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洛中・東北院 〈東北〉


 2022年5月10日、京都吉田山麓の真如町にある東北院を訪ねました。本来の東北院は謡曲『東北』の舞台となった処です。



東北院周辺地図



 和泉式部ゆかりの地ということですので、華やかなイメージを期待しておりましたが、少々崩れかかった築地塀、あまり手入れのされていない様子のさびれた境内に、いささか期待外れの感がありました。


東北院山門と謡曲史蹟保存会の駒札

《東北院》  京都市左京区浄土寺真如町83

 以下は境内に掲げられた本院の縁起です。

 当院は人皇五十代桓武天皇遷都のとき、天下国土の守護神について、伝教大師にお問いになられたところ、大師即ち大弁財天女がよろしいでしょうと答えられたので、勅あって彫刻し、王城御開闢(ひらき)の地祭の本尊として禁裏の艮遇(うしとら表鬼門)に祭り、鎮護国家の守護神と崇められる。
 然るにその後六十八代後一条天皇の御宇、国母上東門院、関白道長公、殊に御信仰深くあられ、その頃上東門院、一条の南西京極の東に四囲十六町の御所を造営して遷られたところ、後一条院、上東門院、関白道長公の三方へ、度々御利生あり、亦不思議の霊夢を観じられたので、御所を残らず御寄付、長元三年(1030)北嶺座主(比叡山)度命大僧正を開山上人として、関白道長公大旦那となって開創、大弁財天尊を遷座し、雲水山東北御所法成寺と勅称賜い、寺領等下賜され、二代以下二十七代迄御門跡。貞享年間(1684)より時宗となる。
 後朱雀天皇長久元年(1040)、後冷泉天皇康平七年(1064)内裏炎上の砌、両度とも仮皇居と遊ばされ、当時より菊花御紋用いる事を勅許される。永安元年(1171)当院焼失の為、東京極今出川の地に移転し、朝廷より御手当あって再建。元亀元年(1570)にも兵火に罹ったが、正親町天皇、後陽成天皇の諭旨を奉じ諸国を勧化して再建する。元禄五年(1692)焼失により、同六年現在の地に移る。明和七年(1770)安津宮御所を御寄付されたのが現在の建物である。


 寺伝によれば、東北院は法成寺の東北隅に位置していたので名付けられたということですので、現在の荒神町界隈にあったものでしょう。火災により現在地に移ったとのことですが、和泉式部が暮らしていた頃は、華やかな雰囲気に包まれた処であった思われます。

 

軒端の梅

本堂


「大弁財天女」の石柱

 門前には、「大辨財天女 傳教大師御直筆 東北院」と刻された石柱がありますが、元の地にあったものを移設したものでしょう。
 また「東北院と軒端の梅」と題して、京都謡曲史蹟保存会の駒札が立てられています。

 当寺は、王朝時代に現在の今出川から荒神口に至る西側付近にあった関白藤原道長の法成寺の東北の地に建てられていたが、一条天皇中宮・上東門院藤原彰子の住まいであった。その院内の小堂に、彰子に仕える和泉式部が住んでいた。それが軒端梅である。
 現在の東北院は元禄年間に、この地に再興されたものといわれ、本堂前の軒端の梅は謡曲「東北」に因んで植えられたものである。根の周囲2メートル、樹高7メートル、地上部1.7メートルで、3支幹に分れ、心材は著しく腐朽しているが、一本だけは元気、白色単弁の花を咲かせ、見事な沢山の実を結ぶ。


 謡曲「東北」の主人公である和泉式部は、和泉守・橘道貞と結婚、のち歌人として有名になった小式部内侍を産みます。夫の官名から以後“和泉式部”と呼ばれるようになりました。道貞とは別離後、冷泉天皇の皇子為尊親王、敦道親王と恋愛し、敦道親王の死後に、召されて後一条天皇の中宮の上東門院・藤原彰子に仕え、それが機縁となって藤原道長の家司、藤原保昌に再嫁、夫とともに任国の丹後に下っています。色好みで数多くの男性遍歴ががあり、非常に情熱的行動的な女性であったといわれています。

 和泉式部とほぼ同年代の歌人で、彼女と同じころ上東門院に仕えた紫式部は、その『紫式部日記』で、和泉式部を以下のように批評しています。(小学館日本古典文學全集)

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとおかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざらめ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるる詠みそへはべり。それだに、人の読みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、井出耶さまで心は得じ。くちにいと歌の詠まるるなめりとぞ、燃えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

 和泉式部という人は実に趣深く手紙をやりとりしたものです。しかし和泉には感心しない面があります。気軽に手紙を走り書きした場合、その方面の才能のある人で、ちょっとした言葉にも色艶が見えるようです。和歌はたいそう興深いものですよ。でも古歌の知識や歌の理論などは、本当の歌よみというふうではないようですが、口にまかせて詠んだ歌などに必ず興ある一天の目にとまるものが読みそえてあります。それほどの歌を詠む人でも、他人の詠んだ歌を非難したり批評したりしているのは、さあ、それほど和歌に精通してはいないようです。口をついてしぜんにすらすらと歌が詠み出されるらしい、と思われるたちの人なのですわ。こちらがきまり悪くなるほどのすばらしい歌人とは思われません。

