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二度目の遍路の先頭

二度目のお遍路
≪第6章≫
讃岐路 再び



  第6章 旅は道連れ 東伊予から讃岐路へ 〈 2008. 9.30~10. 7 〉 (その8)
42日目  9.30 〈松山市大街道~今治市菊間〉
 第52番 大山寺  第53番 円明寺 
43日目 10. 1 〈今治市菊間~今治市中寺〉
 第54番 延命寺  第55番 南光坊  第56番 泰山寺 
 第57番 栄福寺  第58番 仙遊寺 
44日目 10. 2 〈今治市中寺~西条市小松町明穂〉
 第58番 国分寺 
45日目 10. 3 〈西条市小松町明穂~西条市西田〉
 第60番 横峰寺  第61番 香園寺  第62番 宝寿寺 
 第63番 吉祥寺  第64番 前神寺 
46日目 10. 4 〈西条市西田~四国中央市土居〉
 番 外 王至森寺
47日目 10. 5 〈四国中央市土居~四国中央市上分〉
 第65番 三角寺 
48日目 10. 6 〈四国中央市上分~観音寺市内〉
 第66番 雲辺寺  第67番 大興寺 
49日目 10. 7 〈観音寺市内~善通寺市内〉
 第68番 神恵院  第69番 観音寺  第70番 本山寺
 第71番 弥谷寺  第72番 曼荼羅寺 第73番 出釈迦寺
 第74番 甲山寺  第75番 善通寺 


49日目 〈 2008.10. 7 火 〉
うす曇り
 観音寺市内から7札所を経て、結願の善通寺へ
 パークホテル観音寺 6:25 → 68神恵院・69観音寺 6:40~7:10 → 70本山寺 8:00~8:30 → 喫茶店 9:25 →
 道の駅パークみの・昼食 11:45 → 71弥谷寺・俳句茶屋 12:20~13:10 → 72曼荼羅寺 13:55~14:10 →
 73出釈迦寺 14:20~14:40 → 74甲山寺 15:15~15:40 → 74善通寺 16:05~16:25 → 高松東急イン 17:40


  ≪帰り着く仁王の像の秋日かな≫ (善通寺誕生院の仁王門にて)

 5時半に起床、ホテルで昨夜買い込んだ朝食を済ませ、6時25分に出発した。まだ人通りも少ない観音寺の市街地を抜け、財田川を三架橋で渡るとまもなく六十八番、六十九番両札所のある観音寺に到着した。山門をくぐり境内に入ると、YKさんが参拝中であった。7時5分の到着である。



第六十九番札所 七宝山 観音寺
(しっぽうざん かんのんじ)
  本尊   聖観世音菩薩
  開基   日証上人
  宗派   真言宗大覚寺派


精巧な彫刻がみごとな鐘楼

二札所の山門


 寂本『四国遍路霊場記』には、この寺は弘法大師が入唐求法のお礼に、琴弾八幡宮に詣でて法施を催したとき、神のお告げによりこの地を開き建てたもので、大師手ずから観音像を刻み安置したことから観音寺と号した、と記されている。
 明治の神仏分離令により、八幡宮の別当寺神恵院を境内に移転したため、一山二札所の形態となっている。
 切手に描かれた鐘楼は平成6年に解体修理がなされたもので、精巧な彫刻がみごとである。



第六十八番札所 琴弾山 神恵院
(ことひきざん じんねいん)
  本尊   阿弥陀如来(伝弘法大師作)
  開基   日証上人
  宗派   真言宗大覚寺派



二つの寺名の山門

近代的な本堂の建物

 神恵院はもと琴弾八幡宮の別当寺であり、明治の神仏分離以前は、八幡宮が札所であった。寂本『四国遍路霊場記』には、八幡宮の縁起が詳しく記されている。

 此宮は文武天皇の御宇、大宝三年(703)、宇佐の宮より八幡大神ここに移り玉ふといへり。其時三ヶ日夜、西方の空鳴動し、黒雲をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、西方の空より白雲虹のごとく聳き、当山にかかれり。然して此山の麓、梅脇の海浜に一艘の怪船あり。中に琴の音ありて、其音美妙にして、嶺松に通ひけり。
 其比此山に止住の上人あり。名を日証といひけり。此上人船に近づきて、いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉といひければ、我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐より出、此地霊なるが故に、此にあそべりとのたまへり。上人又いはく、疑惑の凡夫は異瑞を見ざれば信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へと。其夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂薮となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嗟せずといふ事なし。上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数百人を集め、此山竹の谷より御船を峯上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴幷に御船いまに殿内に崇め奉る。

