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観世流復曲『加茂物狂』



 観世流復曲『賀茂物狂』




名宣 

ワキ・神職 

「これは当社賀茂の神職何某なにがしにて候。さてもこの程ももの歩みを運ぶ女性によしやう一人いちにん候が。かの御手洗川にらいをなし。水のおもてにものを書き。信心を致す気色の見え候。げに御手洗の面に思ふことを書きて祈り申す事。昔よりもさるためしの候。皆々不審に思ひ候處に。今夜我等あらたなるご霊夢をかうむりて候。これなる岩本の社壇よりと思しくて。気高き御声みこゑを出し。この程歩みを運ぶ女性にこの短冊を与へよとの神勅しんちよくあると思ひて。即ち御短冊を賜りて候。あまりに奇特きどくの御事にて候程に。今日も参り候はゞ。この由を申し候はん為。今朝よりこの神前に伺候しこう仕り候。もしその女見え候はゞ。う疾うこの神前へ参るべき由申し候へ

サシ 

シテ 

「ありがたや和光わくわうの御影あまねきうちにも。わきて誓ひも影頼む。妹背いもせの道の中川に。行方絶えぬる契りゆゑ。なになかなかの恋慕れんぼの身に。思はぬ人を。思ひの色。晴らしてばせおはしませと。

下歌 

シテ 

「この御手洗に書き流すことはり給へ神ごころ

上歌 

シテ 

「さなきだに行く水に。さなきだに行く水に。かず書くよりもはかなきは。思はぬ人を思ふとこそ。ながめしもいまさらに。わが身の上に白雪しらゆきの。思ひ絶えねと人知れぬ涙つきせぬ。心かな涙つきせぬ心かな

  

ワキ・神職 

「いかにこれなる女性によしやうに申すべき事の候。この程見申せば。ももの歩みを運び給ふかとおぼしくて。この御手洗の水の面にものを書き。手向たむけの気色見えたり。およそこの御手洗に於いて。これなる社壇の御前みまえの水の面に。歌を書き手向けをなして思ふ事を申すには。何事も叶ふ由申し伝へたり。こゝに不思議の霊夢れいむ御告おんつげの候。もし妹背の道につきたる恋慕の心を祈り給ふか。わたくしならぬ神慮に誓ひて御物語候へ

  

シテ 

「これは思ひも寄らぬ御事かな。仰せの如くこの神に祈り申す事ありて。日毎ひごとに歩みを運び候。されば御手洗に思ふ事を書いて祈り参らすれば。何事も叶ふ由人の教へのまゝに。この手向けをなし参らせさむらふべき。忍ぶれど色にいでにけり我が恋は。ものや思ふと人の問ふまでと。えいぜしことも恥かしや。さりながらこれは恋慕を祈るにはあらず。さやうの心をめさせ給へと申すのみにてこそ候へ

  

ワキ・神職 

「さればこそ奇特きどくの候。これなる御社おんやしろは賀茂の宮中にとりても岩本の明神とて。在原の業平のご垂迹すいじやくなり。この御殿よりあらたなる御声をいだし。この程歩みを選ぶ女人によにん。今日も来たらばこの短冊たんざくを与へよと御告ありと思ひて。即ち御短冊を賜はりて候。これを確かに参らせ候。なんぼうあらたなる御事おんことにて候ぞ。これこれご覧候へ

  

シテ 

「これは不思議の御事かなと取りてみれば。恋せじと御手洗川にせしみそぎ。神や受けずもなりにけるかな。さてこの歌の心にては。何とか神慮をさだむべき

  

ワキ・神職 

「げにげにこれは御理おんことはり。いでこの歌はしかもご垂迹中将業平なりひらのご詠歌ぞかし

  

シテ 

「心を知れば恋せじと。この御手洗にみそぎして

  

ワキ・神職 

「当社に祈り給ひし事は。妹背いもせの道を守らんとの。誓ひにそむく心なれば

  

シテ 

「恋せじと云ふは御恵おんめぐみに。洩るゝ心の水の禊

  

ワキ・神職 

「受けぬは妹背の道の行方を。守る誓ひの神慮かみごころ逢瀬あふせを祈り給ふべし

  

シテ 

「さては悲しや恋せじと。祈るは神の御心みこころに。背くためしの言の葉を。教へのつげかありがたや

上歌 

 

「神に寄邊よるべの水ならば。神に寄邊の水ならば。誓ひを受けて同じ世に。住めるためしのみそぎして。よしさらば今よりは。逢瀬をいざや祈らん。とても物憂ものうき我が心。教への告を頼みつゝ。人の行方ゆくへを尋ねんと足にまかせてでにけり足にまかせて出でにけり 《中入》


