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摂津・桜井駅跡 〈楠露〉


  青葉しげれる 桜井の
  里のわたりの 夕まぐれ
  木(こ)の下かげに 駒とめて
  世の行末を つくづくと
  しのぶ鎧の 袖の上(え)
  散るは涙か はた露か

 子供のころ、よく耳にした懐かしい歌であります。
 2018年5月27日、『楠露』の謡蹟である桜井の駅跡を訪れました。
 桜井駅跡は大阪府三島郡島本町桜井一丁目の西国街道にある古代律令制度下の駅家の跡で、大正10年(1921)国指定の史跡です。この地で楠木正成・正行父子が訣別する逸話は“桜井の別れ”として人口に膾炙しています。桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死しました。JR神戸駅の北に鎮座する湊川神社が、正成終焉の地とされています。

桜井の駅跡探訪地図



 この間の事情を『太平記』は以下のように伝えています(Wikipediaによる)。

 建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
 その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

 桜井の駅での楠公父子の決別を扱ったのが、謡曲『楠露』です。


   謡曲「楠露」梗概
 作者は不詳であるが、22世宗家観世清孝(1837~88)の作曲、23世観世清簾(1867~1911)の改作ともいわれており、明治20年(1887)初演、同年刊行の謡本で公にされた明治の新作である。『太平記』巻十六「正成下向兵庫事」に拠ったもの。
 足利尊氏を討つために新田義貞に加勢せよとの宣旨を蒙った楠木正成は兵庫に下る途中、桜井の駅で子の正行に故郷に帰ることを命じ、臣下の恩地満一(おんぢみつかず)にはその補佐を命じる。戦地への動向を望む正行は帰ることを聴き入れなかったが、ことの次第を語って聞かせ、巻物を与えて教訓し、別れの宴を催す。
 傍らにあって様子をながめていた満一は、涙ながらに酌に立ち、舞を舞い、やがて父子はいさぎよく別れて行くのであった。
 役柄では、シテは恩地満一で、正成はツレとなっているが、筋書きの上では始終ツレの正成を中心として物語は展開してゆく。男舞を舞う恩地と、両シテ的な存在となっている。



《桜井の駅跡》  大阪府三島郡島本町桜井1丁目

 桜井の駅跡のある三島郡島本町は大阪府の東北端にあり、府境を挟んで隣り合う京都府大山崎町との関係が深く、市外局番は“075-”であり、集配郵便局も山崎局で郵便番号は“618-”と、大山崎町同じになっています。桜井の駅跡は、現在は史跡公園として新しく設置されたJR島本駅の隣にたたずんでいます。
 JR島本駅は平成20年に開業した新しい駅です。駅名として「桜井駅」が適切であると思いますが、奈良県桜井市に桜井駅があるなど“桜井駅”が複数ある為に却下されたようです。(阪急京都線の水無瀬駅は1943年から1947年まで「桜井ノ駅駅(さくらいのえきえき)」でしたたが、阪急箕面線に桜井駅がある為、名称変更した経緯があるそうです。)


JR島本駅

 島本新駅が開業する以前は、阪急水無瀬駅から楠の通りをまっすぐに進んだ突き当たりが史跡公園になっていました。入り口を入って左手に府立青年の家がありましたが、そのあたりに新駅が建設されており、駅前のロータリーを挟んで「島本町立歴史文化資料館」となっています。


島本町立歴史文化資料館

かん太くん


 以下は入り口にある国指定史跡の説明書きです。

 明治9年(1876)西国街道沿いに「楠公訣児(なんこうけつじ)之處」碑(裏面は当時英国公使ハリー・S・パークスの英文による碑文)が建てられたのが初めてとなり、明治末年に結成された「楠公父子訣児之處修興会」によって敷地の拡張が始まり、大正2年(1913)に「楠公父子訣児之處」碑の建碑式が行われました。更に、同5年には敷地3972㎡が個人によって島本村に寄付され、整備が進められました。同年境内地が島本村公園に指定されました。同10年には国の史跡として指定されました。
 昭和に入ってからは、敷地の北と南に拡張され、昭和3年(1928)には「桜井楠公会」が発足され、敷地の北側には難航を顕彰する「楠公会」の事務所が建てられました。同6年には「明治天皇御製」碑が建てられ、同10年に「大楠公六百年祭」が盛大に行われました。戦前の桜井駅跡周辺には、記念品を売る店や食堂があり、記念絵葉書の販売もありました。また、大阪財界の重鎮の一人であった旧三和銀行元取締役であった一瀬粂吉(いちのせくめきち)氏ら京阪地方の匿名勇士にって桜井駅跡は拡張され、現在「島本町立歴史文化資料館」になっている「麗天館」が建設されました。


