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丹波・酒呑童子の里 〈大江山〉


 2015年9月10日、天橋立への一泊旅行の途次、『大江山』の謡蹟を訪わんと、福知山市大江町の酒呑童子の里に立ち寄りました。大阪駅発11時11分の“こうのとり3号”に乗車、福知山駅でホームの反対側に停車している“はしだて1号”に乗り換え、ここから京都丹後鉄道の旅となります。
 乗車すること10分ばかりで大江駅に到着しました。乗降客もほとんどなく、殺伐な感のあるホームに降り立ちます。駅の売店のおばさんが駅員を兼務しており、乗車券をチェックしています。大江山の“鬼の博物館”への交通機関を尋ねると、バスは行ってしまったし、タクシーになるね、とのこと。そのタクシーも福知山から呼ぶことになるので20分ほどかかるよ、早めに電話しておいた方がいいよ、と忠告してくれました。
 (大江山に関する記述は、本サイトの「気まぐれ紀行・〈天橋立とくろまつ列車〉」と一部重複しています。)


大江山鬼瓦公園─ずらり並んだ鬼瓦


 タクシー会社に連絡をすませ、駅前にある大江郵便局に立ち寄るべく駅舎を出ますと、そこには鬼瓦を戴いた柱がずらりと立ち並んでいます。ここが“大江山鬼瓦公園”です。福知山市のサイトでは、以下のように紹介されていました。


 この公園は、全国の鬼を愛する人たちの手で作られました。中でも「屋根付き鬼の回廊」は、全国の鬼師(鬼瓦製作者)の集大成ともいえる鬼瓦が72個、三州・淡路・石州の屋根瓦に囲まれて鬼伝説のまちを見守っています。周りにはまた「鬼面柱の回廊」「鬼の酒噴水」「鬼門厄除け六面鬼」、鬼のプロムナード、鬼のマンホールの蓋、鬼の街灯などがあり、すべて鬼一色で統一されています。

 大江郵便局で貯金の預入と風景印の押印を済ませます。大江郵便局の風景印には鬼の面等が描かれています。


大江山の雲海を描き、
酒呑童子の鬼面と盃を
配した、大江局風景印

 大江郵便局の前で暫らく待っていますと、タクシーが到着しました。運転手さんに、鬼ヶ茶屋・鬼の足跡・頼光腰掛岩などを見物したい旨お願いし、大江山の鬼退治に出発いたしました。丹後鉄道の大江山口内宮駅を過ぎると、車は次第に山中へと誘われて行きました。



鬼の茶屋

道際に立つ鬼の像


 「鬼の茶屋ですよ」と運転手さん。何の変哲もない家屋ですが、ここは酒呑童子が都への往復に休んだ所だそうで、鬼退治を描いた襖絵が見もののようです。残念ながら戸は固く閉ざされ無人の様子です。車から出ると細かい雨が降るともなく降り注いでおり、長居は無用と早々に出発しました。
 車は二瀬川に沿って進んでいるようです。道際には、時おり赤や青の鬼さんが、鉄棒を片手に我々を出迎えてくれています。


ここから酒呑童子の里


 大江山登山口の碑の横には、金棒を持った赤鬼のお出迎えです。ここからが“酒呑童子の里”になっているようです。
 登山口から少し登ると、大江山グリーンロッジの対面あたりに「鬼退治に向かう頼光の一行」として、源頼光以下6人の像が立っていました。


鬼退治に向かう頼光の一行


 さて、大江山にまつわる3つの鬼退治伝説ですが、その一は、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(ひこいますのきみ)が陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。その二は、聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話。その三が、源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名な酒呑童子伝説です。
 この伝説は、古くは『大江山絵詞』に見え、謡曲『大江山』や『御伽草子』の「酒呑童子」などに伝えられています。以下は『御伽草子』に記された鬼退治の物語です。(市古貞次『御伽草子』岩波文庫・1986)

 時は平安朝、一条天皇の頃。世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていきました。姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。
 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会います。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着きました。


谷や峰を分け上り大江山を目指す頼光の一行

洗濯をする姫君と遭遇


 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待しますが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を返り討ち、手下の鬼共も討ち果たします。捕らえられている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がりました。討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、都に持ち帰られますが、途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたといわれています。