 なにか敵愾心丸出しの感があり、最後には「恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず」と決めつけています。
 この紫式部の和泉式部評について、白洲正子女史はその著『私の百人一首』において、「和泉式部は、はたしてその程度の歌詠みであろうか。たしかに、口にまかせて詠んだには違いないが、そういう人こそ天性の歌人というべきだろう。少なくとも、和歌に関するかぎり、紫式部より、はるかにすぐれていることは、万人の認めるところである。」と述べています。


 以下、和泉式部を主人公とした謡曲『東北』について考察いたします。


   謡曲「東北」梗概
 作者は未詳。世阿弥の作とも伝えられるが、世阿弥の作風とは傾向を異にし、かつ世阿弥の作品の影響下にあるという点で、世阿弥以降の成立と考えられ、あるいは禅竹作の可能性もあろうかと思われる。。
 「軒端梅」「東北院」「好文木」などの名で呼ばれるが、「東北院」の略称としての「東北」が曲名として用いられるのは室町末期頃かららしく、一方「軒端梅、またその略称としての「軒端」も用いられている。江戸初中期にあっては「東北」と「軒端梅」の両曲名が併存しているが、現行各流は「東北」とする。

 東国からの旅僧が京の東北院に詣で、今を盛りの梅の花を眺めていると、一人の若い女が現れ、この梅は和泉式部が植えて軒端の梅と名付け、いつも眺めていた木であり、あの方丈は式部の寝所をそのまま残したものであるが、毎年色香もいや増しに咲き匂うのであると語り、自分はこの梅の主であると告げて、夕闇の花の影に消え失せる。
 そこで僧が法華経を唱え、花の影で夜を明かしていると、和泉式部がありしままの美しい姿で現れ、昔、関白道長がこの門前を通り、車の中で法華経を越え高らかに誦まれたので、それについての和歌を詠んだことがあったと語り、さらに和歌の徳や、東北院が霊地であることなどを語って、方丈に入るかとみえて、僧は夢覚めるのであった。

 本曲は幽玄第一の本三番目物を代表する曲であるが、祝言の趣を含み、めでたさとしっとりとした抒情性とを特色とした曲である。
 しかし一方では、つかみどころのない曖昧さを持つ曲で、主人公が和泉式部の霊か梅の精か、判然としない点がある、和泉式部は数々の恋愛と情熱的な歌とで知られる人物であるが、本曲ではその傾向は強調されず、むしろ静寂で清浄な曲趣の作品となっている。


 本曲の主題は、
 第一に、「この寺いまだ上東門院の御時。和泉式部この梅を植ゑ置き。軒端の梅と名付けつゝ。目離れせず眺め給ひしとなり」ということ。
 第二に、「この寺いまだ上東門院の御時。御堂の関白この門前を通り給ひしが。御車の内にて法華経の譬喩品を宝かに讀み給ひしを。式部この門の内にて聞き。門の外。法の車の音聞けば。我も火宅を。出でにけるかなと。かやうに詠みしこと。今の折から思ひ出でられて候ぞや」という、この二点が主たるテーマとなっており、いずれも「この寺いまだ上東門院の御時」の話として語られています。
 さて和泉式部ですが、前述しましたように多情多感な、情熱的で豊かな愛欲の経験者として、一般には受け取られていると思われます。しかし本曲においては、そのイメージとはまったく逆な、清楚な梅の花のあるじとして描かれています。
 また「門の外、法の車の…」の詠歌(この歌は式部の作ではないといわれていますが)についても、式部が詠歌の徳によって歌舞の菩薩となって現れ、花の臥所に姿をかき消す、梅花の精霊として描かれています。
 謡曲作者は本曲において、現実とはかけ離れたイメージの和泉式部を描くことにより、それが式部の本願であるといいたかったのかも知れません。

 以下に本曲の〈クセ〉を掲載します。


クセ 地「所は九重ここのへの東北の霊地にて。王城の。鬼門きもんを守りつゝ。悪魔を拂う雲水くもみづの。水上みなかみは山陰の賀茂川や。末白川の波風も。いさぎよき響きは常楽じやうらくの縁をなすとかや。庭には池水ちすいたたへつゝ。鳥は宿す池中の樹僧はたたく月下の門。出で入る人跡じんせき数々の。袖を連ね裳裾もすそを染めて。色めく有様はげにげに花の都なり

シテ見佛けんぶつ聞法もんぼふの数々
「順逆の縁は弥増いやましに。日夜朝暮てうぼおこたらず九夏きうか三伏さんぷくの夏けて秋来にけりと驚かす。澗底かんていの松の風一聲の秋を催して。上求じやうぐ菩提ぼだいの機を見せ池水に映る月影は。下化げけ衆生しゆじやうの相を得たり。東北陰陽いんやうの。時節もげにと知られたり
「春の 〈序之舞〉
ワカ シテ「春のの。闇はあやなし。梅の花


 最後に本曲に関連する川柳を拾ってみました。

  みづからが植ゑた梅だと式部いひ
  車の中でにやにやむにやを式部聞き
  譬喩品の立聞きをする美しさ
  やうやうと火宅を出でて御慶なり

 初句、式部が、私が植えた梅であると旅僧に語るところです。
 二句目・三句目、御堂の関白が車の中で読経して過ぎていくのを、門内で式部は、ニヤニヤ、ムニャというように聞いた、ということですが、聞いている式部の美しかったことを想像したものです。
 四句目、この句の場合の“火宅”は大晦日のこと。大晦日の苦しみを逃れて新年の御慶となってた、やれやれ恐ろしい暮であったことよ、との回顧でしょうか。




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  (令和 4年 5月10日・探訪)
(令和 4年 8月 9日・記述)


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