次第 

ワキ・都人
ワキツレ

「帰る嬉しき都路みやこぢの。帰る嬉しき都路の雲居くもゐぞ遙けかりける

名ノリ 

ワキ・都人 

「これは都方の者にて候。この程はさる事ありて所縁ゆかりの人を尋ねあづまに下り。假初かりそめの如く過ぐして候へば。すでに参三箇年に及び候。心ならずかやうに候事。あまりに口惜くとをしく候ひて。過ぎにし春の末つ方より重ひたち都に上り候。遙々の道にて候程に。はや卯月うづき半ばも近くなり候。皆々急ぎ候へ

サシ 

ワキ・都人 

「夕されば潮風超して陸奥みちのくの。野田の玉川千鳥鳴く

  

ワキ・都人
ワキツレ

「心を知るも身の上に。思ふ涙の雨の暮れ。雪のあけぼの折々の。なさけ忘れぬ都の空。馴れにし方に急ぐなり

上歌 

ワキ・都人
ワキツレ

かりがねの花を見捨つる名残まで

  

ワキツレ 

「花を見捨つる名残まで

  

ワキ・都人
ワキツレ

故郷ふるさと思ふ旅心。憂きだに急ぐ我がかたはさすがに花の都にて。海山変はる隔てにも。思ふ心の道のの。便りの桜夏かけて。眺め短きあたらの月の都に着きにけり。月の都に着きにけり

  

ワキ・都人 

「急ぎ候程に。都に着きて候。住みし宿もこのあたりと覚えて候。主を尋ね候へ

  

ワキツレ 

「さん候主の御事を尋ね申して候へば過ぎにし春の頃。物詣ものまうでとて御出おんにで候ひしが。そのまゝ行方も知らずなり給ひて候由申し候

  

ワキ・都人 

無慙むざんやなさしも契りし仲なれども。憂き世に従ふ習ひとて。思はぬほかの道に別れて。憂きをも送る年月としつきの。今年の今日を待ちかねて。行方も知らずなりけるぞや。あら不便ふびんの事や候。物詣ものまうでと申すにつけて。思ひ会はする事の候。今日は賀茂のご神事なり。急ぎ参りこの事を祈り。ご神事をもおがまばやと存じ候

サシ 

シテ 

「面白や今日は卯月うづきのとりどりに。千早ちはや振るその神山の葵草あおいぐさかけて頼むやその恵み。あまねき誓ひ数々の。色めき続く人波に。あらぬ身までも急ぎ来て

一セイ 

シテ 

「今日かざす。葵の露の玉葛たまかづら

  

 

かづらも同じ。かざしかな  《翔》

  

シテ 

「かざすたもとの色までも

  

 

「思ひある身と。人や見ん

サシ 

シテ 

「面白や花の都の春過ぎて。またその時の折からも。たぐひはあらじこの神の。誓ひただすの道すがら。人りならぬ心々の。様々見えて袖を連ね裳裾もすそを継ぎて行き交ふ人の。道去りあへぬ。物思ふ

下歌 

  

「我のみぞなほ忘られぬその恨み

上歌 

 

「人の心は花染はなぞめの。人の心は花染の。移ろひやすき頃も過ぎ。山陰やまかげの。賀茂の川水ただすの。森の緑も夏木立こだち涼しき色も花なれや。忘れめや。葵を草に引き結び。仮寝かりねの野辺の。露の曙。面影匂ふ涙の。ためしなれや恋路の身は変るまじなあぢきなや変るまじなあぢきなや

  

ワキ・都人 

「いかに狂人きやうじん。さこそ狂人と申しながら。あまり愚かなる物狂ねりぐるひかな。今日はこの御神事ごじんじなり。静かにありて結縁けちえん申せかし。あら不便ふびんの者や候

  

シテ 

「これは愚かなるおん言葉かな。まこと狂人もよく思へばひじりと言へり。その上神は知ろし召さるべし

カヽル 

  

「正直捨方便しやはうべん御心おんこころ塵に交はる和光わくわうの影は。狂言綺語きぎよも隔てあらじ。あら愚かの心やな

  

ワキ・都人 

「げにこの言葉は恥ずかしや。讃仏乗さんぶつじようの心ならば。難波の事も愚かならじ。しかもこれなる御社おんやしろは。当社にとりても異なる垂迹すいじやく舞歌ぶかを手向けて乱れ心の。望みを祈り給ふべし

  

シテ 

「そもこのやしろ殊更ことさらに。舞歌を納受ある事の。その御謂おんいくはれは何事ぞ

  

ワキ・都人 

「これこそさしも実方さねかたの。みやび給ひしよそほひの。臨時の舞の妙なる姿を。我だにでさせ給ふ面影の

カヽル 

  

「水に映れる御手洗の。そのえにしある世を渡す。橋本の宮居みやゐと申すとか

  

シテ 

「あらありがたやと夕波いうなみ

  

ワキ・都人 

「今立ち寄りて

  

シテ 

「影を見れば

上歌 

 