鬼に神便鬼毒酒を飲ませる

鬼の首を打ち落とす


 以上が『御伽草紙』の概要ですが、いささか気になるのが頼光たちの振舞です。頼光の一行は、もてなしてくれた鬼をだまし討ちにするわけであり、『御伽草紙』でも、鬼は「情なしとよ客僧たち、いつはりなしと聞きつるに、鬼神に横道なき物を」と、頼光たちの仕打ちに憤懣この上ない有様が描かれています(謡曲でも同様の描写があります)。頼光ともあろうものが、いささか卑怯な手段ではなかろうかかと、鬼に対する同情を禁じ得ません。

 それでは、謡曲『大江山』を眺めてみましょう。


   謡曲「大江山」梗概
 作者は宮増との説も行われたが未詳。『御伽草紙』と謡曲とは、どちらが先に出来たかが不明であるので、恐らく『大江山絵詞』などに典拠したものであると思われる。
 丹波国大江山の鬼神を退治せよとの勅命を承けた源頼光の一行は、山伏姿に身を扮して、酒呑童子の隠れ家に着き宿を求める。童子は、真の山伏と思い一行をもてなし、酒を勧め、重代の住処であった比叡山を追われ、山々を巡り、今この山に隠れ住むようになった次第を物語り、やがてすっかり酔い寝床に入る。
 頼光が閨の内を窺うと、酒呑童子は鬼神の恐ろしい正体を露して眠っているので、主従力を合わせて斬りかかり、激闘の末首を打ち落とし、都に帰還するのであった。酒呑童子は鬼神の化した姿であるが、童子である間は愛すべき存在である。しかも酒を飲むと一噌機嫌よく、無邪気に振舞うのである。本曲は、その童子の上機嫌の様子を描くのを構想の中心とし、鬼退治はむしろ従となっているのである。
 物語は『土蜘蛛』『羅生門』とともに頼光武勇譚の一つで、大江山の鬼退治であるが、主人公である鬼が、いかにも人間的な一面を持っていて、同情されるように描かれている。50人もの大人数の頼光の一行は山伏姿に身をやつし、酒呑童子の棲家に宿を借り、厚いもてなしを受けたにもかかわらず、酔い伏した童子を襲いその首を打ち落とすのであるから、童子に同情が集まるように出来ているのである。
 この曲の登場人物は10人を超え、中でもワキ方の活躍する能であるが、アイ狂言も物語の進行に重要な役割を担っている。またワキ方が“一声”で登場する例は『羽衣』『鷺』などがあるが、その数は少ない。


 謡曲で、酒呑童子が語るところによれば、童子はもと比叡山に住んでいたが、大師坊という“えせ人”がやって来たために比叡のお山を追い出された、とあります。ここでいう大師坊とは伝教大師最澄でしょう。最澄が叡山を開いたのは788年ころ。源頼光が大江山の鬼を追討したのは1018年ころとされています。童子が叡山に住んでいたときの年齢は不明ですが、叡山を出てから230年の歳月を経ています。酒呑童子が退治されたときの年齢は果して何歳であったものでしょうか。
 以下に挙げるのは前場のクセの変形とでもいうべき場面。謡って良し、舞って良しの名場面です。

上歌陸奥みちのくの。安達が原の塚にこそ。安達が原の塚にこそ。鬼こもれりと聞きしものを。まことなり真なり此處は名を得し大江山。生野の道はなほ遠し。天の橋立與謝よさの海。大山おほやまの天狗も。我に親しき友ぞと知ろしされよ。
いざいざ酒を飲もうよいざいざ酒を飲もうよ。さておさかなは何々ぞ。頃しも秋の山草桔梗ききやう刈萱かるかやわれもかう。紫苑しをんと云ふは何やらん。鬼の醜草しこくさとは誰が附けし名なるぞ

シテ「げにまこと  地「げにまこと。丹後丹波の境なる。鬼がじやうも程近し。頼もし頼もしや。飲む酒は數添ひぬ。おもても色づくか。赤きは酒のとがぞ。鬼となおぼしそよ。恐れ給はで我に馴れ馴れ給はゞ。きやうがる友とおぼし召せ。我も其方そなたの御姿。うち見には。うち見には。恐ろしげなれど。れてつぼいは山伏。なほなほめぐる盃の。たび重なれば有明の。天も花にへりや。足もとはよろよろと。たゞよふかいざよふか。雲り敷きてそのまま目に見えぬ鬼のに入り荒海の障子押し開けて。夜の臥處ふしどに.入りにけり夜の臥處に入りにけり。