 切手にには、観音寺、神恵院の二つの寺名が書かれた山門が描かれている。



 以下、澄禅『四国遍路日記』の、観音寺と琴弾八幡宮に関する記録である。

 夫れ(大興寺)より西へ向かひて野を往きて観音寺に至る。是迄二里。
 観音寺、本堂南向き、本尊正観音。大師の開基、桓武天皇の御願、大同年中の造営也。寺は神恵寺六坊在り。二町ばかりの坂を上りて琴引宮に至る。
 琴引八幡宮、南向き、本地阿弥陀如来。大宝三年癸卯、豊前国宇佐の宮より此の国に来臨し給ふ。海上にて琴を弾じ給ふ、其の音妙にして国の人々耳をすませり。此の所に権者(※注1)と呼びし人、此の山に宮を作りて安座し奉りしと也。其の後大師観音寺と云ふ也。
 此の山躰中々云ふべき様なし。先ず、社壇の廻り古松群立ちて、風自から琴音を調ぶ。楼門の前に西の尾丸山とて二つ山在り。二町ばかり指出したるが数奇屋の路地を堅めたる様にて、赤土のじゃり成り、其の上に三尺ばかりの小松どもが砂の者を仕りたる様に生ひ双びたり。向ふは雲辺寺の峯より初めて名山とも立ち重なり、麓は観音寺千軒の在家在り。川口は大船ども何艘とも知らずつなぎ置きたり。沖は中国筑紫の海につゞきたるに、釣りの舟ども木の葉の散り浮きたる様なり。四国中佳景多しと云へども当山は無類の境地也。当年正月当社の氏子共六千三百余人、奉加して石の鳥居を立てたり。

 (※注1)同書頭注にいう。権者は験者ならん。密教の行者、修験者なり。「権者と呼びし人」とあるは「験者と呼ばれし人」と訓すべし。
 


神恵院本堂


神恵院大師堂


観音寺本堂

観音寺大師堂


 観音寺で2札所の参拝を一挙に終え、ちょっぴり得をしたような気分で、YKさんと連れだって本山寺に向かった。財田川の左岸を進むのだが、稲積橋の交差点を過ぎると一挙に交通量が増加する。県道と別れ小さな橋を渡り財田川の堤防に出ると、正面左手に五重塔が見えてくる。JRを越えるとまもなく本山寺である。8時ちょうどの到着であった。



第七十番札所 七宝山 本山寺
(しっぽうざん もとやまじ)
  本尊   馬頭観世音菩薩(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  宗派   高野山真言宗


本堂と五重塔

本山寺五重塔

 大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が一夜にして本堂を建立し、本尊馬頭観世音菩薩、脇侍に阿弥陀如来を刻み安置したと伝えられている。当時は七宝山持宝院長福寺と称していた。
 長宗我部元親が攻め入った際、住職が立ちはだかり切り捨てられたが、住職の代わりに阿弥陀如来が身代わりとなったので、土佐兵は境内から退散したという。長宗我部元親の兵火にかからなかった数少ない寺のひとつである。
 正安2年(1300)に建立された本堂は国宝に指定されており、切手にには、この本堂と五重塔が描かれている。

 以下、澄禅『四国遍路日記』の記録である。

 扨、夫れ(琴弾宮)より丑寅の方へ一里往き、本山寺に至る。一宿す。
 本山七宝山長福寺持宝院、本堂南向き七間四面、本尊馬頭観音。二王門、鐘楼在り。寺主は四十ばかりの僧なり。当寺の縁起別に在り。


