二度目のお遍路 |
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49日目 〈 2008.10. 7 火 〉 うす曇り |
観音寺市内から7札所を経て、結願の善通寺へ |
パークホテル観音寺 6:25 → 68神恵院・69観音寺 6:40~7:10 → 70本山寺 8:00~8:30 → 喫茶店 9:25 → 道の駅パークみの・昼食 11:45 → 71弥谷寺・俳句茶屋 12:20~13:10 → 72曼荼羅寺 13:55~14:10 → 73出釈迦寺 14:20~14:40 → 74甲山寺 15:15~15:40 → 74善通寺 16:05~16:25 → 高松東急イン 17:40 |
≪帰り着く仁王の像の秋日かな≫ (善通寺誕生院の仁王門にて) |
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5時半に起床、ホテルで昨夜買い込んだ朝食を済ませ、6時25分に出発した。まだ人通りも少ない観音寺の市街地を抜け、財田川を三架橋で渡るとまもなく六十八番、六十九番両札所のある観音寺に到着した。山門をくぐり境内に入ると、YKさんが参拝中であった。7時5分の到着である。 |
第六十九番札所 七宝山 観音寺 ■(しっぽうざん かんのんじ) |
本尊 聖観世音菩薩 開基 日証上人 宗派 真言宗大覚寺派 |
精巧な彫刻がみごとな鐘楼 | 二札所の山門 |
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第六十八番札所 琴弾山 神恵院 ■(ことひきざん じんねいん) |
本尊 阿弥陀如来(伝弘法大師作) 開基 日証上人 宗派 真言宗大覚寺派 |
二つの寺名の山門 | 近代的な本堂の建物 |
神恵院はもと琴弾八幡宮の別当寺であり、明治の神仏分離以前は、八幡宮が札所であった。寂本『四国遍路霊場記』には、八幡宮の縁起が詳しく記されている。 |
以下、澄禅『四国遍路日記』の、観音寺と琴弾八幡宮に関する記録である。 |
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神恵院本堂 |
神恵院大師堂 |
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観音寺本堂 |
観音寺大師堂 |
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第七十番札所 七宝山 本山寺 ■(しっぽうざん もとやまじ) |
本尊 馬頭観世音菩薩(伝弘法大師作) 開基 弘法大師 宗派 高野山真言宗 |
本堂と五重塔 | 本山寺五重塔 |
大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が一夜にして本堂を建立し、本尊馬頭観世音菩薩、脇侍に阿弥陀如来を刻み安置したと伝えられている。当時は七宝山持宝院長福寺と称していた。 |
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本堂 |
大師堂 |
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道の辺の萩 |
道の駅ふれあいパークみの |
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第七十一番札所 剣五山 弥谷寺 ■(けんござん いやだにじ) |
本尊 千手観世音菩薩(伝弘法大師作) 開基 行基菩薩 宗派 真言宗善通寺派 |
阿弥陀三尊磨崖仏 | 弥谷寺山門 |
天平年間、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開基、この山に登ると中国、四国にわたる8国が眺望できるところから、蓮華山八国寺と名付けられた。 |
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山門を過ぎた百八煩悩階段 |
磨崖仏 |
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本堂 |
大師堂 |
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獅子の岩屋 |
御朱印 |
大師堂の内には、弘法大師がその少年時代に勉学をされていたという、獅子の岩屋があり、弥谷寺の奥之院とされている。 |
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俳句茶屋にずらりと吊るされた短冊 |
中には納め札もある |
龍が描かれた障子は壮観であった |
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第七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺 ■(がはいしざん まんだらじ) |
本尊 大日如来(伝弘法大師作) 開基 行基菩薩 宗派 真言宗善通寺派 |
県文化財の聖観音立像 | 西行笠掛け桜 |
当寺は推古天皇4年(596)に、弘法大師の先祖である佐伯一族の氏寺として創建され、当時は世坂寺と呼ばれていた。 |
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本堂 |
大師堂 |
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第七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺 ■(がはいしざん しゅっしゃかじ) |
本尊 釈迦如来(伝弘法大師作) 開基 弘法大師 宗派 真言宗善通寺派 |
本堂と大師堂 | 新築の出釈迦寺山門 |
出釈迦寺は曼荼羅寺の奥之院であったようだ。 |
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本堂 |
大師堂 |
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第七十四番札所 医王山 甲山寺 ■(いおうざん こうやまじ) |
本尊 薬師如来(伝弘法大師作) 開基 弘法大師 宗派 真言宗善通寺派 |
甲山寺本堂 | 新築の山門 |
当山は、弘法大師が壮年のころ、善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立するため霊地を探していたところ、甲山の岩窟から老翁が現れ、お告げによってこの地に建てることを勧められ、石を刻み、毘沙門天の像を安置したのが始まりと伝えられている。弘仁12年(821)満濃池築造の別当に任ぜられた大師は、朝廷から贈られた功労金で堂塔を建立、本尊薬師如来を安置したという。 |
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本堂 |
大師堂 |
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岩窟内の毘沙門堂内陣 |
新築の西門 |
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ついに帰り着いた、善通寺西院・誕生院の仁王門と仁王像 |
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