「史跡桜井驛址」の碑

謡曲史蹟保存会の駒札


 島本駅の東側が史跡公園となっており、その入り口に謡曲史蹟保存会による“謡曲『楠露』と桜井の駅跡”とする駒札が立てられています。

 謡曲『楠露』は、楠木正成・正行父子の別れを描いた曲で、別れの場が島本町桜井である。これは太平記巻十六「正成兵庫に下向の事」に拠るもので、明治時代の新作である。
 太平記巻十六「正成兵庫に下向の事」には、「足利尊氏との戦いに死を覚悟していた正成は、桜井の駅に正行を呼び寄せ、今後の生き方の教訓を与えた後、生き別れの宴を催し、その宴も終り、正行は泣き泣き河内の国へ帰った」とある。
 今も謡われている楠父子に関する曲には「楠露」の他に「桜井」(喜多流参考曲)、「桜井駅」(金剛流)などがある。
 「楠露」という題は、松尾芭蕉が楠父子の別れをうたった俳句「なでし子にかかる涙や楠の露」から引用したといわれている。

 左上の写真の中央に写っているのが「楠公父子子別れの像」です。


楠公父子子別れの像


 石像は、歌に歌われた子の正行を諭す正成を描いたもので、台座には「滅私奉公」と彫られています。以下その説明書きです。

 台座の「滅私奉公」の題字は、公爵近衛文麿の書です。昭和15年(1940)新京阪電鉄(現阪急電鉄)「桜井の驛」前に青葉公園(現第一中学校)が建設され、駅前に子別れの銅像がシンボルとして設置されました。しばらくして戦争への協力で銅像は供出されコンクリート蔵に代わりました。戦後は国史跡桜井駅跡に移されました。現在の像は平成16年に有志より寄贈されたものです。

 このシーンは説明書きにもあるように『太平記』巻十六「正成兵庫に下向の事」に描かれており、それに基づいて謡曲『楠露』が作成されました。以下に『太平記』および謡曲『楠露』の“クセ”の部分を眺めてみましょう。(山下宏明校注『太平記』新潮日本古典集成、1983)

  

 正成これを最後の合戦と思ひければ、嫡子ちやくし正行まさつらが今年十一歳にて供したりけるを、思ふやう有りとて、桜井さくらゐ宿しゆくより河内かはちへ返しつかはすとて、庭訓ていきんをしけるは、「獅子は子を産んで三日をる時、千丈の石壁よりこれを投ぐ。その子獅子の機分きぶんあれば、教へざるにちうよりね返りて、死する事をえずといへり。いはんやなんぢすでに十歳に余りぬ。一言いちごん耳に留まらば、わが教誡にたがふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふあひだ、今生こんじやうにてなんぢが顔を見ん事これを限りと思ふなり。正成すでに討死すと聞きなば、天下はかならず将軍のに成りぬと心うべし。しかりといへども、一旦の身命しんみやうを助からんために、他年の忠烈を失つて降人かうにんに出づる事あるべからず。一族若党の一人も死に残つてあらん程は、金剛山こんがうせんの辺に引きこもつて、敵寄せ来たらば命を養由やういうが矢さきに懸けて、義を紀信きしんが忠に比すべし。これをなんぢが第一の孝行ならんずる」と泣く泣く申し含めて、おのおの東西へ  れにけり。


クセ「獅子の子を生みて。三日さんじつる時は數千丈のいはほより。これを投げてこころみる。その子獅子の氣力あれば。教へざるにちうより。はね返りて死せずと云へり。況んや正行まさつらじつさいに餘りぬ。一言ひとこと耳に留めつゝ。この教誡けうかいたがはざれ。われ討死と聞くとても。歎きを止め何處いづくまでも。朝敵を平らげて。聖運せいうんひらけん事を思ふべし

正成「たとひ逆賊日の本に  地はしを鳴らすとも。命のあらんその程は。帝位を守護し私の。心いささか亡き跡に。汚名をめいを殘す事なかれ。生先おひさき思ふなでしに。かゝる涙やくすの露


 正行の生年については明確な史料が存在しないようです。『太平記』によれば「桜井の別れ」の当時は11歳とされており、それによれば嘉暦元年(1326)と推測されます。しかしこれは多くの史家が疑問視しているようです。『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせ、父の戦死の時点で20歳前後であったという説も古くからありますが、これも明確な史料が存在しない以上推測の域を出ません。
 桜井の駅で父正成と別れた正行のその後について。延元元年/建武3年(1336)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦っています。正平3年/貞和4年(1348)に現在の大阪府四條畷市で行われた四條畷の戦いにおいて、足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てますが、嘉暦元年(1326)生まれだとすれば享年23歳となりますが、前述のように父の戦死時に20歳前後だったとすれば、享年は30歳前後となります。