うつつなや。見しにもあらぬ面影の。見しにもあらぬ面影の。衰へつるよそほひは。及ばぬ昔のそれのみか。身にも変われる顔ばせの。涙の落ちぶるゝ事ぞ悲しき。今は逢ふともなかなかに。それともいさや白露しらつゆの。命ぞ恨めしき命ぞ恨みなりける

  

シテ 

「思ひ川絶えず。流るゝ水の泡の。泡沫うたかた人に逢はで消えめや

  

ワキ・都人 

「あら不便や。現なき事を申してけしからぬていにて候。面白く申して思ひを忘れさせばやと思ひ候。いかに狂人。この橋本と岩本両社は。とりわきさる御事おんことなり。舞歌ぶかを手向け奉りて思ふ心を祈るならば

カヽル 

  

「神もや納受なうじゆあるべきと

  

シテ 

風折かざおり烏帽子を仮に着て

  

ワキ・都人 

「手向けの舞を

  

ワキ・都人 

「舞ふとかや

次第 

 

「また脱ぎ替えて夏衣なつごろもの。また脱ぎ替えて夏衣。花の袖をや返さん 《物著》

  

シテ 

山藍やまあゐに。れる衣の色映えて

  

 

「神も御影みかげや。移り舞 《イロエ》

クリ 

 

「それとうとうど打つ鼓の声は。法性ほつしやう真如しんによの都に聞こえ。颯々さつさつと舞う歌の声は。四智しち円明えんみやうの鏡に映る

サシ 

シテ 

「げにやそのかみに祈りし事は忘れじを

  

 

「あはれはかけよ賀茂の川波。立ち帰り来て行末ゆくすへの。誓いひをたのむ逢瀬あふせの末

  

シテ 

「憐み垂れて。玉簾たますだれ

  

 

「かゝる氣色けしきを。守り給へ

クセ 

  

「我もその。四手しでに涙ぞかゝりにき。また何時かもと。思ひ出でしまゝ。涙ながらに立ち別れて。都にも心とめじ。東路あづまぢの末遠く。聞けばその名も懐かしみ思ひ亂れし忍摺しのぶずり。誰ゆゑぞ如何にとかこたんとする人もなし。鄙の長路に落ちぶれて。尋ぬるかひも泣く泣く。その面影の見えざれば。なほそのかたのおぼつかなく。三河に渡す八橋やつはしの蜘蛛手に物を思ふ身は何處いづく其處そこと知らねども。岸辺に波を掛川かけがは小夜さよの中山なかなかに。命のうちは白雲のまた越ゆべしと思ひきや

  

シテ 

花紫はなむらさきの藤枝の

  

 

幾春いくはるかけて匂ふらん馴れにし旅の友だにも。心岡部をかべの宿とかや。つたの細道分け過ぎて。馴れ衣を。宇津の山うつつや夢になりぬらん。見聞くにつけて憂き思ひ。なほりずまの心とて。また帰り来る都路の思ひの色や春の日の。光の影は一入ひとしほ

  

シテ 

柳櫻やなぎさくらをこき交ぜて

  

 

「錦をさらす經緯たてぬきの。霞の衣の匂やかに立ち舞ふ袖もんめが香の。花やかなりし春過ぎて。夏もはや北祭きたまつり。今日また花の都人。行き交ふ袖の色々に。貴賤群集くんじゆの装ひも翻す袂なりけり

  

 

「月にで 《中之舞》

ワカ 

シテ 

「花を眺めし。いにしへの

ノル 

 

「跡は此處ここにぞ在原なる。跡は此處にぞ在原なる

  

シテ 

「その業平なりひらの。結縁けちえんの衆生に

  

 

「契り結ぶの神とや岩本いはもとの。もとの身なれど。仮の世に出でて。月やあらぬ。春や昔の。春ならぬ。春や昔の。春ならぬ。思へば我も

ノラズ 

シテ 

「たゞ何時いつとなく

  

 

「たゞ何時となく。人知れぬ涙の身に。思ひおりて。我が身一つの憂き世の中ぞ悲しき

ロンギ 

ワキ・都人 

「不思議やなたゞ狂乱の外人よそびとと。見ればまさしくそれぞとは。思へど人目つゝましや

  

シテ 

「人目をも。我は思はぬ身の行方ゆくへ。心迷ひのあやしくも。さすがにそれぞとみる気色けしき。恥かしければ言ひ出でず

  

ワキ・都人 

「よしや互に白真弓しらまゆみ。帰る家路は住み馴れし

  

シテ 

「五條わたりの夕顔の

  

ワキ・都人 

「露の宿りは

  

シテ 

「心あてに

  

 

「それかあらぬかの。空目そらめもあらじあらたなる。神の誓ひを頼みつゝ。さらぬやうにて行き別れて。この川島の行末は。逢瀬あふせの道と.なりにけり逢瀬の道となりにけり



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