本堂

大師堂


 本山寺の山号は観音寺と同じ七宝山である(本山寺奥之院の妙音寺も同じく七宝山を号す)。同じ山号を持つということは、縁起について何らかの関連があるのだろうか。

 本山寺を出発して、ここから七十一番弥谷寺までは11キロ強の長丁場である。聞くとYKさんはまだ朝食を済ませていないとのこと、それは何とかせんとあきませんね、といいながら歩いていると、ちょうど運良く笠田のあたりの道際にコンビニがあった。YKさんは食料を調達、確かこのすぐ先に権兵衛神社とかいう小さな神社があったことを思い出し、そこで食事にしませんかと、KYさんを誘った。ところが神社に行くまでもなく、コンビニから少し歩いたところに喫茶店がある。ここがいいんと違いますか、私はコーヒータイムにしますわ、と喫茶店に入り、YKさんは遅い朝食タイム、私は早めのコーヒータイムとした、9時25分。


道の辺の萩

道の駅ふれあいパークみの


 休憩をおわり出発する。YKさん、今日中に絶対善通寺まで行きまっせ。承知しました、行きましょう、とYKさん。歩きながらYKさん、こんな歌を考えましてね、と歌いだしたのが「線路は続くよ」の替え歌。「遍路はつづくよ、どこまでも、野を越え山越え、谷越えて…」、二人で笑いながらしばらく合唱する。
 旧高瀬町に入り、国道の左側の遍路道を歩いて行った。旧三野町を過ぎ登り坂を上がると道の駅ふれあいパークみのに着いた。11時45分、頃もよし、YKさんと二人、ここで昼食休憩とし、うどん定食をパクついた。
 食事を終えて家内に電話を入れる。テレビの「てくてく旅」に映っとったかと、いささか自慢げに尋ねたところ、何にも映ってなかったよ、とあっさりと答えられてしまった。チクショー、NHKめ、肝心のところをカットしたな。YKさん、NHKでは我々映されてなかったようですわ。それは残念とYKさん。滅多にないテレビ出演(?)のチャンスだったのに、残念至極。
 30分ほど休憩をとり、弥谷寺は目と鼻の先、山門前の俳句茶屋は前回のときは閉ざされていたが、今日は開いており、店の入り口には店番(?)のおばあさんが座っておられた。寺の帰りに寄せてもらうことにして、弥谷寺に参拝する。12時20分。



第七十一番札所 剣五山 弥谷寺
(けんござん いやだにじ)
  本尊   千手観世音菩薩(伝弘法大師作)
  開基   行基菩薩
  宗派   真言宗善通寺派


阿弥陀三尊磨崖仏

弥谷寺山門

 天平年間、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開基、この山に登ると中国、四国にわたる8国が眺望できるところから、蓮華山八国寺と名付けられた。
 のちに弘法大師が真言密教の秘法を修したとき、空中より五柄の宝剣が出現したところから剣五山、谷が多いところから弥谷寺と改め、千手観音を本尊に祀り伽藍を修復したと伝えられている。寂本『四国遍路霊場記』には、弥は「や」の音で八から変化し、国と谷も「こく」と同音であるから、八国寺が転じて弥谷寺となったのではないかと述べている。
 本堂の下の阿弥陀三尊を刻んだ磨崖仏は鎌倉時代に彫られたもので、山中には無数の像が刻まれているが、はっきりと姿をとどめるのはこれだけという。
 切手にには、この阿弥陀三尊磨崖仏が取り上げられている。