 再び酒呑童子の里に立ち返り、里の内なる鬼の棲処を探訪いたしましょう。登山口から少し上ると右手に木造の建物やコンクリート造りの“鬼の交流博物館”が見えてきました。タクシーを止めたのは博物館の入り口付近の案内板の前でした。


酒呑童子の里案内図


 福知山市の観光サイトによれば、ここ酒呑童子の里は、昭和44年に休山した河守鉱山の社宅や寮などの跡地を利用して開発された観光・レクリエーションゾーンです。大江山の家、童子荘、大江山グリーンロッジ、日本の鬼の交流博物館を始め、バンガロー、キャンプ場、バーベキューハウスなどの野外活動施設、グラウンド、体育館、全天候型テニスコートなどスポーツ施設が整備されています。


鬼の博物館と青海浪唐破風門


 “鬼の交流博物館”が“酒呑童子の里”の中心らしいのですが、人っ子一人見当たりません。まさか鬼に喰われたわけではないのでしょうが…。
 日本の鬼の交流博物館とは一風変わった呼称ですが、鬼伝説をテーマとする博物館で、鬼との交流を目的としたものではありません。大江山には3つの鬼伝説が残されており、この伝説を"町おこし"の起爆剤として活用すべく、廃坑となった銅鉱山の跡地に平成5年4月に開館しました。
 博物館の入り口に建てられている門は“青海浪唐破風門”というそうで、波と雲と龍をアレンジした青海波瓦を屋根に装飾した門のことで、現在豊後地方(大分県下)に約40ヶ所の存在が確認され、主に神社の向拝寺院の玄関に使用されているとのことです。


平成の大鬼

鬼の博物館前の小鬼


 門の後方には、でっかい鬼瓦が周囲を睥睨しています。高さ5メートル、重さ10トンの大瓦で、「世界一の鬼瓦を造ろう」を合言葉に、“日本鬼師の会”が中心となって、130のパーツに分けて制作したものです。“鬼師”というのは鬼瓦づくり専門の職人のことですが、ここに来るまで知りませんでした。
 博物館の入り口では、かわいい小鬼がお出迎えをしてくれましたが、タクシーを待たせているので、博物館への入場はパスいたしました。


青鬼の呑鬼

赤鬼の遊鬼


 大江山グリーンロッジは酒呑童子の里の玄関口にある研修宿泊施設です。以下、同所のサイトによれば「山間に囲まれた自然豊かなロケーションに、ツインの洋室(4部屋)、定員6名の和室(5部屋)、定員10名の大広間(4部屋)をご用意し、最大78名まで宿泊可能。ファミリーでも、グループでも利用できます」とのこと。

 あまりタクシーを待たせるわけには参りません。酒呑童子の里の見物も早々に切り上げ、丹後鉄道の大江山口内宮駅まで送ってもらったのですが、酒呑童子の里の奥まったあたりに“鬼のモニュメント”なるものが建てられてあったようなのです。車で少し足を延ばせばよかったのにと、悔やまれてなりません。それに失敗がもう一点。最初に希望していた“鬼の足跡”と“頼光腰掛岩”が見当たりません。どうやら旧道があり、そちらにあったようなのですが、運転手さんが地理にあまり詳しくなく発見できませんでした。折角訪れた謡蹟だけに、悔いの残る結果となり残念至極でありました。


大江山グリーンロッジ

大江山口内宮駅


 実は、当初の計画では、こんなに足の便が悪いとは思わなかったものですから、酒呑童子の里で昼食を摂り、もっとゆっくりと過ごして、大江山口内宮駅発14時46分の電車に乗車する予定でした。急遽計画を変更し、大江山口内宮駅に到着したのが12時15分ころ、半時間ばかり待って12時47分発の宮津行きの列車に乗車、宮津から天橋立へと向かいました。




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  (平成27年 9月10日・探訪)
(平成27年11月 9日・記述)


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