたのではないかと考えたくなるほどであります。それでは、以下は『藍染川』について。


   謡曲「藍染川」梗概
 作者、典拠ともに未詳。観世・金春二流のみの現行曲。後場で神主の祝詞に感応して天満天神が姿を現し、死んだ女を蘇生させるところは切能物とされるが、それ以前の場面は劇的で、詞章も対話が大部分であり、四番目物人情物といえよう。


 在京中の太宰府の神主と契りを結んだ京の女が、神主との間に生まれた子・梅千代を伴い筑紫太宰府に下り、宿を借りる。女は宿主の左近尉に神主への文を託したが、折あしく神主は不在で、その妻は左近尉に外出中の夫が在宅であるといつわり、女の文を取り次ぐと称してこれを読み、女を追い返すため偽の返書を渡す。その上左近尉に銘じて母子を追い出させようとした。女は悲嘆にくれ藍染川に身を投げて亡くなる。
 母のあとを追おうとする梅千代を左近尉が引き止め、人々が集まるところへ神主が外出先から戻ってくる。神主は梅千代の持つ遺書を読み、それがかつて契りを結んだ女とわが子であることを知り、神前に幣帛を捧げ祝詞を上げて祈ると、天満天神が現われ、女は蘇生するのであった。

 本曲の登場人物は、前シテ・梅千代の母、後シテ・天満天神と子方・梅千代。ワキ・宰府宮神主、ワキツレ・宿屋の亭主左近尉、ワキツレ・神主の従者、アイ・神主の妻、と、前後のシテを別人格とすれば7人である。シテと子方の外に、ワキツレ・左近尉とアイ・神主の妻が活躍するのが、本曲の特色である。シテに対してワキとワキツレの比重が大きく、ワキ方の能とされる。また観世・金春二流のみの現行曲のためか、上演の機会も少なく、昭和25年以降、現時点(令和元年9月)までの約70年間における常温回数は、わずかに7回を数えるのみである。


 本曲にはアイ、前シテ、ワキの三人がそれぞれ「文」を読む場面があり、「文」がストーリーの展開上、重要な役割を果しています。ワキが「文」を読むのは例の少ない形式です。以下は、ワキが「文」を読み終わり、シテの女の死を悼む〈クセ〉の感動的な詞章です。


ワキ「いかに申し候。さても御下おんくだり夢にも知らず候。梅千代うめぢよが事は某一跡いつせきを譲り世に立ててずるにて候。また御跡おんあとをも懇に弔ひて参らせ候べし。構へて我を怨み給ふなと言へども言へども
クセ 地「言へども平生へいぜい顔色がんしよくは。草葉の色に異ならず。芳態はうたいあらたに眠りて眼蓋まなぶたを開く事なし。嬋娟せんげんの黒髪は。乱れて。草根さうこんまとはり婉轉えんてんたる黛は。消え失せて面影の亡き身の果ぞ悲しき
ワキ紅顔こうがん空に消えて
華麗くわれいを失へり。飛揚の魂何處いづくにか獨り赴く有様憐むべし累々るゐるゐたる。古墳のほとり。顔色つひに消え失せて。郊原かうげんに朽ち果てゝ。思ひや跡に残るらん


 〈クセ〉の詞章を転載しました。本曲では〈クセ〉の〈アゲハ〉をワキが謡います。本曲以外に、ワキが〈アゲハ〉を謡う曲としては『現在七面』『皇帝』があり、ワキツレが謡うものには『羅生門』『谷行』があります。これらはいづれもワキおよびワキツレが重要な役割を担っている曲です。
 最後に少しくだらないことに気が付きました。本曲のワキツレ・宿の主人の名は「左近尉」です。先般、鹿児島県川内市に『鳥追舟』の謡蹟を訪ねましたが、この曲のワキツレもやはり「左近尉」です。武家の被官の名にはこの「左近尉」という名が多かったのでしょうか。あるいは九州に多くあったものか…。




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  (令和元年 8月 5日・探訪)
(令和元年 9月16日・記述)


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