 以下、澄禅『四国遍路日記』の記録である。後半は海岸寺の記録となっているので割愛している。

 十日、寺(本山寺)を立ちて北へ行く事三里、弥谷の麓辺路宿に一宿す。子の刻より雨降る。十一日、天気故、巳の刻に宿を出で行く。
 弥谷寺、劔五山千手院。先づ坂口に二王門在り、ここにりは少しでも高き石面には仏像或は五輪の塔を数知らず彫り付け給へり。自然石に楷を切り付けて寺の庭に上る。寺は南向き、持仏堂は西向きに巌に指しかゝりたる所を、広さ二間半奥へは九尺、高さ人の頭のあたらぬ程にいかにも堅固に切り入りて、仏壇は一間奥へ四尺に是も切り入りて、左右に五如来(※注1)を切り付け給へり。中尊は大師の御影木像、左右に藤新大夫夫婦(※注2)を石像に切り給ふ。北の方の床は位牌壇也。又正面の床の脇に護摩木棚二段に在り。東南の二方にしき居鴨居を入れて戸を立てる様にしたり。
 扨、寺の広さ庭より一段上りて鐘楼在り、又一段上りて護摩堂在り、是も広さ九尺ばかり二間に岩を切りて口には戸を仕合せたり。内には本尊不動、其の外の仏像何れも石也。夫れより少し南の方へ往きて水向在り、石の面に二寸五歩の刷毛を以て阿字を遊ばし彫り付け給へり、廻りは円相也。今時の朴法骨多肉の筆法(※注3)也。其の下に岩穴在り、ここに死骨を納る也。水向の舟は中にきりくの字(※注4)、脇に空海と有。其のあたりに、石面に、五輪を切りつけ給ふ事幾千万と云ふ数を知らず。又一段上りて阿弥陀の三尊、脇に六字の名号を三くだり宛六つ彫り付け給へり、九品(※注5)の心持となり。又一段上りて本堂在り、岩屋の口に片軒ばかり指しをろして立ちたり、片はえ造りとかや云ふ。本尊千手観音也、其の周りの石面に五輪ひしと切りつけ給へり。其の近所に鎮守蔵王権現の社在り。山中石面は一つも残らず仏像を切り付け給へり。
 扨、札を納め、読経念誦し件の護摩堂へ戻り、北へ通りて猶ほ北峯へ上る。

 (※注1)五如来とは、大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五仏をいう。
 (※注2)同書頭注にいう。説教「刈萱道心」に弘法大師の母御前を助ける「トウシンタユウ」として登場している。宮崎忍勝『現代密教講座』第7巻・第4章参照。
 (※注3)梵字の正書法である木筆体(朴筆ともいう)
 (※注4)「キリク」は梵字の阿弥陀如来の種子。
 (※注5)「クボン・クホン」九種類の阿弥陀如来の浄土のこと。極楽往生をいう。


山門を過ぎた百八煩悩階段

磨崖仏


 この寺の石段は、まったく遍路泣かせである。山門を入って境内までが370段、さらに本堂まで170段の石段が延々と続いている。


本堂

大師堂


 大師堂の内には、弘法大師がその少年時代に勉学をされていたという、獅子の岩屋があり、弥谷寺の奥之院とされている。



獅子の岩屋

御朱印


 大師堂の内には、弘法大師がその少年時代に勉学をされていたという、獅子の岩屋があり、弥谷寺の奥之院とされている。
 この洞窟は獅子が口を開いた形をしていることから名付けられたさうで、洞窟の中には大師像と阿弥陀如来像(父君)、弥勒菩薩像(母君)が安置されている。暗い中でロウソクの光に浮かぶ石仏は異様な感じである。
 奥之院の朱印の中央の宝印は、善通寺のものと酷似している。善通寺では弘法大師のお手印であるとの説明を受けたが、同じものなのであろうか。

 弥谷寺の参拝を終え、山門前にある俳句茶屋にとって返した。茶屋の入口にはおばあさんが陣取って、お遍路の相手をしてくれていた。バスは少し上にある駐車場へ直行するから、ここを通るのは足偏の遍路だけであろう。
 内部をのぞかせてもらうと、あるわあるわ、すさましいくらいの俳句の短冊が下がっている。龍が描かれた障子が壮観である。おばあさんから、金粉入りのお茶の接待を受ける。昨日大興寺で四元嬢にであったから、明日あたりここへ来るんと違うかな、彼女は俳句が好きみたいやから喜ぶで。などといらんことを話してお別れした。