 それでは公園内の他の史跡を訪ねてみましょう。


「楠公父子訣別之所」の碑

明治天皇御製の碑


 中央に建てられているのが「楠公父子訣別之所」の碑です。以下はその説明書きです。

 大正2年(1912)7月に建碑式典が行われました。題字は陸軍大将乃木希典の書で、献碑作業は工兵第四大隊が務めました。
 裏面は枢密院の顧問官細川潤次郎の撰文で、書は寺西易堂です。明治末年、高崎大阪府知事を総裁とする「楠公父子訣児之處修興会」が組織され、広く寄付を募り、敷地を約4800㎡に拡張しました。三方を濠で囲み、入り口には橋をかけ、盛土の上に碑が建てられていました。

 公園内の東側には、子別れの像と向かい合うように、明治天皇御製の碑が建てられています。以下はその説明書きです。

 昭和6年(1931)に建てられた大碑で、碑の表の書は伯爵東郷平八郎海軍元帥です。
   子わかれの松のしつくに袖ぬれて
    昔をしのふさくらゐのさと

 明治天皇が明治31年(1898)11月、三島地区での陸軍大演習に行幸された折に詠まれました。裏面上部の「七生報国」は、子爵小笠原長生の書です。下部の漢詩は「頼山陽翁過桜井驛詩」で、山陽が文政8年(1825)に尺大村に来遊した時の作と思われます。書は第四師団長林弥三吉です。

 以下はこの碑に刻まれた、頼山陽「過桜井駅址(桜井の駅址を過ぐ)」の詩です。(揖斐 高訳注『頼山陽詩選』岩波文庫、2012)
  山碕西去桜井駅   山碕やまざき 西に去れば 桜井の駅
  伝是楠公訣子処   伝ふ 是れ楠公 子にわかるる処
  林際東指金剛山   林際りんさい 東に指させば金剛山
  堤樹依稀河内路   堤樹ていじゆ依稀いきたり 河内のみち
  想見警報交奔馳   想見そうけんす 警報 こもご奔地ほんち
  促駆嬴羊餧獰虎   嬴羊るいようを促しりて獰虎どうこくらわせしを
  問耕拒奴織拒婢   こうを問ひて奴をこばみ しよくに婢を拒み
  国論顚倒君不悟   国論顛倒てんとうして君悟らず
  駅門立馬臨路岐   駅門えきもん 馬を立てて路のわかるるにのぞ
  遺訓丁寧垂髻児   遺訓丁寧なり 垂髻すいちようの児
  従騎粛聴皆含涙   従騎じゆうき 粛として聴き 皆な涙を含み
  児伏不去叱起之   児は伏して去らず しつしてこれを起たしむ
  西望武庫賊氛悪   西のかた武庫むこを望めば賊氛ぞくふん悪し
  回頭幾度覩去旗   こうべを回らして幾度か去旗きよき
  既殲全躬支傾覆   既に全躬ぜんきゆうくして傾覆けいふくを支へ
  為君更貽一塊肉   君の為に更にのこす 一塊の肉
  剪屠空復膏賊鋒   剪屠せんと空しく復た賊鋒ぞくほううるお
  頗似祁山与綿竹   すこぶ祁山きざん綿竹めんちくに似たり
  脈脈熱血灑国難   脈脈たる熱血 国難にそそ
  大澱東西野艸緑   大澱たいでんの東西 野艸やそう緑なり
  雄志難継空逝水   雄志ゆうし継ぎ難く 空しく逝水せいすい
  大鬼小鬼相望哭   大鬼だいき小鬼しようき 相ひ望んで哭す

 明治天皇御製の碑の奥に、大阪府青年の家の入り口付近にあった手水鉢が移設されています。
 手水舎の並びに、旗立松(はたたてまつ)や楠公六百年祭記念の石碑があり、その向こうは自転車置き場となっていました。


旗立松

楠公六百年祭記念石碑


 まず旗立松について。

 旗掛松・子別れ松とも呼んでいます。
 西国街道の端にある、枝を拡げた老松のもとに駒を止め、楠公父子が訣別をしたと伝えられています。
 明治30年(1897)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存しました。寛政10年(1798)「摂津名所図会」巻五や、文化4年(1807)幕府道中奉行所で作成した「山崎通分間延絵図(やまざきみちぶんけんのべえず)」第一巻にも描かれています。幹周り1丈5尺(約4.5m)の大木と伝えられています。