俳句茶屋にずらりと吊るされた短冊


中には納め札もある


龍が描かれた障子は壮観であった


 曼荼羅寺に向かって出発する。前回の遍路では弥谷寺から天霧峠を越える白方の遍路道を通って、海岸寺へ参拝したので、直接曼荼羅寺へ向かうコースは初めての道である。竹薮を抜け、高松自動車道をくぐり、大池のほとりを廻ってひたすら進み、曼陀羅寺に到着したのは13時55分であった。



第七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺
(がはいしざん まんだらじ)
  本尊   大日如来(伝弘法大師作)
  開基   行基菩薩
  宗派   真言宗善通寺派


県文化財の聖観音立像

西行笠掛け桜

 当寺は推古天皇4年(596)に、弘法大師の先祖である佐伯一族の氏寺として創建され、当時は世坂寺と呼ばれていた。
 大師が唐より帰朝後、本尊の大日如来を祀り、金剛界、胎蔵界の曼荼羅を安置して、母の玉依御前の菩提を弔うため、大同2年(807)より3ヶ年がかりで大造営を行い、完成と同時に曼荼羅寺と改称したという。ただし、大同2年は空海が唐より帰国した翌年で筑紫に止められており、この年の秋に和泉国の槇尾山寺に入っている。その間どこにいてもよいのかも知れないが、この期間に造営したという伝承はいささかマユツバのきらいがあると思う。
 西行法師は、この寺の近くの水莖の岡にしばらく暮らし、当寺にもよく参拝に訪れたようである。笠掛け桜の横には西行が昼寝をしたという、西行昼寝石がある。
 切手に取り上げられた聖観音立像は、檜の一本造りで藤原期の作といわれ、香川県の有形文化財に指定されている。

 以下、澄禅『四国遍路日記』の記録である。澄禅は弥谷寺から海岸寺に廻り、現在の仏母院を経て曼荼羅寺へと参拝している。

 曼荼羅寺、本堂東向き、本尊金剛界大日如来。此の寺に荷俵を置きて出釈迦山へ上る。寺より十八町なり。


本堂

大師堂


 参拝、納経を済ませ、出釈迦寺に向かう。計画では水莖の岡にあるという西行庵を訪ねたいと思っていたが、今日中に善通寺までとなると少し無理があるかもしれない。仕方なく西行庵はあきらめて、坂を上り出釈迦寺に着いたのは14時20分であった。



第七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺
(がはいしざん しゅっしゃかじ)
  本尊   釈迦如来(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  宗派   真言宗善通寺派


本堂と大師堂

新築の出釈迦寺山門

 出釈迦寺は曼荼羅寺の奥之院であったようだ。
 伝説によれば、弘法大師が7歳の時、この我拝師山に登り「我仏門に入り一切の衆生を済度しよう。我が願い成就するならば、釈迦如来よ我が前に姿を現し給え。成就しなければ一命を捨てて、この身を諸仏に供養し奉る」と唱え、深い谷底に身を投じた時、釈迦如来と天女が現れ抱きとめられたという。
 西行『山家集』には以下のように記されている。(『新潮日本古典集成・山家集』後藤重郎校注・新潮社)

 曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

 めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも
 (その昔弘法大師は、ここで修行をされた折、雲に乗って来られた釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思うことだ。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師の誓願の跡に立ち、大師の昔を偲ぶにつけても)

 やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて

 筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を
 (筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだよ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎の様子を)

 出釈迦寺は平安末期には、曼陀羅寺の行道所すなわち修行場であった。寺としての形態をとるのは、以下の澄禅や真念の記録に記されているように、江戸時代になってからのようである。
 切手にには、軒続きとなっている本堂と大師堂が取り上げられている。