 次いで楠公六百年祭記念石碑について。

 楠公六百年祭記念は昭和10年5月18日に行われ、多数の参列者と盛大な式典が持たれました。
 地元小学校の児童生徒は全員参加し、当時あった「上牧・桜井駅」から史跡桜井駅跡まで人々の列が続き、沿道にはたくさんの露店が並びました。
 「楠公父子訣児之所 碑」の周囲には、個人の寄贈によって鉄筋コンクリートの柱が建てられ、太い鉄鎖を巡らせた玉垣と正面には鉄扉に金色の菊水紋を浮き出した門がありました。
 現在の玉垣は当時のものではなく、JR島本駅開設に伴い、平成20年に新しく建てかえたものです。


「楠公父子訣児之處」の碑

「忠義貫乾坤」の碑

 

 公園の入り口近くの楠木の木陰に、「楠公父子訣児之處」の碑と「忠義貫乾坤」の碑が建てられています。
 「楠公父子訣児之處」の碑について。


 正成を顕彰した碑で、明治9年(1876)11月に建立されました。題字は大阪府権知事渡辺昇の書です。裏面には英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれています。

 パークスの賛辞は以下のようです。

A tribute by a foreigner to the loyalty of "the faithful retainer" Kusunoki Masashige who parted from his son Masatura at this spot, before the battle of the Minatogawa A.D.1336.

(西暦1876年。湊川の戦いに赴くに際し、この地で子正行と別れた「忠臣」楠木正成の忠義を一外国人としてたたえるものである。 駐日英国公使ハリー・S・パークス 1876年11月) 


パークスの賛辞


 パークス公使の賛辞で、ふとショーモナイことに気がつきました。以下、余談ですが…。それは「楠木正成」の姓名を、Kusunoki Masashige と表記しており Mqsashige Kusunoki と記していないことです。私が中学で英語を習ったとき、姓名の英語での表記は「名・姓」とひっくり返すのだ、と教わったものです。最近では「姓・名」の順に言うように教育しているようなのですが、いったい、いつ・誰が、逆転表示にしようと決めたのでしょう。パークス公使は「姓・名」と表記しており、西洋人からの押し付けではないと思われます。とすれば、日本人が勝手に逆順表現をしたものなのでしょうか。ともかく、普通に「姓・名」の順に表現したいものです。
 「忠義貫乾坤」は、明治27年(1894)5月、島本村内と一部近郊の有志約150名によって建てられたものです。

 馬上の颯爽とした楠木正成像が、この地にあると勘違いしていました。正成像は湊川公園に建てられているようです。以前訪れた河内長野にある観心寺に、正成像がありましたので、その生前の勇姿を偲びたいと思います。


観心寺の正成像



 ここで本題に戻して、謡曲『楠露』について考察したいと思います。
 前述しましたが、本曲の役柄では恩地満一がシテで、楠木正成がツレとなっています。人物の重要性からいえば、主人公は正成であり、その意味では正成がシテであるべきかもしれません。大成版一番本の前付〈曲趣〉によれば、男舞を舞うのが正成より恩地のほうが合理的であるので、恩地をシテとしたものであろう、と述べています。
 さらに〈曲趣〉では、「一体に能・謡曲の新作におもしろい物の少ないのは、能の創作機(室町・東山時代)の芸術精神が消え失せて、燃えさしのやうな情熱で製作するからである。何といつても能の傑作佳品は室町時代から東山時代へかけてで、それ以後は能の演出に対しても、ただ過去のよいものを保存しようとする事に努力の大部分が費やされ、その間多少技術的に─演出法として、また謡ひ方として─進歩した点があつたことは認められるが、全体的に見てもう伸びられるだけ伸びつくしてゐるので、あとはそれをよく保存しようとする工作のみが講じられた形迹がある。たまたま二三の才能の人が出ても、その技能を発揮し得る余地は極めて少く、僅かにその範囲内で能を活かし得たといふに過ぎない。さういつた時代傾向の固定した後で、能の新作を試みようとする野心家は、まづ余程の見識を持たない限り成功は覚束ない。」と述べています。現代においても新作能の試みが盛んに行われていますが、よくよく心せねばならぬ、ということなのでしょう。



  正成涙を うち払い
  わが子正行 よび寄せて
  父は兵庫に おもむかん
  かなたの浦にて 討死せん
  汝(いまし)はここまで 来つれども
  とくとく帰れ ふるさとへ

 正行を故郷に帰した正成は、死を覚悟して兵庫へと赴きます。
 湊川で討死した正成は、その戦没の地に建てられた湊川神社に祀られています。わたしも湊川に正成の跡を弔いたいと思います。
 大楠公六百五十年祭に際し、湊川における正成討死をテーマとして、新作能『菊水』が神戸観世会によって作成されました。『菊水』については、謡蹟探訪の第87話で「湊川神社探訪」として記録していますので、そちらをご覧いただきたいと存じます。




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  (平成28年 5月27日・探訪)
(平成28年 6月10日・記述)


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