 以下、澄禅『四国遍路日記』の記録である。

 出釈迦山、先ず五町ばかり野中の細道を往きて坂にかゝる。小さき谷あひの誠に屏風を立てたる様なるに、焼け石の如くに細く成るが崩れかゝりたる上を踏みては上り踏みては上り恐き事云ふばかり無し。漸く峯に上り付き、馬の頭の楊成る所を十間ばかり往きて小さき平成る所在り、是昔の堂の跡なり。釈迦如来石像、文殊、弥勒の石像など在り。近年堂を造立したれば、一夜の中に魔風起こりて吹き崩したると也。今見に板のわれたると瓦など多し、ここ只曼荼羅寺の奥院と云ふべき山也。夫れより元の坂を下りて曼荼羅寺に至る。

 澄禅のころは、現在の捨身ヶ嶽禅定が札所だったと思われる。真念の『四国遍路道指南』には、「この寺の札打ち所は十八町登った山頂にある。しかし由緒あって堂社はない。ために近年になって麓に堂ならびに寺を建て、ここで札を納める」と記されている。また澄禅の記録では、出釈迦山であって出釈迦寺ではない。このことから類推するに、澄禅が巡拝した承応2年(1653)以降、3、40年の間に、真念のいう「近年になって麓に堂ならびに寺が建て」られ、これを七十三番札所としたものであろうか。


本堂

大師堂


 前回の参拝時には山門はなかった(工事中だったのか?)と思ったのだが、今回お参りすると木の香りも新しい、立派な山門が建てられてあった。

 出釈迦寺を打ち終えて時刻は14時40分、これならば今日中に結願の善通寺までたどり着けそうである。やっと先が見えてきた。YKさん、ここまで来れば後はどうにでもなりますわ、となんとなくひと安心。考えるに、朝からYKさんと、馬鹿話などしながらずっと一緒に歩いて来られたのがよかった。独りであれば多分途中で弱気になって、ダウンしていたかもしれない。勇躍出釈迦寺を出発して、県道48号線から田んぼの中の遍路道を進み、甲山寺に15時15分に到着した。



第七十四番札所 医王山 甲山寺
(いおうざん こうやまじ)
  本尊   薬師如来(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  宗派   真言宗善通寺派


甲山寺本堂

新築の山門

 当山は、弘法大師が壮年のころ、善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立するため霊地を探していたところ、甲山の岩窟から老翁が現れ、お告げによってこの地に建てることを勧められ、石を刻み、毘沙門天の像を安置したのが始まりと伝えられている。弘仁12年(821)満濃池築造の別当に任ぜられた大師は、朝廷から贈られた功労金で堂塔を建立、本尊薬師如来を安置したという。
 大師の刻んだ毘沙門天の像は「岩窟の毘沙門天」と呼ばれ、今も岩窟内に祀られている。
 切手にには、背後の山の緑につつまれた本堂が描かれている。

 以下、澄禅『四国遍路日記』の記録である。

 是(曼荼羅寺)より八町往きて甲山寺に至る。日記には善通寺より□町、善通寺より又甲山寺に□町と有り。夫れは出釈迦の東の坂を下りて善通寺へ直に行きたる道次なるべし。
 甲山寺、此の山は誠に四方白の甲を見る様也。五岳の一なり。本堂東向き、本尊薬師如来。寺は元より真言宗也。夫れより八町往きて善通寺に至る。


本堂

大師堂


 甲山寺に到着したとき、ちょうど団体バスが到着したばかりのようで、境内はごったがえしていた。この寺の本堂や大師堂の前は狭いので、団体が入ると芋の子を洗うような状態になる。おまけにこの団体さんはお行儀があまりよろしくなく、だらだらと本堂前に拡がって読経を始める。躾のよい団体の場合は、他の参拝者の邪魔にならないように、端に固まって整列しているのだが、ここの先達はどうもいまいちであった。


岩窟内の毘沙門堂内陣

新築の西門


 昨年参拝した時は工事中であったのだが、今回は立派な山門が完成しており、西側の旧来の小さな山門の前には、立派な門柱が建てられてあった。札所は結構実入りがよいのだろうか…。


 15時40分、甲山寺を後にして、一路善通寺へとつっ走る。狭い家並みを抜けて、善通寺到着は16時5分。思わず右手を突き挙げて「きたーっ!」と叫び、YKさんに笑われてしまった。





ついに帰り着いた、善通寺西院・誕生院の仁王門と仁王像





 振り出しの善通寺にやっと帰ってきた。途中で少しロスタイムがあるが、49日の旅であった。道中これといった事故にも遭わず帰着できたのも、偏にお大師様のお蔭であろうか。スタート時点では、一応通し打ちの決意ではあったが、正直なところ途中で止めてまた打ち継いでもいい、というくらいの、甘い考えもあったことは事実である。よく途中でギブアップせず最後までたどりついたものと、自分でも不思議なくらいであった。
 2日間ご一緒していただいたYKさんとは、あと僅かとなった結願までの道中の無事をを祈りつつ仁王門前でお別れした。

 暫時の休憩をとった後、金堂と御影堂に参拝をして善通寺を後にした。JR善通寺駅へ向かうが、なんだか気が抜けたようで足にも力が入らない。20分ほど前まで必死の思いで歩いていたのが嘘のようである。駅の途中、前方から足偏がひとりやってきた。宿を取ろうとしたのだが、ホテルも民宿も全部満室で断られた、今から善通寺の宿坊へ行ってみるとのこと、そういえばYKさんも宿坊に泊まるつもりだと言っていたが、うまく泊まれたのだろうか。ちょっと心配になる。
 善通寺駅発16時49分の特急しまんとで高松駅に着いたのは17時30分、文明世界の中に帰って来た、急にそんな気持ちに襲われる。汚れて一部ほころびた白衣が何とも場違いな感であった。さてその夜は、例の行きつけのスナックで日が変わるまで、精進落としの美名のもと、飲めや歌えのばか騒ぎを演じてしまった。これではお大師様の御利益など望むべくもない。かくて歓楽の一夜を過ごし、翌朝帰阪の途に就いた。


 この東伊予から讃岐への旅を振り返ると、不思議と独り旅が少なかった。松山市に入った途端、神奈川3人衆のKNさん、SKさん、AJさんのいずれかと一緒になるケースが多く、日中は会えなくても同宿することがままあった。今治の延命寺では、愛知のTHさんと出会い、横峰寺を打ち終えて神奈川3人衆と別れると、待ち構えていたように、THさんが現れ、四国中央市の土居まで一緒に歩くことができた。三角寺でTHさんと別れた翌日から結願の善通寺までの2日間は、横浜のYKさんとご一緒していただくことができた。この松山以降の10日間ほどは、別れが来ると新たな出会いが始まった。お大師様が、長旅に疲れた私を哀れと思し召し、常に新たな出会いを準備してくださったのかも知れない、そんな気がしてくる旅であった。独りであればくじけそうになり、横着心を起こして途中でダウンするこがままあるのだが、最後まで歩くことができるようにとの、御心だったのだろうか。さらに、最終日より2日前にお会いした福井のNNさんとは、撮影した写真をお届けいただいたりして、その後も親しくしていただいている。「旅は道連れ」とは古来使いふるされた言葉であるが、これを切実に感じた東伊予から讃岐にかけての旅であった。

 四国は魔性の地かもしれない。お遍路を終えた途端にまた再び行きたくなってくる。今度は「通し」がいいか「区切り」がいいか、あるいは「一国打ち」もいいのではないか。「逆打ち」もやってみたいが、まだちょっと無理かも知れない。澄禅の足取りをたどるのもいいな、いや寂本の順で廻ってみるのも面白そうだ。奥之院で見逃したところもあるので、今度はぜひ行ってみたい。寺の境内の堂塔の配置図を水彩画風に描いてみるのも面白そうだが、残念ながら絵ごころに乏しいこの身にはちょっと無理かな。etc. etc. …。
 再来年、古稀を迎えるから、そのときは是非お四国を廻ってみたい。古来稀なるお遍路の旅、古稀記念遍路、是非とも実現させたいものと考えている。



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